30.自分を救うのはあくまで自分の認識です
哲學的な作家である養老 孟司先生の御考えをわたくしは屡参考にさせて頂いて居るが全く同じ論理を述べて居る訳では元よりありません。
ひとつには現行の合理化社會の建て直しは脱論理、脱理性では無くむしろ論理の適正化であり正しい理性の使い方をする部分にこそ存すると我は考えて居る訳だ。
なのですがもしや世間の頭が悪いのか、わたくしの其の論理を理解出来る人が此の世の中にはほぼ居ないのである。
まあ其れじゃあまるでオウム教のやうなものではないか。
まるでちゃいます、其れは金輪際違う。
だからまずはカントとショーペンハウアーの哲學を正しく理解せねばならぬのです。
カントとショーペンハウアーの哲學とは其れは理性の働きに就いて述べられたものだ。
カントは理性の限界を示すことで逆に理性により可能な倫理の範囲を指し示しました。
ショーペンハウアーは理性が必然として宗教化し解脱を求めることをこそ述べました。
故に理性無き且つ宗教無き現代社會に取り此の先哲御弐方の哲學こそが最も重要です。
さて現代社會は今後愈愈混迷の度を深めても行くことだらう。
何故なら如何にも社會としての思想が悪い、即ち社會としての価値観が狂って仕舞って居るからです。
また其の誤りは右や左と云うイデオロギー対立と云うことでも無くむしろ進歩主義唯物史観の方に根源的に巣食って居るであらうことをズバリと指摘して来たつもりです。
ですが本来ならば人間の社會は心のあり方の方を是非進歩させねばならなかった。
ところが所謂「安樂全体主義」が其の心の進歩を反故にして突き進み所謂物質主義の罠に落ち心が堕して行ったものと思われる。
要するに物であるにせよ其の物の意味、物の有難さがまるで分かって居らずむしろ其処にゴミばかりを増やし所謂大量生産、大量消費、さらに大量廃棄をすでに長らく続けて来るに及んだ。
まずは其のやうな社會のあり方こそがまるで理性的なものでは無い。
むしろ其れぞケモノの所業でせう。
故に自分等がケモノであることにまずは気付きませう。
其れもアナタ方にまだしも良心と云うものが少しでも残って居るのであれば…。
さらに其のデカい幻のやうな夢を追いかけることなどもう止めにしないか?
宇宙開発も酒池肉林の生活もデカい墓も子孫の繁栄も全て夢物語での御話、つまりは妄想であるに過ぎぬ。
ほれ、アンタ方の足元に春の🌸が壱輪咲いて居らう。
まさに其れが現實としての美であり一篇の詩であらう。
何?今度のテストで百点を取りたい?
だから以前も申しましたが百点を取るなら文明を切り捨てて漂泊の旅へでも出なされ。
養老孟司「『自分の人生は自分のもの』という考え方からは、生きる意味なんて出てこない」 (msn.com)
かうして養老先生の仰ることは至極御尤もであり其れが全くの正論なのだと思われます。
されど其処をあえて少し違うことを述べさせて頂きます。
まずは其の「生きる意味」に関してのことですが、仰るやうに其れこそ縄文時代並にいや其れはまさか不可能ですので前近代的に合理化されぬ生活を我我現代人がもしも今後営むのであれば次第に「生きる意味」が回復されて来る可能性はあります。
ですが問題は現代社會が必ずしも其の「生きる意味」を求めるやうな社會にはなって居ない点です。
現代社會はすでにニーチェがかって述べたが如き「ニヒリズム」の世界に深く陥って居ることだらう。
まさに「ニヒリズム」とはそんな「生きる意味」の全的な喪失のことです。
ですが、前近代は前近代の社會で、さらに縄文時代は縄文時代でたとえ「生きる意味」を見つける契機には恵まれて居たにせよ現實的には現代とはまた違う意味で其れが制限されたり生活に追われたりもまたして居た筈です。
逆に言えばもしも人人が「生きる意味」を感じて居たにせよ其れを長く継続して得る機會にはむしろ恵まれては居なかったことでせう。
かうして現代社會と前近代の社會がどちらがより暴力的かと言えばむしろどちらとも決めかねて仕舞うのが實情です。
過去とは壱面ではそんな暴力的な権力装置や病気や飢饉を始めとする物理的な危険に満ち満ちて居た時代なのでもまたあった筈です。
要は人間の社會は何時でも似たり寄ったりのものでさうして常に苦しみに晒されて居ます。
まずは其の認識こそが「壱切皆苦」と言う佛陀の認識です。
ですのでお釈迦様は人間は解脱して其の苦を是非乗り越えるべきだとさう御考えになられて居た。ーお釈迦様以外の場合でも其の認識こそが当時の印度の社會の最高の価値認識として存して居たー
ですがキリスト様の御考えはまた其れとは違う。
キリスト様は全能の神と連なって居ない人間の認識こそを👿に唆かれた悪の認識と捉えられ其の悪を滅せんが為に心より神を信じることを勧められた。
故にキリスト教での認識は死後に善なる神の世界=天國へ人間が再生せんが為のまさに精神的儀礼となる。
其れはどちらがより正しいと云うものでは無く個として選択する精神的立場なのだと個人的には捉えて居る。
ですが両者の立場に共通して居ることこそが人間であること、いや其れ以前に生命として此の世に現れ出でて居る事其れ自體が罪による過失であり煩悩による迷いの様だと云うことです。
要するにまさにどちらの立場でも「人間の生の苦しさ」はしかと見詰められて居ります。
であるからこそ両者は世界宗教であり同時に人間が抱え持つ苦に対し眞正面から挑むものなのだ。
で、其処で問題となるのが上の前編の方で養老先生が述べられて居るやうな「社會の責任」としての側面です。
個人的には其の「社會の責任」は非常に大きいものがあると見て居ります。
特に合理化が過ぎてまさに「生きる意味」を見失いがちな現代社會に於いて其の社會の価値観が個に対し影響を与える度合いがより高まって居るものとわたくしは見る。
要するに其の社會が我我個に対し押し付ける価値こそが至上の価値であるかの如きに勘違いをして仕舞い易い。
ですが、其の實存として今其処にある命の価値は本来ならば等価である即ち誰もが平等である。
故にまずは其の社會的ヒエラルキーによる固定化された価値観から是非身を守るべきです。
要するに金や何かに対する才能やまた例えば笑顔などを過剰に個に対し求めるであらう社會としての価値認識は完全に誤って居ます。
其れも養老先生の場合は自らが出られた東大の医学部としての価値をも疑ってもいらっしゃるが僕なんぞは例えば有名人や金持ちなどへの異常な崇拝の様こそがまさに其の価値観の狂いを端的に示して居ることなのだとさう思う。
で、其処からは僕はむしろ個人主義でもって其の社會としての倒錯の価値に対し闘いを挑みます。
何故なら何度も申して居りますが集団主義では其の社會の押し付けた価値に対しとても太刀打ちなど出来ぬからだ。
社會、其れも学校だの家庭だのは例えば高学歴でもって壱流企業へ入るやうな人を優秀であるとさう決め付けますが其の高学歴でもって壱流企業へ入ったにせよ今後は其の前途が開かれたものであるかまるで分からなくもなりつつある。
故にもはや社會単位でもって決め付けられるやうな価値社會とはもはやなって居ない訳だ。
なので僕なんぞはもし息子が居れば僕の志を継いで反體制の作家か詩人として是非活躍して欲しいところです。
貧乏作家でも貧乏詩人でも何でも良いからそんな価値が倒錯した社會に対し兎に角言うことだけは言ってやって下され。
さて宗教の其れも佛教の見方の方ですが實は「生きる意味」などには拘って居ないと云うのがほんたうのところなのだと思う。
「生きる意味」を常に見据える必要があるのはむしろキリスト教やイスラームなどの壱神教的な世界観の方なのではないかしら。
禅宗などは特により純粋に「生きる意味」なんぞは求めては居ないのだとも言えやう。
尤も子供の自殺は仰るやうにまさに社會の責任です。
かっては社會のあり方が悪くて飢餓に陥りまた病気にて子供が死に、今もかうして社會のあり方ー主に価値認識の方ーが悪く未来に対し希望が持てずに子供が自殺などするやうになった。
其の社會のあり方が悪いのは日本に限ればまずは自由民主党による政治の責任です。
ですが自民党の政治が悪いばかりでは無く現代文明としての根本での罪深さが其処に加わるので話は複雑です。
なのですが、其の悪い社會をまずは自分の頭でもって認識するところから個人的には個としての認識を整えて行くべきだと思う。
即ち我の場合には其の社會による認識の全体主義に対抗するのはあくまで個としての認識以外にありません。
平たく言えば現代社會がさうして提起する価値観の部分以外にも立派な實存的価値は何処にでも転がって居ると云うことだけを是非言って置きたい。
ー進歩だの金儲けだの学歴主義だのまた👪主義だのさうした価値ヒエラルキーには与しないことだらう前向きな価値が今や何処にでもある。ー
例えば環境保全の為の行為などは例え金にはならずとも有意義なしかも重要な価値となることです。
其れは現代社會に対してはむしろ批判的な行いとなることだらうがこと地球環境の保全や人間の本質的意義の探究の為にはまさに眞理たり得る価値のことだらう。
わたくしが申して居ることとはむしろ其のやうに人間は個としての理性的な選択を為すことが出来ると云うことである。
其れは何も社會から御大層な肩書きを貰いまた大金を与えられずとも21世紀を生きる人間としてのまさに立派な行いである。
価値と云うことはさうしたことであり其れは時代により常に変化することです。
其の価値が永続する筈も無くよってむしろ其れは諸行非常です。
ー但し神を信じる場合には其れも永遠化される訳ではあるがー
尤も今子供が自殺して仕舞うのは最終的には其れは社會のせいでは無く個としての認識の曇りによるものだらう。
先に述べた如くに概ね何時の世でも社會のあり方は常に悪いとさう思って置くべきだ。
ですが前近代の頃にさうして子供が自殺して居た訳ではむしろ無かった訳だ。
むしろ食い物が無かったり病気にて子供は死んで居た訳だ。
ですので「生きる意味」が見出せないので小学生が死にますと云うのはむしろ彼の認識の仕方に問題があるのである。
つまりは元元生きる意味なんて何処にもありはしない。
即ち此の世は空であり元元無価値なものだ。
と長年佛法に接して居れば其の位のことは分かって来ませうが流石に小学生では無理なのですると親若しくは教師の教育が悪いと云うこととなりませう。
おそらくは親若しくは教師の頭の中身が合理化され切って居り其れにより世の価値観とは外れたやうなことが何も言えなくなって居ることだらう。
だからソーシャル・メディアやゲームもまた其の合理化ー洗脳ーの壱種ですのでそも親若しくは教師がそんなもんやるものでは無い。
其れに教師は時に教え子と共に遊んで来る必要が是非あります。
僕などは昔塾の教え子達と共にいつも釣りに出かけるわ、またゴルフの練習にでかけるわでもう面白いこと此の上無い社會勉強をして居たものでした。
おそらくは彼等も其のことだけは忘れずに今も覚えて居て呉れることだらう。
まさに教師は其れが出来なくなった時点で其れこそ社會的に合理化され切って居るのだらう。
さらに養老先生が仰るやうに自然との交流の體験は思考や感覚の幅を拡げる為のむしろ壱番大事なことです。
ところがコロナ下での子供達は意外と自由時間があるのか以前よりは戸外でもって遊ぶやうになっても居るやうでよって其処は其れ程問題では無いやうです。-此の辺りに限れば-
むしろ問題なのは痴漢対策に公園の樹木を根こそぎ切って仕舞ったりまた河川の護岸工事にて同様に川岸の木を全部切って仕舞う其の文明ー行政側ーの価値観こそが間違って居るとわたくしは見て居る。
そんなもの痴漢が出やうが洪水が起きやうがさう云うのをしかと見て子供は此の世としての恐怖の實相を其処に學ぶ訳だらう。
其れを無菌室のやうな人工物の中に閉じ込めて置けばすぐに自殺するやうな弱弱しい子に育つのはむしろ当たり前のことではないか。
文明ー学校ーが曰く、「刃物」が危ないから使うな。
文明ー学校ーが曰く、山や川で遊ぶと崖から落ちて死んだり川で流されて土座衛門となるから今すぐに遊ぶのを止めよ。
むしろソーシャル・メディアや無菌文明の方が余程に危険物であり土座衛門の如きものでせう。
「日本では頭の方が大きくなり過ぎて居る。」
全くに仰る通りです。
ですが僕は場合により其の頭でっかちでも良いのだと思う。
但し頭を使う方向性が誤って居て、其の良い頭の内容をむしろ自分の為に、自分を救う為にこそ使うべきだ。
社會の為に使うべきではむしろ無い。
社會の為に使おうとするからこそ其の社會の価値観に全的に捕えられ其れに合わせられぬ部分での己を正当に評価出来ず挙句には己に失望し死を選ぶこととなる。
但し人には様々な性質、性格がまたあるので社會の為に頭を使うことを全的に否定するものでもまた無い。
だが誰もがさうしなければならないと云うことではまた無いものと思われる。
即ち人間は自分の土俵にて得意なことをすればまさに其れが自己實現への道となるのだ。
第壱僕もかうして長長といつも書くのだけれど其れは壱言たりとも人の為に書いて居るのでは無い。
むしろ自分の為に書いて来たのである、かうして長長としかも沢山の記事をむしろ自分を納得させる為にこそ書いて来たものなのだ。
さて共同体や會社組織の崩壊と云うことですが其れも結局は合理化を推し進めて来た現代社會がさう指向して来たことでありまた其れをコロナ禍やさらに今後は温暖化の加速などが推し進めて行くことだらう。
であれば結局は「個人主義」を指向するより他は無い。
但し「自分を救う個人主義」を主に主體的に行う認識の転換から行って行くより他は無い。
其の「自分を救う個人主義」とは利己主義には非ず。
其の「自分を救う個人主義」は其の利己主義による社會的洗脳を解いた状態のことでむしろ眞の意味での自己の価値観を其処に確立して行くことだ。
よって其の眞の意味での己の価値観を生きることで社會による価値観の押し付け即ち価値観の上での洗脳から脱することが其処に初めて可能となる。
なのですが其れは社會関係を全否定することには非ず。
むしろ自己が認識する価値をより小さく捉え即ち身の回りにある世界ー身の回りの自然や共同體的価値ーを重要視し其処にこそ自己としての社會的価値を見出して行く生き方のことだ。
其れ即ち現代社會が奉ずるグローバルな価値などには目を向けず身近なものを具象的に愛する生き方のことだ。
其の具象的に齎される身の回りの価値はグローバルな価値のやうに御立派でも無くまた世界第壱級の価値なのでも無い。
されど其れはまさにオンリーワンでの他に代わりやうの無い価値なのだ。
さう云うのを哲學用語でまさに實存的価値と言います。
だからわたくしが今述べて居る個人主義とは其の實存的な価値を普遍化したところでの価値のことだ。
まさに其れを精神的に成就して行かうと云うことである。
其の価値はオンリーワンの価値なので世界の大企業のCEOや大谷 翔平君などよりもアナタ自身にとってはずっと大きな価値として認識されるものだ。
さう誰もが其の最高の価値を持って居る。
たとえ才能や頭の良さには恵まれて居らずともまさに其れがたったひとつきりの人間の価値なのですから。
いや何も人間の価値だけには限らない。
其のゴリラでも🐅でもまた🐈でも🐕でも皆其の實存的な意味でのオンリーワンの価値です。
だから其れは金が無くともまた結婚が出来ずともそんなこととはまるで関係が無く自然からさうして神佛より与えられし価値なのだ。
なのでTVなどを視るにつけ才能も無く容姿もまた醜い自分よりもタレントの方が上だなどとは金輪際思わぬやうに。
またイチローや大谷 翔平よりも自分が劣って居るとして居るのは其れは単に社會的価値ヒエラルキーがさう錯覚して居るばかりでのことだ。
また金、コレもまた百億円持って居るのと百円、千円を有意義に使えることとはほぼ同じ価値だらう。
なので逆に何で卑屈になどなる必要がありませう?
むしろ「僕は常に持って居る」とさう思って置くべきだらう。
そんな虚勢はでも…。
だからもしも今日千円しか無ければ何処かで配ってる無料の弁当を並んで貰いに行けば良い話です。
何故ならソコまで持って居る自分をしかも世界で壱人だけの自分を認めしかも助けてあげるのは自分の力であるより他は無い。
其のTVに映るタレントや何処かの王族やまた例えばTOYOTAのCEOなどが助けて呉れる筈も無くむしろ其れ等がアナタの人間としての眞の価値を貶めてさえ居るのですぞ。
我が述べて来たこととは其の種の現代的な抽象的価値の個としての放逐のことだ。
其れを放逐した後に自らの生活圏での価値を是非確立させて行くのです。
其処でもって近所の人人と積極的に話をし地元の文化や歴史などに就き是非理解を深めて行かれるが宜しからう。
ですので僕が語る個人主義はかやうに結果的に周りの世界とむしろ密接に繋がるものだ。
むしろ其の具象的な範囲の人間の繋がりこそが本物の人間関係です。
ですが現代社會が個に対し提示する繋がりを奉じて居れば其の大切な具象的価値にさえ気付けなくなる。
其のやうな訳で養老先生の御考えとわたくし自身の考えはそも少し異なる面があります。
ですが我は養老先生の御考えからまさに多くを學ばせて頂いて来て居る。
尚養老先生は「虫捕り」にて自然と常に戯れられて居ますが僕の場合は其れがまさに「石」でありまた季節の動植物などとなる訳だ。
尤も僕の場合其の虫は正直蝶蝶以外にはほぼ興味が涌きません。