75.そんな破壊者としての資本主義の代わりになる認識ーマルクス・ガブリエル氏による倫理的な資本主義構想ー
其れ即ち此の世での文明による価値構築其のものがむしろ根本的に誤って居る虞すらもがまたある訳です。
例えば大阪市立大学の斎藤 幸平先生などは地球温暖化は資本主義が招いたものだとされて居るが其の点はわたくしもまた同感です。
尚わたくしは其の斎藤 幸平先生がお書きになった『人新世の「資本論」– 集英社新書 (shueisha.co.jp)』を昨年の夏に日本共産党の人に贈りましたが果たして其れを読んで呉れる人が居たかどうかは不明です。
其のやうに學問や思考と云うことは壱般の社會に於いては常に生活の外側にむしろ追いやられて居るものです。
ですがネットを視て居りますと矢張り勉強をされて居る方は其れなりに御勉強し且つ考えられて居り、でも正直申せば個人的にはほとんど其の内容を参考にさせて頂くことなどは無い。
要するにわたくしは唯我独尊型の思考者でありでも人文の書の類だけはかうしてなるべく漏れなくチェックして来て居ると云うところだらうか。
そんな訳でわたくしは自分の思考力にはまずはかうして自信のやうなものを常に持って居ます。
でもってして常に認識上の其の地点から現象界を眺めて居る訳ですので其れこそバカだとかアホだとかウンコたれてるよ、などと遥かに下の方に滞る現世でのケモノ共の所業に就き糾弾することをこそ生業と為して来て居る。
即ち其の神の視座又は佛の認識より捉えられる其の現象界でのドタバタ劇の様。
そんなケモノ臭い認識をかうしてケラケラと見下しつつおお其処にて我は神と佛の認識をのみかうして伝えて行かう。
ところが、其のことが理解出来る人がまず周囲には居ないんですね。
周囲に居るのはむしろケモノ界のケモノばかりで要するに飲んだ、食った、屁をコイた、家建てた、子が孫が出来た、墓も出来た。
飲んだ、食った、ウンコした、また其の手で妻を触った、さらに會社でも其の手でもって書類を作った。
まあ其の位の人間しか事實上此の世には居やしない。
哀しいことですが其れが現實です。
要するに其の認識がそも貧しいと申すか確り洗脳されて居ると申すか兎に角精神に自立性が無いのでほぼ彼等はケモノと同じです。
ですが其んなケモノのみんなが連なりかうして此の世は回って居るのです。
多くの日本人は其の斎藤先生の御薦めであるマルクスの本をじっくりと読む暇等は無くむしろさうして食欲、性欲、金銭欲などの嗚呼まさに現世利益的な欲望の虜と化して居りだからほとんどの人間は論文でも書けと言われても其れ以前に本さえまともに読めずに居る訳だらう。
嗚呼何だか其れも悲しい話です。
ですので、わたくしの場合はあくまで其れとは違います。
わたくしの場合はむしろ御勉強を積み重ねることだけが生の目的と化して来ても居る。
なので飯を食ったり綺麗なものを観たりどうかうしたりするのはあくまで弐義的なものでありよって御勉強をして居る其の瞬間こそが我に取りおおまさに自己實現が出来て居るまるで夢のやうな時間なのだ。
すると究極的には詩人さんは此の世でもって御勉強をする為にだけ生まれて来て居るのですか?
まさに其れだけの為にかうして此の世に生を受けて来て居る。
嗚呼御勉強!
其の御勉強こそが我が人生の全内容だ。
其の御勉強と食欲や性欲や金銭欲は確かに両立致しません。
だから食欲や性欲や金銭欲が充たされるとむしろ御勉強からは遠ざかることとなり要するにおバカ化するものと相場は決まって居る。
要するに清貧、おおまさに此れこそが學究の徒への第壱歩だ。
其れも常に清貧でもってして且つ👩っ気がもう何処にも無い。
其のやうな環境でこそ學びの眞理への門は開かれやう!
ではケモノ共は眞理への門を潜ることなどは決して無いのだと?
さうじゃ、ケモノ共は大脳新皮質を使う前にケモノとしての其の生を終えて仕舞う。
其処がまさに怖ろしいところよ。
だがほとんどの人は其の自らのケモノに気付かず逆にああ振り返れば良い人生だったな、などと其処で自己満足すらして居る始末である。
本日郵便局へと寄りクソ高い固定資産税を払いスギヤマにて様々な生活必需品を買い揃え家へと帰る。
尤も其の前にソロバンの先生と丁度ソロバンの先生の家の前で出くわして仕舞った。
相変らず食い物の話とすぐになる。
其れも先生はあちこちへのスーパーなどにまめに出掛け安売りの品などを纏めて買って来ることが上手なやうだ。
さらに先生の家の場合ー七拾弐歳独身ーも常にエンゲル係数は高くまた固定資産税なども家の場合と同じ程度に高い。
コノミヤでは時折魚の何だかが安くなるさうだ。
ですが私はほぼ魚を食わない。
また先生は矢張り酒を飲む余裕などは無いとさう仰る。
だが其の酒よりも煙草が今は酷く値上がりして仕舞った。
先生の父親は壱杯飲み屋へ行くのが趣味だったのださうだ。
我が父もまさに其の外でもって飲み歩くのが趣味だったのだ。
昔はさうして何だか知らぬが酒に逃避するオヤジ共が兎に角多かった。
だが御勉強壱筋体質の人、又はコレクターなどは其れはやらずに家に引き籠もることが多い。
先生はまたドン・キホーテには色色と食い物があるなどとも話されて居た。
ドン・キホーテのアノ雑多な感じが嫌いな我は此れ迄兎に角其れを避けて来たのである。
いずれにせよ食生活の方が何故か良く似て居る我等である。
ちなみにソロバンの先生の主食は主にレトルトカレーうどんであり我も其れはまるで同じことである。
さてもかうして其の人類の生活が総じてケモノ臭いのは果たして何故なのだらうか?
文明とは其のケモノ臭い人間の生の限定性をそも解放せんが為の行いだった。
また主に其れは衣食住の分野に関する限定性の解放だった。
其れ即ち衣食住の分野に於いて余裕を成り立たせること、所謂獣共の如くに奪い合い殺し殺され合う其の余裕の無さ、さらに寒からうが暑からうが其処に居るしか無い其の余裕の無さ、若しくは服を着込む余裕の無い其の毛皮自體の持つ限定性。
まさにそんなものに対し反逆し人間らしく生きられるやうにしたかっただけだ。
さても其れの壱體何処が悪いのだ?
確かに🐈を観察して居ると彼等にはそんな精神的な余裕などは何処にも無い。
其れもほぼ毎日が本能に駆り立てられたものであり故に彼等によるあらゆる認識が本能的で且つ限定的なものと化して居ざるを得ぬ。
また衣食住のみでは無く病との闘いや子供の生存率の向上と云ったことが文明にとってのまずは壱義的な課題であった筈だ。
故に其の常に限定的に存する自身への自然への挑戦と云うことこそが文明に於ける本質的要素である。
またつまりは其の挑戦に於ける意義とは「人間としての生からの限定性の放逐」である。
人間はさうして兎に角獣であることから少しでも遠ざからうとして来た。
さても其れの壱體何処が悪いのだ?
さて近頃我は其の「限定性の放逐」の部分に関しては理解をし始めて来て居る。
何故なら理性的であると云うこと其れ自體が其の「人間の生からの限定性の放逐」なのである。
其れは無論のこと我が奉ずる人文理性の範囲でもむしろ其の侭に成立することである。
但し人文理性はかうして屈折する部分が多いが故にのべつまくなしに理性的欲望を垂れ流しにする訳には非ず。
人文理性はさうして常に逆方向をも視野に入れた上で人間を歩んで行く。
或は常に過去を見詰めつつ現在を歩んで居る。
近代科学の発展に於ける最大の誤りの部分が其の過去を振り向けぬことであり同時に-の価値を認められないことだ。
近代科学にせよ資本主義経済にせよ其の壱義的ー壱律ーに構築した価値ヒエラルキーに己の全身を浸して居り故に其れ等自身が其の価値ヒエラルキーの奴隷となって行かざるを得ない。
即ち「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値が其処に目的化されるのであるがむしろ其れは過ちであり何故ならあくまで其れ等は手段としてさう捉えられて居なければならない。
だから「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値が人間自身よりも偉いと云う論理はもう誰がどう考えてもオカシイ訳だ。
むしろ「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値など無い方がむしろ人間は眞の意味での幸せとなれるのではなからうか?
まあわたくしの考え方はかうして無い無い尽くしにて「有る」よりは「無い」方をむしろ重んじるので或は皆様には分かりにくいかとは思われるのだけれどまさに其れは人文學としての屈折度の大きさをまた示して居る部分なのでもまたあらう。
さうかうするうちにまた『つながり過ぎた世界の先に | マルクス・ガブリエル 著/大野和基 インタビュー・編/髙田亜樹 訳 | 書籍 | PHP研究所』の前半部の方を再読して居たら其処にはまさに御尤もなことが書かれて居り感じ入ることが多かった。
マルクス・ガブリエル氏もまた多くの人文知性のあり方と同じくして理想論者である。
かってかのカントやヘーゲルがまた理想論者であったやうに現代の天才哲學者としてのガブリエル氏もまた理想論者なのだ。
氏は「ネイチャー・ポジティヴ」な経済體制こそが人間の感謝の気持ちに溢れた、倫理的、哲學的洞察を齎す世界だとさう仰る。ーP.75より要約ー
また其れは消費する世界では無く洞察が主導する世界だとさうも申される。ーP.75より要約ー
さらに、自分は物事に関する知識を消費するのが好きで「洞察」こそが壱番好きな消費物でありよって新しい物を買い揃えるよりも其の新たな「洞察」を得ることの方がより面白いとさう仰る。ーP.76より要約ー
此処からもまさしく氏と我はほとんど同類であることでせう。
其れと印象的だったのが倫理的に人間が行動する為には所謂ベーシック・インカムの制度を導入した方がより倫理的で且つ持続的な経済體制を築けるとされて居る点である。-P.79及びP.80の纏め-
其の最低所得が保障されて居る場合でも創造的なことを為しコミュニティに参加する姿勢が失せる訳では無く逆に増すことだらう。-わたくしの考え-
また其れは共産主義では無く環境に優しく、また持続可能な資本主義の姿だとさうも仰る。-P.80より要約-
個人的には資本主義は大幅に修正しない限りやがて壊れて行くとさう考えざるを得ません。
ところが資本主義が滅びないのは其れが人間の欲望にすでに火を点けて居てもはや其の火を鎮火することなどは不可能だからなのだ。
ズバリ申しますが其の資本主義、其れも廿世紀及び廿壱世紀の資本主義が其の侭に地球を破壊し続けて来たのである。
また本質的には其れが人間の欲望其のものがさうして地球を破壊し続けて来たと云うことなのだ。
だから其の欲望のあり方こそがまずは過ちであり同時に完全なる失敗である。
ところが世間の奴等はむしろヘラヘラとした薄笑いを浮かべつつ逆に威張ったりして居るのだな。
ヘッ、此の貧乏詩人めが!
お前なんぞは兎に角目障りだから早う肥溜めにでも落ちよ。
くっそおー、此の馬鹿資本家と馬鹿投資家共めが!
今に見とれ、お前等なんぞもう全員が強制収容所行きだ!!
尤も我は共産主義に拘って居る訳では無い。
但し資本主義を延命させて行くことはおそらく可成に難しいことなのではないか。
と云うことは其の資本主義経済體制に依存し切って居る現代文明自體が持続不可能なものとならざるを得ぬと云うことだ。
だから其れを目的としてはむしろ考えぬ方が得策である。
體制とは所詮は其の文明にとっての手段でしか無いのである。
でもプーチン氏が…。
かのプーチン氏はあくまで露西亜がもう全部正しいとさう御考えの筈ですが。
だから其のプーチンの家来となりにイザこれから露西亜へと旅立つのではないか。
エエッ、ではアノプーチンの裸にそんなに飛びつきたいの?
イヤ。
へっ?
イヤ。
其れもまた金輪際イヤ。
我は馬鹿政治家共には飛びつかずあくまでより理性的な理想論へと飛び付きたい。
例えば共産主義にもまた色色とあり日本共産党が述べて居る段階的革命論なるものもまた現實を見据えた革命思想であるのやもしれぬ。
他方でかうした哲學者による洞察を主体とする資本主義としての理想論は魅力的で且つ我が考えに近いものではあるのだけれどむしろ其れは共産主義化したにせよ可能となることなのだらう。
また別の視点から捉えると例えば宗教とイデオロギーとの癒着のやうなものが廿壱世紀に於いてはより顕在化して来る可能性が出て来ても居る。
超大國米國がキリスト教國家でもあるやうに露西亜もまた宗教國家に返り咲き其処からしても宗教が何時まで経っても曖昧な日本と云う國はむしろ今後は精神の拠り所を失う可能性すらもがある。
廿壱世紀と云う時代の本質はむしろかうして破壊であり崩壊なのだ。
其れも今のところは何とか持ち堪えて居るだけのことでありだが参拾年後のことなどはもはやまるで分かりはしない。
但し其れは良くなるのでは無くむしろ悪くなって行くことだらう文明としての劣化過程である。
だから2050年辺りには其れこそキリスト教圏では神の祈りばかりが日日続けられて居るのやもしれぬ。
ですが、此処日本の宗教に限りいい加減なので果たして何を信じて良いのかも分からずに右往左往しているうちにドドーンと東南海大地震と富士山の噴火が続いて引き起こされおおいやだ、其の悲惨なる暗ーい暗ーい時代へとかの日本國は突入して行くのでありました。
また其の頃すでに我は死んで居りました。
だから實際其れはどーでは良い話なのだ。
だがわたくしの場合はまた地球に戻るつもりです。
壱體何の為に?
其の「愛」でもって日本を救わんが為に!!
そんな「愛染眞理教」の教祖として必ずや此処にまた戻る。
やります、やりましょう、我はさうしてやるでせう。
ところでみんなはたった今サイコーにやってますか?
僕はもう今サイコーにやれていますよ。
其れもかうして何だか知らぬが毎日出て来て何かを吠え続けて居るでせう?