31.現代社會が強制する「安樂全体主義」と其れに対抗し得る教養とは?
《ナワリヌイ氏に禁錮9年》「富と贅沢にとりつかれた」1400億円“プーチン宮殿”の全貌が動画告発された!《再生回数1億回以上》 (msn.com)
ちなみにかって僕はかのプーチン氏が豪華な宮殿でもって裸で泳いで居るのを視た時に此の男はもうダメだと思い其のことを此処にて書いて居ます。-探せば其れが出て来る筈です-
何故ならさうした右翼肉體馬鹿的な人間はいずれ何かをしでかすものだ。
まさに其のモロ出しでの自己顕示欲、さらに権威権勢欲、性欲などが強い人間は最終的に此の世界に破壊を齎しませう。
即ち人間は理性的で大人しい人の方が格が上となるのです。
ですが決まって其のお上品な人は人に好かれず逆にケモノの如き絶倫👨が👩共にモテさらに👨共にも尊敬されるものだ。
まさに其の事の摂理の部分をしかと知って置くべきだ。
人間の認識はほとんどの場合ダメで、理性的どころかまるでもってケモノ染みて居るものだ。
「じぶんを大切にする」ってどういうこと?満島ひかりさんが声を担当、子ども向け“自分探求”アニメ放送 (msn.com)
むしろ其の自己を大事にすることこそが特に現代社會では最も難しいことだ。
現代社會は情報の洪水に常に浸されて居り自己の認識を確立させること自體が困難である。
故に大抵の人は其の情報の洪水に対し流されて行かざるを得ない。
其の自分を大事にするからこそ他者に対し常に敬意を持って接することが出来る。
即ち自己を尊重するが故に他者をも尊重するのである。
ところが世間に流された自己即ちウソの自己を奉じて居ると社會の価値観の愚かさが自分に移りつまりは洗脳され切って人間は其処で須らく全体主義をやるのである。
所謂いじめの問題然り、また戦争、環境問題、其の他あらゆる悪事に於いても然り。
だから其の人間の愚かさ、人間の根本での馬鹿さ加減に自分でもって気付くか否かだ。
だが大抵の人は其のことに気付けやしない。
だからこそ今人間界はこんなんなっちまってる。
そんな具合に人間はまさにアホでマヌケで大馬鹿者だ。
だから其れは詩人にしか見えぬ人間のほんたうの姿なのだ。
いや詩人に限らず例えばゴーガンとかゴッホとか、また偉い宗祖様や新興宗教の教祖様方、またお釈迦様やキリスト様にはそんなこと位はもうスケスケに見えて居たことだった。
其れにかっての文豪の方方はみんな悩んで大きくなりさうして決まって自決されたのだった。
トルストイ、芥川 龍之介、太宰 治、三島 由紀夫、川端 康成。
其の文豪の皆様が其処まで苦しんだのはまさに社會が悪かったからなのだ。
さてもみんなは今何をどう考えて御座るのだ?
みんなは出来れば自分がTVに出て来るやうな偉い人になりたいと思ってるよね。
いや👪主義でもって自分の子孫の繁栄のことばかりを祈って居るよね。
でもそんなものは全部が妄想だよ。
みんながまずやらねばならぬこととはズバリ其の社會が奉ずる価値観から身を引くことだ。
其れを壱旦遮断し自己の価値観の中にむしろ身を浸してみやう。
もしや其れが座禅のやうなものなのですか?
さうだ、歩きながら其の座禅をするのだ。ー其れも動禅としてー
すると其処に文學者の呻きのやうなものが聞こえて来る。
さらに獣共の悲し気な咆哮さえもが聞こえて来る。
むしろ其れがほんたうの此の世の言葉であり叫びである。
ですがイザさうして曇らされた目にはもはや其の生の實相がてんで映らなくなって居る。
詩人さん、でもほんたうのほんたうに其れはあるのでせうか?
今僕等にはウクライナでの戦争のことや其れと日本の右翼系の人人が中國から我が領土を守り抜け!などと言うそんな威勢の良いスローガンしか聞き取れないのですが…。
いや、確かに其れがある。
其れは神の御言葉であり同時に佛の説法なのだ。
何だか現實離れして居るやうで其れに詩人さん、精神的に不安定なアナタ自身が何だか信用がならぬ。
さうかなあ。
むしろ我に取り壱番信じ難いものを信じて御座るのが君等現代人なのですがね。
詩人さん、アナタもしや半分位はすでに死んで居ませんか?
仰る通りに半分はもはやアノ世へイっても居りませう。
でも其の位のところに居るからかうしてみんなのことも距離を置いて見詰められるのだよ。
さて本日は「安樂全体主義」のことに就き是非考えてみませう。
尚今回はこちらが其のテキストとなるものだ。
現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
ー東浩紀『動物化するポストモダン--オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)などで論じられている「動物化」論とは、非常に粗っぽく言えば、人間がどんどん目先の刺激にだけ反応していくようになっていく、というお話です。ー
(第1回)私にとっての教養 | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
個人的には人間が特に現代人が動物化ーケモノ化ーして居ることはほぼ間違い無いことかと思う。
むしろ現代とは其の人間と云う半分抽象的な生物が其の抽象性を成らしめて居る理性ー知性ーを剥奪され動物化することを旨とする合理化の過程であると申せませう。
其れが何故合理化なのかと申せば本能がまず常にケモノであることを欲するからだ。
其の本能に対し合理化したのがケモノ人間の群れの発生だ。
例えば近代が成就した市民革命や社會主義革命などの革命は其の半分が合理的なものであると同時に残りの半分は「獣性を解放する」と云う側面を持って居た。
だから基本的に近代が齎す価値とは理性的であると同時にむしろ野性的ー本能的ーなものなのでもまたある。
どだい西欧中心主義と云う価値観に於いて世界への植民地化などが帝國主義と云う形にて實行されたが其れなどもまさにかの漱石が論じた如くに野蛮なる本能的利己主義の履行のことであるに過ぎぬ。
近代の失敗とは左様に「理性の名の下に行われた野蛮」から引きこされしものだ。
理性の合理化⇔本能の合理化
近代とは所詮は人間の拡張主義なので其の理性と本能のどちらをもよりデカくして行くのである。
でもって理性はより合理化されて行くが他面では實は本能の履行の方もより合理的な形にて達成されて行く。
するとまさにとんでも無いところでとんでも無いケモノの如き行為が行われて仕舞う訳だ。
まさに今露西亜の指導者がケモノ化し世界中を恐怖の渦の中に巻き込んで居るのもまさに其のことの具體化なのだらう。
ー 山形 前回お話しした東浩紀の「動物化」論では、アニメなどの二次元の世界にはまって、オタク化してゆくことを「動物化」と呼んでいます。人が社会に出て、職業に就いたり、女の子とデートをしたりすると、いろいろなしがらみを考えなければならなくて、とっても面倒くさい。だから、ボタンを押せば可愛い女の子が画面に出てきて、それを見て「萌える」という、刺激に対する単純な反応の世界に人々は落ちていく。これが最近の傾向だというわけですね。ー(第2回)「動物化」論をめぐって | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
尤も僕の場合は所謂ヲタクが動物化するとは思って居ない。
逆に僕はヲタクであることはひとつの近代社會に対する反抗だと捉えて居る。
つまるところヲタクであることはもうとんでも無く馬鹿なこと其のものー無用であり且つ不要であり不急なことーなのだが逆に言えば個に取り其の行為こそが社會の軛を離れ自己を解放する為の唯壱の手段である。
なのでまあ頭が良くても其のヲタクが居る訳で其の典型例が養老先生であり且つまた我であらう。
其の動物化とはあくまで社會関係に於いて生ずるものだとわたくしは見て居りよってむしろ「しがらみ」こそが現代人をしてケモノ化することの最大因なのではなからうか。
どだいヲタクは至って大人しく人を傷付けたりはせぬものだ。
ヲタクとは其のやうにむしろ内面の世界に籠り暴虐的なる社會の価値観を遮断する心優しき理性派の人人のことだらう。
ー最近、藤田省三(1927~2003。政治思想史家)の書いたものを読み返していたら、「安楽への全体主義」というエッセーがありました。これは「動物化」論の先取りと言えます。藤田によれば、「安楽への全体主義」は、「全体主義」という言葉が示すように、危険でもあり、道徳的にも間違っているということになりますが、「動物化」については、ここに安住していることが危険だとか、道徳的にも間違っているという言い方はしにくいですね。ー(第3回)「動物化」論と「安楽への全体主義」 | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
わたくしもまた最近「安樂全体主義」と云う言葉を初めて知り其れに就き是非語りたいとさう考えて居た。
さて其の「動物化」に関しては、むしろ現代社會が我我に対し突き付ける「安樂全体主義」を否定的に見詰め己の中だけで自己の欲する価値観を生きやうとする所謂ヲタクのあり方は如何にも理性的な全体主義に対する反応である。
要するにナチス独逸がかって行った侵略に対するかのアンネ・フランクちゃんの如き内面的反抗であらう。
さうしてヲタクはむしろ個別にまさに自分勝手に得意な領域に遊び現實逃避するのであるからまるで群れやしない訳だ。
群れるのは常に社會の方だ。
「安樂全体主義」を押し進める現代社會はさうして「物質的に豊か」で「社會に対し従順」で「長生きすること」を常に強要して来る。
だがもう限界だらう、そんな倒錯の論理こそが。
だから群れる、まさに其のことにより何が引き起こされるのか?
群れて同じことをするのがまさに「赤信号をみんなでもって渡ると怖くは無い」と云うことである。
なのでヲタ共はむしろさうしたみんなでもってイク特攻を拒否して居る訳だ。
人間の行いで壱番イケナイのが其の特攻だ。
特攻すれば無論の事國家だけは喜びもしやうが其れはまさに國家が本質的に馬鹿だからなのだ。
なので其の「安樂全体主義」とは社會的に齎される事象に限るとむしろわたくしは其れを限定して見て居る訳だ。
ー 稲葉 さらには、世の中の秩序を支えるのは、「動物化していない」人々なのかということも、一概には言えない問題ですね。
たとえば1990年代に宮台真司が「まったり革命」ということを言い始めました。要するに、社会にとって、公共性を担うエリートたちは確かに必要だし、彼らはああでもない、こうでもないと余計なことを考えますが、大部分の大衆は「まったり」していてよい、というわけです。この「まったり革命」もある意味では、「動物化」論の先取り的なところがあります。
山形 宮台はその後、「意味から強度へ」つまり、体系的な知識に基づくのではなく、その場の感覚的な強度で物事をやればよいのだ、という議論に進みましたね。ねらいはよかったと思うけど……。ー(第4回)ヘタレ中流インテリの居場所 | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
あくまで僕の論理で言えば其の動物化は現代社會が進めるものであり動物ーケモノーとは社會の言いなりになりまさに洗脳され操られて居る人人のことだ。
どちらかと言えば其れは「常識的な大人達」であることが多い。
其の「公共性を担うエリート」にせよ公共性其のものに雁字搦めにされて居るのではまさに手も足も出ず能力を発揮出来ず其れでもって最終的にはフラストレーションが溜まりケモノ化する訳だ。
其の「ケモノ化」論とはまた別の「まったり革命」なる考え方は個人的に至極面白い考え方なのだと思う。
例えば先に會社や地域社會に属さずキャンピング・カーにて全國の景勝地を訪れ言わば遊んで暮らす若い夫婦のことを論じたと思うが此れなども明らかに其の「まったり革命」の典型例なのではないか。
まさに此の場合は社會其れ自體に対する否定であり変革としての生き方なのだらう。
個人的にはかうした生き方には憧れるのであるし少なくとも肯定的に其れを見詰めて居る。
何故ならすでに現代社會は廿世紀型の秩序立った資本主義や議会制民主主義の限界に突き当たって居るのではないか。
昨今の世情の不安定さはまさに其の體制的な限界を指し示すものでもまたある。
無論の事ただ行き当たりばったりに其れを行うのでは無くむしろ思想として其れを履行するのがより望ましいことではあるのだけれど。
ーその「かたぎの庶民」を、僕は「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいます。自分のヘタレ性を自覚した上で開き直らない、理想的な意味での「よき市民」です。ある意味では、かつての「プチブル」(プチ・ブルジョワ)の言い換えかもしれませんが、それよりはもう少し臆病で、ひねくれていて、目覚めてはいるけど「私、目覚めました」と言うのはあまりに下品なので、目覚めたかもしれないけど、目覚めた自分に「本当かよ」と絶えず突っ込んでいく機能を備えている。これが暫定的な「ヘタレ中流インテリ」のイメージです。ー(第4回)ヘタレ中流インテリの居場所 | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
まさに僕が其の「ヘタレ中流インテリ」でせう。
尤も僕は常に「目覚めた」よとさう常に此処で言い続けて来て居る。
其れが何故「目覚めた」のかと言えばおそらく其れは社會の価値観から隔たったからでせう。
此の己の価値観其のものが。
逆に目覚められぬと結局は洗脳されて馬鹿の侭死を迎えることとなるから其れだけは断固としてイヤなので…。
ー 山形 改めて、現代日本人にとっての教養とは何か、ってこと考えたときに、ある一つの知識や情報の体系があって、これこそ現代人必須の教養のパッケージだから、みんなこれを身につけましょう、なんて話ができれば簡単なんですけど、どうもそうではなさそうですね。ー(第5回)ツボを押さえた人たち | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
個人的に其の教養とは「現代社會が強要する-安樂全体主義-」による洗脳を解く為の精神の力なのだと思う。
教養が身に付いて居るか否かは其の洗脳度の如何により瞬時に判別することが可能である。
ーたとえば自分が大学に進学するとき、理系か文系かを選択しなければならない。でもって理系を振り捨てて文系に進んだわけですが、そのときに何かが欠落してしまったと、今にしてみると感じています。
稲葉 理系・文系の区切りっていう話で言うと、教養の復興とか再建というときに、理系の人たちの危機意識や実践のほうが、文系の人たちにくらべて健全な気がしています。(最終回)理系的教養をめぐって | 現代日本教養論 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より
あくまで、
理系⇔文系
なのであり、
よってどちらがより優れて居ると云うことでも無くまたどちらかでイケるものでもまたありません。
なので文系人間は理系的思考を努めて學んで行くべきであり理系人間は例えば文学者の自決などに就き深く論考を重ねて行く必要がある。
要するに壱番イヤなものをあえて學ぶことこそが教養としての涵養であらう。
但し人間に於けるケモノは役に立つ科学技術からむしろ生まれるものなのだ。
逆に役立たずの人文の領域からはむしろケモノの類は生まれて来ない。
其れは非合理的理性が基本的に屈折して居るからだ。
屈折するものこそが洗脳を解き自らの世界を其処に築くことに成功する訳です。
逆に屈折せぬものは容易に合理化される要するに社會により洗脳される訳だ。
さて教養とはあくまで「自分の為の御勉強」のことだ。
自分の為では無い御勉強つまりは偏差値教育はイザ社會の危機の時にはほとんど役立ちませんが逆に教養を身に付けて居ればむしろ社會の危機に際し幾らでも其れに対抗し得る心理的防御の道筋が見えて来るものだ。
所謂「知恵」とはさうしたものであり、まさに其れは火事場で発揮されるであらう精神的な意味での馬鹿力のことなのだ。
其の知恵を得る為には幅広い知識の吸収がまずは必要となる。
まさに自分を自分でもって救う為にこそ其の種の御勉強こそが是非必要です。
尚所謂自我意識や所有の概念などは本来何処にも根拠の無い妄想のやうなものだ。
ですが文化もまた家の制度もさらに近代社會ですら其の妄想に基づき営まれるものなのです。
其れも本質的には文明其のものが妄想其のものだ。
ですが其れを言っちゃあまさにお仕舞いです。
文明と云うものは其の妄想を悪として押し通してしまうことであり従って時間が経過すればする程に其れはより悪に染まり矛盾を生じさらに破壊をも推進して行くものだ。
まずは其の文明論としてのマイナス面が皆様にはまるで見えて居ない訳だ。
丁度其れはお釈迦様による「壱切皆苦」の認識やイエス様による「罪深い人間界」と云った正しい認識が為されて居ない訳でむしろ皆は此の世が良いところだとさう思って居る筈だ。
さうなのだ、僕等は皆幼稚園や小学校で先生から「此の世はのびのびと生きるに足る良いところです。」とさう教わった筈だ。
でも其れがウソの教えだったのです。
ほんたうの教えとは「此の侭では学校も社會もダメになるから是非解脱するか神を信じよ。」だったのです。
さらに其の後世の中へ出て働くにつれ所謂「安樂全体主義」なるものを刷り込まれ何時の間にか文明其れ自體を信じるやうにさえなって行く。
でもって文明を信じてみんなが其れこそ必死に耐え働き其れでも未来を信じて、嗚呼ウソの未来を信じてこき使われ蹴飛ばされ要らぬ物ばかりを押し付けられ此れ迄ボロボロとなりやって来た。
さうかうするうちにドーンとコロナが来てまたドドーンと戦争が起きみんなはいずれ其のうちに特攻したりすることになるのやもしれません。
其れぞまさに恐ろしいことです。
でもわたくし自身はすでにそんなヘタレた社會的価値からは遠く隔たって居り従って今も至極冷静な気分で居られます。
まさに其れぞ所謂教養により守られて居る様です。
其の溢れんばかりの教養にてどんな場所に居てもかうして常に守られて居るのです。