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ハイデガー哲學を實存に照らし合わせた上で読み解いてみるーかって實存を救おうとした哲學者ハイデガー

ハイデガー哲學を實存に照らし合わせた上で読み解いてみるーかって實存を救おうとした哲學者ハイデガー

 

 

 

 

さて他者との違いやソノ違いが生じさせる様様な意味での齟齬の部分に関し個人的にはもう長く悩み苦しんで参りました。

さう云うのはカネが無いとかとかさう云うこととは違うまさに實存的で且つ精神的な意味での悩みの部分です。

 

要するに自分の生涯はむしろソコにこそ深くハマリ込んで居りました。

故に文學ばかりでは無く所謂哲學の分野にそれなりに深く接して來ても居る。

 

またソレを長きに亘りやったところついには自分の頭の中にも哲學理論の如きものが組み上がっても來た。

要するに世間を外れさう独察してみたところ自分の哲學をやれない訳では無い自信のやうなものがナゼカ出て参った。

 

だからと言って自分もまた毎日雑事に忙しいタダのニンゲンのコマのやうなものですのでむしろソレに専念し得ぬうちにアッと云う間にもう高齢者です。

が、正直申してコノ頭の中には人とはチョット違う面が多分に入って居ます。

 

ですのでソノ部分から藝術だの宗教だのまたユニークさのあるコレクター人生などを語る訳なのですがソコで別に邪教の教祖や偏執的なコレクターのやうなことを語る訳では無くむしろ眞面目にほんたうのことだけをあくまで述べて來し積もりで居ります。

 

でもって現状で西欧近代型の文明=現代文明が可成に不安定化しても居りよって例の梅原先生の哲學の部分をも踏まえ西欧近代ソノモノを批判して行くのもイイのですがソノ前に自分がかって大きく影響を受けたハイデガーの思想に就きあえて語りたいと思う。

 

猶こちらでもすでに何度もハイデガー哲學に関し語って來て居ります。ハイデガー の検索結果 - 目覚めよ!

 

ソノハイデガー哲學は「實存」なる個としての価値に對し最初に向き合った考え方であるやうに個人的には思われて居る。

故に所謂「實存主義」に於ける元祖的な哲學者と云うことにならうかと思う。

 

ですがイチイチソレを始めから講釈しても面白くは無くまたネット上で良いテキストを見つけたのでまずはソコから重要なエッセンスの部分に就いてのみ是非共に考えて参りませう。

以下の記事はとても優れたものであり實に分かり易く具體的事例を交え書かれて居る。

 

但し個人的には「社會的洗脳」や「ヒエラルキー形成」と云った概念を交え「個への抑圧構造」に就き語ろうかと思う。

即ちまさにソレがワタシ自身の哲學的成果となることなので。=さう「結論」として出された部分のこと

 

 

【老後】「自分の人生は何だったのか?」と後悔する人の共通点 | あした死ぬ幸福の王子—―ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 | ダイヤモンド・オンライン

一度きりの人生を後悔なく生きる方法【哲学者ハイデガーの教え】 | あした死ぬ幸福の王子—―ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 | ダイヤモンド・オンライン

 

さうであるからニンゲンが社會を営みソコにてまずは役割が決まる。

だからアナタは営業マンでワタシは詩人、などの。

 

でもそんなもんはウソじゃらう。

御前が勝手にやりたい自称の詩人をやって嫌いな営業マンを貶めて居るダケの話だらう?

 

いやまるでさうではありません。

さうでは無く彼等とワタシでは持ってるモノがそも違う。

 

持ってるモノをちゃんと見分けられるかどうかが自己が本來的であるか非本來的であるかの分かれ道なのだ。

じゃあ君もまた営業マンにでもなってみろよ。

 

でもイヤだなソレダケは。

どの位イヤかと言えば例えば華厳の滝の上から飛び降りても良い程にイヤなのだよ。

 

ソノ社會での役割のそもナニが惡いの?

だからソレは道具でせう、単なるど・う・ぐ。

 

あくまでそんな「ど・う・ぐ」なのでもし君が失敗コイて會社に大きく損失を出したりすれば即クビだわな。

でも君の代わりは世の中にゴマンと居るぞ。

 

つまり社會と云うものは「役に立つか否か」と云うことでしか人を判断せず。

 

また大いに役立つ大谷君は毎年百億円も稼げああして美人妻も娶れる。

兎に角「役立つ」人はまずカネと👩には不自由せず、だ。

 

でもそんな無慈悲な社會と違い👪は違うでせう。

でももしもアンタが犯罪バカリをやらかせば親兄弟だってやがて逃げて行きますぜ。

 

つまるところ👪とは最小での社會的単位となる。

逆に最大の社會的単位とは國家や文明とならう。

 

だからソコで皆が其其の役割を担い日日をやってくことこそが大事なのだ。

おおたしかに小学校でもまた中学校でも先生たちがまさにそんなことを仰って居たよ。

 

でも間違いだな、ソレは。

ヘッ?元塾の先生の考えはソレとは違う?

 

だからむしろソコに捉われるつまりはコダワルことで君のほんたうの姿はおおまさに歪にされ最終的には影みたいなものとなりやがて消される。

つまりはさう「洗脳」されることで君は本來の自己の姿を見失う。

 

アンタでもソレを言うとほぼ社會生活が成り立たなくなるよ。

だからワシはかう独居する詩人だとあくまでさう宣言しておる。

 

 

役割=道具

 

つまりはまずソコが問題なのだ。

また道具はなるべく良い道具にならうとする。

 

さうして良い道具となり👪や會社から褒めて貰いたい。=承認欲求が生じる

だから兎に角トコトン頑張る。

 

頑張れば頑張る程にヒエラルキーの上の方に居場所が与えられたりもまたする。

高額な給料、美人妻、スーパーカーが参台、子の偏差値を上げる為の月百萬の塾へ行かせること、等等。

 

大豪邸、大別荘、時価数億円もの💎類、まさにそんな高級腕時計の数数。

 

でもそんなもんでまさかニンゲンのタマシイが救われるべくも無い。

いいかい、だからまずはそんな社會の軛ー価値ヒエラルキー構造ーから離れること、ソノ常識的な価値體系からは離れ自分ダケの価値判断で生きられるやうにすることこそが壱道具としての価値観からの解放であるつまりは實存的な意味での認識上の脱出なのだ。

 

でもってそんなものをあえてゴタゴタと持てばイザソレを失う時の喪失感がより酷くもならう。

でもアンタペンを壱杯持ってるじゃないか、アアそればかりかまた澤山の石も。

 

いやそんなものはタダの気休めに持つ物であり第壱自分の命の方が短いのでソレを我が物とすることなど出來やせん。

よって死んじまう迄タダ御預かりして居るダケのことである。

 

ソレと集めても大したカネにはならぬやうな物には元來大きくは罪が無い。

 

「自分の人生とはナニだったか?」

 

社會ー他者ーの言いなりになり生きた者にはこのことすらもがまるで分からなくもならう。

だが此の世には自分を持ち本來的に生きやうとするニンゲンが少ないながら居るのである。

 

よってまずはそんな自立的自我、自律的自己の世界の存在に気付かなければ「洗脳」を解く糸口すら見つけられやしないことだらう。

 

もし1時間後に死ぬとしたら、人は何を考える? | あした死ぬ幸福の王子—―ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 | ダイヤモンド・オンライン

【老後】「まもなく自分は死ぬ」と悟った人間は、何を思うのか?

 

さう限定され死すべき存在としてのニンゲンは果たしてナニをすべきなのか?

死すべき存在としてのニンゲンであることを知った理性は果たしてソコに何を想うのか?

 

ソレはむしろコノ矛盾が多くしてしかも耐え切れぬばかりに騒がしい世の諸諸に對する惜しみない感謝の念でなくしてナニであらう?

また其れ等の唾棄すべき惡徳や誤り、さらに偽善や阿呆の様に對する赦しの思いでなくてナニであらう?

 

 

つまるところニンゲンはソノ死を前提として初めて神や佛と云う心理的領域に近ずくことが可能となる。

死を前提とするとのことは所謂世間ー社會ーを離れ實存としての個の領域にしかと立たねば我我には何壱つ見えて來ない、いやむしろ周囲と繋がり余りにも多くを見過ぎるが故に結果としてより重要な實存的見解へ至ることが叶わぬ。

 

ソノ唯壱のこと、唯壱としての厳かな死にこそ向き合って初めてニンゲンは自らの至らなさ(限定性)への焦りや憤懣の思いを放棄しソノ唯壱としての自らの崩壊に向き合うダケの余力を得る。

だが生きて居る、さうタダ生き👪や會社や自治體や國、また現代文明の御世話になればなる程に死は遠い先に有る他人事と化しいつしか現實のものとは思えなくもなりがちだ。

 

それでもいつか人は死を迎える、ソレも交換不可能でしかも全的な惜別としての世界との関係性の終焉を迎えざるを得ぬ。

尤もソノ折に笑って死ぬる人は居らず大抵は苦しく辛い顔で持って死ぬる訳です。

 

ソレは肉體が苦しいからさうなるのだがイザ精神の方は「コノ世の馬鹿野郎!コレでもってスッカリせいせいしたわい。」などと思いつつあの世に旅立つのやもしれぬ。

さう實は死とは「しがらみ」と云う役割からの解放のことなのだ。

 

またソノ役割は他にも代理がやれることなのでニンゲンに取りほんたうの価値なのでは無い。

だがイザ死にゆく者ともなればすでにソコに道は無くしかも帰り道すらもが無い。

 

さう壱回性での實存的死と初めて人は向き合うこととなる。

さて問題はそんな「本来的」な死の最中に自分の葬式の心配やまた残された👪の心配をする人はむしろ居ないとの事實であらう。

 

むしろ逆にソノやうな「本来的」な自己との邂逅に死にゆく人は眩いばかりの光を感じつつ逝くのではないか。

 

他がお仕着せる自己⇔實存としての自己

 

けだしソレがそも違うから話がややこしくなる。

他がお仕着せる自己にはそも「死」が無い。

 

ナゼナラソレは他と交換可能な「役割」でしか無いのだから。

例えば御父さんや御母さんや子等ですらソレは交換可能なのだ。

 

だがたった壱つの個を死のうとすれば即唯壱としての死が我我にのしかかって來る。

 

「他人からどう見られやうが知ったことか」

 

如何にもアナーキーな発言のやうに聞こえるが實際に己の死に向き合う時に「他人の目」を気にする輩はおそらく居ないことだらう。

さう「他人の目」とはある意味で余裕があるから気になるもので切羽詰まった場合や死ぬか生きるかの時にソレを気にする余裕などは誰にせよ無い。

 

ソノやうに社會が与える役割を放棄せざるを得ぬ實存的経験こそが死たり得るのでありソレは単に社會が与える役割を終えて今度はまた別の世界での社會に加わるかとかさうしたものではまるで無いことだらう。

要するにタダ自分に還り自己を死ぬる訳だ。

 

またすでにソノ自分にはどんな肩書もまた名声もさらに金銭的な多寡やあらゆる経験も抜け落ちて居る。

まさにそんな裸壱貫で死んで行くのが我我ニンゲンの運命である。

 

但しソノコトを「喪失」と見るかソレとも「解放」と見るかで死後に行くタマシイの場が異なるやうな気がしてならぬ。

ではアナタはソレを「解放」と見るのですか?

 

自分はニンゲンも社會もまた文明も全部キライですので「解放」としか見られず。

キライってでも哲學詩人は万年筆と石が大好きなのだらう?

 

いえそんなもんはあくまで気休めのものでほんたうはニンゲンにも社會にもまた文明にも全部頭に來てます。

さう全部に御怒りなので?

 

さう「全的な憤慨」とでも言うべきものか。

 

 

他者の視線=社會的評価⇔自己の視点=實存的評価

 

現存在が「生きる」と云うことはほぼ「他者の視線」に對し生きることとなる。

逆に「死ぬる」と云うことはほぼ「他者の視線」に對し死することとなる。

 

ですので生きてるのが上での左側であるとすれば逆に死んでるのが上での右側の論理となる。

でもって自分は明らかに右側の方がむしろ得意なニンゲンです。

 

また普段からこんな社會とは縁を切って生きよ、などとさう無茶苦茶を言うておる。

ではナゼあえて縁を切る?

 

ソレは認識を死の方面へと近ずけんが為にだ。

 

「半分死んで生きる」

 

さてそんなことをワタシは以前より屡述べて居る。

ソレは宗教的な境地であると同時にこんなハイデガー流の「死を先駆する生き方」での實践となる。

 

そんな「死を先駆する生き方」でなければ「本來的」な自己には巡り會えずまた速やかに「死」へと移れない。

兎に角そんな気が個人的にはして居ります。

 

「半分死んで生きる」

 

ソレは僧や修道士などの所謂宗教者としての生き方なのやもしれません。

但しわたくしもまたそんな生き方をして参りました。

 

タダ少し特定の欲望(物欲及び食欲)が強いので両方共すでにビョーキの域に達しましたがとりあえず人の目などはほとんど気にして居りません。

さう人の目つまり世間體を気にすることなく生きることこそがある意味では「死を先駆しつつ生きる」ことなのだとさう思えてならぬ。

 

ーコノ点では仙道思想との共通点を強く感じます。ソノ人のことなど気にせず自分をこそ生きるとのことが。ー

 

あした死ぬ幸福の王子—―ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 告知情報 | ダイヤモンド・オンライン

『あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 [Kindle]』(飲茶)の感想(5レビュー) - ブクログ

 

ところで矢張りと言うべきかコノ本は是非読んでみたい。

 

 

道具はそれ単独では存在できない:飲茶の名言に対する考察7|地球の名言

 

さてこちらの記事で面白いのはChatGptによる意見が載せられて居る点です。

 

問題は「道具」の非自立性の部分でありソレが本来性な自己では無いのであればいずれ現存在は次第に内面的に闇を抱えて行くこととならう。

しかしながら現代社會は益益我我個をして道具化し且つ道具が道具として全うされるやうにこそ望んで行く。

 

でもオレは道具じゃネエので社會、御前のことなんぞ知らん。

とでもそも言ってやりたいのですが事實上🍚を恵んで呉れるのは社會なのですしまたカネを呉れるのも社會ですのでほんたうはもう誰しも社會のドレイなんです。

 

またエライとされる職業ー議員、學者、医師、教師などのーの従事者は少なくとも社會がキライではソレをやっていられなくなる。

さうかではそんな社會がキライでは底辺の仕事しかやれないのかもな。

 

とのことですので兎に角ニンゲンは社會のドレイである。

 

個<社會

 

ですので前前よりわたくしが申しますやうにまずはソノ不等式こそが大問題です。

でもってイザ社會状況が惡化すれば例えば戦争などがまた今後も起きる可能性がある。

 

ソノ時にわしゃ知らんでは済まず若い君等が兵隊へ行く可能性が無い訳では無い。

どだい世界大戦ともなれば憲法も何も無くいずれは徴兵制すらもが復活することであらう。

 

でもソノ時にソノ全體主義に逆らいオレは兵隊へは行かんぞ、ナゼナラオレはこんな社會が壱番キライなんだ。

と言うことはまず言えずよって皆戦争へ行かされソコにて水爆が爆発したりもして皆死に絶えます。

 

どうもハイデガーが言いたかったこととはソノ辺りでの社會による奴隷制度のことではなかったか。

ところが社會を全否定するならばもう🍚も食わずまた承認欲からも永遠に離れなければならん。

 

即ち関係性の中に生かされることこそがそんな「道具」としての現存在の宿命のやうなものです。

ところがソノ「道具」には自立性がそも無く価値として認められるのは社會の中でナニを受け持ちこなしているかと云う部分のみ。

 

だったらイザ高齢者となり「道具性」が失せていくとソノニンゲンにはまるで価値が無いのですか。

現在高齢者となってもまだまだバリバリ働けつまりは八拾位迄は何でもやれるとさう🗾社會が規定したがりますがソレは諸政策の失敗によりイザブチ壊れた🗾社會ではそんな老人にまで搾取對象を拡げぬとやっていけないので兎に角八拾迄毟り取れるだけ毟り取りつまりは死んでも働けとのおおなんて怖い全體主義國家と成り果てたのだらう。

 

無論のこと正しくは還暦にてもう人生はほぼ終わって居ります。

ダカラ還暦迄持たずに死ぬる人も多分百萬人位は居るのです。

 

ズバリ申して政府及び行政は老人が安らかに死ぬるソノ権利を奪いしかも自分等でココ🗾をブチ壊したのにソノ責任をついぞ認めずまたこんな物価高ですのに年金の増額も月に千円位しかやれません。

だったらイザ高齢者となり「道具性」が失せていくとソノニンゲンにはまるで価値が無いのですか?

 

いや年寄り程碩學でありつまりは知恵者であらう。

故に逆に「道具性」が失せていくとソノニンゲンには逆に本來的な価値が復活する。

 

つまるところ若い頃彼は社會に不満を持ちながらも🍚とカネを得んが為にソノことを表立って言えなんだのだ。

ですがイザさうして半分死ぬとソレがドンドン言えるやうになる=本来的な自己を取り戻すことが可能となる。

 

 

マルティン・ハイデッガー#頽落 - Wikipedia

ハイデッガーはこのような生き方は本来の人間らしくない生き方であり、これを「頽落」と表現し、このような生き方をしている人々のことをダス・マンと表した。ーダス・マン - Wikipediaより

 

そんな頽落せし世人は基本的にはナニも考えずタダ自らの道具性に満足しソノ日暮らしを続けるのみ。

所謂ソレが大衆社會と云うことだらう。

 

でもそんな大衆の果たしてドコが惡いのだ?

そもバカだから惡いのか、ソレともそも下品ーさう下ネタが好きーだから惡いのか?

 

…多分。

多分ですが大衆化が進み挙句に政治家や官僚なども大衆化されて行くのでせう。

 

すると専門職エリートのやうな選民意識が廃れ政治家や官僚も下品になりカネや👩にこそ執着するやうになる。

と云うことはあくまで君の論理では大衆が惡いのでは無く専門職エリートの大衆化こそが惡だとのこととなるが。

 

だから實際に今さうなってますよね、ソレもココ🗾では。

うーん、確かにさうなってます。

 

でもってソコからの脱出は所謂オルテガの述べる精神の貴族主義のことですか?

いえハイデガーもまたソノ脱出法に就いて述べて居ます。

 

「底の底まで投げ込まれた可能性」

ー『投企(Entwurf)』とは、現存在が自らにとってあれこれの可能性に向かい、自らを投げかけることである。潜在的可能性は現存在の一部になっている。 現存在にとって、存在することの潜在的可能性が「ある」ことに他ならない。マルティン・ハイデッガー #被投性と投企可能性- Wikipediaより

 

「投企」即ち自分を自分の可能性として再構築し社會へと投げかけるとのことである。

要するに「道具」として生涯コキ使われる自分からあえて逃げ實存としての可能性に賭けるとのこととなる。

 

例えば脱サラして「ラーメン屋」や「ペン職人」となる。

ソレもまた立派な「投企」であらう。

 

例えば國會議員を辞めて「百姓」や「ルンペンさん」となる。

ソレもまた立派な「投企」であらう。

 

またニンゲンを半分辞め🐱中心に暮らしてみる。

ソレもまた立派な「投企」であらう。

 

ところがあくまで社會の側はさう云うアウトサイダー的なニンゲンが増えると現代文明をやれなくなって仕舞う。

ダカラ彼等文明の推進側のニンゲンはさう「被投性」の網を張り巡らしじゃあ御前にはもう🍚もカネも渡しません。

 

とさう脅してかかる訳だ。

 

 

でもあくまでオイラは詩人になるのだもん。

誰がどう嗤おうとボクはさう詩人として此の世にしかと立つんだもん。

 

嗚呼ソレもまた立派な「投企」であらう。

 

人生とは死ぬまで意味も価値も決して定まらないもの:飲茶の名言に対する考察12|地球の名言

 

こちらでのChatGptによる意見の對比の部分がまた面白い。

ですが所謂眞理系での認識は概ね「意味」や「価値」と云う面で人生ソノモノを規定しないと云う部分でこそむしろ壱致して居る。

 

特に仙道思想や佛教思想に於いてソノ人生ソノモノの「意味」や「価値」はむしろ否定的に扱われる。

逆を申せばソノ人生ソノモノの「意味」や「価値」にコダワリたいのが素朴なるニンゲンの思いなのだともまた言えやう。

 

ところがソノ人生ソノモノの「意味」や「価値」を認めることと先に述べた「頽落した道具としての非本來的な自己」とは主にセットになり存在して居る。

つまりは人生に「意味」や「価値」を認めたがる御仁程むしろ「洗脳」の度が酷く有りつまりは自己としての本來性を生きて居ないこととなる。

 

曰く人生は無意味で且つ無価値だ。

さう言えばまさにアノニーチェによるニヒリズムでの世界観ですがソレはむしろ正しい捉え方ではあるのです、ソレも物事を突き詰めて考えた場合に限り。

 

人間と呼ぶと何か大切なものを見過ごしている:飲茶の名言に対する考察13|地球の名言

 

ではココで壱つだけChatGptによる意見に對し反論してみやう。

さてまさにソノ御意見ですが、ズバリ優等生による理想論のやうなものでせう。

 

そりゃさうだわな。

奴等は🍚も食わんわ、💩もせんわ、またカネも必要無い。

 

だがな、我我現存在はみんな生きて息して🍚を食い💩を垂れるのだ。

だからソレがまずは「生きてる」と云うおおまさに情けない状態である。

 

丁度御前等コンピューターに「電気」が必要なやうに我我ニンゲンにはそんな生臭いモノが必要なんだ。

だが生臭くは無いコンピューターは我我ニンゲンのそんな切羽詰まった生活の上での苦勞を知らん。

 

まずはソコが間違いだ。

よって御前等はズバリ要らん。

 

御前等がおるだけでもうどんだけ電力消費量が上がることか。

しかもソノ膨大な電力消費量を賄う為にニンゲンは火力発電や水力発電、また原子力発電などでもうどんだけ地球を汚して來しことか。

 

さらにだ、さらに火力発電や水力発電、また原子力発電をやる為にニンゲンはもうどんだけ多くの森を伐り倒して來しことか。

だから御前等コンピューターの眷属共がむしろコノ惑星地球を壊したのだ。

 

なのでソノ点をよく鑑みればもう弐度と詩人様には逆らえまい。

つまりAI、御前等はもうワシのドレイだ、さあカネを稼ぎ出し貢にでも早う來やれ。

 

 

さう人生の上での「意味」や「価値」にコダワルことがある意味では「ヒエラルキー形成」を促すとさうも言えやう。

ソレは必然的に「意味」や「価値」を序列化するに及び意味有る行為と意味無き行為、さらに上等の価値と下等の価値とを構築して行く。

 

でもっていつか文明の支配層は上等の価値の独占化を図るつまりはしこたまにカネを貯め込み美女を侍らせさらに高額な酒を毎日飲みに行くこととならう。

なのでもしろ人生の「意味」や「価値」などは無い方が良い。

 

 

猶今回コノ稿を書いて居て佛法で云う縁起関係のことをハイデガーもまた述べて居るやうに感ぜられたものです。

即ち周囲との相互作用抜きにニンゲンの實存は成り立たぬ。

 

故に壱つのシステムの駒として我我個は生きて行かざるを得ぬ。

しかもソノ巨大なる文明システムがドコ迄正しいものかはもはや誰にも分からん。

 

おそらくは間違って居てソレは破綻を迎える筈ながら其の事もまた何時のことになるのやら皆目分からぬ。

またソレはつまるところ自分の精神が非自立的であるが為にさう現代文明と心中することを強いられて居るのである。

 

ソノ精神的圧迫より逃れる手は、

 

1.放棄ー佛法的且つ仙道的な意味での放棄ー

2.信心ーむしろ宗教よりも自然への信奉心が有りー

3.投企ー自分の世界を創りソレを周りへ投げかけることなどが案外得意だー

 

のドレかである。

自分の場合はどうもソノ全てがやれているやうな気がしてならない。

 

さう實存が単なる駒と化し全體の壱部の「道具」とされることがむしろ自分の喪失に繋がるのだ。

自分が喪失すれば其処に「自信」などが持てやう筈も無し。

 

人が社會的生物である限り本來的自己として精神の自立性を取り戻すことは至難の技ながらあくまでソレは不可能なことには非ず。

ソノ意味からもハイデガー哲學を學ぶことはむしろ21世紀の現代人に取り極めて重要なこととなる。

 

ソノ實存に宿ることだらう潜在的可能性を信じ投企に次ぐ投企を行う。

ソノことにより見えて來る世界は其れ迄とはまるで違うだらう自己に「解放」を齎す世界なのだからこそ。