目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

マルキシズム及びアナキズムに於ける「愛」の結晶化に就いて

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解く 弐ー
マルキシズム及びアナキズムに於ける「愛」の結晶化に就いてー

 

 

そもそも未開社会では、これらの二つの領域が資本主義社会のようにするどく区別されません。モノの生産だけが生産であり、人間の生産は生産を支える活動であるとはみなさないのです。たとえば、未開社会では人間の形成に寄与した活動に貨幣が付与されることもあります。つまり、未開社会では、あるいは非資本主義社会では、人間の生産が重視されることもあるのです。これを、人間が手段ではなく目的そのものになるといった表現をします。

マルクスは、そのキャリアの初期から『資本論』を執筆する後期にいたる中間のあたりで、エンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』というテキストを書いています(生前は公刊されなかった草稿です)。そこでマルクスは、生産のうちに物質財の生産のみならず、「人間存在自身」の生産、そして社会的諸関係の生産もふくめています。

もう少しあとのテキストですが、『経済学批判要綱』という『資本論』のために書かれた膨大なノートのなかの有名な「資本主義的生産に先行する諸形態」では、古代ギリシアが例にあげられ、たとえ「経済」が問題になっていても、つねにそこでは富が生産の目的ではなく、人間の生産、すなわち、人間の陶冶が目的となっていると強調されています。

 

そして、お金のために人間が道具のようになっている近代より、古代ギリシアのほうが高尚なのではないか、と問います。「そこで、いかに偏狭な民族的、宗教的、政治的規定を受けていようとも、人間がつねに生産の目的として現われている古代の考え方は、生産が人間の目的として現われ、富が生産の目的として現われている近代世界に対比すれば、はるかに高尚なものであるように思われるのである」

むずかしいことをいってそうですが、古代ギリシアでは、生産は富の獲得やその増大、蓄積を目的にするのではなく、あくまで人間の形成を目的とするのであって、富はその手段にすぎなかった、ということがいわれています。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

其の「未開社會」では「人間」が「手段」では無く「目的」となる。

ですので喩え「文明社會」から観て其れがあくまで「貧しく」ともあくまで「人間を高めんが為」の経済活動となる訳ですのでニンゲンは「勞働」に疎外されること無くまた同時に激しい経済的な格差を生じさせることなども無くある意味では其の「人間形成」の部分に関しては「平等」となる。

 

さらに「古代希臘」などでも「富」はあくまで「人間形成」の為の手段であるに過ぎなかった訳です。

ところが「資本の論理」に於いて明らかに其の「富の蓄積」をこそ人間活動の「目的」と見做して行く。

 

とのことは「人間」が手段化されに及び「富の蓄積」こそが其のニンゲンの価値を推し測る尺度と化すのです。

同時に其処では「人間」が商品化されるに及び其の商品としての価値の有無、大小によりニンゲン其のものが「ヒエラルキー化」されるに及ぶ。

 

そんな訳で「資本の論理」とはむしろ経済力による堅固な封建體制を築くものと必然的になる。

またつまりは其のことが企業での役職に応じて労働の對価が決められ其のことは「良い仕事」をしたか否かとはほぼ無関係なものとなるのです。

 

いや確かに「良い仕事」をした人の給料は概して良いものですが逆にたとえ「惡い仕事」をして居たにせよ其の「肩書き」がものを言い其の給料が五拾萬にも百萬にもなり得るのです。

 

 

コミュニズム社会のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求になったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産諸力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち──そのときはじめてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!

マルクスは、資本主義社会のもとでは、人は「こっくりさん」をやっているようなものだと考えていました。つまり、わたしたちは、なにをどう製造しているのか、どこでどう売られているのか、どこまで利潤が生まれているのか、どのようにじぶんに分配されているのか、みずからの生産物が社会的にどのような意味をもっているのか、なぜこの商品はこの価格なのか、ほとんどなにも知らないまま、みずからの労働力を商品化し、貨幣というかたちでの報酬に動かされて生きています(余剰の取得が「経済内強制」によっておこなわれているからです)。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

さう「資本主義社會」では確かに思い切りに価値が分かれて行きます。

 

例えば、

 

資本家⇔勞働者

精神勞動⇔肉體勞動

高所得者低所得者

 

と言うやうに。

 

イザさうなれば其処での極と極のバランスが極めて取りにくくもなる。

要するに常に其れが「弐項對立」化するので實は「どちらに取っても」良いシステムとはならない。

 

哲學的にはあくまで其の「弐項對立」をバランス化しないと最終的には其れが「破壊的對立」を引き起こします。

また其のことは、

 

代議士⇔主権者たる國民

國王⇔國民

CEO⇔平社員

 

などと實は何に於いてもさうなのです。

其れもまた、

 

大人⇔子供

若者⇔老人

男性⇔女性

 

文明⇔自然

🐈⇔🐕

利口⇔馬鹿

 

などと實は何に於いてもさうなのです。

 

「破壊的對立」はさうして弐元的価値のあらゆる領域に於いて生ずるものとなる。

故に其の場に於いてより上位に立つ「価値ヒエラルキー者」=「力の保有者」はむしろ遜り低位者を助けねばなりません。

 

また、

 

善⇔惡

神⇔佛

ゲージツ家⇔凡人

 

などと云う對立に於いても互いは互いに無関係ではあり得ませんのです。

要するにソコには常に「相剋」し且つ「相即」するであらう「縁起関係」が認められまた逆方向での向きこそがむしろ自分を自分たらしめて居る価値の正體なのでむしろ其れをあえて「愛す」必要が生ずる。

 

敵ー反對者ーを愛す?

其はクリスト教の教えですね?

 

いえ必ずしもさうでは無くまさに其れは「大乗佛教」の教えなのでもまたありませう。

へえさうですかねえ?

 

なら日蓮宗とクリスト教は同じものなので?

広宣流布」と云う意味では全く同じだらう。

 

じゃあ浄土教とクリスト教は同じものなので?

はい、どちらにも「天國」=「極樂浄土」が出て來るでせう?

 

じゃあ何故密教とクリスト教が同じとなるのだ?

だって所謂「梵我壱如」での宗教思想でせう?

 

では禅宗とクリスト教はまるで違うのかい。

まるで違ってほぼ全的に對立致す。

 

禅宗⇔クリスト教

 

此の對立がな、實は厄介なのだ。

厄介ながら個人的にはむしろどちらもやりたい。

 

もしや君はそんな「どちらもやる」教祖なのでは?

いえわたくしはそんな新興教の教祖なのでは無くあくまで壱社會科詩人です。

 

 

さう社會科詩人ならまた何で話が「マルクス主義」から「愛」の御話へと飛ぶのだ?

さて何ででせう。

 

さう「資本の論理」はむしろさうして何でも「商品化」致します。

例えば「自然」の諸価値に留まらず「人間」其れ自體もまた「商品化」され其の抽象的な価値に従い「優劣」が決められることとなる。

 

また無論のこと「國家」の価値やまたたとえ「宗教」的な価値ですら「商品化」されるものと考えられやう。

ところが其の「商品」其れ自體に「価値」が生ずるのでは無く其の「商品」がより劣った「商品」を搾取することで得られる余剰の価値を生み出しまたソレを資本家などの上位ヒエラルキー者が略取することでより儲けより肥え太ることこそがおおまさに其の「資本の論理」の目的と化すのだった。

 

 

では其の「資本の論理」こそが「惡の論理」其のものなのですね?

まあさうでせう。

 

其の「惡」にはそも「愛」が無い。

だから平気で木を伐り倒し其れにて巨額の儲けを生み且つ其れを自らの懐へ入れるのです。

 

ー昨日3月18日に瑞穂郵便局へ行った帰りに瑞穂グラウンド横のモクレンの並木を観に行った。ところがもはや何処にも其のモクレンの並木が無い。つまりはまたナゴヤ市が切っちまった。また其の横にカサのよりデカいスタジアム(以前の1.5倍程の)が建設中であった。おい文明、ソレをやる限りもはや君等は生き残れやせん。ズバリあと五拾年も持たんことだらう。ガッカリしたわたくしは其の近くの「あゆちの水」の林を訪れた。ソコにはモクレンの大木が壱本のみ有り其れがまさに満開となって居り其の「文明による自然破壊」の様とは好対照での景観を呈して居た。ー

 

なんだソレ、まるで「惡代官」のやうな奴等ではないか!

ですから最初から「惡代官」だとさう述べて居るのですよ。

 

だから君はこのところずっと🗾共産党を支持するのですね?

いや別に「支持」などはしては居ない。

 

タダ頑張って下さいとさう応援して居るダケのことです。

 

 

このような社会は、わたしたちが協働することで動いているし、わたしたちがそれにどのようにどの程度貢献しているのかはみえるようになっています。でも、それはまだ価値法則に支配されている、つまり、わたしたちの具体的な活動が抽象化され一般化される仕組みのもとにおかれているのです。要するに、じぶんが対価としてうるものは、じぶんが労働として与えた分量に等しいとされるのです。これはせんじつめると、貨幣によって抽象化された市場的交換の論理に支配されているわけです。

それに対して、この「ブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえる」ことができたとき、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」という、本来の(高次の)コミュニズムの論理によってはじめて社会は支配されるのです。そこでは人はみずからの能力に応じて、ということは、人はみずからの裁量によって、つまり能力のおもむくままに働くのですが、その対価は、その働きとは無関係となる。ここでは等価の原理そのものが作動していません。これがコミュニズム、というより、コミュニズムの社会のなかで可能になる原理なのです。

なにかとんでもないことをいっているようにみえるかもしれません。しかし、たとえば限界だらけだとしても、現代の健康保険の考えにはこのような発想が影響していることはあきらかです。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

 

4.「資本の論理」なる経済的奴隷制

5.さう抽象化されるであらう生活及び価値観

6.其の結果としての不幸

 

マルクスが説くところでの「共産制社會」こそが理想の體制なのか其れとも「無政府主義社會」の方がより望ましい未來社會としての秩序として機能するものであるのか、其のことは我我庶民にはまず分かりませんことです。

但し相變わらずカネへの壱方的な奴隷體制を強いる「資本主義社會」に問題があることは多少知能レヴェルが有れば誰しも分かることでせう。

 

でもって現實的に現代社會をまさに「破壊者」として駆動して來たのは紛れも無く其の「資本主義経済體制」です。

ところがむしろ其のこと故に我我ニンゲンは豊かとなれつまりは「良い」生活が営めるやうになった。

 

ですが其の「良い」はさう絶對的に「良い」のでは無くかってよりは少し「樂に」なったかと云うやうなものでもまたありませう。

また實は大量消費によりモノが溢れる状態が本質的に「良い」状態かと言えばむしろさうでは無く逆に「惡い」状態なのだとも言える。

 

つまり資本主義社會が齎した便益の部分と其れが仕出かした環境破壊やカネへの奴隷制だのまた勞働の差別や経済的な格差などの負の要素を天秤にかければむしろ「惡」の方へと傾いて仕舞うのです。

ですのでむしろソコでは何をやっても「良い」のでは無く「惡い」状態となって行かざるを得ぬ。

 

何故さうなるのかと言えば壱部のニンゲンが肥え太るとの経済的な意味での封建體制がまさしく其処に成立するからなのだ。

ですので其の「資本主義経済體制」なるものはむしろ前近代的な「身分ヒエラルキー」の論理を始めから内包することだらうまさに「奴隷制」の如きものなのではないか。

 

故にそんなもんがそも「理性的」なものである筈が無くつまりはケモノ的な強欲の論理が其の根底に巣食うであらうむしろ「原始的な體制」であるとさう考えざるを得ない。

 

ところが本來経済はカネ其のものの膨張ー蓄財ーが目的なのでは無く其れがあくまで人間形成の為の手段として捉えられて居た訳です。

其れが何時からかカネ其れ自體が究極の目的であるかのやうに考えられるに至る。

 

また経済學は其の究極の目的であるカネを社會でもって如何に回し且つ太らせドコに蓄財するかとの御話でせうが全くのところ其れは馬鹿げて居ます。

自分などは大學生の頃其の経済学が壱番嫌いな学科で元より法学部でしたので其れをやらんでも単位が足りた訳でしたのです。

ー経済学にはまた数式なども出て來る。尚自分は其の数式が大嫌いである。ー

 

 

そこでは、労働するだけの能力のある者が働いて、病気で働けない者は必要なものを受け取るといった考えがあることがわかるでしょう。あるいは、労働組合がどのように機能しているかを考えてみてもよいでしょう。ある職場で、その職務に適合する尺度によって「有能」な人とそうでない「無能」な人の区別はかならず生まれます。そのような「能力」の差異、すなわち労働者間の「生産への寄与」によってヒエラルキーが設定されることを阻止することに労働組合の重大な機能があります。アナキストクロポトキンの言葉を用いれば、いわば「相互扶助」的次元です。

それでも、ここに問題があるとしたらなんでしょうか。

まず、このマルクスコミュニズムが「未来像」であることです。生産諸関係の桎梏から解放された生産力の増大が稀少性の論理を克服してはじめて拓かれる、ゆたかな社会を前提としていること、そして、その条件のもとではじめて「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という論理が作動するといった展望であることです。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

此処での「ヒエラルキー形成」の阻止の部分はまた大事です。

ニンゲンにはまず能力差があるが其の優劣により大きく賃金に格差が生ずるのであれば其れは無能力者に「死ね」と言って居るやうなものだ。

 

其の能力差をむしろ相對化しヒエラルキー序列のやうなものにはしないと云うことこそが「勞働」に於ける平等性の担保のことです。

またアナキズムによる「相互扶助」にせよ何でも良いから「資本の論理」に對する「歯止め」の部分を是非儲けて置くべきだ。

 

其の「資本の論理」によるヒエラルキー形成を許して仕舞えば結果まさに現在の🗾社會の如くに派遣社員ダラケとされて仕舞い國の未來も何ももはやありません。

 

つまりは其の派遣社員の取り分を資本家並びに経団連などの強欲組織が奪って行った訳でありむしろ其の故に🗾國の将來は破壊され子は産まれずまた壱般に👩は余計に生意気となり最終的には政治もなにも無くひょっとしたら「市民革命」などがドオーンと其処に起こるのやもしれません。ーさらに言えば「公的搾取」の部分などが其処に生ずるに及ぶ。即ち國會議員による「脱税」や「責任逃れ」などが横行するに及ぶ。ー

 

また資本家や投資家などの強欲は常に「たった今」の利益にしがみつくものであり其れは🗾社會の将來だのまた地球の未來だのと云う先の見通しを立ててから考えられるものでは金輪際無いのであります。

故に資本家や投資家などの強欲こそがまた経団連を始めとするカネに群がる組織こそがおおまさに🗾社會の将來や地球の未來を奪って居るのです。

 

であるからこそ其れはもはや👿の仕業であり「宇宙で最も罪深き」行為其のものとなる。

 

尚時を経れば経る程に富裕層がより力を得て行く経済システムこそが「資本主義経済體制」です。

尤も其の場合に余剰としての利益はまさに其の富裕層の蓄財分として膨らんで行く。

 

 

ところが其の蓄財分の部分にこそ「環境破壊」により得た利益なりさらに庶民の生活をあえて破滅に追い込む形での儲けなりがしかと含まれて居ります。

つまりはさうして「自然の営為」や「庶民の生活」を破壊しさらにあえて其処から搾り取ることでこそ其の金満世界が築かれて行くのだ。

 

また時を経れば経る程に貧乏人がより力を失って行く経済システムこそがまさに其の「資本主義経済體制」です。

すると最終的には其の金満野郎共の為にビンボー人はやがて「餓死」へと追い込まれやう。

 

 

生活に不可欠な仕事ほど「給料が低く」「劣悪な労働環境」に置かれてしまう「構造的理由」 (msn.com)

 

「資本主義社會」に於いては勞働に對する「ヒエラルキー形成」がかうして顕著となる。

故に本質的に「資本主義経済體制」は近代的原理の範疇にはむしろ無くズバリ申せば封建的な秩序體制の枠内のことであるに過ぎぬ。

 

また勞働其れ自體に「身分制」が生じるが故に水吞み百姓である其のエッセンシャル・ワーカーは主に「水吞み百姓」としての給金しか貰えぬこととなりつまりは月給がたったの拾五萬だ。

 

バカヤロウ!そんな拾五萬でもってどう毎月暮らすのだ!!

其れも此れも兎に角ソコには酷い社會的搾取の様が嗚呼間違い無く有らう。

 

但し。

但し個人的に看護師及び医師はむしろカネを貰い過ぎて居るのだとさう思う。

 

だから本質的に彼等は潤って居り特に看護師の其れも古株ともなればデカい💎をジャラジャラと持って居たりもしまたそんなババアをよりにより病院長が妾にして居たりもまたする訳でありそんなもんはまー腐っとる、其れも腐り切った世界なのだとさう言われたにせよもはや彼等は反論が出來ぬ。

 

いずれにせよ「資本主義経済體制」では、

 

7.基本的に其れが「格差」を前提とする経済體制であること

8.且つ「搾取」を前提とする経済體制であること

9.カネの無い奴は死んだも同じであること

 

とのこととなる。

 

要するに立場の弱い者からぶんどる経済システムのことですので所謂「近代的原理」に刺し貫かれるものでは無くむしろ封建秩序的な「身分制體制」のことなのだ。

故に其の封建秩序的な身分制體制である「資本主義経済體制」を「近代的」に続ければ続ける程に様様なものが破壊されるに及ぶことだらう。

 

また其のことが「人権の蹂躙」即ち「生存権の剥奪」に迄をも及ぶ可能性すらもがまた高く有らう。

逆に申せば「國民皆保険」などと云う平等主義的な社會主義政策を採る我が國などは稀有な存在でありところが其のバランスの取れたー資本主義⇔社會主義に於けるーやり方での社會をあえてジミントーの新自由主義者共がブチ壊しにかかって行った訳なのでした。

 

10.すわ「革命」か?

 

イザ「革命」が起きると今迄イイ思いをして來た奴等に限りヤバいことはまず申すまでも無い。

イザ「革命」が起きると其れこそ國王や其の王妃の首は飛ぶわ、さらに王族は皆処刑されるわ、また金持ちはビンボー人に押し入られ蔵は荒らされるわ御殿は放火されるわまた美人妻は連れ去られるわ。

 

 

では学校や塾の先生はどうなるので?

学校や塾の先生は元元左の人が多いのでは?

 

だから学校や塾でもってむしろ大っぴらに「革命」のやり方を指導することが可能となりませう。

もしやアンタもまた其れをやるの?

 

いえ個人的にはすでにかう「社會的」に引退しておる。

さらにそんな「革命」などよりもむしろ「愛」の世界にこそ生きて居たい。

 

但し其の「愛」とは「恋愛」なのでも無く且つ「👪愛」のことなのでも無い。

其の「愛」とは本質的に己の価値観とは「反對」の価値を有するものにむしろ擦り寄ることなのだ。

 

自分の価値観を否定する部分に對しむしろ理解を示すことなのだ。

 

ではイヤなこともまた認めるつまりは環境破壊もまた認めるのですか?

だからソレはダメ、またジミントーの惡どい政治ももう御仕舞い。

 

其れは何故かと言うと其れが「惡」其のものなのだから故に。

ではいっそのことイスラーム原理主義者となり米國流の強欲金融資本主義とこそ闘うのか?

 

いえ其れはやりません、そも其れがやれないので…。

 

ところでビートルズの曲に「愛こそは全て」と云う曲が有るがまさにソレをこそやるのですね?

またジョン・レノンには「ラヴ」と云う曲が有るがソレをこそやるのですね?

 

いえ其れ等とはまた無関係でせう。

でもまあドチラも良い曲です。

 

さらにビートルズには「リアル・ラヴ」と云う曲などがまたありますがもしや其れとも無関係なのですか?

さうほぼ無関係です。

 

 

其の「愛」とはズバリかの「イエス・クリスト」による教えの内容のことなのでは?

いいえ「佛陀」による教えの方ではないでせうか。

 

でもそんなことを佛陀はまるで言って居られない。

佛陀は「愛」とは所詮執着の元でありそんなものは「渇愛」のことだから全部捨て去れとさう申されて居た筈ですが。

 

さうか、ではわたくしは結果として佛弟子では無くクリスチャンだったのだ。

あれ良いんですか、そんなことまで言って。

 

でもそんなことを言ったらもう御寺巡りは出來なくなるのだぞ。

いや別に「観念」と「御寺巡り」とは別物です。

 

また「観念」と「教會巡り」などもまた別物です。

 

「愛こそは全て」

でも資本主義批判に於ける結論がまさか此処へと到達しやうとは!

 

故に資本家は勞働者を「愛」さねばならず且つ勞働者もまた資本家を受け容れねばならぬ。

さらにクリスト教はイスラーム教をイスラーム教はクリスト教を是非認めなければならん。

 

また佛教徒は是非教會へも行くべきだらう。

さらに言えば露西亜ウクライナを是非愛さう。

 

あくまで愛した上で是非「属國」にしやう。

 

では🗾が中國の「属國」にされても「愛」だとか言いつつ其の暴挙を認めるのか!

むしろ其の中國は偉大な國ですよ。

 

其の中國は「共産党壱党支配」の國だからこそ偉大なのだと?

いえ単に「中華料理」が其れも頗る美味いダケの御話です。

 

うーん、さう言えばそんな「共産党壱党支配」の「中華料理」が最近まるで食えて居ません。

だから「愛」では無くむしろ「食い気」の方でもってソレに擦り寄りたくさう存ずる。

 

例えばたった今何を食いたいですか?

炒飯とか。

 

また🥟などを。

さらに黑酢の酢豚などを。

 

 

さうかさう言えばさう云うのはむしろ「イデオロギー」とはまるで無関係なものですね。

確かにさうなんです。

 

だから「イデオロギー」とはまるで無関係な「現象」こそが眞の意味での「具體性」であり「實存的価値」となる。

では「食い気」は其の「愛」をも超越して行くので?

 

いえ「食い気」ソレ自體は単なる動物的で且つ具體的な欲望のことだらう。

じゃあヤッパリ「愛」の方が上なのか?

 

いやだから其の上下、左右、貴賤、貧富などの価値設定ソレ自體を否定的に見詰めるのが「マルクス主義」であり「アナキズム」の上での政治原理なのだ。

うーん、何だか分かったやうなまるで分からぬやうな…。

 

でもとりあえずは「資本」による「破壊」を阻止しないと此の「文明」の未來は無いことだらう。

また其れは「中華料理の美味さ」とはまるで関係の無いことだらう「惡の履行」に於ける命題です。

 

つまり「文明」は今以上に「環境破壊」を推し進めてはならない。

故に「イデオロギー」には関わり無く「環境破壊」と云う「惡」をやり続けるべきではない。

 

なる程、其れが「愛」のことなのか。

さうまさに其れこそが「愛」なのだ。

 

だから佛教にせよイスラーム教にせよまたジャイナ教にせよヒンドゥー教にせよまさにそんな「愛」としての結晶化のことでせう。

さうだったのか、だからこそ宗教の別やイデオロギーには左右されずに「愛こそは全て」なんだ。

 

さう「愛の結晶」化、もはや其れ以外には人類が辿る得る途は無いことじゃらう。