目覚めよ!

文明批判と心の探求と

自己と社會を同時に救う認識に就いて

33.自己と社會を同時に救う認識に就いて

 

 

 

 

ひろゆきが呆れる「ダラダラすることに罪悪感を持つ人の特徴」 (msn.com)

 

さう云うことである。

かうして社會を批判出来る力とはダラダラの時間や自分の時間をあえて過ごすことで涵養される訳だ。

 

またさう云うのは只自己本位なだけで自分勝手と云う訳では無いんである。

むしろ自己を確立させることに関して眞剣な訳だ。

 

但し宗教へ行けばさう云うのもまた矯正されるのやもしれぬ。

だが其れは其れでまた立派なことなのではなからうか。

 

 

高評価のゼレンスキー演説、日本人はあの「巧みさ」に幻惑されすぎていないか (msn.com)

青沼陽一郎 - Wikipedia

 

まさに仰る通りでゼレンスキー政権こそが其のポピュリズム政権です。

ーこうしてゼレンスキーがオンラインで演説を繰り返し、SNSでの発信を続け、人々を酔わせることは、戦場が遠ければ遠いほど、それが現実感覚を失わせ、ドラマやゲームのような世界観と交錯させる。戦況と戦争被災者の映像を繰り返してばかりの報道にもいつしか慣れて、乾いた心にはテレビの向こうの出来事と認識する。そこに新しい戦争の恐怖と大衆への懸念を感じずにはいられないのだ。ー高評価のゼレンスキー演説、日本人はあの「巧みさ」に幻惑されすぎていないか (msn.com)より

 

社會のとっての危機は其のみんなが「酔う」ことから生じるのだと思う。

さうしてみんなが酔うからかのナチス独逸は誕生したのでありまたみんなが酔うから仏蘭西革命やまた露西亜革命が勃発したのである。

 

仏蘭西革命やまた露西亜革命とは謂わば社會の発展形態である民主制や社會主義體制の基礎であり基盤となるものだ。

つまりは民主制と社會主義體制は方向性こそは違うが其れが進歩的社會體制であることはまるで同じな訳である。

 

要するに其れが所謂左派勢力であり改革派であり進歩主義者である。

革命と名の付くものは皆さうして本質的に左派勢力であり改革派であり進歩主義者である。

 

 

だから民主制は資本主義経済體制とくっつき大量消費社會をまさに廿世紀に於いて實現させた訳だ。

他方で社會主義體制もまた廿世紀に於いて幾つかの國を社會主義革命へと導き其れが所謂西側と東側の冷戦構造を長きに亘り生み出すに至った。

 

従ってあくまで本質的には民主制も社會主義體制もまた全体主義國家體制も皆同じ穴の狢であるつまりは大衆社會が齎すところでのむしろ不安定な國家體制の實現其のものであるに過ぎぬ。

民主制も社會主義體制もまた全体主義國家體制も根本のところでは全部間違って居ると言っても其れはあながち過言では無い訳だ。

 

では壱體どうすれば良いのですかと問われたならば、其処はあくまで「近代以降の體制」とは皆そんなものである、つまりは可成にいかがわしいものであるとしか學問的には言えぬのではないか。

少なくとも其の資本主義経済體制とくっついた民主制が正しいと云う保証は何処にも無いのだと言えやう。

 

かと言って社會主義體制もまた矛盾を生じて仕舞うので其れが正しいと云う保証は何処にも無い。

例えばプーチン氏による独裁的暴走は社會主義體制が抱える矛盾がむしろ複雑に織り込まれたものでもあらう。

 

 

ーゼレンスキーは高校教師が大統領になるテレビドラマが大ヒットして、本当に国民の圧倒的支持を受けて大統領になった。大統領を演じることも容易い。それを見る側も彼の言葉に酔い、その間にも人命が失われていく現実を見失う。すでに国会演説のタイムスケジュールに、議員たちによるスタンディングオベーションまで組み込まれていたことは、ゼレンスキー劇場のエキストラとなったことに等しい。彼は戦う大統領なのではない。国民を被災させた大統領なのだ。ー高評価のゼレンスキー演説、日本人はあの「巧みさ」に幻惑されすぎていないか (msn.com)より

 

さうしてドラマと政治が壱緒になってはむしろ絶対にイケナイ訳だ。

其処で冷静になり良く考えてみたら、ゼレンスキー氏は今ウクライナを救うヒーローの如くに主に西側諸國で扱われて居るのだが何のことはない、彼こそが其のウクライナを戦禍に晒して居る張本人なのだ。

 

左様に虚構のヒーローを生み出す性質が人間の社會にはどうしてもある。

またむしろ其のことは其れこそ古代文明の頃よりさうだったのだ。

 

民主制も社會主義體制もまた全体主義國家體制も皆其の社會的に齎されるヒロイズムからこそ生まれて来て居る。

故に眞の意味で冷静な理性は其のドレをも選ばぬ訳だ。

 

さうした社會的に構成される進歩思想其のものを否定的に見詰めむしろ過去に戻ることを考えたりもする。

過去に戻る、即ち縄文や弥生の時代からむしろ社會としての御勉強をしませうと云った御話となる。

 

過去其のものにはもはや戻れぬことは分かって居るにせよ其処から學ぶことは無論のこと誰にでも出来る訳だ。

 

今わたくしが社會的な問題として捉えて居るのは政治其れ自體が大衆化しまた其れに沿う形で熱狂的に「正義」が振りかざされて行くことだ。

だが其の「正義」とはほぼ根拠の無い思い込みのやうなもののことだ。

 

要するに其の「正義」と妄想の区別はほぼつかないことだらう。

 

 

さて問題とは其れ即ちさうして社會的に齎される認識上の誤謬の話なのである。

さうして社會の認識が悪ければ必然として世界は狂って行かざるを得ない。

 

ところが個を規定するものこそがむしろ其の社會の価値観なのだ。

ところが普通人は其のことには気付けやしない。

 

まあ其れを其れこそ理性的に評せば「洗脳」である。

わたくしの論理、わたくしの認識論とは其の社會的洗脳からどう脱して行くかと云う類の話である。

 

であるから其れは必然として脱俗的な要素を多分に含む話となり要するに其処で哲學的思考や宗教的な価値観、さらに藝術方面からの認識を多角的に織り込みまさに其のことを成し遂げて行く訳だ。

つまりは其れがわたくしにとっての社會との闘争の様なのだ。

 

 

文系としての理性としてあらゆる方策を駆使しまさに其れと闘って行かうと云う話である。

但し闘うのだけれど其れを全否定するのでは無い。

 

全否定するのであれば話は早い訳ながら其れでは「愛」が無いのでつまらないと言えばつまらない。

逆に「愛」があると須らく論理は倒錯するがむしろ「愛」以外に生きる術を知らぬ人間に取り其の倒錯ー👿ーこそが生きる糧であり其れこそまさに生きるよすがとなることなのだ。

 

左様に倒錯しつつもある種潔癖に論理を追及し謂わば半分死につつもあえて生臭く生きる、口では此の世の壱切を罵倒しつつも「こんな愛だよ、愛があるのだよ。」などと宣い👿をあえてやると云うのがわたくしの人間の生に対する認識論なのだ。

なので其処では佛法とキリスト教が矛盾することなく融合するのである。

 

但し其れは壱般的な立場=認識なのだとはまさか言えない。

其処ではむしろ認識上の彼岸を生きて居ることとなるのやもしれぬ。

 

 

ところで世間ー社會ーでの価値観は大→小への価値ヒエラルキーを必然として形成する。

故に此の世の全ての価値は其の序列に従い形成されて行く。

 

また其れは宗教的次元や藝術に於いても然りである。

故に其処で普通人は其の大→小への価値ヒエラルキーを信じて居て其れもみんなが其の大の価値の方を得やうとして躍起となる訳だ。

 

例えば今ウクライナウクライナで西側陣営に加わり豊かな國になりたいとさう思って居るのだし露西亜露西亜でかってのやうな東側勢力の盟主としての統率力を是非復活させたい訳だ。

だがそんな価値観の違いが國家レヴェルにて激しくぶつかり合うから戦争が引き起こされる訳だ。

 

また夫婦間で価値観が違うと大抵は離婚するに至る。

友人の間で価値観の相違が生じれば其の人間関係が破綻するに至る。

 

かうして此の世に於ける価値観の齟齬こそがむしろ不可避なものだ。

 

 

1.対立其れ自體を否定する

2.対立其れ自體を相対化する

 

其の価値観の齟齬による対立を無化して行く方法はまさに此の弐種しか無い筈だ。

 

其の1.は主に宗教的次元にて用いられる精神の内容であり認識である。

 

2.に就いて

我が認識の立場は此の相対主義を取る。

 

 

3.大→小への価値ヒエラルキーの解体

4.認識のスケールダウン

 

3.に就いて

逆に、

小→大への価値ヒエラルキーを形作る位に個人的立場を尊重する。

其れは個が行う認識上の誤謬は常に社會が行う認識上の誤謬よりもリスクが小さいことを前提とするものだ。

 

4.に就いて

認識を社會の価値観に合わせて居ると、例えば常により高級な何か、より力のある何かを必然として欲して仕舞うこととなる。

 

また出来の悪い我が子を壱流大へ入れやうと躍起となりさらに不細工な妻よりもTVやネットに出て来るやうな美女の方に自然と欲望を感じて仕舞うものである。

だが其処でもってよーく考えてみやう。

 

其の馬鹿息子でもって壱體何処が悪いのだ?

其の不細工な女房でもって壱體何処が悪いのだ?

 

第壱アンタ、アンタ自身がそもそんなバカでマヌケなタダの○○○たれではないか。

さうか、僕等の認識は此れ迄まるで間違って居たのだった。

 

 

認識其れ自體を相対化し謂わば「負けて勝つ」やうな認識へと至ること、まさに其れがわたくしが今奉ずるところでの内面的勝利の方法である。

むしろ其れこそが所謂「前向きで上昇指向」な世間に於いて持て囃される価値への反駁であり結果的な否定である。

 

其のやうに其れはむしろ否定から入らぬ否定なのだ。

 

「後ろ向きで下降指向」

でもそんな価値観でもって果たして大丈夫なのか?

 

どう考えてもオカシイやうに思えるのだが…。

 

いや其れも最終的には其の「後ろ向きで下降指向」なのをも相対化しむしろ部分的には「前向きで上昇指向」なものともなり得る訳だ。

要するに「前向きで上昇指向」となる部分をスケールダウンした認識に於いてあえて其れを行う訳だ。

 

其れも壱言で申せば要するに「限定」する訳だ。

だがイザ「限定」したからにはあくまで其れに何処までも従い認識して行くのだぞ。

 

 

1.に就いて

 

宗教的価値観は「愛」の名に於いて価値観の対立の否定を行う。

 

例えばキリスト教の場合は「愛」の次元を高めること即ち神の「愛」を受け容れることで自他共に赦される境地を達成して行く訳だ。

佛教の場合には「慈愛=慈悲」の次元にて其の生臭い此の世での価値対立を否定しつつ乗り越えて行く。

 

但し其処では両者共にまさに精神的次元での「大→小への価値ヒエラルキー」に従うこととなる。

或は其れが宗教的な限界なのだともまた言えることなのやもしれぬ。

 

即ち宗教は其れ自體が権威化することから免れはしない。

だが精神的次元としては其れが常に正しくもなるのである。

 

 

果たしてどちらが良いのでせう?

個人的には、1.を信じつつも2.をあえて行うと言ったところでせうか。

 

何故なら「限定」=スケールダウンこそが我が思想の核に横たわるものなのですから。

 

「半分死んで生き且つ負けて勝つ」

どうです、コレ、凄い価値観であり認識だらう?

 

またそんな自慢気に…。

君の其の相対認識論は所謂独我論的で要するに独善的なものであり其れはひとつ間違えば「慢心」と云う精神の地獄に堕ちかねぬことだらう所謂「魔道」をも含む認識なのではないか?

 

であるからこそまた1.の方も信じやうとしている訳だ。

 

 

つまりはそんな絶対的に齎される精神的権威の方も視野に入れた上であえて精神的に相対論をして居る訳だ。

 

どうも話が複雑且つ難解でありつまりはややこしい。

だって其のややこしいのが人間の生なのですもの。

 

だって人間ですもの。

🐒でも無く🐻でも無く🐕や🐈や🐊でも無い人間なのですもの。

 

ましてやみんなは🐼や👽でも無いのだから。

 

 

では出来の悪い我が子を壱流大へ入れやうと躍起となりさらに不細工な妻よりもTVやネットに出て来るやうな美女の方に自然と欲望を感じて仕舞うことは認識上の悪なのですね?

では大金を貯め込んだり美味いものばかりを食ったり大酒を飲んだりデカい豪華な家や墓に入りたく思うのは須らく認識上の悪なのですね?

 

其れは当たり前のことでせう。

逆に申せばむしろ本質的な幸福程外部ー社會ーが用意するものでは無いと云うことだ。

 

なのですがむしろ外部との関わり合いの中でこそ壱般的な意味での幸福が成立して居るのである。

其のやうな価値観の上での倒錯の様、矛盾構造のさ中にこそ我我人間は投げ込まれて居る。

 

片や自然は漸進的な破壊を齎すに過ぎず本質的破壊を生じせしめるには至らない。

ー自然とは其の漸進的な破壊過程ながらあくまで本質的破壊を生じせしめるやうなものでは無いー

 

 

すると危険なのは、あくまで人間界でもって社會が奉ずる常識であり回避すべきこととはむしろ人間存在による其の「大→小への価値ヒエラルキー」=正の価値の秩序維持に基づく破壊=本質的破壊のことなのですね?

御明察です。ー🌸ー

 

さうむしろ其の「大→小への価値ヒエラルキー」=正の価値の秩序維持としての全体主義こそが此の宇宙にとっての本質的破壊を招くのだ。

 

だったら右の思想は矢張りダメなのか?

まあ屈折して居ない限りはダメです。

 

また左の思想も體制化した途端に右翼化する訳ですので矢張りダメです。

 

つまりは政治思想だの何だのではむしろダメなのです。

でも例えばアナキズムならば何とかなる?

 

アナキズムこそが理想でせうが其れもあくまで理想論であり實現化など出来ぬ。

 

ではどうするのだ?

何を壱體どうすれば良い?

 

 

だから其れを今全部吐き出して述べたところです。

 

要するに認識を個的に「限定」すると云う御話だ。

逆に申せば認識を「限定」するから相対化することが出来やう。

 

だが世間の価値観其のものを相対化することなどはそも出来ぬ話だ。

 

要するにデカいものが、また正しいとさう秩序立てられて居るもの、其れ自體が實は危険物なのだ。

なのにまさにみんなが其れに寄り掛かりむしろ安心しつつ「赤信号」を渡らうとする。

 

だから其れをこそ個による精神の力にて解体して行くより他は無い。

其の解体の過程を以上に示して置いた積もりである。

 

 

其の「小→大への価値ヒエラルキー」の世界こそが創造的な自我を形成するのだ。

故に其処に藝術が理解出来るやうになり同時に自然への共感力が増して行くこととなる。

 

但し其れは所謂常識的な認識なのでは無くいきおい非常識な認識としての性質を帯びて来ざるを得ない。

其れでも猶其れに向かって孤軍奮闘して行くべきだらう。

 

人間の認識の世界は其れこそ人様様でありまさに千差万別である。

だが其の認識を良く良く観察するにむしろほとんどの人の認識が世界ー人間の社會=文明社會ーにより与えられたものであることにしかと気付く筈だ。

 

つまるところ我我文明人は眞の意味での自己の認識からは遠く隔たったところを認識して居ざるを得ない。

 

だがあえて其の当たり前のこととしての認識からはむしろ遠ざかって行くべきなのだ。

其の認識をむしろ遮断した上で感じられる世界でありたった今目の前に拡がる認識世界こそがむしろほんたうのものである。

 

 

だが先にも述べた如くにそんな抽象的な認識を全否定する必要は無い。

認識を具象的なものへと取り戻す為に身の周りでの生活上の實感を大事にすると同時に其の種の抽象的価値と向き合えば良いのである。

 

ですが、我の場合今のところはスマートフォンやゲームの類は全否定するのである。

其れは自らの具象的感覚を破壊から守る為が故にである。

 

そんな訳で此の矛盾だらけでしかもいかがわしい世の中にも信ずるべきことや考えるべきことが「有る」ものとわたくしは今考える。

尤も其の「有」もまた本質的には「無い」のでありつまるところ全ては空であり虚としての価値の集積なのだ。

 

 

なのだがこんな風にトコトン考えてみればまさに有るところには其れが有るのだともまた言えやう。

 

結論的にはむしろ大嫌いなデカルト流の考えの如くになって仕舞いましたが今そんな風にわたくしの思想はまさに相対的に有化して来て居り同時にこれまた大嫌いな所謂現世利益化、且つ功利化して来ても居るやうである。

ですが多数派に対し「逆」を考え且つやる、と云うのが我が精神の流儀なので其れもまた仕方の無い流れでのことなのだらう。

 

誤解の無いやうに言えば其の「有」は所謂素朴實在論ー目で見た限りでのものを其の侭に見るーを奉ずるであらう壱般の人人の信じる「有」とはむしろ逆方向に生じて居るものだ。

だからそんな壱般性のあるものでは無く基本的にもっともっとややこしいものなのだ。

 

 

1.対立其れ自體を否定するー絶対的無化ー

2.対立其れ自體を相対化するー相対的無化ー

 

そんな訳で人類ー文明社會ーが抱えるであらう危機に対する処方箋とは此の選択に尽きて居るのだと思う。

尤も我の場合には此の弐項をなるべく両方して行くのである。

ー両方をするのは如何にも精神的に負担が大きく最終的にはどちらかの選択とならざるを得ぬのやもしれぬのだが…。ー