「両義的」に見詰めたところでの『北斗の拳』評ーTVアニメ『北斗の拳1』に於ける「右の思想」より是非學ぶべきことー
さて本日是非語りたいのがTVアニメの『北斗の拳』のことである。
自分はマンガやアニメの論評もまた好きなので是非其れに就き語りたい。
但しマンガやアニメはそれが即「藝術表現」足り得るかと云えば其れはさうでは無く基本的に「藝術作品」よりもよりフィクション性が強いものとならう。
であるからこそかって音樂や繪画などの藝術は学校の教科となってもマンガやアニメはさうならなかったのである。
但しすでに時代は移り變わりよってマンガやアニメーションなどの専門の学校や教科などがすでに存在することだらう。
でもって現在わたくしはTVアニメの『北斗の拳1』の方をほぼ見終わる頃にさしかかって居る。北斗の拳 (テレビアニメ) - Wikipedia
そも何でさうなったのかと言えば、
1.『仮面の忍者「赤影」』を視たく東映ヴィデオチャンネルに入るつもりで居て間違えて東映アニメチャンネルの方に入って仕舞った
2.ところが東映アニメチャンネルの方にも評価は低いが「赤影」シリーズがある
3.其れを視て居た処『北斗の拳』の方も視られることに気付く
4.『北斗の拳』は1の方ダケで100話以上もあるので其れを東映アニメチャンネルに入らずに視ることはほぼ不可能だ
5.丁度良いので急遽『北斗の拳』の方に切り替えて視聴中
6.わたくしがまだ廿代の頃にTVに流れていたアニメとなる
7.当時は其れをヴィデオに録画し塾の方が終わってから視て居た覚えがある
8.当時『北斗の拳』からは案外精神的な意味での影響を受けて居る
其れも『ガンダム機動戦士ガンダム - Wikipedia』とはまた違う意味で大きく影響を受けた。
9.「右の論理」であり価値観の話
10.世紀末的な「乱世」を統壱へと導く英雄であり豪傑の御話
11.非合理的な誇張が多く要するに「力の論理」での御話
故におそらくはPTAや左翼の人人には評判の惡いTVアニメだったことだらう。
12.所謂體育會系での価値ヒエラルキーにより雑兵の人権や力の無い庶民の人権はほぼ無視される
13.だが英雄であり且つ豪傑である将達はそもニンゲンの出來が違うので無論のこと優遇されまた場合により「神」や「王」とも崇められる
14.英雄であり且つ豪傑は常に雄雄しくしてさらに👩に優しいー男尊女卑ながら左様に👩に優しくするのがまさに「漢の世界の論理」となるー
逆に言えば其れはヘナヘナしたまさに👨👩の如き所謂「中性的」な生き様であってはならずソレ即ち常に「生きること其のもの」に立ち向かいしかも其れを気力及び胆力とさらに「たとえ死んでも👪や組織を守り抜く」とのそんな美しい漢としての生き様でなくてはならないのだ。
まあやうするに「右の馬鹿」が嵌まり込んで行き易いそんな「美學」の世界にこそ其れは刺し貫かれても居らう。
だが案外其の「ケモノ」的で非理性的な世界がまた面白い。
ソコにはゲージツも何も無く要するに「食うコト」と「👩を奪うコト」さらに「権力を握るコト」の此の単純な闘争世界が展開するのですがさうかと言って其処にデリカシーの如きものが皆無なのでは無くまさに其んな葛藤や逡巡の部分が諸将の苦悩として様様な形にて描かれて行くのだった。
武論尊 - Wikipediaー自衛隊の出身者とのことー
おそらくは原作者と作画家共に「右の思想」の持ち主なのだらう。
15.漢が「困難」に立ち向かうことの重要性
16.漢は「強く」あってこそ「優しく」もなれる点
17.👩は強く優しい漢にこそ惹き付けられる点
特に此の参点にいたく感じ入った。
尚個人的には自分は「中性者」でありそんな『北斗の拳』とは對極の世界を生きる者であらう。
ですが自分は變わって居て實は「両方」がやれるタイプなのだ。
なので「自然」を心より愛する平和主義の理性的ニンゲンである反面特に若い頃は意外に喧嘩っ早く實は殴り合いの喧嘩迄生涯に弐度程経験しても居る。
だが其れはグレたりヤクザなのでは無く学校はちゃんと進学校だったのだしなんでさうなって仕舞うのかまるで分からぬ経験だったのだった。
其れに意外とパワーがあり昔は兎に角速く強い🚙などが好きだった。
ランボルギーニ・カウンタックのデザイナー死去…愛車はスズキの軽自動車「外出するときはこれしか乗らない」の素顔 (msn.com)
H2(ハマー)の歴代モデル・グレード別カタログ情報|中古車なら【グーネット】 (goo-net.com)
其の「ハマー」と云うのを最近とある家で實物を観てコレなどが良いかなとさう思いはじめて居る。ー其れもまた所謂「男らしい」🚙だらうー
18.「性」や「姓ー氏素性ー」が確立されるからこそ良い世界を築ける
19.傑出した将に「力」があってこそ良い世界が築ける
20.さういてこましたれ!
結局のところ「右の論理」とはまさにさうした部分より醸成される「世界観」のことだらう。
また其の事は我が國ではかの「戦國時代」での世界観のことなのでもあった。
結果『北斗の拳』とはまさにそんな「核戦争」後の「乱世」の様を描き出す未來に於ける戦國時代劇なのである。
故に其れは常に「暴力」や「奪取と搾取」とに彩られるだらうまさに「修羅」の世界を描くものとなる。
ところが「資本主義社會」にもまた少し違う意味でのだが本質的には其れとほとんど變わらぬであらう「圧力」や「奪取と搾取」が常に生じて居るものなのだ。
従って此のTVアニメを視るにつけ次第に「身につまされる」気にもまたなるものなのだ。
特に90年代以降の我が國に於ける民への圧政や経済的な意味での「奪取と搾取」の様の酷さを観るにつけまるで此の物語が現實の様のやうに感ぜられるが故に「嗤い飛ばして」視るやうなものではまさか無くむしろ「ほんたうの話」として次第に我には感ぜられて來たのだった。
其れは其れは怖ろしい話で…。
いや確かに怖ろしい話なのだ。
でもって此のTVアニメでは「愛と平和」なるものがまた枢要な作品のテーマともなる。
ところが其の「愛と平和」は例えば左翼のやうに「ヒエラルキーの解體」では實現されぬものともなる。
例えば「聖帝サウザー」なるまるでナポレオンかヒトラー並みに強い西洋の拳法家が結果そんな國粋主義のケンシロウに倒される。
「聖帝サウザー」は「愛」を信じないと言うが實は心優しきまた師匠を敬うであらう拳法家なのだった。
其のケンシロウは「愛」こそが大事だと言う。
だが其の「愛」はおそらく「👪愛」であり「祖國愛」であり要するに「右の愛」なのだ。
逆に「環境への愛」や「地球への愛」を説くのが普通左翼なのであらう。
「聖帝サウザー」はそんな「愛の自己矛盾」のことを知って居るので自己を信じまるで信長公ばりに自力での天下壱統を目指す。
だから此れは「大日本帝國」が未來に於いて復活し地球を征服せんが為の御話なのだらう。
で、「大日本帝國」男児であるならば無論のこと常に雄雄しく敵に體当たりをして👩子供や祖國を守らんが為に散華して行かねばなるまい。
即ち漢は「命を懸け」た上で其れ等の美しき価値を何処までも守って行かねばならぬ。
兎に角其処にて語られるのはまさに命を懸けた漢の力にて地球を統壱せんとする其の権力闘争の様其のもののことだ。
が其の闘争の本質的な意義とは「ケモノ性」である。
何故なら其の「愛」が「アガペー」に迄昇華されることが決して無いからなのだ。
また「力の論理」による「平和」がほんたうの「平和」に繋がるかどうかに就いてもまた疑問である。
例えばかの「大日本帝國」や「ヤクザ」やまた「暴走族」などの方方は普通自らを強くして其の力にて國や組織やまた👩を守るとのことである。
また政治家で言えばかの岸 信介や其の孫のアベなどがまさにそんな考え方であらう。
さらに言えば三島 由紀夫氏などが確かにさうなのだらう。
だから三島 由紀夫氏はヘナヘナ左翼の太宰 治などを酷く嫌っても居た。
ところが三島 由紀夫氏も元元はヘナヘナ人間でもって虚弱體質ですらあったのだった。
なので彼三島氏はむしろ「ケンシロウ」のやうにならうとしたのだった。
さう三島 由紀夫氏が自決したのは「天下」を取らんが為のものであり國を良くせんが為の闘争に負けて死んだ訳なのではまさか無い。
ヘナヘナ左翼はアノ大宰のやうに👩に溺れ且つ其れに頼り仕舞いにはどうにもならんやうになり共に死んで貰うこととなる。
其の武士の死と単なる情死はしかしながらおそろしく対照的である。
だが「愛」とはそも何であるか?
其の三島 由紀夫氏や「ケンシロウ」の「愛」と例えばジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」は同じものなのか?
わたくしには其の「愛」は違うものなのだとさう感じられてならん。
またわたくしの説く「愛」とはジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」と似ているのではなからうか。
何故ならジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」とはむしろ精神的な意味での「革命」のことでありよって其れは「祖國愛」でも「力の論理」でも無く要はソコに資本主義による「資本の論理」やまた「神」による「愛の秩序」が認められるものでは無いのである。
左様にジョン・レノンとヨーコ・オノは「信仰」を持って居なかった可能性が高くある。
がわたくしの場合は其の「信仰」をも半分は認めるので本質的には其れともまた違う「愛と平和」だと云うこととなる。
わたくしにとっての「愛」とは本質的に「ヒエラルキー秩序」の解體のことであるが例えば佛教は明らかに其の「ヒエラルキー秩序」を解體して居りさらにクリスト教もまた原理的に捉える限りはむしろ「ヒエラルキー秩序」の解體をこそ行って居る。
但しイエス・クリストの後にむしろ其の「ヒエラルキー秩序」が堅固に築かれて行ったことは皮肉な話となるのだが。
「愛と平和」
でもソレは佛陀の教説とはまるで関係の無い概念ですね?
さうですね。
そも愛とは、
愛⇔憎しみ
愛⇔戦争ー闘争ー
との弐元的對立世界に於ける相剋し且つ相即するだらう関係性のことなのだから。
つまりは純粋な愛=愛其のものや純粋な平和=平和其のものと云う概念がそも成立し難い。
故に佛陀の教説の場合は其の「分離としての概念」其のものを放棄して行く訳だ。
また其のことをクリスト教の教義としてよりカンタンに述べれば「敵」ー對立概念ーをあえて愛さないと「神なる認識」は實現されぬとのこととなる。
でもケンシロウは其のどちらもして居ないことでせう。
じゃあヤッパリケンシロウはあくまで右翼大日本帝國型での要するにアベ型での「救世主」となるのですね?
どだい🗾人のケンシロウがまたなんでイエス様のやうに「救世主」になどなれますか?
さうだなあ、確かに其の点はオカシイ。
いやマンガとかアニメなんて所詮はそんなもんですよ。
要するに其れは原作者や作画者の「思想」が色濃く反映されるものですので余りソコにベッタリと貼り付くべきではありません。
じゃあ「ガンダム」が命でもって「ボクは今行きまーす!」などと考えて居る還暦世代は皆バカだと云うことなのですか?
だって「行きまーす!」と言っても果たしてドコへ行くのですか?
まさか「ガンダム」のやうに宇宙戦を展開する訳では無くあくまで此の地球上でイクのでせう。
さうした意味ではアノ「グレタさん」の方が遥かに大人でせう。
じゃあ「ケンシロウ」も「アムロ」ももうアホ其のものではないですか!
いや其処迄は流石のわたくしも言っては居ませんのです。
まあマンガなんて元元アホですから、アノ「マジンガーZ」にせよ「宇宙戦艦ヤマト」にせよ皆さうだらう。
でもアナタ、よりによりそんなイヤらしい見方でもって其の『北斗の拳1』を通して視たのですか?
だって自分は曲りなりにも文人ですもの。
だから其のものの見方がみんなとは違うのはむしろ当たり前のことですよ。
あー「ヒエラルキー」をさうして創った。
いやことゲージツに関しては其の「ヒエラルキー」が其れもしかと有る。
尚わたくしが今感ずる『北斗の拳』での良いところとは、
21.漢の頑張りー踏ん張りー
22.生きんが為の本能的充實
23.諄いばかりでの性欲
ズバリ此の参点です。
では何故👨は頑張らねばならぬのか?
其れは生物学的に男性は女性よりも弱く要するに死に易くも出來て居る。
逆に殺しても死なんのが此の世に溢れる👩共です。
でもってむしろほぼ全ての👩共の方が生命力が強いこととなる。
だから元元生命力に乏しい👨はむしろなるべく雄雄しく生きた方が良いこととなる。
要するに其の生命としての本質的な強弱の部分が男性と女性とではまるで異なる。
ですので其の部分に限り「右の思想」が語る部分には整合性が取れて居るのだと言える。
じゃあ「男尊女卑」の方が良い、また「良妻賢母」である方がより良いのですか?
まあ其の通りです。
其の意味では所謂左翼的な「男女同権、男女平等」での思想はまさに其の点を鑑みぬバランスの惡い考え方だらう。
ですので所謂「イデオロギー」に固執すればする程にまたそんな間違いのやうな部分が生じて仕舞うことだらう。
ではアナタもまた頑張るのか?
文明から「逃げたい」ばかりのそんなアナタが…。
いえ元來男性型の生命には壱つの「使命」であり「宿命」があり其れは己が命を充實させて生きんが為に常に「頑張る」ことだ。
エエッ?
よりによりそんな「ヤル気無し」のアナタがそんなことを言う?
いやどうのかうのでは無く男性型の生命は常に「ヤルしか無い」のです。
何故なら「ヤラ無い」と落ちるダケなのですから…。
例えば作品中にケンシロウの属す北斗勢と對になる南斗勢の将としての「ジュウザ」なる人物が描かれる。
彼は美男でもって👩たらしの享樂主義者であり基本的に「仕事」には興味が無くいつも草笛を吹きつつ雲を眺める。
まさに彼は「詩人」であり「戦闘には向かぬゲージツ者であり且つ隠者」なのだ。
だが同時に彼は「運命」としての南斗の役目を担っても居る。
故に拳法の上での鍛錬は欠かさずよってそんな彼は「弱い」👨なのでは無い。
最終的に彼は北斗最強の将である「ラオウ」と戦うこととなり其処にて命を落とす。
其のことはまさに「ヤルしかないのが漢だ」とのことを物語る部分でなくて何であらう?
そんな「戦うこと」こそが漢の甲斐性なのか。
まさにそんなことを言って居るやうで居て此の21世紀での感覚からすれば其れが「粗暴」ですらある。
ところが何の為に戦うのかと言えば其れは「己の命を救うが為に」戦うとの我が発想とはまた異なりあくまで南斗の最後の将である「ユリア」と云う👩の為に戦うのだ。
だからまずはソコが完全に「右派としての防衛の思想」其のものとなる。
右派は兎に角👩や子供を守りついでに天皇制や諸諸の組織やらを死守しやうとしたがる。
あくまで理屈の上ではさうなるのだが實は其の考えには基本的に矛盾が潜む。
だが右派はまずソレ以上のことは普通考えない。
即ちたとえ「特攻」してでも其れ等を守らうとするのである。
だから其れはワタシの考えとは基本的に違うがワタシの場合もまた個としての自分を救わんが為に同様に「ラオウ」と戦うであらうとさう結論せざるを得ぬ。
もしやそんなアナタと「ラオウ」が戦う?
さうだ、我にもまた秘儀がある。
其れは秘儀「観念捻じ込み」と云う技でとどのつまりは「次から次へと哲學上の難題をふっかける」との精神技のことです。
もしや其れでもってアノ「ラオウ」に勝つ?
さう勝つ。
またたとえケンシロウであれ決して負けやせん。
そんな訳でマンガやアニメとはそもフィクション性の強いものであり其れに浸り切ることはむしろ御勧め出來ないが事實上ソコにはむしろ「藝術表現」にはやれぬことであらう現實的な意味での「教訓」の如きものが含まれて居るやうに思えてならない。
また左翼の人人は此の『北斗の拳』に相当な違和感を抱くことでせう。
何故なら「暴力」や「奴隷制」や「女、子供に對する差別意識」が満載の此の御話には我慢がならなくなることだらうから。
でも個人的に我は両方イケるのでさほどソレが気にならない。
また面白いのが此の物語には例えば「村の長老」として良くジジイが出て來て其のジジイが惡漢である兵隊達に決まって何か文句を言うのです。
すると何せ足腰の弱った耄碌ジジイですのでほとんど壱撃でもって彼等ジジイは殺されて仕舞います。
其れも今なら物凄い問題となる話でせう。
また其のこともババアはやらんでも良いのですがジジイには其の村の長としての役割があるので「やらないかん」こととなるのです。
故に個人的には其の耄碌ジジイ達が壱番可哀想に思えましたものです。
かうして男性に對しては「やらないかん」ことが多い右の思想ですがまあ確かに「ヒエラルキー秩序」ダケはキッチリ守られて行くのやもしれん。
逆に申せば近代人権思想を振り翳す左翼思想にはむしろ其の「ヒエラルキー秩序」を解體して行くであらう役割こそがある。
だが其れはどちらが正しいと云う観点にては見詰められぬものともならう。
さて「思想」の全てはさう壱義的に「正義」とはならぬ性質を抱えて居ざるを得ない。
故に常に「両義的」に其れを見詰め且つどちらからでも學べるやうにして置かねばなりません。
ー極論を言えば「両義的」な価値判断がやれぬ故に概念對立へと陥り「平和」であることが壊れやがては「戦争」や「紛争」に至るものと文明に於ける相場はさう決まって居る。ー