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文明批判と心の探求と

『現代思想入門』より抽出する個に取っての幸福論ードゥルーズ+ガタリの「有限的喜劇」論に就いてー

現代思想入門』より抽出する個に取っての幸福論ードゥルーズガタリの「有限的喜劇」論に就いてー

 

 

 

 

さて現存在はかうして間違い無く今を生きて居る訳ですが其の今を其れこそ潔癖に見詰めてみる限りに於いて其れが可成に胡散臭いものであることが次第にお分かりになられたことかと存じます。

尤も其れはあくまで人文理性的に此の世を見詰めた場合にはさうだと云うことだ。

 

或は其れこそ宗教的、又は藝術的に此の世の価値観をむしろ逆方向から見詰めてみるとさうなると云うことであるに過ぎない。

尤も現代は自然科学の方の度が進みつつあり其の先端部に於いてもまた訳の分からぬ即ち胡散臭い何かが次第に姿を現して来て居ると云うことなのだらう。

 

尚其処に於いて壱つ我が疑問に思うのが、むしろ世の大多数の人人は現代の文明の此の今のあり方こそが正しいとさう思い込まされて居るのではなからうかと云うことだ。

ですが其れが正しいかどうかと云う事は其れこそ現象世界が歴史として決めることなのであり其れは知識人の頭の中で又は大衆の頭の中で今さう判断されるべきものでは無い訳だ。

 

 

即ち五拾年後、百年後には其の現象世界の成否が決まって来るやうな気が致します。

たったの五拾年後、百年後なのですがもう其の頃には我は此の世には居ませんので其れもまるで永遠の彼方での御話のやうなものです。

 

さて其の現象世界とはあくまで現存在に取っての現實のことで其れは世の眞實とか實相とか言われる所謂「物自體」ではなく謂わば表象として現存在に捉えられて居る世界のことです。

人間の認識には癖があり謂わば其の癖のある認識をとりあえずは正の秩序ー進歩としての秩序ー化することで正当化し謂わば「第弐の自然」を生きて居るのが現存在としてのほんたうの姿なのだらう。

 

但し其の「第弐の自然」=自然と対置されるのであらう人間にとっての自然、は謂わばウソの自然ですので其のウソ臭いのが限界まで積み重なることで自然其のものと分断を生じまた其れの破壊者となって行かざるを得ません。

まずは其の部分での意識が大多数の人間には欠けて居ります。

 

が、我はたまたま其の種の嗅覚と申しますか気付きの力を持って居たので其のことをむしろ可成に以前より危惧して来て居ました。

 

 

よってまずは其の所謂「人間中心主義」や「文明至上主義」に対する盲信の類を是非捨ててみて下され。

まずは其処より認識して行きませんと其れこそ宗教や藝術や人文學を理解せんが為のマイナス領域への近接が不可能となります。

 

つまりは逆方向をあえて向いてみませう。

 

自然科学原理主義人文主義

文明至上主義→自然派

宗教的権威主義→宗教的脱権威主義

価値ヒエラルキーへの信心→脱価値ヒエラルキー

 

其のやうに何でも反対方向を向くと其処にこそ實は重要な価値が拡がって居ます。

 

で、其の左側の価値観に洗脳されて居る人が現存在としての大多数です。

其れでも我は右側の価値観を持って居る訳ですが實は努めて左側の価値を向かうとは努力して来て居るつもりです。

 

尚御釈迦様は其れこそ対機説法と云って例えば諸行非常であり諸法非我であり且つ涅槃寂静であるとさう信じ込んで居るインテリ層に対し此の世は常であり有我であり煩悩にまみれた救われぬところです、との如き価値観を説かれたのださうです。

要するに其れが固定化されし価値ヒエラルキーからの脱構築なのであり其のやうな逆方向からの価値観こそが認識を正す上での鍵となることだからなのだ。

 

 

要するに壱つの価値に全的に認識を預けることは其れはほぼ洗脳に等しいこととなるのです。

故にあえて逆方向を常に向いて居て然るべきです。

 

其れは自分の信仰とは違う他者の価値観からあえて學ぶと云う態度のことだらう。

 

またさう云うのは宗教者に限らず例えば近現代思想を研究する学者さん方でも常にされて居ることです。

但し日頃から勉強する癖が付いて居ない大衆レヴェルではまさに其処こそが難しい課題となるのです。

 

其の勉強とは結局精神の鍛えなので文學書を読み解くにせよまた哲學を學ぶにせよ日頃から其れに接して居ない限りイキナリ難しい概念をひけらかされても理解不能なこととまたなるものです。

但し書物以外からの所謂耳学問のやうなものもまた勉強の壱つです。

 

個人的には勉強することで考え方の幅は確實に拡がるやうに思う。

但し其の考え方其のものは勉強することで与えられるものでは無くあくまで自らでもって築き上げるものです。

 

 

さて例えば文明其れ自體からは離れられぬにせよ誰しも逆方向を向く位のことは出来ます。

 

例えばPCなどを余りやらない六拾代の知り合いも中には居ますし七拾代ですと全くネット世界には縁して居ない人まで居られます。

さらに🐕や🐈などを飼い其の世話に没入することなどもまたある意味では大袈裟に言えば反文明的な試みでせう。

 

彼等は結局のところ人間では無いので人間の論理が通用しないことが多い。

其れを無理矢理に人間の論理に適合化させ特に都會ではマンションの壱室などで其れを飼ったりもまたする訳だがまさに其れは可哀想である。

 

家の場合は半野生化させ其れを飼うので仔猫が大きくなった今はすでに家の中には居ません。

ほぼ庭だの他の家の庭だのまた人間の知り得ぬ処であるだのまあ其処でもって人様に迷惑をかける場合などもまたあるのやもしれぬが其れは彼等が人間ではそも無いのだから仕方の無いことでせう。

 

逆に現存在は今大自然に取り大迷惑いや其ればかりか自然を壊し切るか否かと云うレヴェルでの御話ですのでそもそんなことに拘ってなど居る場合ではありません。

まずは文明の方こそが去勢手術でもされなくてはならぬ状況でせう。

 

 

左様に僕は常に文明の側を攻撃致しますが何故なら文明其れ自體が余りにも罪深いものだからなのだ。

 

そんな具合に文明の齎す価値上の形式性のやうなものには常に警戒感を抱いて居なければならない。

ですが詩人は根っからそんな人間ですので逆に文明の良さのやうなものもイヤイヤではありますが認めやうとしては来て居ります。

 

例えば1984年製のナショナルの電子レンジにてカレー饂飩を毎日作り食しますがまさに其のことに感動しつつ其れを食って居る。

尚カレー饂飩の場合は🍛よりもカレーが少量で済むつまりは饂飩が弐玉でもイケると云う恐るべき法則が實は其処に御座ります。

 

其の弐玉カレー饂飩は可成に胃に取りズッシリと来つまりは腹持ちが良くなる訳だ。

また我はPC生活其れ自體を否定する訳では無くむしろかうして完全なるPC人間です。

 

だけれども他方には其れに対する疑いの眼もまた常に持ち合わせて居ります。

左様に両義的に認識世界を成立させることこそが我が認識論上の苦闘の果てに見出した認識上の眞理であり哲學上の帰結なのでもまたある。

 

其の両義的に認識世界を成立させることで樂になることがまずはある。

其れは認識上の形式性に煩わされること無くある意味で自己本位に認識を成立させることが出来ると云うことだ。

 

 

まさにそんな認識に対する応援のやうな形で千葉雅也 - Wikipedia氏が『現代思想入門』の中で語られて居る部分がまた印象的です。千葉雅也『現代思想入門』発売(@masayachiba)さん / Twitter

現代思想入門』は非常に優れた哲學、思想の解説書であり日頃から其の分野に接して居る人に取ってはまさに素晴らしい壱冊となることだらう。

 

其処では例えばドゥルーズガタリドゥルーズ/ガタリ - Wikipediaの説く「有限的喜劇」論に就き述べられて居る。ー『現代思想入門』P.172よりー

 

「現代文明は謂わば無限のXに向かい組み上げられるー欲求不満の活動としてのー抽象的価値の集積である。

ところが無限のXに向かい組み上げられる正の価値ヒエラルキーなので其の無限の負債を背負い返し切れぬ其の負債の為に悲劇的な生を其処に送らざるを得ない。ー現存在としての生の悲劇化ー

 

だがいざ其れを有限的に即ち多様な価値の完結として捉える場合には其れは個個として完結し満足の行く謂わば「有限的喜劇」と化す。」ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

ドゥルーズガタリの思想はまさに其のことを伝えんとして居るのだと千葉氏は仰る。

 

さて其の有限化とは果たして何のことでせうか?

勿論我が日頃から述べて来て居る限定論のことです。

 

 

さらに千葉氏は述べられます。

 

「無限のXに向かい組み上げられる単数的な悲劇」では無いものをドゥルーズガタリの思想は目指したのだと。

ー単数的な悲劇=現代文明に於ける悲劇=壱方向性での悲劇=自然と対立する悲劇ー

 

逆に生の上での目指すべき価値を複数化すれば其の限定的な意味での個個の場に「自律的」な喜びが生ずる。

ー複数性即ちわたくしの論理で言えば逆方向性を取り入れることだー

 

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる」ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

 

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる

 

とりあえずは其れが弐項対立して居りませう。

さて我の場合はどちらを選んで居ますか?

 

尚此処を良く読んで居られる方には我が右側を選んで居ることが良くお分かりの筈です。

ところが現代文明を貫く基本概念、つまりは其の進歩思想としてはあくまで左側を優位に捉えて居る訳だ。

 

 

ですから有限な行為を完結させることよりも其れこそカミオカンデなどの研究成果がより大事であったりまた宇宙のあり方が大統壱理論にて解明されたりまた火星への移住計画を進めたりすることの方が常に偉い訳です。

ですが我が認識は其れとはまるで違うのです。

 

詩人の認識はさうして🐈をあえて放し飼いしたりまたレトロ電化製品にて弐玉饂飩を使ったカレー饂飩を作り其れを食うことこそがほぼ完璧な迄の實存的な喜び其のものなのだ。

ですから其の価値観は確かに傍目には不可解なものと映ることだらうが其れはあくまで自分の中では大統壱理論が完成することなどよりも余程に大事な価値其のものなのだ。

 

 

まずはソコが多くの人には理解し難いことではないかと思われます。

ですが其れは現代人の多くが大と小の其の価値ヒエラルキーの扱い方を違えて来て居る訳だ。

 

また其のことこそがある意味で近代以前に新たな価値を与えることだと千葉先生は述べられて居る。

さらにミシェル・フーコー - Wikipediaが其の晩年にそんな古代に対する自己との関わり方を発見したなどともまた述べられて居る。ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

 

見せかけである進歩としての対象を求めて∞の挑戦乃至は幻滅としての悲劇ー現在としての悲劇ーを成立させざるを得ない文明の営為に対しまさに其れは示唆的な内容の話である。

其処で同時にわたくしがかって養老 孟司先生の思想を論じた折に抽象的な価値は至極危ないと申して居たことを是非思い出して頂きたい。

 

抽象的な価値が何故危ないかと言えば其の抽象的な価値即ち通貨などは経済的変動に巻き込まれれば紙切れ同然の価値となることからもすぐに分かることだ。

要するに近代的な価値は多かれ少なかれそんな危うさを抱えて居るものと見て置くべきものだらう。

 

其れでもって例えば此の処ずっと金の価格が上がり続けて居ますが金は具象物なのでとりあえずは其の価値の変動がさうして抑えられる訳だ。

ちなみに個人的には宇宙開発やまたネット空間と云うものは其の通貨並の不安定な価値しか持ち得ぬものだとさう感じても居ります。

 

 

されど、

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる

近代的価値観⇔前近代的価値観

 

とのことですので實質上は他の極を全否定することはほぼ不可能となる。

 

理性⇔本能

の弐項対立などもまた實質上は他を全否定することはほぼ不可能となる。

 

 

要するに其の弐項対立上で認識としてどちらを基軸となすかつまりはメインの認識として其れを据えるかと云う御話です。

其処で普通は所謂科学的な見方こそが理性的解釈だなどとも壱般的には見られて居りますが其れは必ずしもさうではありません。

 

個人的な見解ではあくまで科学的理性は自己矛盾し易くしかも狂信に陥り易い領域なのだと見て居る。

其のやうに壱つ間違うとまさに邪教の如くに胡散臭いものなのでもまたある。

 

では理性としては何を信じて居れば良いかと云う御話ですが、あくまで我の場合には人文的にマイナスの領域をも見詰め、すると其れが自然と限定されると云う御話です。

要するに∞の謎を追い続ける現存在とはむしろ今の満足や幸福を犠牲にしつつ只前を向き頑張って居るだけの存在であるに過ぎない。

 

ところが自然界ではそんなややこしい抽象的な価値の追求はせずとも、其れこそ野原へ行けば蝶蝶は樂しさうに羽搏いて居るのであるし地面では🐜達がセッセとエサを運んで居ます。

ですので其の価値が其の抽象的な価値よりも低く劣って居る価値だとはよもや言えぬ筈です。

 

実際にさうして現代思想を彩った高名な哲學者の連中も最終的には「有限な行為を完結させる」方での価値を基軸と為し論理を構築して行ったのです。

ジャック・ラカン - Wikipediaと云う高名な精神分析家などもまた其の後期にはドゥルーズガタリ的な「有限的喜劇」論的な精神分析となって行ったとも千葉先生は仰る。

 

 

無限的悲劇ー夢幻的悲劇ー⇔有限的喜劇ー實質的喜劇ー

其れのどちらが良いかと云う問題です。

 

尚自然界の営為には其の左側がそも欠け落ちて居ます。

と申しますか現存在の認識のやうに第弐の自然を生きるのでは無く元元自然は壱つきりでありしかも其れでもって完結して居ります。

 

つまるところはそんなややこしい抽象度の高い価値観としての生をわざわざ生きて御座るのが人間なのだ。

 

ジル・ドゥルーズ - Wikipediaの思想の内容は個人的に何故か相性が良いのですが實は此れ迄に本格的に學んでみたことが無い。

彼は70歳の時に肺病であることを悲観し投身自決したやうですがまさに興味深い現代思想家の壱人です。

 

 

いずれにせよ此れ迄にわたくしがあれこれと思案した挙句に導き出した思想的な帰結が現代思想の偉人達の考えと結果的に似て居たと云う御話をさせて頂きました。

其のことを至極簡単に纏めますとまさに以下のやうなこととなる。

 

1.現代社會が奉ずる抽象的価値からは努めて距離を取る

2.具象的に与えられる現前ー眼前ーの価値を大事にする

3.さうすることで今此処に生きることの幸せに気付く

4.同時に他己ー其れに気付かぬ人ーへの慈悲心が芽生えまたあらゆるものへの感謝の気持ちが生ずる

 

尚以上での精神の過程はむしろ個による哲學的な思索からのことです。

其のやうに其れは宗教などではまるで無い思考としての帰結なのですが何故か宗教的な意味での小悟にも似たものとなる。

 

5.他人の評価に煩わされること無く出来るだけ愉しく生きる。

 

 

現代社會は基本的に抑圧構造を取るものですのであくまで個人的には自己を守らんが為に精神的に対抗して置かねばなりません。

其れはわたくしのやうに理論化出来るのであればまたさうしても良いのであるし其れが不得意であるならば例えば動物を大事に育ててみたりまた樹木を育てたりすることなどでも良いのでせう。

 

いずれにせよ其の抑圧構造からの距離を取れる何か樂しいことを是非持ち合わせて置くべきだ。

また其のことが組織的な宗教活動などよりもむしろより本質的な意味で個が幸せになる為の要件なのだ。

 

いえ組織的な宗教活動をして心底幸せなのであればまた其れでも良いことなのですが…。

 

 

さて其の「有限的喜劇」はあくまで「無限的悲劇」にはなり得ません。

従って現代社會がどう其の「無限的悲劇」を突き進もうが個に於ける「有限的喜劇」を生きて居る限り希望は持ち続けて居られる。

 

価値は其のやうに外部から押し付けられるものでは無く自ら生み出すものであり且つ信仰するものです。

例えば教義などにせよ自ら生み出す力のある人であれば其れに従う方がより望ましい訳だ。

 

但し邪教としての教義以外の部分でこそ。

また左様に「有限的喜劇」を生きることは現代思想にも支えられし壱つの哲學的帰結です。

 

つまりは根拠のある哲學的帰結なのであり個に於ける妄想の類などでは決してありません。