目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

かうして「祈り」つつ石の美に興じた今日の日ー宗教とはヒエラルキー(価値の序列)をむしろ見ないもののことだー

かうして「祈り」つつ石の美に興じた今日の日ー宗教とはヒエラルキー(価値の序列)をむしろ見ないもののことだー

 

 

 

 

さて本日もまた完璧な陽の光の日であった。

其処でかうして今日は自室に閉じ籠り鉱物を陽に翳し遊んだ。

 

どだいかうして我はなるべく土日祝日だの連休の折には外出しない。

逆にみんなが外出しない月曜日だとかまた盆や正月の前か後などに好んで外出したりするのである。

 

要するにさうして空いてる時を狙い外に出るのだ。

其処からしても矢張りと言うべきかやってること其れ自體が世間とはまるで正反対だな。

 

尚其の石を陽の光に翳し最も美しいのが11時半位から12時半位までである。

また其の陽の光の射し具合で鉱物の色其れ自體もまた変わる。

 

尤も此の辺りは我が超感覚での判断だから感覚が凡な方方には何を言って居るのか分からない可能性もまたある。

兎に角我は其のやうに感覚が鋭敏だから多分元元普通とは違うのかもしれない。

 

 

でもって今日の貴蛋白石の輝き方はヤッパリ凄かった。

實は今ー15時前ーの時点でも光は凄いのだがもう兎に角暑いので石を観るのが難儀な程だ。

 

さてもう秋なのでバルコニーへ出ずとも部屋の中でもさうして日光浴することが可能である。

さうしてまさに其の日光浴こそが弱めの我が肉體を元気にする秘訣である。

 

かうして太陽エネルギーを吸収すると何故か體調が良くなる。

つまりはそんな植物のやうな人間なのだ。

 

さて本日の光はまた特別なやうで貴蛋白石標本の細かな部分までもが余すところなく其処に照らし出されて居る。

嗚呼だが翡翠の方を照らし出すことをスッカリ忘れて居た。

 

では今から其れをしてみやう。

うわあー、いやらしい。

 

さても何がいやらしいのか?

余りに見え過ぎちゃって其れがいやらしい。

 

うーん、かう何と言うか翡翠の翠の色が異常に輝いて居る。

 

まさにこんな日はもう滅多に無いことだらう。

だがもう暑いのでスッカリやる気が失せた。

 

 

さてそんな中昼からは此の番組をTVにて視た。

今オンデマンドの方でも此の番組の音声を聴きながら此れを書いて居る。

 

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ 2回シリーズ 徹底討論 問われる宗教と“カルト” 前編 “カルト”問題の根源をさぐる (nhk-ondemand.jp)

 

シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 前編 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 後編 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

 

 

[こころの時代] “カルト”ってなんだろう?徹底討論 宗教と“カルト” その1 | 最前線の研究者・宗教者が集結! | どーがレージ | NHKオンライン

こころの時代| どーがレージ | NHKオンライン

 

こちらでは此の番組の纏めの部分が視られます。

 

尚宗教に関しては我はすでに「やり終えた」人間なのでもまたある。

またであるからこそ「宗教詩人」を名乗っても来たのである。

 

其れはすでに宗教が「分かって仕舞って居る」のである。

其れもあくまで概念的な意味での次元では。

 

つまるところ我には宗教はむしろ血肉の部分なのだ。

わたくしはさうして人生の半分を「文學」と「哲學」及び「宗教」とに捧げて来た。

 

 

だから其の分野ではまさに學者に準ずるやうな學びを確かにして来たのである。

また残りの人生の半分は、

 

「石」と「ペン」と「食い物」に對し捧げて来たのである。

またつまりは其処に酒と👩とギャンブルが入って居ない。

 

特にギャンブルには至極弱くむしろ壱番縁が無い。

ところが宗教の分野はむしろ自分に取り常に近しいところなのだ。

 

そんな我に取り宗教を論ずることは大して難しいことでは無い。

其れは要するに物事の本質面を問うて行く事に限りわたくしは大得意であると云うことなのだらう。

 

其の代わりに何かでもって儲けるとか👪をつくり其れを維持するだとかさうした分野でのことが何か非常に遠い分野でのことに感ぜられてならぬ。

また其れは元元がさうで別に格好を付けて眞理領域に對し強いぞとさう威張って居るのでも何でも無い。

 

兎に角要するに現存在として其処に特化して仕舞って居る訳だ。

だから傍から見れば理解しにくいと申すかまず理解されぬ精神の指向を持った人間である。

 

其の癖見た目はむしろ普通なので多くの人はむしろ「コイツはバカだ」とさう思うのだ。

でもほんたうはアンタの参倍位は御勉強をして来たむしろアンタの教師にこそ相応しい人間なのだよ。

 

 

だから僕にはもう教育をする気がまるで起きないよ。

だからもうどーでもエエんだ。

 

そもさうして分からない奴等に何を言っても通じるものか。

まあさうは言わずに是非其の「教え」でもって我我を御導き下さい。

 

 

さうなの?

そんなに此の僕の考えが聴きたいの?

 

はい。

かうして皆がうち揃い御説法を是非御待ちして居ります。

 

うーん、じゃあ説法でもしてみやうか。

まずは「みんなはバカだ」。

 

エエッ?

イキナリ其れですか?

 

さうだ、「みんなはバカだ」。

いや其のバカは何となく分かりますが其の馬鹿なら馬鹿なりに其の馬鹿に分かるやうな言い方をして頂かないと只罵倒して居るだけの言葉に聞こえますのですが。

 

 

まさに仰る通りです。

でもって宗教はある意味では無力です。

 

エエッ?

またイキナリ其れですか?

 

だから其れは如何に宗教詩人さんの御話であれあんまり酷い言い方ではないでせうか?

 

まさに仰る通りです。

でも現象とは錯誤であり誤りだ。

 

だから其れでは現象の全否定でせう?

また何でまた宗教詩人さんがさうして宗教其のものを否定してかかるのだ?

 

 

いえほんものの宗教とはさうしてむしろ価値を脱構築して行くもののことである。

脱構築即ち脱信心のことだな。

 

だから其の辺にすぐ話が飛ぶから宗教詩人さんの御話は理解がしにくいのです。

あれ、さうだったかなあ。

 

チョット論理的に飛躍が過ぎたのかな。

 

またつまりはさうして宗教に必要なのは逆に非宗教的な見方である。

何でもさうだが、価値認識を固定化してかかると其処に価値ヒエラルキーが即生じ要するに偉いのと偉く無いのとにあらゆるものがさう絶対的に分断され価値化される。

むしろ其の価値等級其れ事體が現存在に於ける認識上の罠であり誤謬である。

 

 

でもそりゃああくまで哲學としての認識でせう?

いや其れはおそらく宗教的な意味での眞理なのでもまたある。

 

どだい釈迦もまたキリストも其の宗教的な意味での価値等級を望んで居た訳には非ず。

さらにガンディーやマザー・テレサも其れを望まずむしろ其れには背を向けた上で其の生を歩んだのだと言える。

 

どだい宗教的な救いは量的な価値になど還元出来ない。

故に幾らを御布施すれば救われるだとか、また何遍御経を唱えれば成佛出来るだとかさう云う話では元よりまるで無い。

 

また其れは所謂偉い僧侶や司教なら絶対に宗教的に救われると云う話なのでも無い訳だ。

 

 

其れに宗教と云うのはあくまで「祈り」である。

 

さう云うとキリスト教的に聞こえるのやもしれぬが實は何教に限らず其の「祈り」こそが壱番大事だ。

尤も其れが藝術の分野となると「叫び」に変わる。

 

だが其の「叫び」もまた本質的には「祈り」であらう。

 

尚御釈迦様が悟りを開かれた時にむしろ其処でもって壱番悩まれたことが凡夫に對し法を説くことの是非としての命題であった。

畢竟凡夫=「分かって無いバカ」なのだから結局其処で眞理を説いても分かんない。

 

また声聞、縁覚級の人間ー天才級、學者級の人間ーにせよなかなか其れの理解は難しい。-だが其れをまるで分からぬバカとはまた違うことだらうが-

 

でも御釈迦様はあえて此の世に其の法を説かれた。

其れは後にイエス様が述べられた人間が神化する眞理とは異なる人間を辞めんが為の眞理である。

 

人間が神化する眞理⇔人間を辞めんが為の眞理

 

どちらも其の目的とは利己的な欲望を滅し永遠の幸福へと至らんが為の教えである。ー佛教に於いて其れは「浄福」と呼ばれるー

但し御釈迦様の場合には「迷いとしての現象ー生存ー」其のものを滅し去るのであるからもはや其処にはどんな「愛」も無い。

 

對してイエス様の教えの方には「愛」があるから現存在に取りより分かり易い。

但しイエス様の教えは「神の愛」を説くものであり👪愛や組織愛、郷土愛や祖國愛に生きよとさう仰せられたのでは無い。

 

 

尚其の「神化」は現代科学が目指すところでのやうに科学技術として「神がかり」的な技術を駆使し現世での人間の生命を延ばさうとするとかさうしたものには非ず。

まさに其れは「神人間化」でありつまるところは世界其れ自體を其の神人間の力により改変、加工して行く事に他ならない。

 

さう云うのをカトリシズムなどはむしろ否定的に見詰めて居るのではないか。

また佛教にせよさうした人為的な操作であり加工の類をむしろ嫌っても居ることだらう。

 

現代科学と云うのは其の意味での新たなる「神の技術」の習得であり自然の人間化ー加工ーのことだ。

だから實はまさに其れこそが極めて危ない。

 

即ち神はまた佛はむしろ人間をして「限定」するが科学技術はむしろ人間をして「限定」から解放する。

 

即ち現代文明とは神の布かれたレールをあえて離れ人間自身による人間の為の価値観を何処までも追求して止まぬ時代に相応しい文明のことを言う。

對して佛はまさに其の時代を本質的にはある種突き放しつつ眺めて居る。

 

佛の認識とはあくまで本質的にはむしろ其のやうに、

 

1.現象に於けるあらゆる事象に惑わされず

2.あらゆる価値認識からも隔てられる

 

ことである。

従って価値ヒエラルキー其れ自體からもまた遠く隔たる訳だ。

 

またつまりは佛陀の幸福論とは其のやうに現存在に於ける認識其のものの完全なる転換のことでありまた其のことによる認識其のものの抹消のことである。

 

もしやソコが分からない?

分からんで当然。

 

分かったらむしろボクみたいな半分変な人とならざるを得ない。

 

なので佛教に於いては實は終末論が無い。

但し日蓮宗や浄土宗などのある種キリスト教化された大乗佛法では所謂「末法思想」なる終末観が提示されることもまたある。

 

 

でもって宗教詩人さん、結局のところは壱體何を仰りたいので?

 

結局のところは「みんなはバカだ」。

もうソレは止めて!

 

壱つには此の番組の中で非常に共感出来たのが若松 英輔氏若松英輔 - Wikipediaの発言内容だった。

カトリックを深く信仰されて居る方だが考えの方が至って明晰でしかも常に全方向的に宗教的な見解を述べて居られる。

 

以前著書ーNHK出版の方での本ーの方も読みまたかの遠藤 周作氏の信仰のあり方に就き其の御意見を参考とさせて頂いて来てもまた居る。

 

[こころの時代] 加瀬亮の朗読 若松英輔・山根道公の対話で読み解く『深い河』の世界 | 遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる | どーがレージ | NHKオンライン

 

 

 

尚僕に取っては観念的営為と感覚的営為はほぼ等価である。

 

つまりは、

 

観念的営為⇔感覚的営為

 

であることはまた確かなのだが其の分離度を縮小化して来て居るので實はあんまり其れ其れを区別などして居ないのだ。

つまりはさうして「考えること」と「感じること」がほぼ同列の次元にて認識され確かに違うと言えば違うことながら時にゴッチャになって居たりもまたする訳だ。

 

要するにまさにアノ幼児期での思考の再現です。

しかも其れをむしろ「とりあえずは全部が分かった」上であえてやるのですがやらうと思って其れをやるのでは無く何だか知らんが自然とさうなりつつもあるのです。

 

尚其の若松氏の思考の方向性などもまたどちらかと言えばそちらでの方向性なのだと思われる。

 

 

さて此処からは是非其の貴蛋白石の画像を観賞してみたい。

 

尚此の貴蛋白石原石は最近求めたものである。

以前からさうして此の貴蛋白石原石を我は集めて居るが今回得た石は特に素晴らしく品質の高い物だった。

 

 

貴蛋白石ー1

貴蛋白石ー2

貴蛋白石ー3

貴蛋白石ー4

貴蛋白石ー5

 

さて此の貴蛋白石原石が本日はまた恐るべき輝きを発して居りました。

此の石は壱応赤が強く出ますが角度により緑でも靑でも兎に角バリバリに出るまさに良品です。

 

で實物は此の画像よりももっとずっと美しい。

石自體がクリアーな品質でありさらに游光が強く出ますのでつまりは其れがサイコーに美しい石である。

 

 

其の美しさもまた幻の如きものながら其れはウソの類のものには非ず。

尚佛陀の認識に限れば其の幻の如き感覚上の美的感興に浸ることはまさに謗法となります。

 

でも其れを言うたら👪愛や組織愛に生きることなども全てが其の謗法です。

ですので謗法しないで現存在が生きて行くことなどはむしろ不可能なのだ。

 

だからよりデカい謗法をすること無くつまりは生ものの範囲では其れをせずにかうしてあえて生もの以外に接しつつ限定しつつ生きて行きませうと云うのがわたくし流の法の解釈でありまた同時に哲學的な立場なのだ。

 

 

其れでもって此の際大掃除を是非やりたいので壱週間位は此処を御休みする積もりです。

其の間は是非過去の記事から學ばれてみて下さい。

 

但し文を直して居ない記事は読まないやうに。

さても其の区別はドコで判断するの?

 

まあ今年に入ってからの記事の方が宜しいのではないでせうか?

其れでは、また。