目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

藝術に関する試論ー3 藝術への「我が愛」+『未來惑星ザルドス』ー

藝術に関する試論ー3 藝術への「我が愛」+『未來惑星ザルドス』ー

 

 

 

 

「私は私であり人と違って構わない」

 

尚まさに此のことが多くの「天才」の認識となるさうなのだ。

また實はわたくしなども常にさう考えてやまぬ。

 

曰く、

 

あくまでワタシはワタシでアナタはアナタ。

アナタはワタシにはなり得ずワタシもまたアナタにはなり得ず。

 

其れはさう神佛が決めたことよ。

だからこそ侵し難き壱種の「聖域」としての価値なのだ。

 

「私が私である前にみんなと同じ」

 

まさに其れが此の「社會」が望む方での価値観とならう。

だがそんなもんに浸り切るとまさか「ゲージツ家」はやれはせず所謂「大衆化」=「衆愚化」する。

 

デカい(廣い認識での)個ー拡張される自我意識ー⇔ちっこい(狭い認識での)個ー抑えられる自我意識ー

 

まずはそんな基本的構造が其の「社會」と「個」の間には張り巡らされて居るのだと云えやう。

あえて其の其の對立関係をバランス化させるには、

 

所謂「相剋」しつつ「相即」させる意識こそが必要となる。

故に「社會否定」ばかりでもまたイケないのである。

 

だからと言って社會に盲従するそんな生き方なのでもまたダメなのだ。

何故なら常に「個」は「社會」の壱員となる。

 

また「社會」は「個」無しでは成り立たぬ。

要するに互いが互いを認め「思いやる」ことから始めるべきなのではないか。

 

とさう言葉として綺麗に収めやうとすれば此の問題はさう丸く解決されやうが實際にはそんな甘い物では無く「藝術的自我」と「社會的自我」とは常に闘争状態とならう。

つまりはそんな「カドカド」での戦闘状況に近い。

 

だがそんな「戦闘」をやりつつ何とか「社會」と折り合いを付けやうとして生きた藝術家ー天才達ーの面面に對し個人的に常に尊敬の気持ちを抱かざるを得ない。

つまりは基本的にやれぬことをさうやり切ることこそが藝術家ー天才達ーの使命であり運命なのだ。

 

 

「藝術家は美の使途」ーフランシスコ教皇

「愛と平和こそが全て」ーヨーコ・オノー

 

番組中にも登場する其のヨーコ・オノ氏は夫君であるジョン・レノン氏よりもどうも「過激」だったフシがある。

さう實は👩の方が👨などよりも常に過激である。

 

さう女性は「理性バカ」だが常に「壱念」が強く有る。

其の「壱念」とは最終的に「子宮力」のこととなる。

 

ジョン・レノン氏が若くして殺されたのはヨーコ・オノ氏の政治的闘争力に引き摺られ色色と言っちまった御陰でのことであらう。

要するに元來「藝術」と「政治的闘争」は無関係な筈なのにソコへと首を突っ込んだ御陰で彼現代のクリストは死んだのだった。

 

つまるところは、

 

「藝術は世界の大問題を解決せず」

 

との言葉に尽きて居る。

何故なら「藝術」とはあくまで「個」に於ける大問題であり基本的に其れは外側に拡がる問題などとは別箇のものなのだから。

 

藝術=内なる大問題との闘争⇔社會=外なる大問題との格闘

 

まさにそんな感じであらうか。

故に「藝術」が問題とするのはむしろ外の認識世界と内なる認識世界との「ズレ」の部分となる。

 

要するに藝術的な「天才」達は皆變人なので其の認識世界が個性的に偏向して居りみんな=社會の認識とはまるで違うのだ。

故に彼等「天才」に取り壱番大事なこととは其の認識世界の「ズレ」の部分に圧し潰されること無く「作品」を創造することでありまたあわよくば其れを世間に認めさせることでしか無い。

 

また自分にもそんな傾向が強くあるのでもはや其れは認めて置かざるを得なくなりつつもある。

即ち自らがそんな老藝術家の壱人として世に立って居ることをこそ。

 

其れも無事還暦を過ぎ「半分死んで」からはもはや隠しおおせなくなりつつもある。

 

じゃあ「世界の大問題」を解決するのは壱體誰なの?

うん、だから現在其れをやれる何かがむしろドコにも無い。

 

だからハッキリ申せばもう無理なのだ。

なのでジョン・レノン氏はあんな「ユートピア思想」を語らぬ方がむしろ長生き出來たのだ。

 

また宮澤 賢治氏の場合にも「ユートピア思想」の営業マンなどをやらずに岩手の山にて石と戯れて居る方がずっと長生き出來た筈です。

すると社會的な意味での「ユートピア思想」をむしろ語ってはイケないのか?

 

さうなんだらう、其れもおそらくは。

何故なら大事なことは未來のユートピア建設のことでは無くたった今での「心理的幸福」のことなのだから。

 

また人類の未來はあくまで暗くおそらく2100年迄現行型での文明は持ちやしない。

ならどうするの?

 

もしや教會や寺にて祈るの?

いやさう「祈る」のは良いことですが其れでもって文明が助かる話ではそも無い。

 

じゃあどうするの?

 

うーん、まあ、むしろ何もやらずに今持ってるモノや人や立場をトコトン樂しむべきでせう。

 

 

精神分析をすると創造性を失う虞が有る」フロイト

 

ほらね、アノ精神分析の大家ですら「精神分析」が「藝術」に効くなどとはまるで思っては居なかったのでした。

だから場合により「藝術」は「政治」や「科学」以上に此の世での眞の部分を衝く可能性があるのだと言えやう。

 

何故なら「藝術」には常に両義性が宿るからなのだ。

 

例えば、

 

秩序⇔混乱

建設⇔破壊

美⇔醜

愛⇔憎惡

創造⇔無為

生⇔死

 

などのやうに。

 

藝術家はあえて其の両極端な要素を同時に見詰めることで創造的な次元を内なる世界に開闢させる。=内なる小宇宙の完成

さう諸価値を對比させ對置させることで「内なる宇宙」をこそ創造せしめて行く。

 

また其れと同じやうなことを「マリリン・マンソン - Wikipedia」と云う米國のミュージシャンが番組中で述べて居り愕然とさせられた。

矢張りと云うべきかむしろ「藝術」の根っこの部分は壱つなのであり其れが音樂や繪画やまた文學やさうしたものへと分かれ出でて居るのである。

 

では最近哲學詩人が説く「愛」とは果たして何に對する愛なのですか?

まあ強いて言えば其の「両義的創造性」への「認知」であり「思いやり」のことです。

 

すると所謂「愛と平和」の「愛」とは違うもので?

まるで違いませう。

 

何故なら「愛と平和」の「愛」とはあくまで「ユートピア建設」の為に此の世を纏め且つ平等に愛するとのことだらう。

ですがそんなもんは此の汚れた現實世界ではそも無理な話となる。

 

對してワタシが説くところでの「愛」とは言わば「藝術」に對する「愛」であり個的認識に對する期待を込めた「愛」なのだ。

すると所謂「藝術至上主義」的な「愛」のことなのか?

 

確かに「藝術至上主義」的ですが反面「生活至上主義」的なのでもまたある。

要するにまさに其れが「藝術」と「生活」と云う分裂する価値の統合のことなのだ。

 

 

はあするとたった今ウソ詩人さんはそんな離れ業のやうな現在を生きておいでになるので?

其の「ウソ詩人」ダケは全くに余計な言葉だわ。

 

あくまで「ウソ詩人」では無くこんなに偉大な人文ー哲學ー詩人なんだから。

 

うーん、だが今回はまた作文の参回分と随分書き込んだね。

さうなんだ、何せ自分に取りまた社會に取りむしろ壱番大事なところだからね。

 

でも何せ壱般人に「藝術」を理解させやうとすると常にかうして苦勞するんだ。

そんな「藝術」を何故アナタは理解するに及んだのか?

 

さあね、其れは多分「屈折」に次ぐ「屈折」を頭の中で繰り広げて來たからなのだと思うんだ。

だから逆に「藝術」こそが「當たり前」のものであり逆に當然とされる社會的な価値のやうなものこそが「變なモノ」に見えて仕方が無い。

 

 

さうか、だから「文明批判」の方もやらうと思えばさうやれる訳なのですね。

まあやらうと思えば其れこそ文明を「全否定」してやっても良い位ですわ。

 

でもってズバリ文明は後何年程持ちますか?

そりゃ分かりません、分かりませんが22世紀迄はおそらく無理でせう。

 

ですが先に述べたやうに基本的に「藝術」は「社會」とは無関係なものです。

またつまりは藝術家が社會変革を目指したり宗教を批判したりすることは無意味です。

 

おおっ、ついに「ヨーコ・オノ」や「ニーチェ」への鋭い批判が出ましたですね。

 

また藝術家は常にかの岡本 太郎氏のやうに「対極主義」であらねばならん。

其れはどうも其の岡本 太郎氏が大好きみたいですね!

 

いや好きでは無くワタシこそが其の岡本 太郎氏の生まれ變わりなのだ、わっはっはっはっはー。

岡本 太郎氏が死んだ時に御前はもう此の世に生まれて居た筈ではないか!!

 

 

ところで此のドキュメンタリー作品には「アラーキー」氏や「たけし」氏のやうな日本人もまた登場しますがもしやアナタは彼等が好きですか?

アラーキー」氏の写眞にはかって大きく影響を受けたが今は左程好きではありません。

 

また「たけし」氏の映画などもまるで視ないです。

其れにわたくしはもっともっと高尚な藝術作品の方を好むので出來たらまたそんなものに就き是非述べて行きたいものだ。

 

ところでそんな岡本 太郎氏のゲージツは高尚なんですか?

そんな「TAROマン」です。

 

ヘッ?

だから「TAROマン」なのだ。

 

どだいそんな「TAROマン」こそが第壱級の藝術作品でなくてどうする?

 

 

其れと此の作品の終わりの方で「シャーロット・ランプリング - Wikipedia」と云うワタシが大好きな女優が登場し度肝を抜かれた。

其の「シャーロット・ランプリング」が『未来惑星ザルドス - Wikipedia』と云うSF映画で演じた「コンスエラ」と云う女性こそが自分に取っての理想の女性なのである。

 

其の人は「理知的」で且つ常にとても冷たい目をして居るのである。

要するに自分以上に頭の良い👩にはもう何処までも惹かれるのだ。

 

だが最終的に「コンスエラ」はショーン・コネリーが演ずる「ゼッド」の妻に選ばれ偽りの「電脳的文明ユートピア」を破壊した後に洞窟にて原始生活を始める。

さうして彼等は共に自然に年老いやがては白骨と化す。The message of Zardoz

 

ですが彼等の息子は其の洞窟の住居で逞しく成長しやがて外の世界へと旅立つ。

わたくしは此れ以上に素晴らしい映画のラストシーンを他に視たことが無い。

 

其れは電脳文明世界の無意味さと知識偏重の罠とを同時に突く壱級のSF映画に仕上がって居る。『未来惑星ザルドス』予告編

 

 

また其のラストシーンに流れるのがベートーヴェン交響曲第7番なのだ。ーさう自分は壱ベートーヴェンファンであるー

【ベト7!】 ベートーヴェン 交響曲第7番・第二楽章 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル Beethoven (youtube.com)

 

ところがそんなイイSF映画作品に限りアマゾンの方には出て來ない。

また當時から此の作品がとりわけ評価されて居たのでも無い。

 

其れは壱つに此の作品が専ら「難解」であり所謂「壱般受けしない」性質を帯びて居たからなのだ。

だがそんなものに限り好きなわたくしは無論のこと最大限に此のSF映画作品を評価し掲示板やブログにて此れ迄に何度も取り上げて來て居る。

 

尚此のSF映画作品がむしろ自分にはピタリと合う。

わたくしは元來余り大衆的では無いのでまさに其れが合うのだらう。

 

SF映画史上屈指の問題作「未来惑星ザルドス」約50年ぶりの再公開決定! : 映画ニュース - 映画.com (eiga.com)

『未来惑星ザルドス』作品内容の理解を促すプロローグ(100秒)+予告篇【2022年11月4日公開】 (youtube.com)

 

未来惑星ザルドスは数年に壱度必ず視たくもなる。

無論のこと其のDVDをしかと持っても居り。

 

ちなみに其処にて描かれる未來世界はほぼ現代社會の延長線上に有るものとなる。

そんな未來に於ける「神ニンゲン」達は皆神の如くに高知能でありー或は遺伝子操作にてか?ーケモノの如き獣人の世界を支配しつつ生きる。

 

されどすでに彼等には感覚を突き動かすやうな「欲望」が無い。

有るのはむしろそんな「不死」の耐え難い退屈と人工的な「ユートピア」としての檻の様ばかり。

 

そんな社會體制に反逆した獣人のリーダーが彼「ゼッド」であった。

「神ニンゲン」達の中でも特に理性的な女性である「コンスエラ」をやがてゼッドは伴侶として選ぶ。

 

其れも「ユートピア」を暴力にて破壊尽くした後でさうする。

 

だがそんな「神ニンゲン」達はまさに現代にも居るのではないか。

「神ニンゲン」達は自らの手を汚さず主に民の生産力を搾取することで特権層=金持ちになってる。

 

のみならず奴等は地球を破壊し尽くす。

でもって自分等は高級な人種だとついさう勘違いをする。

 

此の馬鹿等めが!

むしろ御前等こそがサイテーのニンゲンだらうが!!

 

またAIなどを「神」だと崇めたがる。

ばか神は教會にしか居らぬわい!!!

 

嗚呼、神よ、神よ是非裁き給え、おおまさに此の腐った世界の偽善者振りをこそ。

 

全くどうにもならん世の中だ。

全くどうにもならんニンゲン達よ。

 

ホモ・サピエンスはそも血統が惡いわ。

すぐに群がりみんなでもってさう惡さを繰り返す!!

 

そんなホモ・サピエンスのケモノ振りと來たらもう宇宙壱だわ。

其れ即ち🐵以下でまた🐻以下で🐈や🐕以下、さらに🐖や🐎や🐄のみならず🐍や🐊や🐸以下なんだわ。

 

おおっ、ソコにはまた新たなドーブツ達が登場して居ますね!

でも🐸以下なんですか、此の利口なホモ・サピエンスの方方が…。

 

だからさう「洗脳」されてるダケだ、君等は。

何故ならホモ・サピエンスが🐸さん並みの「自然との協調性」を取り戻す為にはまさに弐~参億年程の時が必要となる。

 

だが其の弐~参億年の猶予期間はすでにホモ・サピエンスに對し与えられて居らずハッキリ申せば大體あと半世紀程しか奴等は持たぬ。

 

 

あれスッカリ忘れとった。

さうホモ・サピエンスを貶すのでは無く其の「コンスエラ」を演じた「シャーロット・ランプリング」が番組中で述べたことこそが大事なのだった。

 

「バラバラになりさうな自分を支えるもの」

 

彼女は藝術に就きまさにさう述べた。

此れぞまさしく至言であらう。

 

と云うことは彼女はむしろほんたうに高知能者か又は高い感度の持ち主だったこととなる。

尚御心配されずとも壱般人はそんな「バラバラ」にはまずなりませんので是非御安心召されよ。

 

「バラバラ」になるやうな人は上記で述べた如き「普通では無い人」=「天才」的知能者若しくは「天才」的感度者か「狂人」となる。

 

 

では此の稿の最後に創造の意義に就き少しく考えてみたい。

 

「創造的自我」の超越性に就いて

 

「創造性」は「現在」によるものでは無くむしろ「過去」の遺産である。

さう其れは遡る過去の中から紡がれる壱巻の書物の如きものだ。

 

全ては其の∞の過去より始まって居り或は其れが言語の成立以前に迄遡る可能性すらもがまたある。

「創造性」とはむしろ其の過去の感覚を掘り起こし其れを現在へと宛がう作業となる。

 

だが「創造性」自身に取り時間の経過としての認識はむしろ無いものなのだ。

さうして言わば「時を超越」しつつ其れは展開されて行く。

 

「時」ばかりか「場」も無い。

其の「場の意識」さえもが消え去り謂わば「絶對の時空」を其処に現出させるに及ぶ。

 

たった今我はベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタをユーチューブにて聴きつつかうして作文して居る。

ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタは藝術作品として最も「藝術性が高い」とさう評価される作品群となる。

 

ベートーヴェン ピアノソナタ 第28番 イ長調 Op.101 ピアノ:ヴィルヘルム・ケンプ 1951年録音 (youtube.com)

 

其れはまさに「過去」を回想するかのやうだ。

だが「過去」にもまた「未來」にもさらに「現在」にも其れは無い。

 

むしろ其処に有るのは「超越的時間」の如きものばかり。

 

 

「創造的自我」の両義性に就いて

 

創造⇔無為

 

「創造」と「無為」は常に變化に於ける両義となる。

「變化」無くば對立は生じず變化=諸行無常するから両義に分かれる。

 

逆に申せば「無為」=「消去」するに至れば變化=諸行無常せず。

「變化」無くばすでに其れは「生」でも「死」でも無い超越的次元を漂うのみ=「佛」のやうなものか?

 

でも超越的次元とは「神」のことで全放棄者である「佛」は超越的次元のものには非ず。

また突然難しいことを言い始めたな。

 

確かにさうですがまあ大乗佛教なんぞは皆半分クリスト教だよ。

アンタそんなことまで言っていいの?

 

アンタ場合により知り合いとかもココを視てるからもっと「穏やか」にものを言うべきではないの?

いやワタシはむしろ常にこんな「カドカド」ニンゲンです。

 

こんな「カドカド」ダケがもう頬擦りしたい程に好きなんだ。

 

創造⇔無為

神⇔佛

 

すると下のやうにも言えるのでせうか?

まあ言えるのでせう。

 

ですが其の「神⇔佛」に於ける弐項對立の問題は人類の精神世界に取り最難関での課題となるのではないか。

 

よって此の課題に関してはさうさうカンタンには論ぜられないこととなる。

其れもおそらくは洞窟などに籠り参年程熟考せねば導き出せぬ課題とならう。

 

じゃあやってよ。

はい?

 

やってよ、ソレを。

うーん、ではイヤだがやるか。

 

弐箇月後にでは其の答えを出しませう。

どうか樂しみにして置きなされ。

 

 

さて生きることとは變化することであり死ぬることとは變化しないこととなる。

 

生⇔死

また言うまでも無く生とは變化の過程であり死とは變化しない過程となる。

 

だがあくまで「本質的」には其の「生」も「死」もまた「創造」も「破壊」も等価なのだ。

等価であるからこそ其のやうな分離関係であり分裂関係が成り立つこととなる。

 

即ち此の認識世界とは元來そんな「差別」され得ぬ分別世界のことなのだ。

だが壱方の極に對し寄り掛かれば途端に其のバランスは崩れ妄想的な認識の世界が現出することとなる。

 

現代社會とはまさにそんな「妄想的な認識の世界」のことだらう。

 

ところが藝術はさうして藝術家は常に其の世界を其の侭に見る。

さう両義的にものを見詰めることでこそ花開く「美」の世界が有るが故に。

 

故に藝術家は現代社會の認識を直すことは出來ぬが藝術としてのものの見方を世に示すことだけは常に可能となる。

「創造的自我」としての両義的性格にはまさに其のことこそが期待されるのではなからうか。

 

また創造とは常に「愛」其のものであり無為とは常に「放棄」其のものである。

だが其処では常に「愛」と「放棄」とが相剋し且つ相即するのである。

 

生⇔死

愛⇔放棄

 

其の對立関係に於いて他方は他方を全否定することが出來ぬ。

ーさう「矛盾」関係であり「弐律背反」での関係性の中に認識其のものが埋没せざるを得なくなるー

 

また話が難しい。

でもだからダメだって云うことがまさに「論理的」にまずは分かるよね。

 

さうニンゲンの認識其のものでは矛盾がデカくなり「破壊」に勤しみ「破滅」に至るからそも「神」や「佛」がおわすのです。

 

 

「他方は他方を全否定することが出來ぬ」が故に本質的に此の世での分別認識に「区別」などはむしろ無い。

文明は其の「区別」無き世界をそも「区別」したがるからこそ不幸になる。

 

また文明はそんな「愛」と「無為」、そんな如何にも高尚な「生死」の問題などまるで考えては居ない。

なんとなれば金儲けに必死なのでそんなこと迄考えて居る暇がそも無いと來てる。

 

全くどうしやうも無い奴等だぞ。

君等は壱辺滅んでみるか?

 

いやワシは滅びたくは無いぞよ。

そもワシはもう時間が無いからかうして毎日樂しく遊んで暮らすのだ。ーそんな壱螽斯老人としてー

 

其の螽斯詩人曰く、

 

ー「創造」とは「愛」であるー

 

兎に角其の事をまずは御伝えせねばならなんだ。

 

ぎゃあ、でも🐈がまた子を産んだわ。

其れもアノグレートタイガーみたいな色のちっこいメスが。

 

 

だがあえて汝等に是非御伝えして置きたい。

僕が嗚呼まさに此の僕がかの「ベートーヴェン」の親類縁者であることを!

 

さうじゃないだろ、そんな「ベートーヴェン」のタダの壱ファンだ。

いいやさうではない、おおまさにそんな眷属が生み出しし後期ピアノ・ソナタの旋律のやうにいまし我は「昇天」せり!

 

全くまるで「嵐」のやうな自我の持主ですな。

さうです、嗚呼まさに其の「疾風怒濤」のことなのだ。

 

實際に何処までも不穏な影が伸び現存在の今と未來とを圧迫して御座る。

ならばまさに其れをこそ生き延びる迄のことよ。

 

 

果たして藝術とは何ですか?

 

…豚の鼻です。

其れは🌸の香りを知って居ます。ー大宰 治ー

 

 

藝術とは爆発だ!ー岡本 太郎ー

 

ゲージツとはこんな闘い(戦い)だ!ー高齢の自称詩人ー