目覚めよ!

文明批判と心の探求と

「自分を救う論理」の概括的説明ー+『銀河鉄道の夜』より考察する壱つの宗教論ー

69.「自分を救う論理」の概括的説明ー+『銀河鉄道の夜』より考察する壱つの宗教論ー

 

 

 

さて現存在の認識の仕方には大きく癖があり其の認識の仕方では現實=世の實相と云うことを正しく捉えられて居ないと云う事實に就き具体例を織り込む形にて此れ迄述べて参りましたがお分かり頂けたことであらうか。

そも認識と云うものは壱種の檻のやうなもので其れに嵌り込めば最後なかなか脱出出来ぬものと相場は決まって居ります。

 

問題は世界其のものが壱種の劣化過程ですので其の劣化過程に対し正のヒエラルキー構築を行うと逆に矛盾的展開を増大させて仕舞うこととなると云った御話です。

其れもデカい課題=社會的課題程其の矛盾化の原則がより強く働きます。

なので必然的に個や👪、さらに共同體や國家と云ったシステムが其れに引き摺られる形にて沈没して行かざるを得なくなる。

 

其のやうな世界のあり方での根本のところにてむしろ「破壊」は進んで行くので極論を申せば具體的な意味で其の矛盾を解決に導くことはほぼ不可能に近くなる。

 

また其の制度的崩壊と云うか劣化と申すか兎に角其の種の破壊過程には實はいまひとつの側面がありズバリ其れは精神の劣化の問題です。

此れ迄に何度も申しましたが宗教の如くに現存在に取り精神の指針となり得るやうな価値観はまずは基本的に精神的な方向性を向いたものであることが多い。

 

 

但し宗教其れ自體にもまた劣化即ち矛盾的破壊領域がしかと拡がって居り多くの場合は其れが時の経過と共に逆に増大して行きます。

故に其れこそかってジョン・レノンが述べたが如くに「イエスは正しかったが後がダメだった」なのでありまた「釈迦は正しかったが後がダメだった」なのだともなり得ませう。

 

ですので實は其の辺りの事情を理性は常に注意深く観察して行かなければならない。

其れこそ其の矛盾的展開の増大の核の部分にはさうして其れこそ眞理レヴェルでの自己矛盾領域がしかと拡がって居る訳だ。

 

なんですが理性を他ごとに使って居たりするとむしろ其れさえもが見えて参りません。

 

ではどう認識すれば現存在は此の泥沼の如き自己矛盾の罠より脱出し得るのかと云う部分です。

ですが先に申しましたやうにわたくしはすでに其の方法をかうして連載の形にて常に示して来たつもりです。

 

1.大きく考えることの意義の放棄

2.具體物への愛の構築

3.精神的に適度に壊れ社會的ヒエラルキーを忌避する

 

尚1.に関しては大きく考えるなとさう申して居るのでは無く其の大きく考えることで問題は解決されない=緒矛盾は解消せず、と云うことをこそ述べて居ります。

よって逆に大きく考えた結果理性が絶望などにより損傷を受ける可能性すらもがまたある。

其の場合は例の藤村 操ではありませんのですがもはや滝の上から飛び降りる他は無くなるのだから其れはなるべく避ける。

 

2.其の具體物への愛の履行はむしろ普通に其の辺の人人がやって来て居ることだ。

ですが、其の盲目的、本能的な愛の履行と理性による限定的な愛の履行とはまるで別物です。

 

まさに其れは理性があえて其のやうに限定的に構築する愛の領域であり要するに其れは前回の御話でのやうに其の場ーたった今としての其の場ーに咲き競う🌸の美しさに気付く心の場をこそ確保することだ。

 

3.ところがまずは其の心の余裕の構築をむしろ頑なに拒む世界がありまさに其れが非本来的なる世界観として其処に存する社會的自我のことだ。

ですので個個人に取り出来得る範囲にてむしろ其れを制限して行くのがまさに眞の意味での理性の働きなのだとも申せませう。

 

 

さらに「信仰」の課題に就き述べさせて頂きます。

結論から申せば其の信仰の課題もまた努めて限定的に行って行くべきだ。

 

其れも實感から申せば其れは、

 

大→小

虚→實

 

と云った感覚の上でです。

 

 

さうして概ね世間での認識は眞理領域とはむしろ逆方向を向いて歩むものだ。

ですのであくまで眞理を前提とする限りはあえて其の逆を向き精神のあり方を整えて行かねばならない。

 

よってまずは其処に生じて居ることであらう精神的洗脳を解いて下され。

個人的には其れが原始佛教やジャイナ教、さらに禅宗にて説かれる眞理領域への接近のことであるとさうも見て居る。

 

但しあくまで其れは眞理領域への接近=自力救済の成就の為の道なのであり其処でもって自力救済を前提とせぬ限りは其の限りでは無いと云うことだ。

 

でもってむしろ事實上の多くの信仰の形は其の眞理領域への接近、自力救済の成就を前提とするものでは無い。

要するに其れは無化では無くして有化、實では無くして虚化へのベクトルを必然的に含んだものとならざるを得ぬ。

 

其の事を壱言で申せば「其処にウソの信仰をあえてしている」とのまあ酷い言い方となって仕舞いますのです。

なのですが、今わたくしは其の「ウソの信仰」が悪いなどとは壱言も述べては居ない。

 

 

即ち其のウソ、つまりは必要悪である此の世の虚の様、其のことこそが此の現象世界を駆動させて行くことの根本での推進力なのです。

 

其のウソの推進なのであるからこそ其れはかうして劣化し要するに矛盾だらけ、或は破壊だらけの世界をかうして現出させるに至る。

だから其れはイヤです、と幾ら現存在が其れを避けやうとしてももう何処までも其の理は執拗に追いかけて来る。

 

だから結局其れは認識のあり方が悪いー理性による選択としてのあり方に過ちがあるーからさうなるのです。

だったら其れがどう救済されて行くべきなのかと言えばもはや其れは他力救済されるより方法がありません。

 

即ち實利的、實効的には現存在は他力救済されて行くより他にはありません。

 

なんですがさうして行けば最終的には其れこそハルマゲドンや閻魔裁定からは逃れられなくなるのだらう。

 

他方ででは自力救済の道を選ぶ場合にはどうなるのか?と云った御話を是非させて頂きたい。

其の自力救済は現存在に取りあくまで不可能な道ですので其の場合には理想をこそ生きて行かざるを得ません。

 

さうして理想をこそ生き其処にこそ殉ずる訳だ。

また其れは「世界革命」などと云う政治的理念とも壱種共通することだらう理想論的な認識の流れです。

 

と云う事は最終的には其れは、

 

理想を生きるか其れとも現實を生きるか?

 

眞理ー理想ー⇔虚ー現實ー

 

と云うやうな対立関係へとまさに其の全命題が収斂して行くのである。

 

 

でもってして、

 

例えば男女の色恋沙汰などもまた實は其の対立関係の申し子のやうなものだ。

 

要するにさうして分離して居るので自分に無いものを求め異性に惹かれる訳だ。

ですが其のことを本能の次元から理性の次元へと繰り上げますれば、

 

眞理ー理想ー⇔虚ー現實ー

 

と云う其の対立関係自體を客體視出来るやうになり逆に本能其のものからは遠ざかることが可能となる。

 

其の本能ー煩悩ーとは現存在の心がケモノの価値観に捉われて仕舞って居ることです。

また罪つまりは原罪なるものもまた現存在の心がケモノの価値観に捉われて仕舞って居ることです。

 

ですので其のことはまさに自力救済であるか其れとも他力救済であるかは関係無くさう規定されしことです。

 

個人的には其のやうな原理こそが眞理として此の世に指し示され得ることであるとさう見て居る。

でもってさうして本能から解き放たれた理性は自力救済か他力救済かを自ら選択して行くこととなる。

 

ですが自分にはそんな危ない宗教など関係無いと思って居るやうな方方は残念ながら其の理性的救済の端緒にすらつけて居りません。

ですから其の場合には死んでから大人しく地獄へ行って頂くより他には道が御座らぬ。

 

其れも壱説では其の地獄こそがとっても辛いところのやうだが…。

 

 

ですが少なくとも救われたい、其のケモノがしかと見えます、でもケモノなどにはよもやなりたくは無い、とさう仰る方方には色んな宗教への道が開かれて居ります。

居りますのですが個人的には邪教以外の宗教を是非御勧めして置きます。

 

但し正統的な宗教の中にもまた邪教の要素はしかと食い込んで居ります。

此の世の全てはまさに其の矛盾であり劣化の原理の中にしかと組み込まれて居る事をだから決して忘れてはならない。

 

従って同時に其れは「ボクのワタシの立場は絶対に正しい」とさう信じ込むことに対し常に誤謬が生ずると云うことをこそまさに指し示しても居ることだ。

よって理性の目的とは「コレコレかうだからオレの立場、オレの精神こそが正しい」とさう盲信、狂信することではむしろ無く常に其の己の信心に対し疑ってかかることなのだ。

 

 

ですが、其れでは肝心の「信仰」が成立せずよって其処にどんな救済も成立せずおまけに自己の思想的乃至は宗教的な立場が逆に曖昧となった理性は果たして何処を向きまた何処に寄り掛かり此の生の荒波を乗り切って行くのでせうか?

 

でも要するに其れがまさに「理性的」に此の世を生き抜くと云うことだ。

理性とはさうした精神の自立であり自律をこそ欲し生きるもののことだ。

 

其の相対論だの不可知論だのをまさに荒波のやうに乗り越えつつ其処に眞の意味での「波乗り者=サーファー」であることを其処に確立して行くと云うことだ。

 

サーファー?

でもアンタは「波乗り」なんてそも嫌いなのだらう?

 

あんな享楽的なものはそもアンタが抱える本質部とはまるで違うもののことだらう。

 

だから其れは単なる譬え話なのだ。

 

 

眞の意味での理性ー眞我ーを生きるとはゆえに、

 

4.むしろ信じ込んで居るものをこそ疑う

5.疑いの果てに小さく愛を感ずる

6.現存在の哀しみを實感する

 

との心的な領域を實現せんが為のものだ。

 

其の現存在に対する憐れみの心の働きこそはまさに大乗佛法で云われるところでの「菩薩の心」にほぼ匹敵し得るものである。

なのであるから最終的には己が内外に拡がる世界がまさに其の「慈しみ」の心にて照らし出されて行くこととなる。

 

でも其れって周りのことを壱種バカにもして居ませんか?

第壱宗教詩人さんは大抵の場合に周りを見下されて居るやうだが其れって大乗佛法とはまるで違うものでそもそもオカシイ見方なのでは?

 

確かに其のことは認めさせて頂きます。

我にはまたすぐにアノ信長公の霊が乗り移るのですぐにドッカーン!となり易いことだけはしかと認めさせて頂きます。

 

なんですが、我が心の働きの根本のところにはむしろさうした慈愛の世界こそがしかと拡がって居る。

 

だけれども、

 

慈愛⇔ドッカーン!

の間の世界を毎日彷徨って居ると云うことこそがまた正直なところでせう。

 

 

でもって疑問点がひとつ。

はい、其れは何でせう?

 

まずアナタは時折支離滅裂なことを言ったりもされて居ますが其れは言葉によるテロだとかさう云うことでは無いのですね?

 

さうではありません、其の言葉こそが眞理の言葉其のものであり且つ慈愛の言葉其のものです。

 

アナタは如何にも利口な人が述べるやうなこともかうして書かれますがどうもウソ臭い感じもまた拭い去れぬ部分かとさう思うのです。

 

ならば是非我を信じて下され、わたくしはほんたうのほんたうに宗教詩人でありウソの宗教詩人などでは断じて無い。

 

あなたは単に欲望詩人=螽斯詩人であり宗教詩人では無い、つまりはウソコキ宗教詩人だ!

 

例えば壱休禅師はああして完全に欲望に負けてましたがウソの禅僧ではまさかありませんでした。

ですのであくまでわたくしもそんな風狂の宗教詩人なのだとさう捉えて頂きますれば幸甚です。

 

尚わたくしが述べる論理とは所謂壱方向性のものでは無いことにもまた是非御留意頂きたい。

 

 

戦争反対!⇔戦争賛成

理想的世界の観念的構築⇔ディスストピア的な現世利益主義

理想論としての反體制主義⇔現實的な守りとしての體制主義

 

其の種の社會的闘争にはむしろ須らく「今此処に拡がる幸福」への気付きの力が欠けて居ります。

「今此処に拡がる不幸」は確かに社會がさう其れを齎して居るものです。

 

其れに対する闘争もまた観念的には確かに成立し得る。

ところがより深く其の対立其のものを観念的に吟味致しますれば最終的には其れはむしろ周りに大きく影響される形での不幸せな状態を招くものでしかあり得ません。

 

よってあえて其れをも捨て去らねばなりません。

とりあえずは双方が出来ればまずは精神として立派なものです。

 

ですが双方をやったにせよ本質的には其の分離であり分裂関係は解消されるどころか益益其れが深まっても行くことだらう。

其れがまた哲學的には言語ー概念ーに於ける本源的矛盾が齎す問題に連なりより壱層劣化乃至は破壊を其処に呼び込むこととならざるを得ぬことなのだらう。

 

 

ならば其処でもってどうするのですか?

何をどうすれば現存在にとっての「心の幸福感」は得られるのですか?

 

だからまさに其れに就き詩人はかうして述べさせて頂いて来ました。

でもって個人的にやって来たのが、

 

7.半分狂いつつ具象化した過去と今とを生きる

 

と云うことです。

 

要するに半分死んで且つ半分狂う。

まさに此れが眞理方面を我が身に引き寄せる為の要諦でせう。

 

また半分死んで且つ半分狂うとむしろ過去が具體化されるつまりはリアルなものとして再生されて参ります。

ところが文明の価値観に従い生きて居ると其の過去は須らく放棄されて行く。

 

だから其の逆に文明の価値観の方を放棄する、か又は弱めて行きますとさうして逆方向のものが息を吹き返し心中にまた再生されて行く。

 

なる程、するとあえて其処に文明とは逆の価値観を構築して行くのですね。

と云うよりもむしろ放棄してみたら結果的に逆向きの価値が勝手に築かれて居たと云うやうな感覚です。

 

 

そんな訳でわたくし観念詩人は価値其れ自體に就き論じた訳なのでは無くむしろ価値の必然的対立と其の価値に固執することの愚かさ並びに其の価値自體を放棄することこそが最も確實で且つ永続的な価値其のものを示すことを此処にて延延と論じて参った次第です。

 

うーん、分かったやうなしかも分からぬやうな…。

 

分からずともまた結構。

 

ところで其の観念とはそも何ですか?

観念とは現存在としてのアイデンティティ其のものだ。

 

故に観念が無いところに現存在は居りません。

では🐈や🐕にはそも観念が無い?

また🐒などにも無い?

 

いや哺乳類には弱くはありますがつまりは其れは質的に違うものでせう。

 

 

つまりは考えるからこそ現存在は其処に「居る」のです。

では現存在は謂わば高等な生命であり偉いのですね?

 

まあ其の質問に答えるだけでも書き込みの壱回分位は要ることでせう。

ですが今あえて其れに答えて置けば「悩み深い」生き物なのだとは言い得ることだらう。

 

すると其の悩む事、又は迷う事、惑うことは現存在のむしろ本質部なのですね?

ですから其れがあるからこその現存在なのでありつまりは逆に悩まなくなったら現存在はお仕舞いなのであり其れこそ其処にて即魔道ーケモノの領域ーへと堕ちて行く訳だ。

 

では壱休禅師もまた其の魔道へと堕ちたのですか?

いえ壱休禅師が魔道へと堕ちたのでは無く地獄の方を向いて居るのはむしろみんなの認識の方ですね。

 

またズバリとみんなが嫌うやうなことを申されましたね。

ズバリアナタに取ってみんなとは敵であり👿なので?

 

いやみんな其のものが敵であり👿なのでは無く其の認識のあり方こそが敵であり👿なのです。

 

 

いずれにせよ宗教詩人さんは流石に仰ることが違う。

今回は其の自分を救う認識論としての展開をほぼ概括されて居るものと見ても宜しいのでせうか?

 

まさに其の積もりにて書いて居ります。

どうですか、君のお役には立ちましたですか?

 

いいえ、全然。

何故なら僕はアナタの片割れなのでもう全部のことが最初から分かって居ますもの。

 

エエッ?

何だか其れもイヤだなあ。

まるで頭の中を裸にされて居るみたいでとても恥ずかしい。

 

 

そんな汚い裸をよりにより世の中に垂れ流す御積もりか!

さうです、其れもワザとかうして脱いでも居るのです。

 

 

さて観念的なことの本質であり要諦であることとは全ての価値が半半であると云うことです。

観念とは非本質的な規定其のものであり本質的規定などはそも其処にかなわぬものだ。

 

故に観念に全的に寄り掛かりますればまた其れは即矛盾化致しませう。

 

観念ー分別知ー⇔直観ー無分別智ー

観念⇔感性

 

よって其の観念とさうして対置される諸価値に対し常にバランスを取って置く必要がまた御座ります。

ですので壱義的な分別に寄り掛かること其れ自體が眞理としての認識から遠ざかることをまさに其れが意味致しませう。

 

要するに対立概念の平衝化を常に其処に図り其れも出来得ればお釈迦様の認識でのやうに両極否定を為したいところですが其れは哀しい哉現存在に取ってはまず不可能なことだ。

故に宗教詩人の認識に限れば其の対立関係をむしろ保存しつつスケールダウンして行く訳です。

 

でも其れをせんが為には取り敢えずは認識の全体像を俯瞰視し且つ双方を實際にやってみる必要が御座ります。

だから其処でケモノと申しますか其れとも👿とでも申しますかそんなものともあえて交流をしつつ兎に角其の認識の全体性の把握にこそ努めるのです。

 

うーん、また如何にも世間離れした御話の内容にて…。

 

いえですから宗教詩人はこんなものでしたら其れこそ百回でも千回でも言葉を尽くし説明させて頂きますのですが其れでは皆様の頭がオカシクなりさうなのでさうはしないだけのことです。

 

すると宗教詩人さん、世間での宗教のあり方はまた違うものである、まさに其れは理性的に捉えられる宗教的原理=眞理としての場なのでは無くむしろ現世方面での認識に振れたものであるとさう捉えられ其処から世間での宗教の捉え方其れ自體に対する批判のやうなものを此処にて展開されても居たのですね?

 

其処は仰るやうなことに近いのだと思う。

でも釈迦御自身による眞理への認識や禅宗に於ける認識の流れは部分的にわたくしの考え方にもまた被って来ることかと思われます。

 

但しわたくしはむしろ其れは現存在にはそも無理なことなので出来るものを目指す為にむしろ其処から逃げませうなどともまた述べて居る訳だ。

いやあ其れにつけてもまた小難しい話です。

 

其れに何だかイヤになって来ました、貴方とかうして御話すること自體が…。

 

いいや逃がしてはあげない。

エエッ、今何と申されましたか?

 

だから逃がしてはあげない。

何故なら君と僕はかうして常に壱心同體なのだから…。

 

うえっ、もう出来るだけ早う逃げたい。

ダメ、其れも永遠に壱緒だ。

 

うわあー、またエライことになっちまった。

 

いいじゃないか、そも我と壱緒に逃げるのだから…。

まあ共に逃げると申されるのなら逃げないでもありませんが何かかうとても人間離れした観念の世界にでも引き摺り込まれるやうな感じが致し僕は今怖いのです…。

 

 

さうか、では腕組でもしてやらう、さうれ、ガシッ。

ああああーもう逃れられない、僕はかうして宗教詩人に引き摺られ観念の奈落の底へと沈むのだ!!!

 

おや、でも何だ此処は?

 

何だかお🌸が沢山咲き乱れるまるで樂園のやうなところではないか!!

 

さうだ、此処がまさに精神としてのアタラクシアの苑である。

もしや此処は天國ー極楽浄土ーなので?

 

いいや、さうでは無く此処は詩人の頭の中に今まさに生ずる「幸福の苑」だ。

 

あれっ、あんなところにかのカントが、さらに向こうにはショーペンハウアーまでもがああして歩いて御座る。

でも何故か佛様は何処にも居ない。

果たして其れは何故だ?

 

其れは此処があくまで宗教的な救済の場では無く理性としての救済の場だからなのだ。

さらに多くの藝術家が集う場なのでもまたある。

 

おやっ、あんなところに坂口 安吾が、さらに中原 中也が、また太宰 治が芥川 龍之介が椅子に座り何かを食って居る!

 

おおっ、あんなところでセザンヌがまたプリプリと何かを怒って居るぞ!

相変らずゴッホが悩んで仕舞い自らに向けて拳銃を撃ちそうにもなってる!

 

其れもゴーギャンが、其のゴーギャンが何と👩にも触って居るではないか!!

 

どうだ、此処はまさに凄いところだらう?

詩人さん、もうよーく分かりました。

ですからもう僕を逃がして下さい。

 

僕を世間へと戻して下され、お願いします今すぐに戻せ、戻さないとかうしてやるぞ!

 

痛い!

お前今此のワシの尻を噛んだな。

 

だがそんな無駄なあがきは止めよ。

何故ならお前こそが我で我こそがお前なのだからこそ…。

 

 

…もはや観念致しました。

僕等はもう永遠に壱緒に観念の旅を続けて行きませう。

 

 

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとならとうげの上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るようにそう答えました。宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

彼宮澤 賢治はさうして「ほんたうの幸福」を誰よりも強く願い其れを追い求めた詩人でしたが彼自身があくまで「世界全体の幸福」を願ったが為にあくまで彼自身は其の事を得られなかったことでせう。

キリスト教はかうして現世での現實的な幸福には拘らずあの世での「ほんたうの幸福」を目指しますが其れも壱面としては正しいことであることだらう。

 

何故なら本質的に迷い且つ限定された此の世では現世利益としての幸福を現存在の全てに与えることなどはそも出来ぬ話です。

神と云う超越的理念があってこそ其れこそ非限定的に來世での幸福が約束されることだらう。

 

但し佛教はさうした意味での超越的理念を設定せず基本的にはあくまで自力救済にて解脱せんが為の教え其のものです。

尤も自力救済とは人間を辞めることですので其れは壱般に人間に取っては不可能なことです。

 

従って逆に其の超越的理念をあえて設定するに至り其れが所謂大乗各派としての展開なのだと個人的には理解して居ります。

尤も其れも禅宗を除いての話ですが。

 

其の「ほんたうの幸福」は超越的理念をあえて設定する場合に意識されることであり自力救済のステージではむしろ「今此処にある幸福」に目覚めることこそがまさに其の自力救済にも繋がる訳ですが其れを行わんが為には欲望の消去が前提となるが為にまさに非人間的な迄の価値観の転換、価値観の消去が必然として其処に求められて参ります。

 


「僕たちと一緒いっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符きっぷ持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまがっしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

其の何処までも行ける切符とは、個人的には其れが自力救済による切符のやうに思えなくもない。

けれどもキリスト教徒の奉ずる神はあくまで限定の神ですので其れに対し他力救済されるのであれば確かに何処かで眞理探究の道筋を自ら降りて行かねばならない。

つまりは自己としての眞理への探究を諦めー放棄しー神に全的に己を委ねることで他力救済されて行くより他は無い。

 

其れはウソの神への信仰では無くむしろほんたうの神への信仰のことだらう。

但し佛教に限り本質的には其処に神は居ないので其れは信仰云云の話ではむしろ無くまさに自分をどう佛化するかと云う理性的抑制の話とならざるを得ない。

此の点では釈迦の佛法、また禅宗などはまさに其の理性的抑制をどうかけていくかと云う御話であり其れは本質的には佛教の開祖である釈迦佛や宗祖などを信じる行為とはまた別ものでの言わば純然たる精神的営為のことです。

 

よって其の「自力救済」とは實は信仰の御話なのでは無くあくまで理性による救済即ち自分の理性でもってして自分を救わんが為のー非宗教的で且つ理性的な自律としてのー御話とならざるを得ぬ。

 

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺんいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいななみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力がくようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭ぶくろだよ。そらのあなだよ。」カムパネルラが少しそっちをけるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかそのおくに何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きなやみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指してさけびました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方からうでを組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニがう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラのすわっていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸てっぽうだまのように立ちあがりました。そしてたれにも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉のどいっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

まさに此処が壱種印象的な部分です。

其のジョバンニは感性方面に振れた言わば感情の豊かな少年です。

 

だからさうして常に人思いである、まさに友達思いなのですが其れでも其の友達は現世を共に渡っては呉れません。

事實友達は何処までも壱緒に行って呉れる訳では無く突然関係が断たれることさえ珍しいことでは無い。

 

カムパネルラはさうして突如として生の向こう側の世界即ち死の世界としての彼岸の世界へと旅立って仕舞う。

また結局は其れが現存在としての本質的な哀しみであり孤独として抱える部分であることをかくて詩人はしかと此処に描き出して居る。

 

ところが其れはまた其の生と死の間に敷設された観念の場としての銀河鉄道の中でこそ起こり得ることなのだ。

其れはあくまで現實的にはジョバンニは生きて居てカムパネルラは川で流され死んだと云うさうした事實でしか無い。

 

 

されど死は常に生と相剋し且つ相即して居り且つ現象を葬り去るに足る破壊や劣化は常に生きる希望や祈りの願いと連動しつつ展開されて居るものだ。

即ち此の世の實相とは価値構築としての+面より理解されるやうなものではむしろ無く其れをむしろ破壊するものまた死に至らしめるものとしてのむしろ-の価値との拮抗関係にこそ集約されて来やう。

 

其の生死としての領域を常に行ったり来たりして居るのが所謂藝術的に規定される感度の領域なのでもまたあらう。

尚宮澤 賢治が生きたところでの世界観とはまさに其の「他が為の幸福を實現せんが為」の幸福論其のものでした。

 

「他が為の幸福を實現せんが為」の幸福論は然し矛盾的な展開に苛まれたりもまたするものです。

何故なら神とは其の矛盾的な展開を受け容れて行くことでもまたある。

 

即ち其の超越的な存在としての神は「人間」=現存在の認識が前提として其れを生み出して居るものなのだから。

すると其れは神が眞に超越的なものではあり得ぬと云った類の御話なので?

 

 

其れは神が實在しはするが其れを認識する術が「人間」=現存在自體には常に欠けて居ると云う御話です。

其れがつまりは「人間を救済する神」としてのみ「人間」=現存在にはさう神が認識されて居ると云う話である。

 

いずれにせよ神を前提として推進される世界観は例えばネルケ師などもまた指摘されて居るのですがどうも危うさ=不安定さがありどうも其のことが特に近代以降はより増幅される形にて文明世界を貫く傾向ともなりつつあるやうです。

其処でもってあくまで個人的にはそんな超越的存在を設定せず欲望の抑制、消去の方をこそ目指す自力救済としての佛法の方がより理性的であり且つ21世紀に見合った形での救済の形であるやうにも思えて参りました。

 

文明の21世紀が抱える課題とはズバリ此の文明による「破壊」への対処であり且つ対策です。

其の破壊の事實はもはや疑えぬことだらう事實の集積として我我の将來に大きな不安を投げかけて来て居ます。

 

またおそらくは其れが現存在に取ってのまさに究極的な課題ともなることだらう。

またもはや其のことは宗教や國家と云った枠、境界を超越する課題でありそも其処でもって現存在としての認識のあり方其のものが問われることだらう大問題としての羅列であり集積なのでもまたあらう。