目覚めよ!

文明批判と心の探求と

『迷いは悟りの第一歩』を読んでー壱 かってのネルケ師の精神的苦闘の様ー

65.『迷いは悟りの第一歩』を読んでー壱 かってのネルケ師の精神的苦闘の様ー

 

 

 

 

ところで其の君の書き方、其の結局はみんなの夢と希望をボロボロに打ち砕く破滅的な、おお其の壱種破壊的な物語構成、兎に角其れが何とかならぬものだらうか?

 

ですが選考委員の先生方、まさに其の無頼派でもって且つ破滅型の部分こそが嗚呼まさにオンリーワンでの我が文學のスタイルなのです。

また少少キモイところなどもまたわざとさうやって書いて居るものだ。

 

さうして下ネタにオヤジギャグなども全ては計算尽くにてさう書かれたものである。

さうか、では君に是非賞を与えることとしてみやう。

 

 

エエッ、ついに文學賞を頂けるのですか?

こんな我にそんな文學賞を与えて下さるので?

 

さうだ、コレが其の賞の名である、其の名も「ウンコたれ賞」だ。

 

うわあー、嬉しい。

もう此れ以上も無い栄誉です。

 

ああー、良かったー、もう僕は此れで本物の作家先生となれたんだ。

 

 

おいウンコたれ作家。

へい、何で御座りませうや?

 

お前は日日ほんたうに眞面目に人生と向き合って居るのか?

うーん、最近半分位は眞面目です。

 

後の半分はほぼ非眞面目となりました。

さうか、其れは偉い!

 

 

では今何を考えて居るかと云うことに就き書いてみなさい。

うーん、また其れは難しい課題ですな。

 

第壱今日はまだ何も考えて居ません。

但し今日書くことだけはすでに決まって居ます。

 

では壱體何を?

其れはまたネルケ師の本の内容のことだ。

 

 

 

さうか、其処でもってネルケ師の精神的苦闘の様に心打たれたのだな?

さうでもあるが其れが兎に角面白い本なのです。

 

何故面白いのかと言えばまさにキリスト教と佛教が相剋し且つ相即する様こそが最高に面白い。

其れが流石は元キリスト教徒としてのネルケ師の御話だと云うことです。

 

でもって、独逸人のネルケ師はキリスト教に対しかって大きく疑問を持たれたのだとさう仰る。

其の頭が良くつまりは理性の力が強くおありになるネルケ師はさうしてあくまで己の理性の力でもってキリスト教と対峙され次第に其れに対し大きく疑問を抱かれて行った。

 

 

逆にわたくしなどは大乗佛教に対し大きく疑問を抱いて居た訳です。

其の先祖供養だの偶像崇拝だのまた儀式、儀礼としての葬式だのあえて謗法だと言えるやうなことに対しむしろ熱心な大乗佛教は純粋な佛法とはまるで異なるものだとの疑念が長年に亘り渦巻いても居た。

 

また法華経信仰に関しても其れがほぼ後代による捏造に近いものであることを知り正直其処で?????とならざるを得なかった。

 

 

そんな訳でさうした疑念だらけでは「信仰」もクソももはや無い訳だ。

よって其の「信仰」の部分はあえて抜きにして其れこそ理性的に佛法に対し考えて行かざるを得なくなった。

 

大體其れが四拾歳位の頃のことでした。

其れから拾年ばかりは主に原始佛教の経典の注釈書ばかりを読んで居ました。

 

さて其の原始佛教の経典から學んだことは其れこそ大きなことばかりだった。

其の佛教に於ける根本的な方向性の違いと云うことが其れこそ其処にて明瞭に分かって来たのだった。

 

但し原始佛教の経典の内容即ち釈尊御自身による教えの内容とは我我が普段常識的に判断する佛教の内容とはむしろかけ離れたものです。

況や現在では僧侶ですら其の原始佛教の経典を學んだことの無い人人が少なからず居られる訳です。

 

 

そんな状況の中で原始佛教の経典の注釈書と格闘する日日はまさに精神的な意味での荊の道其のものであり甘いものではまるで御座らなんだ訳です。

なのですがかう云う人間ですので其の眞理探究の方面をおざなりには決して出来ぬのです。

 

 

ですが、我はまさに今其れがやれたことを誇りにさえ思って居ます。

さうして我は元元佛法に関してはとりあえずは強かった。

 

其のずっと前のつまりは参拾歳頃のことだが数拾人の人の前で佛法に関する講釈をしたことさえもがありました。

ですが其れと眞理探究はまた別の話なのだ。

 

よって其の眞理が分かったやうな事をネット上にて述べる人や組織はむしろ其の眞理探究からは外れて居る可能性すらもがまた大きくある。

 

左様に佛法は元元難解でもって且つ微妙な教えです。

ではあれ其の眞理の近くに居る人間もまた常に居られるのだと思う。

 

 

さう言うのはむしろ大抵は精神の上でのカルト人間なのですが、何故か其の精神の上でのカルト人間に限り其れが分かるのです。

其れはまさに鉄道マニアなどがカルトな知識を苦も無くひねり出して来るのと同じで其の精神の上でのカルト人間に取っては其れがむしろ当たり前のことでありむしろ樂に出して行ける精神の領域のことなのだらう。

 

なのでさうして特定の分野では何処までも強いスペシャリスト的な人間が此の世の中には意外と多く居るものです。

だからさう云う人は多少言う事がオカシイですが實は其処にてテロをやって居る訳でも無くまた罪を犯しつつあるのでも無くさうして常に「眞理」をこそ見詰めて居るに過ぎない訳だ。

 

 

 

さてネルケ師の話の方に戻りますが、其の今読んで居る本とは『迷いは悟りの第一歩』と云うものです。

ネルケ無方 『迷いは悟りの第一歩―日本人のための宗教論―』 | 新潮社(shinchosha.co.jp)

ちなみに此の本の新品が出て居らずアマゾンにて中古美本を探して買いました。

 

尚中古本に就いてですが我はかって古書店巡りが趣味の壱つでしたので新品で無くとも左程気にはならぬ方なのです。

ですが元來潔癖な性質ですのでまずは其の中古本を拭きまくります。

 

また時には本を丸洗いすることさえもがまたある。

当然に本はヘタレますが至極綺麗にはなります。

 

壱番気になるのは所謂アンダーラインが本のところどころに引かれた本です。

また其のアンダーラインが赤のインクにて引かれて居たりしますとつい「ドッカーン」となりさうにもなるがソコをガマンして兎に角本を読み進めます。

 

 

さうなんです、實は今回の中古本がさうなって居りました。

ですが本の内容が面白いー興味深いーものであるかと云うことこそがまずは最大の関心事であり其れが面白いとされた場合にはまたさうした細かなことも次第に忘れて仕舞うものです。

 

其の『迷いは悟りの第一歩』の内容こそがそんな實に興味深いものでした。

其れは独逸人でありしかもクリスチャンだったネルケ師が何故神を捨て遠く離れた日本にて佛道修行を歩むことになったのかと云う告白の書です。

 

 

其れも元元反體制なので反抗して生きたとかさうした類での話では無く独逸人の壱知性として悩みに悩んだ挙句での其の結果としての精神的選択の軌跡の部分をこそ述べられたものです。

即ち其処ではキリスト教と佛教が徹底的に比較されて居る訳だ。

 

勿論此処日本では佛教に関する教義なり其れに関する意見なりをネット上にて検索し幅広く触れることが常に可能です。

 

なのですが、正直さうした御意見の類には大きくバイアスがかかって居ることが多くつまるところほとんどのものは「大乗佛教の壱宗派に対する信仰を守らん」が為の教義への理解でありまた主張であることなどが多い。

ですがわたくしに限ればもう長く佛法と関わって来て其の長い間に其れなりに御勉強の方も進めて来た訳ですので通り壱遍のものではもはや満足し得ぬ訳だ。

 

 

まずはそんな壱読者としての個人的な心理的背景があることを是非御理解頂きたい。

ところがそんなカルトな宗教詩人の心にもしかと響くのが其のネルケ師が書かれた『迷いは悟りの第一歩』の内容だったのです。

 

其れでもって其の内容として圧巻なのが「身体と誘惑」と題された部分にて若かりし頃のネルケ師が当時のクリスチャンの彼女であったヴィキアさんと繰り広げられた宗教的な問答の数数の部分です。

まさに其の部分が克明に且つ具體的に語られて居る。

 

要するに其処でもって若かりし頃のネルケ師はキリスト教に対し抱いて居る疑問の数数をストレートに彼女に対しぶつけた訳だ。

でもって「神が人間を愛して居ると云うのにそも何故世の中はいつも酷いことになって居るのか」、と云うやうなことをまずは其処に問う。ーわたくしの纏めー

 

つまりそんな愛では神にとって都合が良過ぎるつまりは人間に罪を全部押しつけ「俺は救世主だ」とさう言われても人間はまるで困るとの論理である。ーわたくしの纏めー

対して彼女の方は其れはあくまで様様な誘惑に負ける人間自身の責任であり救いはヤッパリそんな人間を超えたところにしか無いのだとさう述べる。ーわたくしの纏めー

 

 

尤も其の超越的な意味での救済の部分に関してはしかと反論は出来なかったさうです。

例えば佛教にもまた菩薩と云う他人を救う人が居るとは述べられたのだが、其れでも基本的には自分でもって自分を救う佛陀の考えなどは所詮自己満足でしか無いと彼女は言い張る。ーわたくしの纏めー

 

要するにクリスチャンの彼女には佛教に救いや愛があるとはまるで思えない訳だ。

さて此処の部分の論議が實は僧侶レヴェル、聖職者レヴェルでのものなのでもまたあることだらう。

 

 

其処での問題はまさに「自力救済」は可能か?と云う部分にこそ集約されて参ります。

現在わたくしは其れは原理的ー観念としてのーには可能だが現實的には不可能である、などと云うまたややこしい考えに至って来て居ます。

 

結局釈尊が説かれた教えを其れこそ忠實に守りどんなに禅定を組むなどして修行したにせよ其れは並の人間ー馬鹿凡人間ーでは観念的にあくまで無理であると云う結論です。

さうです、おそらく其れはむしろ観念的に無理なんです。

 

ですが佛を信じて居さえすれば樂に生き且つ樂に死ねるのやもしれません。

其の現實上の救済はむしろ大乗佛法にて可能となることだらう。

 

 

なのだが観念はむしろ生得的に規定されて居る部分こそが大きく作用する。

お釈迦様の如き理性の権化としての観念的天才はまず人類には出ず要するに大乗佛法では様様な佛様が登場したりもまた致しますが其れはお釈迦様の如き理性其のものとはまるで異なるものです。

 

壱言で申せば大乗佛法はさうして他力本願化、即ち神の如き佛により外側から是非救済されて行かねばむしろならなかった。

何故かと申せば其の自力救済こそが其れこそ現存在に取り本質的に成らないからなのです。

 

但し其処でもってより偏屈であり純粋に自力救済の方を向いて居るのが禅宗としての流れであるともまた言い得ることでせう。

 

では我が其の大乗的救済、即ち半分位は神としての超越的理念を取り入れた佛法の方をあえて否定せぬのは何故なのでせう?

其れを壱言で申せば此の世其れ自體が必要悪であることから生じて来る観念的選択でのことです。

 

さうです、此の世其れ自體がさうして必要悪なのだ。

またつまりは其れが母ちゃんの股の間より出て来る此の世とは其の須らくが必要悪なのだと云うことだ。

 

 

 

宗教詩人さん、また何だか話が怖いです。

怖からうが何だらうが宗教詩人がかうして眞面目に話して居ることなのだからまさかウソでは無いぞ。

 

では我我現存在は半分位は👿なのですか?

あくまで事實上はさうだらう。

 

だから其の👿であることを止めねばならぬのだが、其れこそ事實上は👿が何処までも蔓延るので其れは観念的には消去することが出来ぬ訳だ。

またつまりは其処が観念の限界であり嗚呼まさにかの超天才のウィトゲンシュタインの言語に関する哲學としての帰結であらう。

 

さても其のフランケンシュタインと云うのは何ですか?

あくまで其れはフランケンシュタインでは無く「ウィトゲンシュタイン」です。

 

もしも自分が利口に生まれて居るかもしれないとさう感じたならば「ウィトゲンシュタイン」位は是非読んで置きませう。

 

 

宗教詩人さん、おお今まさにアナタの非常識思考が此の世の夢と希望とを奪い去りつつある。

さうでしたか、其れは其れはどうも御免なさいまし。

 

何せかうして👿と常につるんで居るやうな人間ですので申し訳御座らぬがアナタ方の思考法の中にはもはや僕は居ない。

エッ?

ではアナタは今何処においでなので?

 

其れはね、地球を遥かに遠く離れしM78星雲の眞只中です。

 

 

さて宗教詩人さん、人間とは、また眞理とは何ですか?

人間とは、また眞理とは、結局は愛、でせう。

 

愛???????

 

また何故其処に「愛」が出て来る?

 

愛とはそも思い切りに屈折するつまりは矛盾するものだ。

 

 

丁度若かりし頃のネルケ師が述べられたやうにキリスト教が説く愛には常に愛と憎しみとが同時進行するやうなものだ。

其の愛とはそも矛盾だとさう云う御話なので?

 

あくまで次元の低い愛に関してはさうだらう。

だが其の「神の愛」にせよ愛である限り其れは自己矛盾に陥る。

 

其れはもしや言語的矛盾が其処に生ずると云うことなのか?

おおっと、また少し小難しいことを今述べたな。

 

 

もしや君は勉強だけはして来たのですか?

いえ勉強などして居ません、只アナタの眞似をしてみただけのことだ…。

 

さうか君は🐒眞似君だな!

🐒眞似君、いいかい、「愛は地球を救えずされど人間だけは救う」なのである。

 

つまりは其れが現存在に取っての本質的救済は出来ぬが現實的にはむしろ其れが今を駆動させんが為の駆動力となるであらう救済となる。

…とのことである。

 

 

 

若かりし頃のネルケ師はさらにヴィキアさんに対し、座禅の凄いところは身體を意識するところだとさう述べる。ーわたくしの纏めー

其れに対しヴィキアさんは、例えばイエス様は肉體は誘惑に弱いとさう仰ったと其れに対し反論する。ーわたくしの纏めー

 

其れでもってアナタはワタシの體に対し最近興味があるやうですがワタシの精神では無く體に興味があるだけなの?ーわたくしの纏めー

と逆になじられて仕舞う。

 

でもってアナタは座禅をやり始めてから変わり何だか偉そさうになった、もしやワタシのことをバカだと思って居ないの?ーわたくしの纏めー

などとも言われて仕舞う。

 

 

いや、違う。そんな理窟では無い。是非座禅を壱緒にしやう。ーわたくしの纏めー

そんなに座禅が大事なら寮の部屋でもって何時までもやってなさい、そもワタシと其の座禅のドッチが大事なの?ーわたくしの纏めー

 

ドチラも頗る大事ですー。ーわたくしの纏めー

 

 

其れでもってして結局ネルケ師は其のクリスチャンのヴィキアさんにフラれたのでした。

でもってして彼女との交流は途絶え師にとっての「初恋」はかうして終わりを遂げたのだった。

 

 

さて、かうして人生にはまた色色とあるもので大抵はかうして「価値観の違い」により人間関係は壊れるものと相場は決まって居ります。

ですがネルケ師は其れでもしぶとく佛道修行に勤しみ挙句の果てにはこんな極東の日本くんだりまで来て其処にて禅宗の僧侶になられたのですから其の根性はまさしく独逸魂の発露其のものでもあったことでせう。

 

さうして其の「初恋」に破れし御話からはわたくし自身にとっての大きな教訓を得ることにも繋がったやうだ。

即ち何処かに「愛」を繋ぎ止めて行くこともまた大事である。

 

壱種哀しい御話を今日はどうも有難う。

 

 

でも其の「愛は地球を救えない」と云う部分は何やら大きく問題があるやうに思われます。

ですから、こんな地球はやがて壊れます。

 

其れも壱億年後では無く百年後にはもう壊れて居ます。

其れを救うのはもしや禅宗なのですか?

 

むしろさうだと良いのですが、今のところ禅宗でも救えぬ何かが此の地球には有り其れはおそらく悪の力です。

 

 

まさに其れが其の👿による呪縛のことなのですね?

でも其れって佛法では無くキリスト教の方での御話ですね?

 

さうです、其れもまんまキリスト教での御話です。

では早う助けて下さい。

罪深い現存在の欲望による破壊から此の地球を是非御救い下され!

 

其れもなんとしてでも…。

 

 

ではコレより早速瞑想を致しませう。

もしや其れはキリスト教での祈りのことですか?

いいや、違う、こんな座禅のことだよ。

 

そんなに座禅が大事なら寮の部屋でもって何時までもやってなさい、そもワタシと其の座禅のドッチが大事なの?ーわたくしの纏めー

こんな座禅の方がずっとずっと大事だよ、そも其の眞理への道とお前みたいな生臭物とを壱緒にするな此の♀🐖めが!

 

ああー、ダメだ。

矢張り絶望的だ、コレではもはや👩には悉く嫌われやう。

 

 

其れで良いのだ。

佛法の要諦とはな、まずは其の愛欲の否定である。

またイエス様にせよ邪なる愛欲は汚れて居るとさう判断なされた筈である。

 

でもまともな愛欲までをもさうして否定なさるのですか?

うーむ、其れはまた實に難しい話ながらどちらかと言えば否定的に見詰めて置く方が眞理への方向性としてはむしろ正されやう。

だが其れでは現存在は滅び去る他無くなるので其処に限定的に愛を復活させやうとさうして来てみて居るところなのだ。

 

ですが次元の低い愛が罪深いと云うことはまずは間違い無いところだ。

どちらかと申せば其の男女間の愛欲の次元ーエロースーよりも同士愛ーフィリアーや郷土愛、祖國への愛ーストルゲーーと云った社會的次元に於ける愛の方が罪が少ないやうにも最近思われて来た。

 

すると👪愛などよりもより大事なのが其の社會的な防衛に於ける愛なのですね?

要するによりケモノ的な愛こそが自己保存欲に刺し貫かれし欲望であることは明らかだ。

 

 

なので其の自己保存性に関してはあくまで純粋な意味での佛法の観点からすれば認められぬものなのだ。

なのですが、むしろ世間では其の自己保存欲こそがむしろ壱義的に大事なものなのだらう。

 

またキリスト教とて其れを禁ずる訳では無く但し邪なる愛欲に関してはむしろ佛法以上に潔癖なのがイエス様の御考えである。

 

 

ですが不思議な話ですねえ。

何が?

 

いえ、さうしてネルケ師はキリスト教に対し大疑問を持たれ挙句の果てには其れを捨て去り日本で僧侶となられた訳です。

ですが宗教詩人さん、貴方の場合は逆に大乗佛教のあり方に対し大疑問を持たれ挙句の果てにはかうしてキリスト教の話ばかりになって来ても居ります。

 

あれさうでしたかねえ?

まあ何でも良いではありませんか、其れも地球が救われるのであれば…。

 

だって地球はもはや救われませんとさう確か仰って居た筈ですよ。

あれさうでしたかねえ?

でも僕は結局のところ近くM78星雲に戻って行く身なので此の先に地球なんぞどうならうが知ったことでは無いですね。

 

 

【M78星雲】ウルトラの星"光の国"は実在する!宇宙スゲえ!【動画】 - 雑学カンパニー (zatsugaku-company.com)

 

うわあー、其のM78星雲はかうしてほんたうに現象するものなのですね?

さうです、常に其処に實在して居ります。

 

ですから其れはコリン☆とは違いさうして實際にオリオン座の中にある星雲のことです。

ちなみに其の光って居る☆は所謂恒星ですので其処には住めません。

ですが其の恒星系の中の壱惑星にさうしてウルトラ壱族としての故郷があるのです。

 

なる程、ところで宇宙詩人さん、宇宙の御話はまた夏場などにはやられる予定なのですか?

いえ宇宙のことなどはどーでも良いことです。

どだいそんなものはダークマターだのはたまたダークエネルギーだの何やら訳の分からぬものばかりにむしろ満ちて居り人間が好んで其処に浪漫を抱くやうなものには非ずです。

 

 

結局現存在はむしろ心の面から崩れて行くことだらう。

要するに全ては其の認識のあり方の誤謬の問題でありむしろ宗教的な課題であると今さう申しても置けることだらう。

 

 

さて其の『迷いは悟りの第一歩』と云う本はまだ参分の壱程を読み進めたばかりでのことです。

よって今後どのやうな論旨が其処に表れて来るものやら今はまるで分かりません。

ネルケ師はさうしてあえてキリスト教を棄教なされた訳ですので佛教其れも日本の大乗佛教のあり方をむしろ大きく評価されて居り其処はむしろわたくしの解釈とはほぼ百八拾度違う訳だ。

 

ですので或は今後の内容によっては反論する場合が出て来るものと思われますが兎に角キリスト教と佛教を共に見据える本と致しましては其れは何処までも愉しみな内容を持つ貴重な本だと言えることだらう。