藝術に関する試論ー2 天才達の頭の中ー
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さて四日程前にこちらを視聴し「我が實存」を揺すぶられた感が強くしたものでした。
でもって弐度目はメモを取りつつまた全編に亘り視聴してみた。
其のメモを基に話を進めさせて頂きます。
でもってまずは基本的にわたくしは其の「天才」達の生き様や認識に對し常に親和的です。
其れはわたくし自身にも「半分」はそんな傾向が有るからでのことです。
またどちらかと言えば自分の場合「秀才型」では無く「天才型」のニンゲンです。
要するにコツコツやるタイプでは無く「直感」や「直観」が働くタイプですので。
ところが「秀才型」の面がまた無いでも無い。
秀才⇔天才
個人的には其れもまた両面を持ち合わせて居ることかと思いますのです。
まただから故に其の「天才」も半分位しか働かぬのではなからうか。
利口⇔馬鹿ー阿呆ー
またコチラの方さえもが實は守備範囲なのでしてであるからこそ大層困るのですが其れも基本的にはあくまで理性的な「インテリさん」なのですよ。
まあそんな個人的な悩みの話はどうでも良いので以下にて「天才」の認識に就いて是非語らせて頂きたい。
まずは番組中での「天才の認識」其のものに就き非常に良く分かりました。
ですがおそらく大多数の人人に取り其れはさうでは無いことでせう。
でもってまずはメモを読み返してみます。
何故ならでないと内容を思い出せないので。
其の「メモ」が何と便箋「九枚」にも亘る。
其れもMont Blanc149万年筆を改造したED万年筆にて書き留めたものとなる。
1.双極主義ー對極主義ー
2.子供ー好奇心ー
3.才能ー贈られた力ー
そこでまずは此の点に就き論じます。
左様に「天才」の多くは「弐項對立」的な認識世界を生きる。
尤もニンゲンは元來さう物事を見るのですが「天才」に於いてむしろ其のことが際立って居る。
其れは要するに「認識力」其のものがより優秀なのでさうハッキリさう見えて仕舞うのです。
またつまりはさうした意味での「分裂的」な認識価値を「統合」しつつ彼等は「現實」を生きて居る。
ところが大多数のニンゲンの認識はさうハッキリ分裂されぬので「統合」も何も無いのでありませう。
また「天才」の多くに共通するのが「無垢なる好奇心」の部分です。
其の「好奇心」こそが「創造性」を生み出す基となるが普通ニンゲンは社會的にくるめられることで其の「創造性」を失うものだ。
何故なら會社へ行きまたケッコンしさらに子などが出來ますと「創造性」を持つよりもむしろ持たぬ方が生き易くなることは必定です。
さう「生活至上主義」で行くのであればむしろ「創造性」なんぞは必要無い、むしろ其れは邪魔となることなのだから故に。
ですが多くの「天才」の価値観であり基礎認識其のものがむしろ其の「生活至上主義」=「社會的自我」以前のところに有るやうに見受けられる。
其のことをより単純に述べれば彼等はあえて「子供の心」の侭で大人の今を生きる人人となる。
また正直申して自分などもまた子供臭いところが多分に有る。
さうかと申してもう高齢者ですので其の實はジジイなのでもまたありますのですが。
原體験⇔経験
つまりは其れを同時に持つとのことなのではなからうか。
さて「子供」其れ自體が必ずしも「天才」となるのではないのです。
「子供」には「知的経験」及び「論理的能力」が欠けて居るので所謂「藝術作品」を彼等が常に生み出せる訳ではありません。
尤も「子供」にも藝術家は居ますが其の比率は大人の場合などとほとんど同じでせう。
要するにあくまで個人的にはむしろ両極に於ける「統合知」の部分こそが「天才」的能力の必須の条件のやうに思われてならない。
また番組中でとある詩人の方が「天より言葉が降りて來る」とさう申されて居たのがまさにピンと來た。
さう「詩」とはむしろ「純粋藝術」に近いものでさう詩の言葉が上から降りて來るのである。
自分の中で湧くと云うよりもむしろそんな感じで上から來る感じが常にする。
兎に角さう「降ろされ贈られた」ものである感が強くして居る。
またつまりは其れが所謂「ギフテッド」された感度により其れを掴んで居ることとなる。
其れがまさに「才能」ですが「天才」の多くが其れを「生まれつき」のものであるとさう述べる。
つまりは「経験」でもまた「努力」なのでも無い。
さう「努力」すれば誰しも多分早稲田大学位は受かるかもしれませんがそんな「秀才」なのともまた違うものだ。
また藤井君や大谷君の「天才」振りなどもまたどう見ても生まれつきでのものでせう。
4.逆向き思考ー逆説的な手法ー
5.創造的依存
6.両義に亘る強い感度と自己完結性
また「天才」の多くが「逆向き思考」ー逆説的な手法ーを好んでして居るとのこと。
正直自分などもまた明らかにさうである。
物事の「逆方面」を見たり考えたりする時にむしろほんたうの意味での「現實」の範囲に気付くことが可能となる。
ですが此の世の表面をなぞるのみでは所謂「本質的」に其れを理解することが適わなくなる。
さらに其の「天才」的能力=「天才的認識」の世界が果たして幸福なのか否かと云う段に及べばむしろ其れが必ずしもさうでは無い面なども出て來る。
何故なら彼等は常にさうして「永遠なる創造的旅人」でありつまりは「今ココ」に満足されぬ「創造的依存」状態に陥るだらう「病人」なのでもまたあり得るのだ。
でも佛教の教理などではむしろ「而今」などと屡語られるものです。
と云うことは「佛法」と「藝術」はまた目的とするものが違うのでせう。
「佛法」や「クリストの教え」は「救い」=「ほんたうの樂」を心理的に追求するものだらうが「藝術」はむしろさう「永遠なる自己實現」をこそ図るものとなる。
即ち中心とするモノが両者でそも違うやうに思われてならない。
尚「藝術」でもって本質的に心が救われることはまず無いことだらう。
其の代わりに常に其れは人人の心を癒し続ける。
また創作者は「作品」を生み出し其の「作品」は永続化することともまたなるのである。
尚藝術家は壱般に強い両義的感度を持ち合わせて居る。
即ち「心地良い」ものばかりか不安や恐怖などの「心地が惡い」ものに對しむしろ親和的な感度を有するのだと言える。
要するにさう価値の両面に亘り高い感度を持ち合わせて居るのだ。
故にか「美」なるものを眞に理解せんが為に見詰めるべきものとはむしろ「醜」の方となる。
また其のことがまず大多数のニンゲンにはやれぬこととなる。
されど要するにそれでは認識の上での幅が常に狭くならうからほんたうに美しいものをもまた見失うこととならう。
つまりは其の認識がデカいー廣いーとのことが言えるかと個人的には考える。
「デカい」⇔「ちっこい」
「廣い」⇔「狭い」
ですが其れもまた僕の場合は變わって居るのであえて両方をイクのです。ーさう両方がやれるー
宇宙⇔叢
まあそんなもんですか。
宇宙⇔自己
まあそんなもんでせう。
不確定性原理⇔僕
でもコレが関係するかどうかは何せ理系が不得意ですのでまるで分からない。
さらに「自己完結性」とのことですがまさに其れはボクの為にある言葉のやうなものだ。
するとアナタには何も足せずさらにアナタからは何も引けぬこととなりますが…。
實際にワタシに何かを足せますか君が?
實際にワタシから何かを引けますか君が?
…結果やれませんでした。
そら見たことか。
また「天才」の多くはむしろそんな「自己完結」するであらう認識世界を生きて居ることだらう。
さうか、では「岡本 太郎」氏にはどんな足し算でもまた引き算にせよ通用しないと云うことなのですね?
だって實際にさうでせう。
實際「岡本 太郎」氏に何もくっつけられやせんのだし「岡本 太郎」氏から何も奪えないでせう?
また其の「岡本 太郎」を「ピカソ」などにしてみてもまさに其の関係こそが成り立ちませう。
さうだなあ、でも大凡才のボクは何でも足せるしまた何でも奪えます。
さうか、さうだったのか其れは其れは御目出度う。
君は其の凡暗中の凡暗、つまりは屑石中の屑石でもって何の取り柄も無いタダの🐵のやうな生き物です。
また得意な動物の比喩に持ち込んで…。
ならば御前は👽ではないか!
いえさうでは無く👾の方です。
何せコチラのタイプの宇宙人の方がより理解がしにくいのでありますから。
だが其れはさうと君はそんな「自己完結型」のニンゲンでは生きにくくはないのか?
實際にーマジでもってー生きにくい。
ほんたうにもうどうしやうも無く生きにくい。
でも何だか可哀さう…。
…どうもありがたう。
さう言って呉れるのはむしろ君ダケだよ。
かうして半分「天才」に生まれむしろ自分の場合は其のことが大層「辛かった」のだった。
さて番組中ではかの「デヴィッド・ボウイ」氏のインタヴューの部分が都合参度に亘り出て参ります。
其の「デヴィッド・ボウイ」氏の発言内容は意外なことに最も眞面目寄りでのものだった。
さう彼「デヴィッド・ボウイ」氏の内面は奇抜な外見からは想像もつかぬやうな「生眞面目」で且つ求道的なものとなる。
番組中ではボウイ氏が「チベット佛教」の僧と出會い彼から「佛法」を學んだ件が氏自身の口から語られる。
「デヴィッド・ボウイ」氏はさう所謂クリスト教徒では無くしてほぼ佛教徒だったのでせう。
また彼は『チベットの7年』と云う本を17歳の頃に読み佛法の世界へと開かれて行ったのだと云う。
壱時期は「出家」を考えたが逆に僧に「音樂の世界」で活躍せよとさう諭され其れを思いとどまったのださうだ。
「諸行無常」ー諸行非常ー
ー此の世には「恒久的」に有り続ける価値など無いことー
まさに其のことをボウイ氏は語られて居た。
ところで所謂「創造性」とはそんな「精神性」と常に関わることなのだらうか?
関わりが無いとは言えないが創造者であるにせよ無神論者も居れば合理主義者もまた居ることだらう。
またかのダライ・ラマ氏などが番組中で「創造性」が誤った方向へ使われることの危険ー災厄ーの部分に就き語られて居たのが印象に残る。
例えば科学技術にもまた常に「創造性」が使われるが何故か其れは人文の領域でのやうな「穏やかな」ものを生み出さずむしろ「破壊的」なものを用意して行って仕舞う。
其のことは所謂「合理的解釈」に「哀しみ」=「悲哀」を感知する能力がそも欠けて居るからなのではないか。
對して宗教などはむしろまずは其の生きる上での「悲哀」であり「悲嘆」の部分にこそ寄り添う。
また哲學はそんな生きる上での「悲哀」であり「悲嘆」の部分に圧し潰されぬやうにどう理想的な生を模索するかと云うことをまずは考える。
7.政治と創造
8.知性的創造と本能的創造
9.創造的自我
さらに番組中で語られるのがまさに其の「政治」と「創造性」の問題となる。
だが普通「政治」は常に「創造」とは無関係な認識の位置を占める。
其れは「政治」が主に「社會」を駆動されることに使われる認識であり「創造」は主に個の次元にて「自己」を駆動させることに用いられる認識であり要するに正反對での認識となるからのことだと個人的には考える。
つまりは「政治」が回すのは「みんな」であり「創造」者が回すのは「自己實現」であり「自己の解放」とならう。
故に「創造的次元」が社會に對し開かれることはむしろ無くさらに社會的に社會の上での様様な問題が解決され得る訳なのでもまた無い。
むしろ其の問題への解決の方向性は「創造的自我」を持つ個に委ねられて居やう。
所謂政治家とは「社會」を駆動されることに使われる「駒」の如きものであり其れ自身には考える能力や新たなものを創る能力がむしろ欠けて御座る。
よってか常に政治家連中は所謂大衆に迎合し保身を図る。
そんなものがまさか民主制を健全に保ったりまた革命政権でも樹立し世界を變えて行ける筈が無い。
ー物事を變えて行けるのはむしろ「文化」の方だ。ーヴィヴィアン・ウエストウッド
ー神が通り抜けるのを待つ。ーU2 ボノ
ー「霊的な考察」が別の世界の存在を意識させる。ーヴィム・ヴェンダース