目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

岡本 太郎展にて岡本 太郎氏の作品『暴走』を知るー岡本 太郎論 1ー

岡本 太郎展にて岡本 太郎氏の作品『暴走』を知るー岡本 太郎論 1ー

 

 

 

 

さて昨日は我が精魂が尽き果てましたがとりあえず「岡本 太郎展」を観て参りました。みどころ | 展覧会 岡本太郎 (taro2022.jp)

其処で感じられまた考えたことを以下に述べる。

 

1.かうして藝術は永遠だ

2.だがかうして藝術はしかしながら疲れる

3.岡本 太郎氏其の人と其の作品にはあくまで値段が付かないことの不思議

 

岡本太郎 いったい何者か 絵を売らなかった真相は|NHK

 

まず不可思議なのは藝術家岡本 太郎氏は生前に絵を壱枚も売って居なかったと云う事實である。

其れもアノマジで頭がオカシクなったゴッホにせよ生前に繪を売って居るのである。

 

即ち藝術作品としての繪を売って食って行くのが所謂画家の生であり其れは作家や詩人、歌人が売文にて食って行くのとほぼ同じことである。

また音樂家であれば曲を作り其れを売ったり歌ったり踊ったりして其のパフォーマンスとしての料金を貰い其れにて生きて行くのである。

 

 

ところが当の岡本 太郎氏にはそんなことはむしろどうでも良いことであったのだと言える。

まずは其の点から彼岡本 太郎氏が「澤山居る藝術家の壱人」なのでは無くある意味では藝術家として突き抜けた存在であったことが良く分かる。

 

彼は自分の作品を全て持って居て其れを「展覧會」にて大衆に御披露目して來た。

彼に取り藝術とはむしろ「大衆」のものであり「社會」の為のものであった。

 

個人的にはまるで其れは「浄土教」の如き藝術のやうにも思われます。

 

つまり「救い」は壱部のインテリ層や金持ち連中のものでは無くむしろ「庶民」の為のものだ。

との其の考えもまた良く分かるのですが自分に限りあくまで「禅宗」の方が向いて居て念仏や題目だけで救われるとは正直言えば思い難い。

 

其れも最近は「臨済禅」での如くにむしろ死ぬ気で考え抜いてみたらどうかとさう思って居る始末にて其れとはまた違うものを志向し始めて居るのです。

だから其の岡本 太郎氏が目指す藝術としてのあり方と自分が希求するところでの藝術のあり方とはまた違うのであるがでも最終的には其の「他力救済藝術」としての氏の藝術としてのパワーには圧倒され通しである。

 

 

また其のパワーとは結局「有」のパワーなのではないかとさうも感じた。

其の点では自分の場合も此処数年はまた「有」の哲學の部分を標榜して來て居り考えの方が其処に交わらぬ訳では無い。

 

尤も自分の場合は「有」のパワーだけでは無く同時に「無」の哀しみのやうなものを常に感じて居るので無論のことながら+思考なばかりでは無くむしろパワー其れ自體を否定的に見詰めることがある。

 

だが岡本 太郎氏の場合もむしろ若い頃には生に對する悩みや葛藤を抱えつまりは人間として悩み苦しんだ訳で其処は単なる「+原理支持者」=「進歩主義であり拡張主義である文明の価値観」とはそも違うものを見詰めて居た筈なのだ。

 

 

岡本太郎の名言10選!発言に込められた意図や背景も解説 - レキシル[Rekisiru]

 

此のやうに岡本 太郎氏の場合所謂「常識」とは逆方向での発言をされて居ることが多い。

ですが「藝術」の本質とは結局さう云うものでありであるからこそ其れが「藝術作品」となり得る訳です。

 

逆に「常識」的に凝り固まった考えや作品では其れは眞の意味での「藝術」とはなり得ない。

なので藝術家の考えや作品には其れこそ多かれ少なかれそんな非常識な部分が元元組み込まれて居る。

 

但しあくまで岡本 太郎氏の場合には其れを「大衆化」しやうとしたところにこそある種の「凄み」の部分があったことでせう。

またあえて其れを宗教的に表現すれば「他力本願化」しやうとしたのである。

 

されど其のまさに綱渡りでのやうな精神的挑戦の中にはまた「危険な賭け」としての部分もおそらくはあったことでせう。

まさに自分が藝術家としての岡本 太郎氏を尊敬して止まぬのはむしろ自身を其の「危険な賭け」の中に放り込み藝術家としての大金や名声の世界には背を向けて居ただらう其の彼の立ち姿の潔さからです。

 

 

要するに藝術は「名誉や金」を得る為のものでは無くむしろ生其のもの、むしろ其の「名誉や金」と云う価値ヒエラルキーの世界と闘争せんが為のツールー武器ー其のものであるべき。

まさに其の点で彼岡本 太郎氏とわたくし自身の藝術観はむしろピタリと壱致致します。

 

だけれども自分はまた単にこんな螽斯詩人にて「遊んでる居られるうちが人生の華=🌸」だなどとも考えて居りまた作品其れ自體も何処にも無くこんな遊びの様をこそ書いて行くことだけがあえて言えば我が「作品」なんだ。

 

どうですか、此処まで庶民に寄り添う藝術家が他の何処に居ますか?

僕程みんなに寄り添いしかもみんなに優しい藝術家は此の世界の何処にも僕以外は居ないのです。

 

でもお前なんぞは藝術家として認めんとまさかさう仰るのでせうか?

此処まで生其れ自體を悩み文明に傷つきヘロヘロになりつつ毎日を生き抜く此のか弱い詩人を何処までもさうしていたぶる御積りなのか!

 

 

俗に「失敗は成功のもと」という。そんな功利的な計算ではなく、イバラの道に傷つくことが、また生きる喜びなのだ。通俗的な成功にいい気になってはならない。むしろ「成功は失敗のもと」と言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言い当てている。

僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。駄目だ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのが僕の主義。最大の敵は自分なんだ。

 

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。|岡本太郎の名言 (the-greats.com)より

 

此の「過去の蓄積」の部分に就き今まさに其のことを考えて居る最中ですのでまさに此れは厳しい御言葉となる。

さうして蓄えると本質的に人間は自由では無くなる。

 

だが其の不自由さをあえて生きるのが世間としての人間の価値観其のもののことだらう。

只其処で「自分に取り要らんもの」を人生に於いて蓄えるのと「自分に取り要るもの」を人生に於いて蓄えるのは異なるのだと思う。

 

故に「断捨離」とは「自分に取り要らんもの」を削ぎ落として行く行為其のものとなるのである。

 

 

自分自身にとって一番の障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。

あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気を使いながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自信がなくってもいい、なければなおのこと、死に物狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志が湧き起こってくる。

親の顔色をうかがっていいなりになるとしようか。が、それが君自身の人生なんだろうか?そうじゃないだろう。

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。|岡本太郎の名言 (the-greats.com)より

 

其の「自分」と闘い同時に「社會」とも闘うのがおそらくは岡本 太郎氏流の人生の解釈なのだらう。

要するに其れは「全闘争」なので物凄く「眞剣」な生き方をされて居た訳だ。

 

但しあくまで自分の場合にはそんな「闘争」としての放棄がまた何処かにある方がむしろ「大衆の価値観」としてのあり方なのだらうと考える。

また誰もが「藝術」を理解出來る訳では元より無いことだらう。

 

 

評価されるなんていっさい必要なし!音が好きならば、音になっていないといわれようと「音」を出す。これが前提だな。

ぼくはいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける。

自分の好きな音を勝手に出す、出したい音を出したらいい。

僕だってしょっちゅう行き詰っている。行き詰った方が面白い。それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行き詰らないでいたら、ちっとも面白くない。

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。|岡本太郎の名言 (the-greats.com)より

 

イザ其の「藝術」が理解されると其の「藝術的自我」の方に価値観がシフトされるので此の種の「自己本位」的な世界観が立ち現れて來る。

だが其れもまた誰でもがさうなる訳でも無からう。

 

「藝術の普遍化」は謂わば「理想論」であり事實上無理なのだが其れでも数少ない藝術家がかってあえて其の部分をこそ目指して來た。

其の岡本 太郎氏がまさに其の筆頭としての壱人であるが例えば戦前にも宮澤 賢治と云う大詩人がまさに其の「藝術に取っての理想郷」をこそかって目指して居た訳だ。

 

尚「藝術」の本質部とはあくまで「所謂常識とは違うものの見方であり考え」のことなのであり故に藝術的自我とはまさに其の認識の発露の場と云うこととなる。

むしろ「常識とは逆の途」を志向するのが藝術的精神であり其の藝術的自我のあり方である。

 

故にイザ「藝術家」に取り分からんのはむしろ「常識」の方であり「常識的価値観」の方となる。

だから岡本 太郎氏が言わんとして居ることは此の種の言葉抜きでも其の作品其のものよりさう感じ取ることが出来る訳です。

 

 

「展覧会 岡本太郎」をみてきました.|konakalab|note

 

愛知県美術館での「展覧会 岡本太郎」の模様は以上でのやうなものとなります。

 

「太陽の塔」模型壊す 岡本太郎氏制作、容疑で男逮捕―愛知県警:時事ドットコム (jiji.com)

 

ところが頭のおかしい男が「太陽の塔」の模型を壊しましたので昨日参月壱日には其れが展示されて居らず代わりに「若い太陽の塔」の模型が展示されて居た。

さて「展覧会 岡本太郎」は平日にも関わらず盛況で印象では男女に偏らずまた年齢にも偏らず多くの客が訪れて居ました。

 

御陰で帰宅後は頭痛がして「如何にもコロナにやられた」感があったが本日は回復致しました。

 

またアノ梵鐘なども展示されて居りました。

 

名古屋市北区の久国寺にある岡本太郎作「梵鐘 歓喜」の鐘を見に行こう。 - Take me to the ...

久国寺 岡本太郎作「歓喜の鐘」による除夜の鐘 - Bing video

 

でもって繒画では『暴走』と云う作品に最も惹かれた。

其の「暴走」とは「文明の暴走」のことである可能性などもまたありませう。

 

 

暴走 岡本 太郎  1963

 

「怒り」の作品の数々を一挙に公開 岡本太郎記念館: J-CAST トレンド

 

個人的に此の繒には「激しい怒り」の思いが込められて居るやうに感ぜられた。

其れも初めて観る繒画作品であり此れ迄にまるで知らなんだ繒だったのだが。

 

おそらく其の「激しい怒り」とは「現代文明」に對してのものであらう。

ですが繒画作品でもって此処まで「怒った」作品を観るのはまさに初めてです。

 

ですので此の『暴走』と云う作品をまさに観んが為に我は今此処に來て居ると云うことなども感じられた訳です。

故に入場料は高いし図録もまた高く結局五千円程も使って仕舞ったがまあ其れも生涯で唯壱としての體験なのだから。

 

しかも此の『暴走』についに巡り遭えた。

 

其処でついでに松屋でカルビ丼を買い家に帰りすぐに其の『暴走』の画像を探し出し早速デスクトップに貼り付けてみた。

おお何と素晴らしい「文明批判」の様なのだらう。

 

かの『森の掟』などもまさにさうなのだが岡本 太郎氏の作品にはそんな文明社會に對する疑惑と怒りの部分が渦巻いて居るやうな気も確かにする。

其れは岡本 太郎氏がかってレヴィ=ストロース氏と共に文化人類学の方を學んだことからも容易に類推されることです。

 

愛知県美術館で開催されている「展覧会 岡本太郎」へ行ってきた。見どころ、混雑状況、所要時間は? | ノマサラ (liquid-sense.com)

 

こちらには其の『暴走』と『森の掟』の写眞が載せられて居る。

尤も最初は寿司の写眞ばかりが出て來ますが…。

 

 

尚自分に取り最も重要な点こそがまさに其の岡本 太郎氏による「文明批判」的な側面であることでせう。

其の文明批判とは所謂私怨や感情的な蟠りの類では無く人類が全體として成り立たせて居るであらう問題のことで人間社會に於いて常に難度が高くあり且つ人間存在としての本質的な意味での大問題のことです。

 

其のことはまず並みの藝術家では出来ぬことでせう。

また自分の批判も何せかうして能力が低く常に空回りして居る感じですが實は天才的な人間であるにせよ其れは至極難しいことなのです。

 

ところで昨日たまたま帰りに榮経由では無く東区の方へ行きさらに南下して今池→仲田の方から帰りましたのです。

ところが其の仲田の交差点でたまたま信号待ちをする人の顔を見て居たところ何と其処に🏥時代の友達の顔があるではないか!ー厳密には壱歳下ですが此の歳ともなればまあ同い年ですー

 

そんな訳で壱年と数箇月振りに彼と遭遇しまた電話をする約束を致しました。

彼も此の壱年ばかりの間に色色とあったやうででもさうして頑張って生きて居るのである。

 

従って岡本 太郎氏による「文明批判」的な側面もまた大事なことではあれかうして現實としての生活の方もまた常に大事なこととなる。

現實としての生活の方にさうして「奇跡的」なことが起きることの方が或は藝術以上に不思議なことだとも言えさうです。