目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

今年我が格闘せし弐冊の眞理の書

32.今年我が格闘せし弐冊の眞理の書

 

 

 

其の國家レヴェルでの認識の違い=価値観の違いこそが人類に取っての最悪の戦争状態を生み出す。

其の事は少しばかり社會への御勉強が進んだ理性であれば無論のこと分かって居る訳だ。

 

故にそんな人はむしろアナキズムを奉じて居たりもする訳である。

ところが壱般の人人はむしろアナキズムとはテロリズムだ、位に思って居る訳で要するに其処では其の認識力のレヴェルの差が大きく出て仕舞うのである。

 

むしろアナキズム、其れも共同體主義的なアナキズムを奉ずることこそが平和主義者の証なのでもある。

其れも単なる右翼であればかうして日本と云う國に対する様様な面からの圧力を無論のこと跳ね返さうとする訳だが實は其れでは逆効果となる。

 

だから其れが右派としての思想的限界なのだ。

また逆に左の思想にも理想論としての限界がある。

 

 

故にアナキズム、其れも共同體的なアナキズムを奉ずる我などはまさにさうした泥沼の対立をそも最初からブロックする上で其のデカい意思決定機関としての國家を否定する訳だ。

まあ其れも平和な時にそんなことを論じたにせよ其れこそ頭がおかしい奴と思われるだけなのだが逆に今はさうした個に対する防御策のことが皆様にも分かり易くもなって居ることだらう。

 

また戦闘や大災害、さらに事件や事故や泥棒、テロリズム、物価高騰などが案外身近に起こりつまりは世の中は何時どうなるか分からないと云うことが今我我現代人にはまさに身に沁みて分かって来た筈である。

 

まずは其れが常に起こり得ると云う前提で今を生きる程に或種疑惑を持った上での世の中との関わり合いを我我個は是非して行くべきだ。

さらに其の上で今出来る範囲でやれることはむしろ何でもやって置いた方が良い。

 

其れも酒池肉林の追求以外でやりたいと思う事を真摯にやり其れはどんなに小さなことでもまさに眞面目にやって置くべきだ。

 

其の事の大小の認識に於いて世間の人人の認識ー価値観ーは間違って居ることが多い。

むしろ何気無い些事こそが大事にされるべきことで、経済だの國家だの會社だのまた自分の家の存続だの其れから子の将來だの、そんなことはむしろ大事に抱え持つことでは無くましてや其れに対し命を懸けるやうなことでも何でも無い。

 

かうして物事はなるべく小さく行動しだけれどもなるべく大きく認識する。

まさに其の事が為されれば外部に惑わされること無く己の歩むべき道が見えて来る筈だ。

 

 

修了式を終え下校時に事故か…小学生の女の子2人が横断歩道で車にはねられ1人死亡 もう1人は命に別条なし | 東海テレビNEWS (tokai-tv.com)

 

さて昨日は家から自転車で10分位の処でわたくしの母校弥富小学校の児童弐名が🚙にはねられうち壱人は死亡したとされて居る。

まさに此の辺りもまた所謂環境の良いところでそんな死亡事故が其れも小学生が🚙にはねられることなどはまさか考えにくいところなのだ。

 

ですが此の世では何時何が何処で起きるものやらまるで分かりはしない。

だから今生きて居ることをまずは神佛に対し感謝して置かねばなるまい。

 

さうして物事を深く良く考え出来得る範囲で自己に取ってのより望ましい認識を築いて行くことが大事だ。

其れは概ね此の罪深くしてしかも煩悩にまみれし社會の様を直視しむしろ其れからは距離を置くと共に己に取っての眞に価値あることをしかと追求することなのだと言えやう。

 

 

では天下國家を論ずるのでは無くヲタクの次元にてコアな論議をする方がむしろ良いのだと?

間違い無くむしろ其の方が有意義である。

 

但し天下國家を論じられぬ馬鹿だと世間から見られるのは癪だからまずは僕位に世界の諸に就き論じてからまた違う話をすれば良いのである。

 

さて此の春に僕はもう本当に文房具の方を頑張って来た。

其れも主に中華万年筆の方を頑張って来たのだが本日は其のことに就き述べる積もりは無い。

 

 

中華万年筆は最高に面白いと云うのが其の感想である。

また其のことは何度も申すが如くに中國が今して居る共産党壱党独裁體制などとはまるで関係無く面白い訳だ。

 

要するに共産党壱党独裁體制を毛嫌いして居ると此の今最高に面白い中華万年筆の世界のことを知らずに終わって仕舞う。

其れは勿體無いと云うのが個人的な意見である。

 

其のデカい抽象的な価値により個人としての認識を曇らせたりして居てはならない。

我自身が努めてして居ることとはそんな社會的概念の放棄であり其処からの避難である。

 

では何に就いて書くかと云うことであるが本日はまた本のことを是非語らせて頂きたい。

其れも眞理探究に関しての究極の著作弐冊に関して簡単に述べてみたい。

 

 

仏教入門 | 現代新書 | 講談社 (ismedia.jp)

 

こちらは我が師と仰ぐ南 直哉禅師による佛法を學ぶ為の究極の壱冊である。南直哉 (禅僧) - Wikipedia

我は此の壱月に此の本の理論編のところと格闘して居た。-当時は弐度目の読み返しをして居た-

 

現在もまた其の理論編と格闘中である。ー今度は参度目の読み返しとなるー

 

さて此の本は主に佛法に於ける認識のあり方と座禅の仕方に就き述べたものだ。

其の佛法に於ける認識のあり方こそが此れ迄に読んだどんな佛法に関する本、御経の解説書などよりも的を射たものであり素晴らしかった。

 

 

ー最初にお話ししておくと、私の問題とは2つ。「自分とは何か」「なぜ人は生きねばならないのか」 ということです。

では、その立場で仏教がお金をどう捉えているか。ひと言で言えば、お金は「幻想」だということです。ー
ーこれは考えずともわかります。誰が見たって、1万円札は「紙切れ1枚」に過ぎません。でも、それを巡って殺人が起きたり、自ら命を絶ったりする。おかしな話ですが、お金は、この社会にとって圧倒的な「現実」ですが、正体は「皆で一緒に見ている夢」なのです。ー
ー口さえあれば誰かが食べ物をくれる。肩があれば衣をくれる。金の心配をせず、自分のやるべきことをやれ。そういう意味です。ー【立川志の春 / 南直哉】異色の落語家とアウトサイダーな禅僧の“お金”論 (newspicks.com)より
 
以上に其の南師による金に対する認識がしかと語られて居る。
其の認識こそが今我が到達せし認識にほぼ近いものだ。
金は無いと生きては行けないのは無論のことながら、無いなら無いで常に何か方法があるのだらうと今は思う。
 
逆に金の額に執着して生きること程愚かなる認識もまた無い。
つまりは金儲けの為に生きる人生などむしろ根本のところが腐って居やう。
 
佛教はさうして金への執着や所有への執着を常に否定的に見詰めて来た。
逆に言えば金への執着や所有への執着が酷く有るが故に今此の世はこんなんなっちまってるのだと考えられやう。
 
問題は何をやる為に我我人間は今を生きて居るのかと云うことだ。
我は世間の認識を正さんが為に此の壱年余りを生きて来た。
まさに其のことは我が使命であった。
 
みんなでもってさうして見て居る夢のウソ臭さに対して是が非でも文人として挑んで行かねばならぬとさう思ったのだ。
さう金とは所詮はさうしてみんなでもって見る夢の壱つであるに過ぎぬ。
 
だが金ばかりか國家もまた👪もほとんど全てのことがみんなでもって見る夢の壱つであるに過ぎぬ。
あな恐ろしや。
だから我は藪の向かう側へと早速に避難する。
 
そんな危険はむしろこちらから願い下げだぞ。
 
 

南直哉の名言 | 地球の名言 (earth-words.org)


仰る通りで人間は永遠に生き辛い生き物である。
太古の昔よりまた遥かな未来にせよ必ずやさうなる者なのだ。
 
其れは人間の認識が濁って居るが故のことだ。
誰もが今自分は正しく且つ清い認識をして居るとさう思いがちだが其の實はほとんどの認識が濁って御座る。
 
其の認識が濁ると所謂罪や煩悩に対し不感症となり結局は自らの行為に対する反省がまるで出来なくなる。
そんな状態で何拾年も、また何百年もやって来て居るからやがて世界ー社會ーが地獄へと堕ちて行かざるを得ぬ。
 
故に全ては其の人間の認識上の誤謬から齎されて居る現實なのだ。
 
其の「自分」を形成して居るのは主に社會である。
故にむしろ其れを意識的に脱ぎ捨てることで己に取りほんたうにやりたいことが見えて来る訳だ。
 
其のほんたうにやりたいことが間違って居るにせよむしろ其れを貫くことで自信の如きものが涌き上がっても来やう。
だが社會の檻の中に捕らえられた侭で重要だと思う価値を奉じて居たりすると其れが誤って居た場合にはもはや取り返しがつかぬことともなる。
 
 
さうして自分には常に仮面を被る自分と素顔の自分とがある。
社會は常に仮面を被る自分をこそ重視する。ーさうして體制を維持せんが為にー
だが其ればかりに浸されて居れば素顔の自分としての解放は無く挙句には洗脳を受け悪に染まって行かざるを得ぬものだ。
 
さうして肉體的に修練を積んだ人の構えは確かに自然體なのであらう。
また精神的に修練を積んだ人の構えもまた確かに自然體なのであらう。
 
精神的に修練を積むこととはむしろ徹底的に世の価値観を疑い其れから距離を置くことだ。
だからむしろ其のことが何ものにも捉われぬ自らとしての心のあり方を磨くのである。
 
つまりは他に依存することの無い自己を形作るのだ。
勿論佛法はむしろ他のことを重視する。-特に大乗佛法では-
だが其の他に関わるのはまずは自己の心を磨いてからのことだ。
 
疑いも無く且つ考えも無く只世間に交わるからさうして洗脳される羽目となる。
さうでは無くまずは自己と向き合い其の認識をこそ正して行くのだ。
 
他に依存することの無い自己こそが裸の自己であり外から与えられたものでは無い眞の自己である。
よって其の眞の自己に気付くか或は目覚める為にはまずは其の与えられし自己を脱ぎ捨てる覚悟が是非必要となる。
 
 
尚南師は『仏教入門』に於いて精緻なる佛教的認識論を述べられて居り其れは多少佛法を齧ったことのある人であれハードルの高いまさに禅僧による難解なる論理展開である。
故に『仏教入門』は単なる佛法の入門書の類では無くほぼ究極としての佛法解釈の書となって居る。
 
特に原始佛法を學んだことの無い人に取り此の本は極めて難解に思えることだらうが其れはまさに此の本に眞理が語られて居るが故でのことなのだ。
 
 
 
かうして人間は今や宇宙へも出て行くやうになった。
だが依然として其の心の中は闇に閉ざされし侭だ。
 
宇宙へ行けば心が晴れ晴れとし要するに目覚めた己と向き合えるのかと言えば其れはさうでは無い。
宇宙へ行かうが南海の孤島へ向かおうが目覚めて居らぬ人間の心は何時でも何処でも同じやうに曇って御座る。
 
逆に目覚めた心の持ち主であるのならば、例え汲み取り便所の中でもまた貧民窟のやうなところでもまさにおお彼の心は目覚めて居り其れはもはや決して闇に閉ざされてなどは居らぬ筈だ。
 
ではさうして目覚めましたか?
佛法詩人さん、アナタはすでに目覚めて居るのですか?
 
目覚める為に目覚めてかうして何ぞものを言って居るのです。
 
尚リンクのところにある動画は続編があり其れをまだ視ては居ないのですがあくまで個人的には宇宙飛行士が人類の火星への移住を可能と考えて居る部分に就き大きく違和感を抱きました。
要するに其れが近代科学による洗脳であり妄想でもある部分なのではないか。
 
あくまでさうして我は近代科学其れ自體が大きく認識を誤って居る實例として其の人類の火星への移住計画と云うものを捉えて来て居る。
人間は認識を正せば其れこそ便所の中でもまた貧民窟のやうなところでも晴れ晴れとした気分でもって生きて行けやうが人間が火星で生きて行くことは其れはSFの話でありまず絶対に無理なことだ。
 
まあそんなお粗末な認識をして居るからこそかうして世界はグズグズに壊れて来て居るのだらう。
此処でむしろお口直しに南師による『仏教入門』を是非読まれることを御勧めして置きます。
 
 
ブッダ 100の言葉│宝島社の公式WEBサイト 宝島チャンネル (tkj.jp)

 

こちらもまた我に取り師と仰ぐ佐々木 閑師による主に原始経典の訳の書であり且つ其れの解説書です。

我は此の弐月に此の本を購入し壱日だけ此の書と格闘致しました。

 

何故かと申しますと詩の如くに短く述べられた原始経典の言葉を訳したものですのですぐに読めて仕舞うからなのです。

ですが、こと其の言葉の密度や緊張度に至っては南師による『仏教入門』以上のものがありました。

 

尤も其れは釈尊御自身のものとされる其れ等の言葉の内容が至極厳しいものであるからなのだ。

わたくしは五年程前まで好んで原始経典の解説書を読んで居たものでしたが其の折に感じた釈迦御自身の説法の厳しさがまさにヒシヒシと思い出されたものだった。

 

 

つまりは此の本こそが至極眞面目なものなのだ。

従って此の本はこちら側ー読者の側ーもまた至極眞面目に向き合い、其れこそネット環境だの社會のことだのと絶縁した上で其れこそ壱心不乱に読み進めねばならぬことだらう「本気」での書です。

 

尚個人的にはまたいずれ此の本をテキストとした上で是非感想を述べて行きたいところですが其れが何時になることやらまだ見通しが立っては居ない。

但し其れも原始経典には強い口調でもって我我凡夫の認識が批判的に述べられた部分がありさうした部分は何せガマンがきかぬ現代人にはチト荷が重いのやもしれぬのだが。

 

いずれにせよ佛法、其れも大乗佛法ともなれば宗派の教義により別物と言える程の大きな違いが生じて来て居ることもまた確かなことです。

故にか自らを佛教徒として居る人人であれ眞理方面として捉え考えて居ることがまるで別方向であったりもまたする訳だ。

 

要するに主張がマチマチであり其れが純粋な佛法、即ち釈尊御自身による説法の内容とはかけ離れて居たりもする訳だ。

そんなバラバラ佛法に対し此の書は「原点に戻れ!」とさう訴えかけて居るかのやうだ。

 

 

佐々木氏は京大でもって自然科学を學んだ後に佛教學の方を學び直されたと云うまさに異色の佛法研究者です。佐々木閑 - Wikipedia

また御自身が眞宗の僧侶でもまたある訳だ。

 

にも関わらず御自身では「釈迦による佛法」を信じて居る旨を屡語られて居られる。

其れが非常に理性的な佛法解釈であるやうにわたくしには感ぜられる。

 

我自身が佛法で何を信じて居るかと申せば其れはズバリ釈迦御自身による教説のことであり其れ以降の佛法はまさに刺身のツマのやうなものであるに過ぎぬ訳だ。

いずれにせよまさに此の弐冊の本こそが今年になりわたくしが格闘したところでの究極としての佛教書でした。

 

 

「自分を救えるのは、自分自身である。」ブッダ 100の言葉│宝島社の公式WEBサイト 宝島チャンネル (tkj.jp)より

 

お釈迦様は大乗各派の教義でのやうに「~佛に救って貰いなさい」などとは壱言も述べられては居らず、最終的には自分自身でもって自分を救え、即ち自分自身でもって己の認識のあり方を正し自らを救え、とさう述べて居られたのです。

なのですけれども原始経典の御話をもし致しますれば余計に皆が逃げて行くこともまた必定かと思い實はなるべく内容的に触れぬやうにして来たのでしたがいっそのこと此の際やっちゃうか。

 

此の際、

やっちゃえ、原始佛教。

ですか?

 

「自分を救えるのは、自分自身である。」

此のところ我が述べ続けて来たこととはまさに此のことだけなのだった。