目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「有無」判断に於ける哲學的随想ー宗教論を交えたところでの壱つの現象論ー

「有無」判断に於ける哲學的随想ー宗教論を交えたところでの壱つの現象論ー

 

 

 

 

松田聖子が中大法学部の通信課程を卒業…愛娘の急逝経てアラカンで“学び直し”の深謀遠慮 (msn.com)

 

かうして此の人は實は頗る頭が良かったのだった。

 

 

さてつい先程3時間程かけて書き込んだ「哲學的内容」の作文が全部消えて仕舞いました。

其れも非常に良い作文だったのですが残念ながら皆様は其れを読むことが出來ぬ。

 

でもとりあえず自分は読んで居ますので其の内容をカンタンに御浚いすること位は出來る。

 

まずは高IQ者は🐈が好きだとのことがとある記事に書かれて居た。

さらに「不安症」にもなり易いのださうだ。

 

また他者を理解する能力に長け夜更かしをするとのことである。

要するに「気付く力」が並みでは無い。

 

ワタシは正直ほとんどの項目で其れに該当して居ました。

でもワタシの持ち味はむしろ高いIQでは無く「思考力」の方でせう。

 

其れも宗教論などを交えつつ「哲學する」ことが得意ですので其れこそそちらの分野でならば僧侶や司祭様などと法論を戦わせることなども可能なのだらう。

ですので其の部分を絡めつつ所謂哲學上の課題に就きまた長長と論じて居りましたのです。

 

でも其れが突如全部消えましたのです。

 

 

0.此の世は現實か否か

1.「死後」の世界の有無

2.「神」の有無

3.「自由意志」の有無

4.ニンゲンと動物の違い

 

と其処迄書いたところで其の記事をも含めて全部が消えました。

其の消えると云うことは余りにも情けない話です。

 

さて其の「有無」の問題ですが、ワタシの場合は全てを「弐元論」並びに「對極主義」にて考えることにして居る。

まさに其のことが自分に取っての哲學的帰結であり哲學的方法論なのです。

 

つまるところニンゲンに取っての此の世とはそんな「弐項對立」として妄想されるー認識上さう構築されるー世界なのだから。

でもって「有無」の問題は其の全てが、

 

有⇔無

 

の命題へと帰する。

 

ところが「有」と「無」は其れ等単独では「現象」することが無い。

言ってみれば両極があってこそからうじて現象しまた「有」と「無」とに分離される訳だ。

 

故に「有其のもの」と「無其のもの」はそも此の世に無い。

では何が此の世に有るのかと言えば其れは其の分離して捉えるだらうニンゲンの認識上の癖のみだ。

 

ですので0.より3.迄は全て其の論理にて説明することが可能となる。

 

たとえば1.は、

 

生⇔死

 

とのことですがさうして分離し認識する限りは「死」もまた有りませう。

でも「ほんたうの死」が何であるのかはニンゲンの認識にまず捉えられない。

 

「ほんたうの死」やまた「ほんたうの生」やさうしたより本質的な認識領域ではニンゲンの認識はまるで役に立たぬ可能性が高くあるが故に。

其のことをかって哲學者のカントが「物自體」とさう述べて居る。

 

但し佛法ー釈迦自身や禅宗の捉えるところでのーでは其の相對分別認識自體を否定的に扱うが故に「生も死も無い」とのこととならざるを得ない。

要するに其の概念による「区別」をむしろ消し去る訳ですので、

 

5.生も死も無く

6.貴賤も何も無く

7.本來無壱物でもって平等

 

となるのですが其の「平等」とはニンゲンはバカさ加減がむしろ平等との御話のことですね。

ですので釈迦自身や禅宗の場合には「死後」も無く「神」も無く「自由意志」もまた無い。

 

 

と申しますかそも其のやうに分けては考えぬ。

ところがクリスト教やイスラーム教などでは間違い無く「死後」は有る。

 

何故なら其のやうに教義が組んであるからなのだ。

なのでみんなが教會やモスクへと出向き其処にてまさに御釈迦様のやうなことを述べると邪教徒としてまずはソコから追い出されることであらう。

 

まあでもボクならやらんでも無いことなのですが…。

教會やモスクへ御経を持って乗り込み法論をば挑む。

 

あれ何やら恰好が良い。

 

其れと重要なことがあり「浄土教」はむしろ「死後の世界」をほぼ絶對化して居る部分です。

其のことは「浄土教」が純粋な佛法では無くむしろ壱神教に近いものであることを論理的に明らかにして居る。

 

また日蓮宗なども明らかに壱神教的な排他性を根強く持ち合わせて居る。

さらに密教に至ればほぼヒンドゥー教化して居りまあほとんど佛法とは言えぬことなのでせう。

 

ですが自分は不純な佛法をむしろ否定しません。

 

正教⇔邪教

上座部佛教⇔大乗佛教各派

 

何故なら其れ等もまたさう「分離」されて居りますが故に。

まさにソコには「相剋」し且つ「相即」する関係性がしかと認められますが故に。

 

「相互依存関係」

まずは其のことをこそ知って置いて頂きたい。

 

其のことが佛法で説かれるところの「縁起」に於ける極同士の関係性のことなのだ。

例えば、

 

漢⇔👩

 

コレなどは全然違うやうに見えて元は「同じ」である。

其れが分化して🚹と🚺とに分かれる。

 

さう「縁起」するものは其れ自體で完結しない言わば中途半端な不良品ー瑕疵品ーのやうなものであるに過ぎん。

つまりは其れ自體で「完結」することが出來ず「自立」すら出來ぬものとさう相場は決まって居る。

 

「自立」すら出來ぬのだからソコには「自己」も何も無い。

但し其処へ認識上の「眞我」を設定することだけは或は可能なのやもしれぬ。

 

 

神⇔佛

自由意志⇔決定論

 

此れ等の命題もまた同様。

 

「神」も「佛」もまた「絶對」の存在では無いとあくまで自分は考える。

考えるが其れは「信仰」とはまた違う。

 

「信仰」=絶對的⇔「思考」=相對的

 

とならざるを得ぬが故に。

即ち「信仰」と「疑い=観念」の對立もまた此の関係性にこそ帰結する。

 

絶對的価値⇔相對的価値

 

此の価値對立ですらかうして弐元分離する。

故に「絶對的価値」其のものや「相對的価値」其のものはむしろ此の世に存在し得ない。

 

言わば事の「本質」方面での価値對立はかうして自然と「両義的」な方向へと向かわざるを得なくなる。

 

4.ニンゲンと動物の違い

 

ニンゲンとドーブツは果たして本質的に異なるや否や?

 

ニンゲン⇔ドーブツ

 

ニンゲン=本能+理性

ドーブツ=本能

 

だからまずは違う。

 

違うのですが、あくまで多分にニンゲンはドーブツなのでもまたある。

逆に申せばニンゲンはまたすぐにドーブツへと落ちて行く。

 

「酒池肉林」

 

たとえばココへは實に堕ち易い。

またギャンブル、其れも億単位での金を賭けた遊びなどが。

 

だから🗾の希望の星であるアノ大谷君がもしもダメにでもなったらどうするの?

其れも此れも結果として其の賭博が招いた「惡」のことなのではないの?

 

だから漢は普通👩か酒かギャンブルでもって大抵の場合は身を持ち崩すものとさう相場は決まって居るの。

 

兎に角ニンゲンは純粋な「理性體」では無く半分はむしろドーブツなの。

其れも🐈にも🐕にもさらに🐼や🐊や🐍などにもすぐになれるのです。

 

じゃあ👽などにもまたなれるのですか?

残念ながら其れはなれません。

 

ワタシなども實は何遍か本気になり👾化しやうとしたが其のことばかりは流石に無理でした。

 

「ニンゲンもまた所詮はケモノ」

 

まずはさう思って置く方が無難なことであらう。

 

 

0.此の世は現實か否か

 

かう云う部分こそが映画の『マトリックス』などでも描かれる部分なのですが、其のこともまた「弐元論」並びに「對極主義」にて其れに就き考えることが可能となる。

 

現實世界⇔仮想現實世界

 

まずは其れがどちらの極であるかと云うことはむしろ「問題」だとは捉えられぬことです。

つまりどちらにせよ同じやうに「破壊」は生じ其の「破壊」を食い止めるが為には「他方を認める」=「認識上の『愛』に目覚める」以外のことではあり得ない。

 

「破壊」を食い止めるが為にはさう『愛』を重視して行くより他は無し。

例えば「北斗の拳」などでも始終其の『愛』と云う言葉が出て來ますのですが…。

 

其の『愛』とわたくしの語る『愛』とはまた別物となる。

つまるところ『愛』とは其の分離である。

 

さう引き裂かれた認識としてのニンゲンに對する「慈悲」の思いこそが其の『愛』としての核心部なのだ。

またうまいこと佛法とクリスト教の教義とをくっつけて…。

 

あれ見破られましたか?

もう其れを無理やりにくっつけて置いて早く逃げやうとさう思って居たのだがついに正體を見破られたのか!

 

でもってそもドッチなのだ?

此の世はバーチャル世界なのか其れとも非バーチャルの世界なのか?

 

だから其れはドチラでもエエ御話なのだ。

またどちらとも決めかねぬ話と必然としてなる。

 

何故ならそんな極としての要素が自立して居ないのだから。

此の世の全てー現象界の全てーは其のやうにむしろおしなべて非自律的且つ自立的なまるで浮草の如き事象ー現象ーである。

 

つまりは移り變わり行く其の場其の場での刹那の記録ー記憶ーのやうなものであるに過ぎずよってソコには實體は無くまた意味も無く本質的にはまさに「空」なる「無壱物」であるに過ぎん。

また上手いこと「空性」やら「禅」の思想やらとくっつけて。

 

あれヤッパリ其れもまた見透かされて居たの?

じゃあ君に見えないことを言うには果たしてどうしたら良いの?

 

でもそりゃあ無理だぜ。

何せ君は僕で僕は君なんだもの。

 

さうか、さうだったのか。

御前はヤッパリワシの惡の片割れなのだな!!

 

…では無く、むしろ君が僕の片割れでありしかもまさしく「惡」の片割れなのです。

うーん、なんだか何が何だか分からんわい。

 

 

もう御前もろとも滝の上から飛び降りてやらうか。

おいおい、ちょっと待った。

 

何故ならたった今ココに綺麗な石が有る。

ええっ?其れは果たしてどんな石で?

 

コレは遠い印度より我が國に輸入された物凄い石の壱つなのよ。

さても印度の何処から届いたのでせう?

 

そんな遠くの印度のカシミール地方だな。

印度のカシミール地方だって?

 

するとまさか其れは「カシミールサファイア」のことなので?

さうだ、まさに其の「カシミールサファイア」がたった今机上に有る。

 

其れは無いのでは無くちゃんとかうしてたった今ココに有る。

もしや其れもまた「空」なる「無壱物」の壱つなので?

 

まあ本質的にはまさにさうであらう。

だが「本質」と「現象」とはまた常に違う。

 

本質⇔現象

 

其れは互いに無関係では無いがかうして「極」として成り立つだらう何かである。

其の「極」として成り立つだらう何かは「美しいもの」である可能性が半分位は常に有る。

 

美⇔醜

 

まさに其処にて「美」は「醜」と對になることでこそ光輝く。

「醜」はまた「美」により磨かれさらに醜くもならう。

 

「有」とは畢竟さうしたことよ。

其の時初めて「有」は「無」の軛から放たれ己が體に光を纏う。

 

「光あれ」

あら今度は旧約聖書の方ですか?

 

尚クリスト教によれば光とは「神」其のものなんださうです。

であるとすればアノ「大日如來」などもヤッパリ神の化身なのか?

 

とのことで本日壱回目の作文以上に色色と考えを書き込んでみました。