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宗教的な意味での精神の自立性とは?ー資本家(國家)による全體主義から我等の精神の自立性を回復させる法ー

宗教的な意味での精神の自立性とは?ー資本家(國家)による全體主義から我等の精神の自立性を回復させる法ー

 

 

 

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其の家康公が優れて居た部分とはズバリ「考える力=人文理性の力」だったことでせう。

家康公は其の力を人質生活の中での読書により築き上げました。

 

だから其の力はむしろ誰にも奪えぬ家康公自身の力だった。

また「不遇」も何も無く逆に「不遇」故に其の力が涵養されたのでした。

 

其の「考える力」は江戸幕府を通じて壱貫して居たのだとも言える。

即ち江戸時代とは其の人文的な理性の力にて成り立たせたところでの人類の歴史上稀有なる安定した時代だった。

 

 

逆に明治以降の近代日本は富国強兵と殖産興業とに勤しむまさに野蛮なる先進國の壱員となって行った。

ですが其の江戸時代はさうして他國を侵略することなど無く「限定的統治」を實現して居た訳だ。

 

まさに其れ程理性的で且つ平和主義を實現した文明は他に類を見ないのであります。

また其の統治の理念的原則とはあくまで「限定」である。

 

だが其の「限定」こそが現代文明とはまさに眞逆での価値のことだ。

現代文明は左様に限度を知らぬ「非限定的統治」を政治にまた行政に對し強いる文明のあり方です。

 

其のやうな「生物種としての現存在ーニュータイプとしての🐵共ーが分を弁えぬ社會」を推進させればさせる程にむしろ社會は壊れて來ます。

 

 

其れもどうのかうのでは無く、「理性的」な統治で無ければ「近代文明」は維持出来ない。

其れは近代を啓蒙したかのカントやルソーなどがむしろ口を酸っぱくしつつ述べて居たことです。

 

なのに其の近代の行く着く先がこんなコピーやロボットだらけの世の中なのか。

其のコピーやロボットだらけの世の中からはやがて「考える力」其のものが抜け落ちて行く。

 

其れも最終的に現代人は所謂スマホ浸けとなりつまりは其処にて程良い馬鹿の漬け物其れ自體となりEQレヴェルが著しく下がることになってます。

其のEQレヴェルが限り無く零に近くなりもうパッパラパーの家畜の群れよりバカになりつまりは限り無く本能化して行く。

 

 

理性の本質的意義とはまさに其の「限定」にこそある。

また例えば宗教にせよ藝術にせよ其の本質的意義とは「限定」にこそある。

 

でも藝術は「爆発」なんでせう?

其の「爆発」と「限定」はそも違うではないか。

 

藝術の「爆発」はあくまで内部での「爆発」であり外部を「爆発」させるものではよもやあり得ない。

むしろ藝術は心静かに其の美の対象を見詰める=「限定」する行為である。

 

宗教はさらに其の内部をも限定してやまぬ。

 

 

永平寺に学ぶ食の作法 - YouTube

禅寺の精進料理 - YouTube

 

例えば宗教で面白いのが此の「食」に於ける「限定」だらう。

左様に禅宗などは兎に角きちんと綺麗に物を食います。

 

まさに其れが「理性的」な物の食い方である。

逆に動物は其れを食い散らかし其の「綺麗さ」にはまるで拘って居ない。

 

尤も其の「綺麗さ」は壱種の「観念的潔癖性」のやうなもので其れが本質的に自然の営為に對し効力を有するものでは無い。

要するに其処まで綺麗につまりはまるで椀を舐めるが如くに綺麗に食わんでも自然其れ自體はあくまで清浄其のものでありむしろ人間の心のあり方の方が汚れて居やう。

 

従って宗教とはあくまで「人間の汚れた心=認識」を根本より正さんが為のものとなる。

まさに其のことの為には其の壱見無駄に見える潔癖な具象性の部分が大事なこととなるのである。

 

 

即ち身の周りの汚れは「精神の汚れ」に即繋がるのであるから。

さて現代人に欠けて居るかのやうに見えるのがまさに其の「観念的な形式性」の部分である。

 

其の「観念的な形式性」は「美」を理解することにも繋がる壱種の「精神の上での拘り」のことだ。

さうして佛教の各宗派に於ける典座の方方は常にさうして「本質としての食」を日日用意して居られる訳だ。

 

だが我我現代の世俗の者が得られる食事とは謂わば「虚としての食」であるに過ぎぬことだらう。

だが此の體に對し飯は「眞」も「虚」も無く常に其れは「生きんが為の天よりの食」なのだ。

 

其の思いにてかって釈尊は布施としての食事をしたが或いは其れが痛んで居たのか其の飯に当たり其の死期を早めて仕舞ったともされて居る。

其の食事が生命に取り重大事であることはかうして禅宗に於ける食に於ける作法などを視るにつけ直ちに了解されることである。

 

また重要なことは其の禅宗が其の「食事」と同様に「掃除」も認識上の修行其のものとして捉えられて居る点である。

其の掃除が行き届いた禅宗の寺などをたまに訪れると嗚呼まさに心が洗われる感がする。

 

其れも汚ねえ我が家からソコへ出向くと余計に何やら淫売窟から佛の世界へ至ったやうな気さえもがまたするものだ。

 

さて今わたくしが述べて居ることとはまさに其の「理性とは本質的に潔癖性を有する」とのことである。

また其の「潔癖性」は宗教に限らず藝術の分野にても見出されることだ。

 

 

即ち藝術作品に基本的に「ダラケた」物などは無い。

「ダラケた」物は所謂「贋物」=「偽物」であり其れを藝術作品だとはまさか言えぬことだらう。

 

ところが此の現代なる社會構造はむしろ周りを「贋物」=「偽物」ダラケにして仕舞って來て居る。

つまりは全てが「コピー」の「ロボット」としての「偽物」なので「本物」の持つ「潔癖性」など其処に望むべくも無い。

 

まさに其のことを我は「認識上の誤謬」の問題であるとさう捉えるのである。

 

じゃあ全部がそんな寺になれば良いのか?

えっ?

 

じゃあ全部が寺や教會か若しくは「美術館」のやうにピカピカになれば良いの?

いやなれば其れに越したことは無いがこんな貧民窟で且つ淫売窟の世間からもはや我我は脱することが出来ない。

 

つまりは其処には「理性」が無く従って「限定」もまた無い。

第壱現代文明其れ自體に「理性」が無く従って「限定」もまた無い。

 

 

 

曹洞宗・安泰寺 ドイツ人住職 ネルケ無方 - YouTube

 

其の食に對する「潔癖性」がまた違う形で出て居るのがかうして自給自足にて僧侶が暮らす寺としての安泰寺でせう。

要するに海外からの佛道修行者を多く受け入れて居る自給自足の貧乏寺のことながら其の行いは常に示唆に富み魅力的に見える。

 

さて其の大変理性的な方だと思われる元安泰寺の御住職のネルケ氏のことを我は勝手に師と仰ぎまさに私淑させて頂いて來て居る。

 

 

さて佛法にも様様がありあくまで其の教えの内容としての本質部は千差万別なのだと今我は考えて居る。

また少なくとも大乗佛法以前の原初的な佛法としての要素には所謂「社會性」の部分が組み込まれて居ない。

 

其れは何でかと申せば「釈迦の佛法」は言わば「個」を救わんが為の教えであり故に「國家」だの「政治」だのとはほぼ関係の無い「解脱其のもの」に就いての考察であり哲學其のものであったのだった。

 

で御釈迦様御自身は自らが「解脱」せんが為に「國」もまた「👪」もお捨てになられた所謂人間味の無い方なので其れを感情論の面から解き明かそうとすると即齟齬を來たし其の試みは悉く徒労に終わることだらう。

 

要するにカントやショーペンハウアーよりももう壱段階理性的な考え方なのでまず凡人には理解出来ないものと見て置くのがむしろ正解となる。

理性と云うものはむしろさう云うものでありつまるところは宗教家にせよ藝術家にせよ考えて居ることが庶民ー凡人ーとはまるで異なるのである。

 

 

だからあくまで其の「眞の意味での理性=智慧の段階」から見る場合には人生は有るよりも無い方が良くまた其の社會もまた有るよりも無い方が良く👪などもまた有るよりも無い方が良い。

まずはソコんとこが凡夫には絶對に分からない点だらう。

 

 

仏教とは、ゲームを降りること | 人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方 | web春秋 はるとあき (shunjusha.co.jp)

 

まずはこちらにて「リアル」と「バーチャル」の話がなされて居ます。

其れが何でかと申せば佛法其れも原始佛法では「現象界」其のものを「虚妄分別」の賜物だとさう見做して居るからなのだ。

 

其の「虚妄分別」とはズバリ「虚偽としての認識に惑わされる=迷わされる」状態だと云うことです。

従って極論的に言えば我我現存在の認識其のものが其の「迷いとしての認識」=「虚偽としての認識」其のものの内側にしかない。

 

だからつまりは物の見方が全部間違って居ると云うことなんです。

さう兎に角全部が間違いなのだ。

 

だがこんなに綺麗な自然も間違いなので?

まあ厳密には間違いだ。

 

そんなもん所謂全否定じゃねえか!

まあ其れにも近い。

 

だから価値構築すれば自己矛盾せざるを得ぬそんな壱種魔的な世界こそが此の現世其のものなのだ。

なので此の世に価値構築したい其の気分其れ自體がすでに妄執であり虚偽としての産物なのだ。

 

アンタそんなもんもう滝から飛び降りた方が良くはないか?

だからかってのインテリさん方はまさにさうしたんでせう?

 

また文豪さんとか画家さんとかがさうしたんでせう?

なんだけれどもさう「全否定」してもまさか此の世は消えない訳だ。

 

何でかと申せばオギャアと生まれた其の「認識」其のものが変わらんので何時迄経っても此の世は変わらんのである。

でも変わらんとどうなるの?

 

まあ滅亡するしかない。

そんなバカな!!

 

 

要するに其れは「罪の自覚」の問題です。

ネルケ師はキリスト教が危ういとさう仰せですが自分はむしろ其の「罪」の自覚こそが最も大事なのだと思う。

 

つまりは「現象界」其のものが「バーチャル」な認識でのもので其れは相対認識ー大脳新皮質と旧皮質によるアンバランスな価値認識ーに於ける想像世界ー妄想世界ーでしか無いのです。

 

だが「学校」も「會社」も「外國」もかうしてちゃんとあるぞ。

まあ縁起の副作用としての「外界」として其れが虚妄分別されて居る訳だ。

 

じゃあ其れも自分が生み出した幻なのか?

より正確には「現存在の認識の形式性」により虚偽分別された「本來的」には不要な価値のことだらう。

 

だが最も問題なのが其の虚偽分別其れ自體が70億も80億もまた100億も積み重なると容易く地球は壊れると云う部分にこそある。

要するに我我現存在は認識上「リアル」な価値を見詰められぬやうにさう出来て居ます。=「👿」なのだと言ってもまた良い。

 

もしや其の「👿」を地球上から追い出す宗教こそが其の「原始佛教」なので?

まあ其れも文學的に壱種強過ぎる表現ながらまさにさうしたことです。

 

對してキリスト教の場合には其の👿共を回心させまさにあの世にて神の眷属として分別其のものを焼き直す訳だ。

 

 

「ゲームを降りる」

エッ?と思われる佛教徒の方も中には居ることでせう。

 

そんな方は「佛法は世の為人の為になるものだ」とさう思い込んで居られませんか?

確かに「世の為人の為になる」佛法を目指す大乗佛教の宗派などもまたあることでせう。

 

ですが其のやうに所謂「社會的」な佛法は元來釈尊が説かれた佛法とはまるで別物です。

本來的に佛法とは「人間と云う迷いの認識としての現象」其のものを抹消せんが為の教えですのであくまで其れでは逆方向の教えとならざるを得ない。

 

其の意味ではあくまで其の「ゲーム其のものを降りる」ことこそが佛法上の正しい選択となります。

「ゲーム其のものを降りる」のですから、其れこそ其の「ゲーム」から起因するところでのあらゆる虚偽としての力ー例えば地位や名誉や権力、さらに國力やあらゆる現世利益ーからもまた同時に離れて行かねばならない。

 

尚其のやうな認識に至って初めて「物への趣味」が発生するのだと個人的にはさう思って居る。

また其処では其れ以上「罪」を重ねぬ為に其のことをあえて利用するのである。

 

 

次にネルケ師は現存在の「嘘コキ」のことに就き書かれて居ます。

でもって学校の教師や父母はむしろ此の世の實相としての非本來的な世界の方に「洗脳」され切って居るのでむしろ「社會=體制中心」に価値観を組んで居ます。

 

ですが其の「體制」が正しいとはむしろ限らず其の體制をこそ粉砕せよ!とさう述べて居るのが其の学校の教師や父母とは正反對のことを述べるアナキストです。

其の「體制」は平和が長く続けば必然的に腐り壊れて來ますがあくまで其れを「正しい」とさう信じて居るとまさに其れが正しいのでアナキストの考えの方が✖なのです。

 

だから其の信じた侭に「體制」は沈没して行きます。

なのでさう云うのが最終的に「嘘コキ」だと云うことでせう。

 

對してアナキストは政治の上での眞實を述べるがあくまで其れは学校の教師や父母に取り「思想上のオウム教」の如きものでつまりは顧みるだに値せぬ単なる妄言の類でのものなのです。

ですが戦時中の共産主義者アナキストは皆さうして「戦争反対!!!」を叫びつつ獄中にて死んだのです。

 

 

つまり「社會的に正しい」と云う価値は往往にして「嘘」なんです。

第壱戦後大儲けした日本の🚗産業などはもうどんだけ地球を壊して來たか分からん位のものですがあくまで経済的には「偉い企業」ですのでそんな嘘コキの枠内では何処までもむしろ偉いんです。

 

また上場企業は皆資本主義の戦士であり偉いんです。

たとえ地球を壊さうがどうしやうが偉いんです。

 

なので其の社會の論理に我が身我が頭を浸しつつ長く歩んで居ると所謂「本質的価値」に對し鈍麻しちゃう=おバカ化しちゃう。

對して藝術や宗教の方ではそんな状況に對しまた疑問などが呈される訳ですが所詮かの岡本 太郎氏は壱人しか居ないのだしまた現代では麻原だの大川だのと云う異常な教祖しか出ない訳でして其処はもう出て來ない方が良い位でのものでせう、そんな偏執的な教祖等は。

 

じゃあ果たしてどうしたら良いんですか?

 

だからもうそんな社會から降りたんでせう?

はい、スッカリ降りさせて頂きました。

 

其れならもうどうかうすることも無いでせう。

言わば其の「降りた」との事實こそが此の人生の懊悩に對する回答であり洗脳を解いたと云うこと其のものなのだから。

 

 

一神教はなぜ争うのか? |BEST TiMES(ベストタイムズ) (kk-bestsellers.com)

仏教の冷たさ キリスト教の危うさ - Bing video

 

さて以前此の著作より大きく示唆を受けて居ります。

其の佛教とキリスト教の違いに就き考え込んで居りました折にまさに其れが非常に勉強になったと云うことです。

 

ネルケ師は兎に角キリスト教に関して厳しいと云うかそも可成に批判的な態度を貫かれて居る。

要するにキリスト教による教えでは自分は救われず其の代わりに佛陀の教えの方を選ばれた訳ですのでまず当然と言えば当然です。

 

ですがあくまで我が解釈によればあくまでキリスト教であれ救われる人は大勢居られることかと思う。

問題は其の佛教とキリスト教の違い以前での「宗教離れ」=「精神の合理化」の面にあり其れは壱言で言えば極めて危険な精神の状態を此の世に現出させる。

 

要するに「合理化」はして良い部分としてはならない部分がそもあると云うのに其の理を知らず現代社會が「精神の合理化」へと突き進むが故にかうして大問題が生じて仕舞う。

對して我が國の大乗佛教が抱える矛盾などもまた常に大きいものがある。

 

要するにキリスト教にせよまた大乗佛教にせよ存続の危機に面して仕舞って居ます。

ところが其れ以上にヤバいのが現代人に於ける「精神の非自立化」の問題でせう。

 

 

其のことの根本には「國家」による「圧迫」の部分が21世紀以降より強く「個」に對しのしかかって來て居ると云うまさに社會的な大問題があります。

要するに「全體主義」の度がより強く國民の生活其のものを締め付けて來て居るのです。

 

まさに其れは「現代文明」其れ自體が凋落若しくは崩壊の域に達して來て居る訳であり其の主犯は主に経済的な意味での合理性の追求でせう。

また別の表現で言えば資本主義社會に於ける「無制限な発展の追求と儲け主義」=「富裕層による飽くなき欲望の追求」其のものが國民の生存権までをも危機に陥れて居るのです。

 

ところが社會の支配層は其のより「金と力を持つ」人人ですので要するに其の「資本の論理」の自己矛盾構造により現代社會は崩壊して行かざるを得ない。

また其の意味からもさらに悪循環を繰り返し「精神の非自立化」が進んで参ります。

 

極端な話、其の宗教家が諭すところでの「聖なる御話」などに耳を傾けずとも「會社の上司だの資本家だの國家だの」の言うことを只ハイハイと聞いて居れば其の場だけは丸く収まります。

でもって其の「ハイハイ」でもって實は恐ろしい「洗脳」が行われる訳ですがイザさうして洗脳されし壱般大衆はたとえ苦境に陥らうとももはや誰にも文句は言えぬ訳です。

 

 

なのでそんな腐った社會構造はむしろ自分の側で「ブロック」し且つなるべく「捨て去る」ことこそが大事な点です。

また其の「捨て去る」ことはキリスト教の場合にも可能なことではないかと個人的にはさう感じて居る。

 

少なくとも其の「文明規模」での経済的「洗脳」に對し自分なりに考え捨て去るべきところは捨て去ると云う精神的な意味での自立性の有無こそが今や現代人には大きく問われて居るのではなからうか。

 

また其の「解脱」に関し宗教は大きく意義を持つものだと考えます。

其の種での極めて現實的な面にまですでに「全體主義」による恐ろしい「破壊」の様がさうして突き付けられて居るのです。

 

よって「現代」とは現存在の「精神」に取りまさかでの「最悪」の時代なのだとも申せませう。

ですが自由主義を標榜する國ではあくまで其の過ちに満ちた現代社會の基本原理を「捨て去る」自由の方もまたさうしてしかと保障されて居る筈です。