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「近代の呪い」とはそも何ぞや?ーかの渡辺 京二先生を追悼せんが為の「近代」論ー

「近代の呪い」とはそも何ぞや?ーかの渡辺 京二先生を追悼せんが為の「近代」論ー

 

 

 

 

さて思想の方では渡辺京二 - Wikipedia先生が昨年暮れにお亡くなりになったやうです。

先生の御逝去に際し心より御悔みを申し上げます。

 

個人的に渡辺 京二先生は「近代」に對する深い洞察と知見を持たれた方であるやうに感じて居ます。

わたくしもまた此処にて何を論じて居るかと言えばまさに其の「近代」のことのみです。

 

「近代」が生じさせる「罪」のことをかうして個人的には書き描いて來て居ます。

故にか自分の場合には最初から「近代的価値」に對し批判的であり且つ否定的です。

 

ところが渡辺 京二先生の御意見の場合はいま少しマイルドな感じが何処かして「近代」=「馬鹿」だとさう口汚くののしらない部分をこそ勉強させて頂いて居りました。

自分は兎に角こんな「近代嫌い」な人間なのでソコんとこはもう直らぬものかとさうも思いますのですが兎に角其の近代に對し「腹を立てる」ことへの緩衝材として渡辺 京二先生が書かれた壱冊の著作をかねてより愛読させて頂いて居ます。

 

 

近代の呪い - 平凡社 (heibonsha.co.jp)

 

尚わたくしは渡辺 京二先生の著作として此の壱冊のみを読んで居ります。

また實はたった今此の本を読み返して居るところです。

 

渡辺京二と上野昂志、「思想史的知性」と主体の毅然 - king-biscuit WORKS (hatenablog.com)

 

ータイトルに「近代の呪い」とあるが、渡辺氏は近代を否定しない。
近代は人権・平等・自由という贈りものをもたらした。
また、近代化は衣食住における貧困を基本的に解決したと捉える。
もちろん、今日において、社会的な格差は拡大しているという見方はあるし、それは重要な論点であるだろう。
しかし、渡辺氏の認識によれば、それは近代化に伴う本質的な問題ではない。

私たちにかけられた「近代化の呪い」とは、次の2つであるという。
1つは、グローバル経済の進展によって国家間の競争が激しくなり、民族国家の枠組みを強化していくこと(渡辺氏は、ウォーラーステインを引いて「インターステートシステム」から考察している)。
もう1つは、近代科学が私たちの生きる世界=コスモスを対象化して、自然を資源化し、世界を人工化していくこと、である。ー三浦小太郎『渡辺京二』+渡辺京二『近代の呪い』を読んで (marrmur.com)より

 

『近代の呪い』を最初に読んだのは此の本が出された2013年のことですでに拾年近くが経って居ます。

今回の再読は四度目程となりますが何度読み返しましても此の本より大きく影響を受けた自分を其処に発見する思いを新たにします。

 

其れと今回は「第壱話」の部分で「自立的民衆世界」を解体するに及んだのがまさに「近代」だと論じられて居る部分に以前にも増して興味を惹かれました。

「近代的自我」は共同體を解体し「國家」をより強力に維持することで國民として生きる我我民衆の自立性を奪う=洗脳するに及ぶ=我が表現、との論理はまさに其の通りでのことでせう。

 

要するに近代的政治は自由だの平等だの人権だのを文明社會に確立せんが為の社會的営為である訳ですが常に「國家」と連動して行われる其れは逆に眞の意味での自由だの平等だのを奪い去りさらに人権の部分にさえ大きく制限をかけることとなる。

 

どだいかって弐度行われた「世界大戦」に於いて其の自由や平等や人権はむしろ大きく制限されて居たことでせう。

故に問題は其のデカい「國」の意志が果たして必要なのかと云う部分にこそ集約されて來る。

 

個人的には其の「國」の意思決定に對し大きく疑問を持つ。

ところが近代を推進したものの正體とはまさしく其の「國力」である。

 

其の「國力」がそも無ければ無論のこと「近代國家」など成立し得ない。

また「國力」を付けるには経済的にまた軍事的に兎に角頑張らねばならない。

 

要するに近代とは「國力」にて文明を駆動させて行くことなのだ。

但し古代文明の世界などもまさにさうでもしも「國」が弱ければ其れこそすぐに滅ぼされて仕舞う。

 

其の原理其れ自體は弐千年経っても変わりが無いやうにも見える。

逆に「変わりが無い」から文明はダメなんでせうが…。

 

其の「力の論理」にて何かを組み伏せ其の分勝者が肥え太ると云う文明のあり方其れ自體が「理性的」なものだとは言えず要するに至極「野蛮」なものである。

 

 

渡辺 京二先生の「近代」に對する概括的な理解は正しいものであるやうに個人的には感ぜられる。

尚個人的に考えるところでの「近代化の呪い」とは以下の概念となる。

 

1.近代化とは価値認識の無制限化ー非限定化ーのことである。

2.価値認識の無制限化は認識の「抽象化」の上にこそ成り立つ

 

3.SF文學的に言えば近代化は「自然からの人類の離陸」であり「神人間」を此の世に誕生させること其のものとなる

4.近代化は必然として理性VS.本能の最終戦争を招かざるを得ない

 

近代の豊かさとは言うまでも無く現存在が自然から離陸し初めて得られるものである。

其の離陸は離脱だと言い換えても良い。

 

問題は其の自然から離脱しどうするかと言うことながらとりあえず現存在の今の望みとはより豊かにまたよりスピードアップして何でも出来ないかとさう考えて居る訳でつまりは其れが所謂「近代的価値観」だと云うこととなる。

ところがそんな欲に目が眩んだ状態にてもう参百年も近代をやった御陰で、

 

5.環境破壊による地球温暖化

6.経済的な格差と経済的な不安定さ

 

との大問題を文明が抱えるに至った訳だ。

 

だから其れはもはや事實として「間違い」=「誤り」=✖なんだ。

だが誰も「✖」だとは言わないが其れは何でだ?

 

だって「✖」だと言ったが最後もう御仕舞だ。

「文明=バカバカ」とアノ変な詩人の如くに言い始めたらもう全てがおじゃんとならう。

 

 

世界の人工化=認識に於ける抽象的合理化のことだと考えられやう。

勿論何で其れが出来たのかと云えば現存在が利口で所謂大脳新皮質を進化させたからである。

 

だが其の利口其のものが實は綱渡りでの利口さのことである。

何故なら現存在はいまだに日日クソを垂れてる動物なのだから。

 

また👩の股の間からボコッと子を産んでる単なる🐒の壱変種である。

そんな🐵共の群れがまさか「神」なのだと?

 

なので其処には「理想=願望」と「現實」の上での乖離が常に引き起こされる。

即ち抽象的理念と具象的現實との齟齬であり矛盾の様である。

 

其の「抽象的理念と具象的現實との齟齬であり矛盾の様」は文明が進めば進む程により酷くなる。

例えば「仮想通貨」なるものが生み出され屡其の価値が暴落したりもして居るが其れは弐重の抽象性によりそんな不安定なものとならざるを得ない訳だ。

 

また気候の方も近年酷く不安定化して來た。

何故不安定化するのかと言えばおそらく「理想=願望」が抽象的に過ぎるからなのだらう。

 

 

さて其の離陸型の文明乃至は離脱型の文明は「抽象的理念」により象られる其れ自體が「人工物」である。

つまりは其の「脳化」ー養老 孟司先生による表現ーされた「人工物」としての世界が唯壱現存在が生きる「場」として機能するのである。

 

ところが其の行為其れ自體に「抽象化の罠」のやうなものがすでに仕掛けられて居る。

ごく簡単に言えば、例えば猛獣共が自称詩人を食おうと思い今此処にやって來るとしてみやう。

 

無論のことまず僕は驚くことだらう。

「ぎゃあああああああああー。」

 

然し其のぎゃあああああああああーと叫ぶ間にすでに自分は壱嚙みされておる。

では壱體何が來たのですか?🐅ですか🐊ですか其れとも🦈ですか?

 

うーん、どうも良く分かりません。

要するに其の「概念的な判断」の前にすでに何者かの牙により體の壱部を食い破られて居たのです。

 

 

だからさう云うのがまさに「具象的」な此の世での展開なのだ。

また主に「本能」とは其の「具象的」な領域での「合理化」のことだ。

 

するとアンタが食われたのは其の「本能」に取っての「合理化」なのですね?

あったりマエダのクラッカー。

 

要するに「理性」に取っての「合理化」と「本能」に取っての「合理化」を成立させんが為の場がそも異なって居る。

文明世界が「自然」を破壊して止まぬことなどもまた其の通りでのことでせう。ー場違いな進歩を同じ場にてやるから自然が壊れるー

 

なので最終的には、

 

理性⇔本能

 

との弐項對立の場にて最終戦争ーまさに其れがハルマゲドンか?ーが引き起こされ現存在は其の文明ごと滅びて行くことだらう。

ところでもしや此処は「人類若しくは文明」が滅びた方が良い処なのでは?

 

ちょっと違い其れが滅びることを前提に何でも目壱杯にやって置かうと云う処ですね。

但し大人が嵌まり易い惡い遊びの類を除いて。

 

 

では「理性」其れ自體が惡者なので?

「理性」其れ自體が惡いのでは無く内なる「本能」と「理性」とのバランス化を忘れるところにこそ惡=罪=煩悩が生じるのだ。

 

其の「合理化」のことに就いても「文明」が行う合理化と「自然」が行う合理化とは根本での価値認識の尺度が異なります。

また其れは大脳新皮質が欲する合理領域と大脳旧皮質が欲する合理領域とがそも場と質を違えて居ると云うことである。

 

でもって其の「違い」=所謂「差異」の部分より認識上の對立が生じます。

問題は其の對立から逃げるのでは無くむしろ現存在の側より其の對立関係の上でのバランス化を図らねばならぬと云う点にこそある。

 

要するに合理的に「暴走」を続けるのでは無くして時には「立ち止まり」相手ー自然ーの反応を窺ったりすることが大事なのだ。

 

尚「立ち止まる」為に大いに役立つのが「文學書」や「哲學書」の類のものです。

また宗教や藝術の分野もそんな大いなる「無駄としての価値」を我我現存在に与え続けて呉れることでせう。

 

 

抽象的価値⇔具象的価値

 

さて此の概念上のバランス化を兎に角考えて行く必要がある。

即ち其のバランスが崩れると往往にして、

 

自然<文明

 

ともなり易くなる。

だがイザさうなるとすでに元に戻すのは至難の業なのだ。

 

逆に言えば「近代」とはあえて其のバランスを崩し、まさに

 

自然<文明

 

として生きて行かんが為の「革命的」認識装置なのだ。

 

さて其の、

 

抽象的価値⇔具象的価値

 

を實現せんが為には必然として「抽象的価値」への制限が必要となる。

 

 

7.田舎へ移住し「近代的価値」=「抽象的価値」を自ら制限すること

8.國家による「洗脳」を解き出来得る限りに「自立性」=「精神的自由」を得ること

9.アナキストは元元「國家」なんて嫌いだが非アナキストは其の「國」が奉ずる価値に「洗脳」され易い

 

でも「抽象的理念」により象られる価値は概ね猛獣共の牙の力以上に強くありませんか?

つまり「ガアオー」とやられる前に事實上は文明の側こそが自然を調教し且つ支配して居ますでせう。

 

其の通りです。

なのだが其れはあくまで合理主義的還元論の枠内での御話で其れこそ全體論的には例えば「地球温暖化」壱つにすら文明は立ち向かうことが出来ない。

 

地球温暖化」とはでは自然の摂理なのですか?

いいえ其れは明らかに人為的な構築物即ち人工の場にて仕出かした大問題でせう。

 

かうして何処までも「地球温暖化」が進むのはズバリ現存在としてのホモ・サピエンスがバカだからですか?

其の通りで現時点ではまあバカだとしかあくまで言えぬことでせう。

 

 

さて其の『近代の呪い』にて渡辺先生は「近代的」価値を全否定されて居る訳では無い。

あくまで其れはわたくしの場合も同様なのだが「近代的」価値はなるべく限定的に扱うべきと云うのが我が結論なのだ。

 

要するになるべく減らしなるべく捨て去る。

なので本当はなるべくPCなどもやらない方が良い。

 

なのではあるがかうしてPC人間とはなっちまってる。

 

ところで其の「科学」は正しいんですか、其れとも間違って居る?

科学技術や資本主義は「拡張」の概念のさ中にこそある。

 

故に近代とは「価値認識の無制限化ー非限定化ーの暴走」なのだと捉え得る。

其の「暴走」は必然的に「破壊」を齎す。

 

但し「価値認識の無制限化ー非限定化ー」は同時に物質的な意味での豊かさをも齎す。

すると「溢れんばかりの物の洪水」のさ中にイキナリ破局が訪れると云うやうなものなのか。

 

また上手いことを言いましたね。

其れは要するにリスクの方もまた「無制限化ー非限定化ー」されて居ると云うことなのだ。

 

だから何時何が起こるかはもはや誰にも分からん訳だ。

尤も人生其れ自體が元元そんなもんなのですが…。

 

要するに動物の生もまた現存在の生も本質的にはまるで同じことで何時何が起こるかは元元誰にも分からぬことなのだ。

だけれども其の「綱渡りでの生」をあえて生きて行かねばならんのが我我生命なのだと云う事。

 

 

だから「頑張らう」が「頑張るまい」が其れは大した差では無く最終的に生命は其の平等としての悲劇をこそ背負って居る。

だが同時に「生きる上での喜び」も同様に背負って居る。

 

なので現存在が保ち居る社會的な価値が上だから人間としても上だとさう捉えるのは誤りだ。

要するに地位だの年収だのそんなもので人間の価値などはそも決められないのだ。

 

極論を言えば文明社會が大嫌いな人であれ「生きる上での喜び」を持つことだって可能である。

問題は文明の齎す価値をまさにそんな風に捉え得る人はごく少ないと云うことだらう。

 

従ってまさに其の部分こそが社會的な意味での価値上の「洗脳」で無くて何なのだらう?