我我に取っての引き裂かれた弐つの心と「掃除」との関係性
おそらく現存在の認識の仕方には著しい偏向、つまりは「癖」が強くあるのではないか?とのことが壱人文理性としての我が解釈です。
また其の認識自體がおそらくは「バイアス」の産物であることでせう。
尚自分は其の種の「バイアス」を嫌う性質で要するに社會的価値を座標軸となしものを言う訳ではありませんので其処は矢張りと云うべきか所謂常識的な発想をして居る訳では無い。
さて其の現存在の認識の癖に関し「結局幾ら考えても其れは分からない」との見方と「むしろ考えてこそ次第次第に其の癖が見えて來る」との見方がまたあるやうに思われます。
最終的に「生ものとしての現存在の生=価値観」を其の理性的判断にて捉え且つ吟味することは其れこそ「概念的」には難しいこととなりませう。
要するに其れは例えば「自然」を内側より理解することは現存在に取り常に難しい、との命題からしてもすぐに明らかとなることでせう。
だけれども現存在はかってむしろ🐵のやうな生き物であるに過ぎなかった。
まさに其の🐒のより凄い変種のやうな奴であるに過ぎなかったのである。
其の🐵がまた何でよりによりこんなんなりましたか?との問いの部分こそが其の現存在の認識上の癖を見詰めることに於いて壱つの鍵を握る点でせう。
あくまで自分の解釈では現存在が此の世に創り上げたところでの巨大な社會性の部分により其の価値観の大部分が規定されて行く訳です。
ところが🐒の価値観つまり欲望はとりあえず🐵の御山だけに「限定」されて居る。
其の動物としては高等な🐵君にせよ其の価値観ー望みーは「サル山のボス」になることだけが最大の望みであり其れ以上のものでは無い。
されど現存在の場合には「地球のボス」にむしろならうとしたので元元其の望みのデカさがそも違います。
でもって近代以降さらに現代に於いて現存在は「宇宙のボス」にさえならんと欲して居るのです。
そんな「宇宙のボス」となりじぶんの周りに美女をはべらし兎に角やりたい放題に所謂「酒池肉林」をやりたいのだ。
そんな訳で自分の解釈は常に現存在としての社會的認識に對し批判的です。
つまりは誰が惡いと言えばまさに其の現存在により築き上げられし社會認識こそがお門違いなのだ。
例えばプラスティックは結局現代の科学が創り上げた惡いものですが其のナイロンだのプラスティック製品にかって現存在の多くが群がって居ます。
では何故さうなるのかと言えばむしろ其れは「文明の進歩」による産物なのであくまで「良い物」となるのである。
確かに其の種の進歩的な物を否定しむしろ「昔ながら」の生活を希求する人人もまた居るが其れは常に少数派となる。
また文明を否定的に見詰めむしろ田舎にて隠遁生活を送る人人などもまた居るが其れも常に少数派となる。
であるとすれば其の「圧倒的多数」での価値認識の基準とは壱體何でせう?
其れは所謂「全體主義」に於ける意思決定其のものでせう。
要するに「みんなで進むことは良いことであり其れがたとえ赤信号であれやらんとイカン」ことなのです。
だが其処に例えば偏屈な詩人が壱人居て其れに異を唱え「そんなんはでも間違いだ!」とさう述べたとしてみやう。
以降哀れな詩人さんは「村八分」となり其の全體主義社會からは弾き出されて仕舞う。
おまけに體が弱い詩人故そんな仕打ちに心がヘナヘナと崩れ落ち結局彼はすぐに死にましたのです。
其の「現存在の認識上の癖」とは所謂「認知バイアス - Wikipedia」としての「認知的不協和 - Wikipedia」と関連付けられることなのかもしれぬ。
ー二重過程による推論の説明は、脳には二つのシステムまたは心があると仮定する。ー二重過程理論 - Wikipediaより
さて今年の壱月にとある本を読んで居て其処に此の「弐重過程理論」の記述があり其の事實にまさに衝撃を受けた。
其の本とは『感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性』(高橋 昌一郎):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)と云う本である。
其の高橋昌一郎 - Wikipedia氏は自分と同い年の哲學者であり論理學者である。
『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋 昌一郎):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
『知性の限界-不可測性・不確実性・不可知性』(高橋 昌一郎):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
『感性の限界』は上記弐冊と合わせ三部作での壱冊であり自分は勿論すでに全てを持って居る。
だが其れ等が最高に面白さうながら實は読んだことが無かった。
で、本來ならば『理性の限界』から読むべきなのだらうがあえて『感性の限界』から読んでみたら其処にイキナリ「弐重過程理論」の記述があり其の事實にまさに衝撃を受けた。
即ち此の現存在の持つ「弐つの心」の問題は認知科学即ち心理學の上でのむしろ常識的な學説であった訳なのだった。
だが自分は其のことをまるで知らなかった。
但し其のことを實感的な大問題としてすでに把握して居た。
自分はあくまで「現存在による認識上の誤り」の部分を何とか炙り出さんとして此処五年程考え続けて來た。
尤も其れは「思考」によるものだけではむしろ無く所謂「直観」の部分にまで踏み込んだ認識として行われて來しものだ。
其処にて我は「論理的ー合理的ーな人間の心のあり方」と「非論理的ー不合理的ーな人間の心のあり方」とがあることをすでに直観して居た。
でもってまさに此れでは救われぬと正直さう思って居た。
現存在とはまさに其のやうに「心のあり方が引き裂かれた」生命である。
また本質的には🐵の方などもさうなのやもしれぬ。
但し🐵は例のサル山の範囲にて「限定」されるが現存在の場合は其の「限定」を自ら解除するに及んでおりよって🐵は即問題を肥大化させぬが現存在の場合は其の問題をつまりは無限大に肥大化させて行く。
さて其の問題は当初、
理性⇔本能
との弐元的對立の命題として我には認識されて居た。
ところが此の分裂は制御が難しくいずれどちらかへとなだれ込んで行くものと相場は決まって居る。
だけれどもあくまで自分の哲學的解釈では、其処に「相剋し且つ相即する」関係性が認められなくなると此の弐元分離も破綻する。
つまりはブチ壊れる。
だから相互に互いを認めおまけに其の関係性に對し程良いバランスをこそ保たねばならない。
でもって其れがイザブチ壊れると其れが宗教的にはつまりは「ハルマゲドン - Wikipedia」の状態と化すことだらう。
ううわああー神よ!さうして佛よ!
だが其の佛とはまるで関係が無いのでは?
そんなことは無くしかと関係して居ます。
ズバリ大乗佛教各派の場合にも『ハルマゲドン』が起きる可能性はある。
『ハルマゲドン』が起きぬのは例えば「原始佛教」であるか其れとも「禅」であるかでせう。
でももしや北朝鮮+中國+露西亜と欧米自由主義陣営の最終戦争こそが其の『ハルマゲドン』なのでは?
確かに其れもまた無いとは申せません。
されど壱番怖いのはつまりは其の「理性」と「本能」の破壊的對立でせう。
すると神父様やまた僧侶であれ其の破壊的對立に巻き込まれて行くのか?
…仰る通りです。
其れも兎に角全部が其の『ハルマゲドン闘争』の中に組み込まれて行くことだらう。
ではどうすれば壱體どうすれば其の最終戦争ー最終闘争ーより逃れ文明がまた人類が生き延びて行けるのだ?
そんなもんもう誰も其処からは逃れられんと見て置く方が正解でせう。
さうか、では人類は其の「引き裂かれし認識」の故に滅ぶのか。
と自分の頭の中ではまさに昨年よりさう考えて來て居た。
で、其の最終戦争ー最終闘争ーを避けるやり方があり其れが實は至極カンタンなことであった。
其れは「世の価値観」に安易に従わず己が理性を磨きむしろ其れに反旗を翻せ!!とのことである。
實はたった其れだけのことなのだ。
ところがイザさうして洗脳されつまりは操り人間となってるみんなは理性を磨くもクソも無くまた反旗を翻すもクソも無く「今」を「今」として「今」やりたいばかりなのだ。
だから彼等彼女等の頭の中身はすでに「文明によるバイアス」により蝕まれて居りつまりは「文明の奴隷」になり果てて御座る!!!
従って其の構図を本質的に転換せしめることなどはすでに至難の業なのだった。
うーん、さうか、するとアナタは其の「全體主義」の社會現象に全ての罪をなすりつける訳なのですね。
仰る通りで自分はあくまで其の「社會の暴走」にて文明は滅ぶとさう結論づけましたのです。
しかしながら今回はまた話が至極怖いと云うか少なくとも深刻ですね。
でも例えば「哲學」や「藝術」、其れに「宗教」の方から何とか其れに對する策が打てさうな気がしますが…。
いや今はこんな不穏な時代にて其れこそ良いー良心的なー本屋は潰れるわ、政局はさらに混迷するわ、おまけに疫病は蔓延するわ、最後に金持ちの利己主義が蔓延るわでもうロクなことが無い世の中となりつつある。
そんな時にどう理性的な自我を保てと云うのでせう?
逆に眞に必要なのは理性⇔本能との弐項對立に於ける「限定」でせう。
「限定」とは「スケールダウン」することでありつまりは「縮小」であり「整理」です。
「整理」?其れはまた新しい概念が出ましたね?
壱體何だ、其れは?
「整理」とはズバリアノ「断捨離」のことだ。
「断捨離」つまりはアノの近藤麻理恵 - Wikipediaのことですか?
其の通り。
いいかい、其の「断捨離」とは「断じ」「捨て」「離れる」ことだ。
其の対象を「物」から「社會」へとシフトするだけで其の大掃除が完遂される訳だ。
つまりは「掃除」する。
其れも「社會の掃除」を徹底してやる。
最終的に社會的な矛盾が極大の侭で「文明」を持続させて行くことは極めて難しくなる。
社會的な矛盾とは「社會が奉ずる価値観としての矛盾」のことだ。
だからまさに其の「社會が奉ずる価値観としての矛盾」其のものに手を付けねばむしろ何も変わらず要するに其処に汚物が溜まって行くだけのこととなる。
でもたとえ其の「社會の掃除」をしても結局其の最終戦争ー最終闘争ーとしての「ハルマゲドン」からは逃れられぬのでは?
いやさうでは無からう。
例えば家でも学校でもちゃんと掃除をすれば即「爽快な気分」となる。
イザ其の「爽快な気分」となれば「無理」や「無駄」や「汚れ」が如何に此の世を貧しくして居たのかと云うことがまた良く分かる。
だからむしろ其の「気分」と「合理化」とのバランスを図り要するに双方が通じるやうにして行くことこそが大事だ。
なる程、だからこそ其の「全體主義」としての「社會の抽象的価値観」を「断捨離」するのですね。
まさにさう云う訳だ。
何故なら「現存在に於ける価値観」の誤りとは其れ即ち「社會が奉ずる全體主義としての価値観」としての誤りのことなのだから。
事實上社會とは「認知バイアス」をより増幅させる装置のことなのだ。
故に其の「認知バイアス」をも取り去らんが為にも此の際さうして「断捨離」する方が得策なのだ。
そんな訳で現存在を「ハルマゲドン」の破滅から救う方策とは其れ即ち「社會の掃除」にこそあった。
ところで其の「社會の掃除」とはさても誰がやるのですか?
政治家か又は官僚の人人なのか?
いいやさうでは無く俺ら個としての庶民があくまで其れを行う。
其れでもって「現代社會が奉ずる余分な価値」をまさに「断じ」「捨て」「離れる」訳だ。
さすれば「弐つの心に引き裂かれた現存在」の特殊性=悲劇性の部分がむしろスケールダウンされて行くこととなると個人的には考える。
「弐つの心に引き裂かれた現存在」の特殊性=悲劇性の部分をむしろ抑えて行くのは「成長であり進歩であることを是とする+としての思想」では無く「停滞であり退歩することを是とする-としての思想」である。
故に其の「心としての高み」に至らんが為にあえて「理性的」に欲望を縮小化して行かざるを得ない。
また其の社會的要求を實現せんが為に實は「掃除」こそが常に重要なのだ。