自分でもって「幸せ」をつかみ取る方法とは?ー自分軸での「幸せ」とは何ぞや?ー
「社交的」か「内向的」かは一目でわかる? 心理学者が解説する判断基準
ソノ心理學なるものに對してもワタシは若い頃よりむしろ懐疑的でした。
ナゼナラ心理學ってまず「周りが惡い」=「社會が惡い」とは言いません。
でも若い頃からボクは「社會が惡い」とさうズバリ思っておった。
ソレもエエ加減にソレを言うとるのでは無くむしろしこたま御勉強をした上で「コノ文明はヤバい」とさう思っとった。
で現在はどうかと言えばむしろボクが考えとる以上にホントに社會が惡うなって來た。
なのでむしろ樂しくてウキウキ氣分かい。
ほれみよ、ちゃーんと當たったわ。
でもってして、所謂「内向的」なのは明らかに壱つの才能です。
「内向的」なのは鋭い洞察力や深い情緖的世界を構築するが為の精神的な母體のやうなものだ。
逆に「社交的」なのはソレとは逆方向を向くことなので薄っペらで表面的な愛想の振り撒きと見榮や承認欲求とがぶつかり合う虚しい場でしかありません。
もっと言えばおおまさに低次元なケモノとしての動物園のやうなものぞ。(ソコでちっとも理性を使わぬ場とのこと)
尚ボクは昔カウンセリングを受けて居たことが有ったが結果ソレは役に立たんので自分でもって生きた方が宜しからうと思いソレをプッツリと止めむしろ自分でもって自分の人生を歩んで参った。
そんな「自分派」の人ですのでまずもって「心理學」でも救えん訳です。
だったら宗教をやらうと思い立ち坊主にも壱時なりましたのですがそれでも「世の中が惡い」=「社會が惡い」のは無論のことまるでもって直りません。
ならばソレはまさにワタシのせいじゃ無い。
だからソノ辺りからようやくソノ「惡い社會」、「惡い文明世界」と惡因縁が切れソレを至極冷たい眼でもって客體視し得るやうになりソノドロドロの社會沼から脱せられたのではにゃーか。
ほいでも若い頃は惡い誘いが色色とあり酒色に溺れ葉巻もスパスパ吸っておったがなんとか酒色を断ち葉巻も紙巻き煙草の方に換えましたとさ。
つまりはさうしたことです。
コノ記事を読み感動させられた。
さう自己決定の場としての自分軸を持たぬ限りニンゲンの不幸=心のモヤモヤはむしろドコ迄も続かう。
逆に自分の心をスッキリさせ「幸せな心」に至る為にはむしろ周り(社會)をカットして行く別は無し。
どだい社會的に規定される「幸せ」とはあくまで相對状況ですので實存と云う個性に取り大きく異ならう。
つまるところ壱億円を儲けたA氏ですら彼がもし強欲ですと「幸せ」でも何でも有りません。
ならばソノ壱億をたとえばワタシ自称詩人にでも下さりませんか?
もお彼なら所謂小欲知足ですのでソノ壱億円が絶對に役に立ちませう。
いやでもイザ壱億円も持つと八千万位はスグに浪費するか、さうだ彼ならばまずさうなる。
だから壱億円では無く壱千万円程にして置いて下され、ゼヒ。
イザさう周り(社會)をカットして置いて揚句に周り(社會)に金をせびるのか君は!!!
いえ冗談です、即ちブラックなユーモアであって他のなにものでも無いが…。
「不自然でいることは、社会の中では自然なこと」
「社会によって乱された自分を、本当の自分に戻す」
「こうしたものを幸せの基準として持ってしまうと、常に社会に振り回され、自分で完結できない。」
「幸せの基準を自分で設定できる人こそ、自分で幸せをコントロールできる人なのである。」
「むしろ、幸せの基準は上げるべきだ。」
他人の評価で揺らがない「自分にとっての幸せの基準」の持ち方より引用
かうしてニンゲン壱人が「幸せ」になるが為の重要な要素をコノ方がほとんど述べて仕舞って居ます。
さうして最も重要なことは常に「自分軸」で生きるとのことだらう。
さう「自分軸」で生きとればまさかサナエやシンジローに票を投ずることなどは無からう。
ええっまさかアノシンジローが今後総理大臣になるので??
さうだねホントに怖いよねまさにソレが…。
まあイザさうなったら多分ニッポンは終わりなのかな。
じゃあまるで「化けもの屋敷」ですか今のニッポンの政治状況は!!
どだいサナエはどう観ても妖怪口裂け女だろ。
シンジローはとりあえずハンサムだがアノ女房の「オモテナシ女」がそもイカんぜよ。
…とコノやうに「政治」に振り回されるやうではまだまだぞ。
だがイザ「自分軸」を持てばさう「政治」に振り回されることからは解放されやう。
だから私の場合もちょくちょく言って参ったでせう。
元社會の先生はまるで「政治」には興味が有りません、と。
じゃあアナタの場合は所詮「物欲」の方ですか。
いえワタシの「物欲」はあくまで髙等な「物欲」であり君等のやうに低級な單なる物質欲とは違うよ。
ああダカラこいつは「髙等筆」だとか「理性を癒やすが為の道具」だとかココに書いとるのか。
さうボクはかう金が無いにせよ常にやり切って來とる。
故にもはや悔いは無し。
後はもお死後に何と闘うかとのことのみよ。
…さう詩人は死んでもまだ闘うか?
さう本質的には永遠にバカと闘う。
詩人は永遠に御釈迦様とイエス様の弟子であり同時に惡魔と闘う聖人の壱人ぞ。
ではバカが即ち惡魔なんですか?
さうですね、バカが即惡魔である可能性は髙く有らう。
バカ=非理性的意思決定
惡魔=非理性的意思決定
ほれみよまるで同じだらう。
では「自分が自分が」とさう自己中なのとバカと惡魔の相性もまた宜しいのでは?
でも自己中での所謂利己主義と自立的宜つ自律的な意思決定はまた別のものですな。
自己と他者の對立。
まさに其が究極的な問題だらう。
尤も宗教的な意味での問題の解決法は有る。
いまひとつの道は言わば哲學的又は仙道思想的に自己認識を變えることにより自分でもって「幸せ」をつかみ取る方法です。
さて本日示した認識の例は壱種仙道思想的なものかとも思われる。
しかしながら次回はゼヒショーぺンハウアーによる認識論に就き語ってみたい。