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文明批判と美と心の探求と

死後の世界の解釈と藝術の意義ー+かって體験した「伊藤わか奈」さんによるピアノ演奏會のことー

死後の世界の解釈と藝術の意義ー+かって體験した「伊藤わか奈」さんによるピアノ演奏會のことー

 

 

 

 

夜型のほうが想像性・思考力に優れている…脳科学で分かった「早起きは三文の得」がウソである理由 (msn.com)

 

結局夜遅くか又は逆に朝の其れも早い時間帯が所謂「非日常的な価値」との回路を開いて居り其処に浸り切ることで哲學的な思考や藝術的な創造性の世界に通じて行く訳です。

哲學的な思考や藝術的な創造性の世界と云うものは其のやうにあくまで「非日常」としての価値である。

 

だから其れは誰にでも得られる世界のことなのでは無く現存在に取ってのあくまで特殊な世界のことだ。

其の「特殊性」の方から藝術家や又は哲學者がさうしてものを言うのである。

 

ちなみに此処弐年程自分はまた「夜型」となって來て居てむしろ深夜に認識上の御勉強の方やヤフオクのチェック等をネットにてして來て居る。

逆に「読書」は光のある午後などが最適でせう。

 

何せ此処数年は自分も老眼鏡生活ですので夜は活字を追うのが億劫であり其れは要するに夕方からはネットに接するが其れ迄はむしろネット無しの生活をして居り自分では其のバランスこそがむしろ完璧なものだとあくまでさう思う。

 

 

但し「早起き」の価値を否定することなどは出来ない。

 

第壱アノ超夜型人間の五木 寛之先生などはすでに朝型にスッカリ変わったさうです。

でも其れは要するにトシなのでせう。

 

人間は80にもなればすでに八割方は死んでますのでもう夜中まで起きて色んなことをする気力なども失せることだらう。

其れともう80にもなればアノエロ動画を視るパワーなどは無く要するにほぼ動物を降りて行くのであるから要するに僧侶並みに早起きとなるのでせう。

 

其れともう「批判力」の方も枯渇するのでもはや「革命」も何も無くまた「藝術」も何もありません。

むしろ「宗教」には擦り寄って行く可能性が高いが其れは何でかと云うとズバリ「御迎え」が近いからなのだ。

 

 

ですが現存在の寿命は實は全然決まっては居らず従って廿代で死ぬる奴も居れば九拾歳でもまんだピンピコピンの奴も居るわで其処を余り「常識的」には捉えぬ方が良いです。

要するに生きて居る間が人間の価値であり且つ無価値なのです。

 

もしも死んだら「価値であり且つ無価値」である相対原理其のものが抹消される訳なので其れこそ苦も樂も無くまた美醜も無く良し悪しも無く虚實さえをも離れ物質を離れ且つ観念を離れさらに有無をもさえ離れて行くのである。

 

其れはもしや霊體となるとのことですか?

いや霊體は「無くて有る」もののことでせう?

 

でもすでに君はすでに死んでるので「無くて有る」世界にもまた「有って無い」世界にもさらに「有って有る」世界と「無くて無い」世界の何処にも属しては居ない。

もしや其れは「無」の世界ですか其れとも「空」の世界ですか?

 

いやだから其の「無」や「空」をむしろ離れる世界だと云うことだらう。

但しあくまで「だらう」なので別に断定などはして居ない。

 

だから死んだら「大霊界」へ行くだとかそんなまるでアノ丹波 哲郎氏の如き論理は其の眞理に對しまるで通用などせぬ。

 

さて事象としての現象界ー縁起的産物としての世界ーには其のやうに生死の對立ー論理的對立ーがあるが死其れ自體は論理對立をそも離れるものなので逆に言語規定することが出來ない。

つまりは「死其れ自體」を言葉で言い表すことなどは出来ずもしも其れを言語化し表現すれば其れはあくまで「想像の範疇」のものでしか無くなる。

 

逆に言えば「生死」とは生きて居る側の人の頭の中にある観念ー概念ーでしか無い。

また要するに「死其れ自體」は其の「生死」をも離れて居るので概念的には規定出来ない。

 

 

…またイキナリ難しい御話で。

いやだからイザ難しい話をさせれば何処までも其れをして差し上げるが其れでは皆様がもうイヤになっちゃうでせう?

 

だからそんな観念論議よりは「エロ」だとか「グロ」だとかそんなものの方がみんなはお好きなのでせう?

…でもさう云う言い方こそが如何にも酷い。

 

お前はさうしてすぐに周りを見下すから何時迄経っても壱藝術家として世に立てぬのだ!

…仰る通りです。

 

 

ではもう少しまともなことを述べます。

其れは、其の「夜型」と「朝型」にはそも優劣などは無くどちらにも良いところと悪いところが有ると云う点だ。

 

また哲學的には其の種での「有る」と云うことをこそ此処数年のわたくしは概念的に追及して來て居る。

其れが「無いのに有る」のか其れとも「有るのに無い」のかいまだ判別することが適わぬのだが兎に角其れが「有る」のではないかとさう疑ってかかって來て居るのである。

 

もうそんな哲學的論議はもはや誰も聞いて居ませんのでもっと普通のことを言って呉れ。

はい、分かりました。

 

 

ー参考資料-

死んだら「無」になるか【死後の世界はあるかないか】 - YouTube

死後の世界・来世はどうなるのか?ブッダの答え - YouTube

 

共に其の内容には「宗教的」な意味でのバイアスがかかって居るものと思いますがなかなか「勉強になる」動画です。

 

死んだらどうなる? 最先端 量子科学が示す・死は存在しない【宇宙一わかる仏教的解説】田坂広志著 - YouTube

 

特にこちらの方は至極面白く為になりました。

こちらでは「浄土眞宗」的なバイアスがあるものと思われるが其処に科学的な視点を盛り込んだところは評価出来る。

 

尚自分は「生死」とのー虚妄ー分別を生じさせる現象界其れ自體を壱種の「負の過程」であるとさう考えて居り其れは世間での「正の過程としての文明ー人間ー」との認識とはまさに逆方向でのものとなり要するに釈迦やキリストなどのある種の悲観的認識により近いものです。

但し其の悲観論より出発してどう「正の過程としての文明ー人間ー」の部分を是認して行くかと云うことをこそ此処数年は目指して参りました。

 

左様に現存在の認識は正負即ち常と断、つまりは〇と✖のどちらかを選び取ることになるが故にむしろ「不完全」なのです。

但し其の認識を正すには、

 

1.釈迦の世界観

2.キリストの世界観乃至は大乗各宗派の世界観

 

のいずれかに拠らねばまずは治らぬことでせう。

 

前者は分裂した価値に於ける「自己による弐重否定としての放棄」のことであり後者は「自己否定としての神か又は佛への帰属」のことで結果的に後者でもまた所謂「現世利益」を放棄することとなる。ー其れも厳密にはー

 

 

最終的に我は此のいずれでも「救済」が成立することを理論的に解明致しました。

さて科学の方のことですが、其の現代科学は次第に「非科学的」な領域へと踏み込んで行くが如くです。

 

但し其のことはむしろ決して惡いことなのでは無くむしろ望ましい方向性なのでせう。

ですが問題は近代科学がまだ幼かった頃にし出かした「悪戯」によりすでに地球環境が破壊され地球が瀕死の状態へ至って仕舞って居ることだ。

 

其のやうにむしろ地球は「幼稚な科学の力」により破壊され其の破壊を宗教は止めることが出来なんだ。

まさに其処にこそ問題があった訳ですが現在自分が個人的に「犯人」だと疑ってかかるのは上記2.の方での宗教的展開です。

 

即ち2.の他力救済の側が「現世利益」に毒され即ち堕落した=不純化したとの面が此のところ強く感じられて参りました。

其れは其れこそ神父様や御坊様方には耳が痛くなる話かもしれんがどうも其の辺にこそ此の地球の破壊者としての眞犯人が潜んで居るのではなからうか。

 

なんですが其れ以前での犯人は無論のこと「資本の論理」こそが其の眞犯人です。

つまりは其の「搾取體制としての資本主義」其のものがまさに極惡人なのだから。

 

 

では年寄りの常にて何度も繰り返す話題でまことに恐縮ながら自分の好きな「クラシック音樂」のことに就き述べる。

尚自分の好きなことをするのは其れが「刹那主義」なのでもまた「利己主義」なのでも無い。

 

逆に現代社會の支配層の方の仕事振りこそがまさに其の「刹那主義」であり「利己主義」者の集まりなのです。

彼等は此の世をこんなに生き辛く矛盾ダラケにして置きながらまるで責任を取ろうとはして居ない。

 

そんな大豪邸にプールを造りまた美人妻や妾をはべらせおまけに金にあかせてゲージツ品などを買い漁る訳です。

また政治家などもまたバカが多くでも其のうちの壱人が先日密造銃にて撃たれて死にました。

 

だからそんなバカ共には今後何が起きるものやら分かりませんよ。

ありゃまた何だか知らんが世に對する文句を垂れておった。

 

 

此の度とあるCDをヤフオクにて落としたがあくまで中古品なので如何にも安上がりでした。ー「伊藤わか奈」氏のデビューCDー

 

 

伊藤わか奈 plays BEETHOVEN - Fukuda music-1

伊藤わか奈 plays BEETHOVEN - Fukuda music-2

伊藤わか奈 plays BEETHOVEN - Fukuda music-3

 

PROFILE | ピアニスト伊藤わか奈 Wakana ITO オフィシャルウェブサイト

 

さてあまた居るピアニストの中では其の「伊藤わか奈」さんと云う東京藝大出の地元のピアニストー現東京藝大ティーチング・アシスタントーが自分は結局壱番好きである

 

伊藤わか奈 ピアノリサイタル - YouTube

 

 

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲演奏會 第七回ワルトシュタイン編
ー2016ー

 

 

ー2014年から16年まで、名古屋市文化振興財団主催により ≪ベートーヴェン ピアノソナタ全曲演奏会 全8回≫を開催。観客動員が各回250名を超える等、好評を博した。ー伊藤わか奈×ベートーヴェン ベートーヴェンピアノソナタ全曲演奏会(全8回)第7回『ワルトシュタイン』編 | Facebookより

 

實際こちらの演奏會がどんなに良かったことか。

其の全八回の演奏會のうち七回迄をかって聴きに行ったのです。

 

其れも知らなければおそらくはまるで知らずに終わって居たことでせう。

だが「知った」からこそさうして経験することが出来たのです。

 

其の演奏會は「スタインウェイのピアノ」スタインウェイ・アンド・サンズ - Wikipediaのある各区の文化會館にて行われた。

わたくしは当時病院に勤めて居たが上手く有休を使い其処へ行くことが出来た。

 

勿論其の「熱田文化小劇場」での演奏會にもまた出向きました。ー熱田区は西隣の区で比較的近く🚲にて行けるー

さらに「後期ソナタ」を聴いたのが確か「緑文化小劇場」の方だった。ー緑区は東南の区で比較的近く🚲にて行けるー

 

其のベートーヴェンの「後期ソナタ」を生演奏で聴いたのは其れが初めてでした。

ところで自分は当時そんな高尚な音樂が分かる高級な人間は僕以外に居ないとさう勝手に思い込んで居ましたので其処に結構聴衆が澤山入り周りを見渡すと皆分かったやうな顔をしつつ聴いて居るのを見て其処に少なからず衝撃を受けたものだった。

 

尚確か「守山文化小劇場」での演奏會での時にCDを買ったが其れは今回ヤフオクに出て居たデビューアルバムとは違う物である。

勿論其のCDは今でも屡聴き込んで居る。

 

 

さて其の音樂と繪画の違いとは自分に取り「気分」と「想念」の違い程に違うものとして常に認識されて居る。

どちらも大層好きで其の「好きさ加減」にはほぼ違いが無いのであるがどちらかと言えば「気分が落ち込んだ」時には樂曲を聴き「想念が行き詰まった」時には繪などをネット上の画像として引っ張り出し鑑賞することなどが多い。

 

其れでどちらも「気分転換」には大いに役立つ。

「気分転換」の為にTV番組などを視ても特に民放の番組の場合は其のCMの長さと番組の細切れ感に余計に腹が立ち=ストレスが溜まり何か後味が悪くなったりしがちである。

 

そんな気難しい人間である我に取り「藝術」は常に心を癒して呉れる無弐の友である。

ちなみに壱種變な話ながら自分が高校時代に弐年生の時美術の教師が担任となり参年生の時には音樂の教師が何故か担任となったのだった。

 

さうかと言って中学、高校と担任の先生が「國語」となったことはまた壱度も無かったのである。

 

 

まさに自分が常に「藝術」に就き語るのは其れが此の世の価値の中で壱種突き抜けた視点、視座の部分を常に確保して居るからなのだ。

先の養老先生の動画の中でも「藝術」のことが語られる部分があるが其れによれば「藝術は言語としての作用の壱面」だと云う理解がある。

 

尤も自分の場合は音樂や繪画に對する感受性がまた少し違うのか、兎に角其れ等は「言語以前での表現」だとの感覚が強くして居るのである。

つまりは左脳ー論理脳ーを使う以前に右脳の方で聴いて居る感じである。

 

對して文學の方は其れも小説などは論理脳の方が働き其れを読むのであらう。

但し「詩」の方は明らかにむしろ音樂や繪画の方に近い面がある。

 

尚藝術は自分に取り「癒しの道具」であるばかりか「闘う為の武器」ですらある。

さう此の世界を指し貫く理不尽な現實の様とまさに闘わんが為の道具のやうなものなのだ。

 

事實此の世界に藝術があればこそ其の間断無き闘いに立ち向かう闘志が常に涌いて來やうと言うものだ。