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本年度の哲學的概括ー概念的統括ー+日銀総裁 黑田 東彦批判

本年度の哲學的概括ー概念的統括ー+日銀総裁 黑田 東彦批判

 

 

 

 

さて其れでは「本年度の哲學的概括ー概念的統括ー」とのことで以下に其の内容を述べさせて頂くこととしてみたい。

 

 

「弐項對立の超克に就いて」ー現存在を規定する相對認識からの脱却に就いてー

 

まずは大前提として現存在と云う現象に於ける矛盾律に就き考えて置かねばなるまい。

 

1.歴史上幾多の哲學者が此の問題に就き思考を進めて来て居るがいまだ解決されては居ない命題である

2.現存在の築く文明に於ける矛盾はむしろ日増しに顕在化するに至って来て居る

3.其の社會的な課題は宗教など心の領域を扱う部分と結果的にリンクするものとなること

 

1.に就いて

かのヘーゲル弁証法から唯物史観への哲學上の流れは宗教に代わり「合理的」に現存在若しくは文明社會に兆す矛盾を如何に解決すべきかと云う挑戦であり其の答えである。

だが現存在の認識の根底には「相対概念分離」と云う弐項對立がそも居座って居る。

 

其の部分をあえて3.の観点より分かりやすく述べれば、

 

「原罪を背負う現存在=人類」

 

でありまた、

 

「煩悩を背負う現存在=人類」」

 

と云うこととなる。

 

では何故現存在=人類は左様に負債を背負う形で常に此の世に現象して居ざるを得ないのか?

何故なら其処には、

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

との関係性が常に現存在=人類の認識には大きく関与して居るからだ。

 

 

さて其の大脳新皮質にて現存在=人類が手にした能力とは相対的認識能力ー相対的分別概念の獲得ーのことである。

だが所詮其の動物のNEW TYPEとしての人類が獲得するのは所謂「絶對智」=「全能智」では無い。

 

何故なら現象としての現存在は精神的ー心理的ーに常に「負債」を抱えるが故に「絶對智」=「全能智」へはまさか辿り着けない。

故に彼等に出来ることには常に「限界」が付きまとい其れが完全なる営為とはならないのである。

 

其の現存在が謂わば生まれ持った「限度」に對し「解除」を行おうとしたのが先に述べたヘーゲル弁証法から唯物史観への哲學上の流れであった。

また其の「解除」は近代と云う時代としての必然でありまた其れは兎に角良いも悪いもまた善も惡も無くむしろ是非やらねばならなかった時代としての流れでもあった。

 

まさに其の「近代システム」の構築が無ければ現存在はまさか80億もの人口世界人口 - Wikipediaを維持出来るやうにはなり得なかった。

ーすでに80億人もの人間が居るのださうだが明らかにほぼ破滅的な数字であらう。我が小学6年生の頃は37億人しか居なかったのに。ー

即ち「近代的価値」は現存在自身に取りごく自然な流れだった。

 

だが現存在の外部に拡がる「自然」に取り其の「近代的価値」は破壊者の考え其のものであり且つまさに独善的な営為である。

要は其の對立の部分こそが「近代システム」の履行を鈍らせ且つ阻止し逆に文明に對し襲い掛かって來さえもする訳だ。

 

ところが其のことは「自然」が積極的に変容し文明に對し牙を向く形なのでは無くあくまで「文明其れ自體のバランスの崩れによる過剰な欲望の履行」から其れが引き起こされて居るに過ぎぬ訳だ。

 

 

でもって先に「原罪」と「煩悩」と云うまさに宗教的な価値の捉え方其れもマイナスの観点からの価値の捉え方のことを述べた。

だが近代と云う時代はむしろ其の「原罪」と「煩悩」と云う生まれついての現存在の負債をむしろ帳消しにする方向性にて進んで來た。

 

其の結果キリスト教や佛教などの「現世利益」を求めないタイプでの宗教が伸び悩んで居るか若しくは衰退しつつもある。ー特にカトリックや初期佛教系の佛教がー

キリスト教プロテスタントや佛教でも禅宗を除く大乗各宗派は「現世利益」型の宗教へとシフトして居るものと考えられるー

 

だが我が考える正教とはまさに其の「原罪」と「煩悩」と云う生まれついての現存在の負債を認める宗教であり宗派である。

また新興の教祖を崇拝する宗教はほぼ其のほとんどが邪教であらう。

 

但し個人的に其の宗教への信仰を否定するものではない。

 

まさしく其の「原罪」と「煩悩」との概念こそが現存在の生まれついての負債の部分を表現する言葉なのだと言える。

だが現代では教師すらもがまた「原罪」も「煩悩」も何も無いのである。

 

つまりは特に我が國の学校では戦後「宗教教育」が否定されて來た経緯がありよって宗教に興味を持ち自ら學ぶか又は大學にて其れを學ぶかしなければそも其の宗教への知識其れ自體が成立する機會を失って来て居る訳だ。

 

其の「原罪」と「煩悩」との概念はそも其処に現存在に對する「限度」を必然として課す。

ところが近代と云う時代が目指したこととはむしろ其の「限度」の縮小であり撤廃である。

 

 

だが相対的認識能力ー相対的分別概念ーにはそも絶對性が付与されては居らず要するに其れは認識が不完全であると云うこととならざるを得ぬ。

すると其の不完全なる認識にいざ「限度の撤廃」=「全能性、全知としての力」を与えて仕舞うとしたら果たしてどうなるのか?

 

其れは誰が見ても分かることながらまさに其処に「暴走」を引き起こす訳だ。

つまりは其れが「文明の暴走」のことである。

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

其の新皮質の発達とは抽象的思考力を持ち得る生命の段階のことである。

 

對して旧皮質の方では本能的で具象的な感覚の力に頼り主に活動が営まれれて行く。

即ち、

 

抽象的思考力⇔具象的感覚力

となる。

 

まさに其の抽象的思考力が特にーそれも圧倒的にー優れて居るのが現存在としての生まれついての資質である。

だけれども、あくまで其の抽象的思考力が全能的なものと化す訳ではない。

 

何故なら現存在はむしろ容易に🐅や🐊に食われる。

其のやうにイザ「自然」の土俵に立てば考える暇などは無く即食われる。

 

要するに其の場に暇などは無い。

其の「暇」が出来たのは多分🐵位からだらう。

 

其の🐒の野郎もまた現存在の前段階での可成に厄介な奴等で動物としてはなまじ頭が良いものだから兎に角ずる賢い。

 

此処からも、

抽象的思考力⇔具象的感覚力

 

の優劣は其の発現の「場」に於いて相対的に規定されたものであることが良く分かる。

ならば「近代」と云う価値ですらもが所詮は「場」に於いて相対的に規定されたものであることが了解されやう。

 

 

要するに以上で壱體何を述べて居たのかと言えば「現存在の認識の形式にはそも限界があり」其れは猛獣にすら勝てないやうなもので極めて不完全なものとならざるを得ずにも関わらずまた何で近代的価値は其れを「限定解除」=解放?したのかと云うそもそもでの疑問の部分である。

 

だが幾らさうして疑問に見えやうと其れ無くば確かに現行の人類の大繁栄などは無かった。

 

さて其の、

抽象的思考力⇔具象的感覚力

ー理性VS本能ー

 

との對決乃至は其の對決より生ずる矛盾に對し効力を有するのが所謂「直観的認識力」=「般若智」のことである。

個人的に「般若智」とは上記の弐項對立を「全體論」として見詰めたものなのではないかとさう考える。

 

ちなみに我は其の「般若智」的な直観力が強く働く人間である。

現に本日書いて居ることの内容は、

 

2022年の12月16日即ち本日の午前六時頃に突如目が覚め、其処で直観の部分が働いたので其れを便箋四枚に万年筆にてびっしりと書き留めたメモを元にしつつかうして書いて居るのである。

でもってさう云うのが何故か大得意なのでまさか普通だとは言えないのだが其れもあくまで気が狂ったりして居る訳では無いのである。

 

其の「直観」とはむしろ主観的な意味での所謂「デタッチメント」なのでもまたあり得やう。

即ち所謂「脱構築」的な意味でのマイナス領域への価値への近接をも含む概念的な価値ヒエラルキー消去としての作用のことである。

 

よってむしろ感覚的には「脱論理」の部分をも其れは包括する。

 

 

抽象的思考力⇔具象的感覚力

ー理性VS本能ー

 

其処では要するに其の弐項對立の極の双方を同時に見詰める感じである。

なので其処にはもはや抽象的思考力により「構築」された価値及び価値ヒエラルキーへの洗脳作用すらもが消え去って居る。

 

逆に具象的感覚力が抽象的思考力を抑え優勢になることすらある訳で要するに両者間の優劣がすでに定まらず其れこそ融通無碍にどちらをも行ったり來たり出来る訳だ。

だが「直観」其れ自體に認識の「全能性」が付与されることは無いとわたくしは考えて来て居る。

 

「直観」とはあくまで現象に於ける認識上の統括であり其れが即神乃至は佛の認識と等しくなるものでは無いが但し其れは神乃至は佛の認識と連なるものであることはほぼ間違い無いことである。

 

其の「脱構築」的な意味でのマイナス領域への価値への近接はかねてより古いタイプでの亜細亜の思想に見出されて來しものだ。

所謂「ZEN」にせよ「老荘思想」にせよまた「古代印度の解脱思想」にせよまさに其の「デタッチメント」での思想のあり方だったのだと言える。

 

また西洋哲學に於いても20世紀の後半よりポスト・モダンやポスト・モダン以降の思想的な流れとしての其の「デタッチメント」での思想のあり方が模索されて來たのだと言って良いことだらう。

従って近代哲學はむしろ弐千年程も遅れて次第に東洋思想的な流れを身に纏いつつもある訳だ。

 

我が哲學上の師ー哲學の上での心の師ーである「梅原 猛」先生などは屡其の近代哲學批判を展開されて居たものだった。

また我は先生の講演會へも弐度程参加させて頂いて居る。

 

但し「梅原 猛」先生の批判はあくまで哲學者としての西欧近代に對する批判であり所謂馬鹿右翼がニッポン、ニッポンと日本ばかりを持ち上げ叫んで居る様とはまた大いに違う。

 

 

西欧近代型の発展⇔東洋ー亜細亜ー的発展

 

其の両者はそも違う性質での文明のあり方である。

其の違いの最も分かり易い部分とは、

 

非限定的発展⇔限定的発展

 

とのことであらう。

 

さうしてとどのつまりは「限定的発展」にて近代を成立させられたかと云う問いへと其れが集約されて来る。

無論のこと其れではおそらく近代を成立させられはせなんだことであらう。

 

だけれども「江戸時代」位のことであればむしろ無事に続いて居たことかと思われる。

ならば世界中がむしろ「江戸時代」を是非やるべきだったのか?

 

まあ其の江戸ではああして花見も出来たし寿司も食えさらに芝居の見物なども出来たのでむしろ今より良くはないか?

第壱江戸前の握り寿司なんぞ今や高級品でありなかなか食えないぞ。

 

たまに寿司を食ってもいなり寿司ばかりで何だか知らんが何処か貧乏臭いのだ。

其れに寿司は30年後には食えるかどうかもはや分からんぞ。

 

 

だから今のうちにイチローへでも出向きしこたま寿司を食っておくべきだ。

ところでイチロー本人はイチローへ行き寿司を食ったことがあるのでせうか?

 

うーん、其れはまた大問題だな。

まさに其れは幾ら考えても分からず本人さんしか知らないことだ。

 

 

さうしてようやく西洋の哲學で「デタッチメント」が語られ始めたところへ「リーマンショック」だの「911テロ」だの「コロナ禍」だの「露西亜ウクライナ進攻」などが勃発したのだった。

 

ではどうすりゃ良いの?

まずは日銀の意思決定を正さんと日本の貿易収支の方も破壊されて仕舞うのではないか。

 

貿易収支(日本)の推移とグラフ(輸出額・輸入額のチャート) (stock-marketdata.com)

2年ぶり貿易赤字が意味するもの...円安加速→収支悪化→さらに円下落の「悪循環」、貿易赤字拡大は避けられないのか?: J-CAST 会社ウォッチ【全文表示】

 

コラム:「成熟した債権国」としてのマクロ政策はどうあるべきか=唐鎌大輔氏 | Reuters

■富裕層である

■買い物をほとんどしない

■庶民の気持ちを知らない

日銀総裁・黒田東彦の経歴は?家系や年収がすごいのに無能と言われる3つの理由!|ひまわりさんさんブログ (himawari-nagano.jp)より

 

黑田もう早う終わって呉れ、頼む!!日銀黒田「この円安は悪い円安」 うるせえお前のせいだろ死ね [879622555] (5ch.net)

 

死に体「黒田日銀」に襲い掛かる〝日本売り〟の大波 | ZAITEN(ザイテン)過激にして愛嬌ありの経済情報サイト‐財界展望新社

日銀「黒田敗戦」で財務省管理の目論見 | ZAITEN(ザイテン)過激にして愛嬌ありの経済情報サイト‐財界展望新社

 

またeBayでももう高い物が買えんので送料込み千円の中華万年筆だけを壱週間程前に即決して置いたところだ。ー安い物だけはこんな円安でもまるでへいちゃらだー

兎に角午前中にNHKの「世界のトップニュース」を視て居ると世界中がすでに経済的にボロボロのやうだ。

 

であるからこそ逆にこんな「世界の動向」や日銀の黑田=👿などには振り回されたりせず自己の認識の範囲をこそ是非正して置くべきだらう。

 

 

個⇔社會

 

さて其処にはそも「相剋」し且つ「相即」する関係性が認められる。

我が論理では「相剋」し且つ「相即」する関係性を保つやうにすることこそが「理性」としてのバランスを保つと云うことである。

 

尚所謂「感覚」はむしろ「構築」をせずー其の場にて終わるー、逆に「概念」は普通「構築」を伴う。

即ち概念的規定は「価値ヒエラルキー」を築き易い。

 

また「個」を例えば感覚主導のものとすると逆に「社會」は概念的規定ー概念的秩序ーに凝り固まり易い。

だからと言って感覚の方が概念よりも上だとさう申すのでは無くより罪が少なく煩悩が少ないのが「感覚」の方だと云う話であるに過ぎない。

 

 

また自然界の生物ー動植物ーには基本的に「罪」だの「煩悩」だのが生じて居ない。

其れは要するに天然での神や佛の方により近い現象なのだ。

 

かってわたくしはまさに其の理を山の中でのトレッキング中に直観し愕然としたものだった。

自然はさうして直感力の賜物ながら謂わば其れが自然の内なる欲望だけなので要するに「罪」だの「煩悩」だのの比率が極小さい。

 

對して現存在の其れも組織のいや文明の持つ「罪」だの「煩悩」だのは其れこそ幾何級数的に其の罪がデカくなるものと相場は決まって居るものだ。

 

尚自分はいつもの「限定論」と共に「分離論」なるものを屡直観などしたりもまたして居る。

即ち現存在の實存とは「弐重分離」での産物である。

 

即ちまずは、

 

自然其れ自體が「分離」であり、

 

其れに加え「自然」がさらに「分離」したのが現存在ー文明社會ー其のものなのである。

よって自然は神や佛其のものには決して重ならない。

 

要するに自然自體がすでに「失樂」して居り故にどうあがいても「樂園」其のものとは重ならない。

だがまずは同様に現存在ー文明社會ーもまた失樂して居る。

 

 

おまけに其の後脳が過剰に発達したことで「相対認識力」をも獲得した。

でも其のことは逆に申せば弐重に分離されて仕舞って居るのだとさう言えないこともまた無い。

 

なので無論のこと生きる上での能力は其れこそ恐るべき力を文明は持つのである。

なので🚗や🚢や✈も造れば🚀さえ持って居て其れにて宇宙迄へも行って仕舞う。

 

なのだがどうも現存在其れもホモ・サピエンスの認識が社會的に過ぎる要するに皆が御仲間であり藝術家ー其れもアノTAROさんーのやうな激しい文明への批判力を持ち合わせては居ない。

 

さうして現存在は多くを「持って居る」のに結果として何も「持って無い」。

確かに其の「相対認識」の度だけは凄いが其れが齎すところでの価値ヒエラルキーに深く毒されむしろソコにこそ嵌まり込んでかうして身動きが取れぬ訳ではないか。

 

なのでもうそんなもんは宇宙の「肥溜め」にでも落ちた状態其のものだらう。

だから壱刻も早うソコから這い上がりちゃんとシャワーを浴びた上で白装束にでも身を包み寺か教會へと是非出向くべきであらう。

 

 

兎に角其の認識上のバランス化こそが急務である。

其の認識其のものをバランス化するには所謂「脱構築」型での価値認識をあえてして行かねばならぬことだらう。

 

要するに其れは虚偽の価値構築としての相対認識から眞理認識としての絶對的価値観への近接と云うことをまずは大本での哲學として図らねば現存在の認識に於ける未來への途は悉く閉ざされやう。

 

尚壱神教に於ける神の認識は絶對ながら佛教に於ける佛のあり方は其れが絶對のものだとは實は言い切れない。

何故なら佛教に於ける佛のあり方は其れが絶對のものとはなり得無いからだ。

 

其れをもしも絶對化した途端にむしろ謗法化して仕舞うのであるから。

故にだからまさに浄土教のやうなキリスト教的な救済宗教や日蓮宗の如き末法の御本佛を宗祖に据える不可思議な佛法が罷り通るやうなこととなった訳でありまた其のことは時代の必然だとしか考えられない訳だ。

 

兎に角其のやうにまずは明晰なる知恵の力でもって世の中の全てのことを見据えた上で現存在であることを自省してみる必要がある。

まさにさう云うのこそが自立的な判断であり自律的な思考だとさう言い得るのではなからうか。