『「悟り」は開けない』より開けた佛法に於ける本質論ー南師の本を五度に亘り読み分かったことー
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此の人はしかし「癖が強過ぎ」ておそらく🗾國全體には通用しないことでせう。
まあ自分などもまた確かに癖が強いのですがヤッパシ僕以上に曲者ですよ、まさに此の人は。
どだい其の「アッラーの神」とは果たして誰の神様なんでせう?
河村さんダケの神である可能性がどうも高いやうだ。
また「南無阿弥陀佛」はまたエエのですが其れもまた河村さんダケの「南無阿弥陀佛」となってる可能性がどうも高くある。
ですが、昨日述べましたやうに「河村氏がやってみても良い」と云うのが自分の意見です。
何故ならたった今🗾の政治はハッキリ申して「危機」を迎えて居る。
また其れはこんな癖の強いナゴヤの社會科詩人がさう述べて居ることでは無く🗾を代表するやうな知識人の方方がさう述べられて居ることだ。
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例えば最近注目し視て居りますのが此の文藝批評家の浜崎 洋介氏の政治判断であり経済談義です。
まさに此の方は現在🗾が國として陥る「ジリ貧」の状況を的確に把握しまさに其れに就き政権や官僚に對し大きく批判を展開されて居る。
浜崎 洋介氏はある意味ではわたくしなどにも似て政治や経済のことの専門家では無くつまりは「文藝者」なのですが個人的にはとても良い感度をお持ちの方ではないかとお見受けする訳です。
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たとえばこちらでの「芥川論」などもとても良く出來た論評かと思う。
自分は岩波の「芥川 龍之介全集」をすでに高校時代に読破致しましたのですがさうした人間でもまさに違和感無く視られ且つ感心させられる動画の内容でした。
ところがより多くの🗾人は其の「危機」を感じてなど居らず只仕事へ此れ迄通りに行き普段の暮らしを其の侭に営めば🗾國は大丈夫だとさう感じて居られる筈です。
ですから其の「正常性バイアス」の如きものは確かに大事ではあれ少しは「危機」なり「疑問」なりを持ち且つ其れを「社會的」に提示して行くべきです。
故に河村市長にはまさにそんな危機感があるのではないかと思うのです。
丁度大阪から「維新の會」が発足したやうに「やれる場があればやるぞ」てなもので別にナゴヤ人は癖が強いばかりでは無くアノイチローや真央ちゃんや藤井氏の如き「天才」などもまた多いのですし。
ところでイチローって関西人だと思って居ませんでしたか?
其れ違ってますよ、さう彼こそがバリバリの尾張人なんだ。
「神の思し召し」
うーん、確かに神には逆らえぬのだし「神こそが全て」だらう。
もしや君はイスラーム教徒か、其れともクリスト教徒か?
いえ単なる壱佛教徒です。
では君は「全能の神」を信じる壱佛教徒なのだな?
「全能の神」を信じる壱佛教徒なんて居る筈が無いではあーりませんか。
本質的な意味で佛教は「神」其のものを否定する宗教です。
でも佛教には色んな神が居るだらう?其れに神社と寺もまたくっついて居るぞ。
…仰る通りです。
ですが其れをやった分佛教其のものが訳が分からなくなり余計に🗾人は宗教嫌いに陥ったのだ。
ですがまずは其れを分かるやうにする手があります。
其れも以下の本を読めばほぼ全てが分かるのです。
「坐禅」をしても、“悟り”は開けない!? |BEST TiMES(ベストタイムズ) (kk-bestsellers.com)
『「悟り」は開けない』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター (bookmeter.com)
南直哉 (禅僧) - Wikipedia師はわたくしに取り壱歳年上の精神の上での師匠です。
其れも「佛教哲學」に於ける師匠との感じがいつも致して居ります。
また禅は観念を嫌うものですが此の方は其れも恐ろしく観念的な御坊様です。
一、「老師」はつらいよ | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)
逆に申せば「観念を嫌う」に至る迄の「観念的道程」を佛法は否定など出來ぬ。
何故なら御釈迦様御自身がズバリ申して滅茶苦茶に「観念的」な方でした。
「観念的」過ぎて其れが酷いので心配した父王が季節毎の宮殿と美女を与えてみたところ御釈迦様は余計に贅沢や👩が嫌いになって仕舞われた。
御釈迦様の👩嫌いは子が出來てからむしろ徹底的なものとなり要するに彼はそんな「此の世への執着の因」を何よりも嫌ったのである。
まあ御釈迦様はほぼ異常者級に「潔癖」な方であった可能性が高い。
ですがほぼ異常者級に「潔癖」でなくて果たして何が分かりませう?
ですのでほぼ異常者級に「潔癖」であるからこそ「宗教」だの「哲學」だの「藝術」だの何だのとの世界が初めて見えて來るのであり家の中で家事をして居たりまた會社と家を行ったり來たりして居て果たして其れでもって眞理が分かるのでせうか?
まあ其処にて「生活の實相」のやうなものはまた見えて來ることだらうがあくまで其れは「眞理」とは別物での體験的な知恵のやうなものだらう。
では「眞理」とはそも何なのか?
「眞理」とは「正しい考え方」のことでありつまりは「正しい認識」のことでせう。
では「正しい」とはそも何なのか?
「正しい」とは人間の認識上の癖を見抜き其れに惑わされること無き世界観をこそ築くことである。
じゃあ「正しい」のは果たして何教なのか?
人間の認識上の癖を見抜き其れに惑わされること無き世界観を築くに足る教えこそが言わば「正教」なのだ。
じゃあ「佛教」ダケが壱番正しくクリスト教だのイスラーム教だのは邪教なのか?
いえ「佛教」がむしろ間違って居てクリスト教だのイスラーム教だのの方が正しい場合もまた場合によりあります。
ですが「佛教」の本質とはあくまで「眞理探究」でありクリスト教やイスラーム教での「眞理探究」は常に仮設的なものとなる。
何故ならクリスト教やイスラーム教が目指すのはあくまで「神による救済」=他力救済であり「佛教」のやうな自己救済には非ず。
されどクリスト教やイスラーム教でもまた人間を救うことは可能である。
逆に言えばさうして壱神教化して行った大乗佛教でもまた人間を救うことは可能である。
むしろ人間を救いにくいのが禅宗であり原始佛教です。
何故なら禅宗や原始佛教はそも「此の世に生きること」を前提として居らず逆に「此の世から消え去ること」のみを「生の目的」として捉えて居るからなのだ。
また何でそんな屈折して御座るのか?
いや其れはむしろ君の認識の方こそが屈折して居るのだ。
其れも酒を飲みたい、👩に触りたい、孫が欲しい、などと。
だが其の酒を飲みたい、👩に触りたい、孫が欲しい、と云うのはまさに健全な価値観ではないか!
いやだから其の「健全」なのがむしろ壱番胡散臭い価値なのさ。
さても其の「此の世から消え去ること」がエエことだとさう云うのはアノオウム教とまるで同じではないか!!
いやオウム教とはまるで違うね。
オウム教とは其れ即ち麻原教で麻原を神に祀り上げやらうとしたことは🗾國民の抹殺だった訳だ。
でも🗾國民の抹殺を禅宗であり原始佛教が望むのだとすれば其れはオウム教と同じ邪教だらう?
だから抹殺じゃなく自分でもって自分を消すの。
ほれ見よ、其れはまさに自決教だ。
其れも芥川教であり大宰教だらう?
だけどたとえ自殺したって「解脱」は金輪際出来んのよ。
さて此の類での御話はむしろ無限に続きます。
続きますのですが、其れでは無論のこと「本質的な佛法談義」にはなりますまい。
其処で以下に『「悟り」は開けない』からインスパイアされたところでの観念的論議をすることで其のことに代えてみたいと思う。
「むしろ人間を救いにくいのが禅宗であり原始佛教」
此のことは此の本を読みまずわたくしが感じたことでした。ーより正確には五度目の再読でさう気付いたことー
つまり禅宗であり原始佛教とはあくまで自分でもって自分を救う自己救済の理論のことですので其れは本質的に「宗教」では無く「哲學的な方法論」の方に近いものである。
また著作中で南師もまた述べて居られるが佛法は其れもより純粋な意味での佛法は「ヒューマニズム」では無いのである。
無論のこと其のことは「此の世から消え去ること」のみを只ひたすらに生の目的と為す「自力救済」としての方法論からしてもむしろ当たり前のことです。
即ち「自力救済」其のものが要するにカルトチックな教え其のものであり世人に広く受け容れられるやうな方法論ではまるで無いのです。
ですが其の故にこそ其れはまさに「眞理探究」の世界のものとまたなることだらう。
なので「自力救済」其のものがむしろ非常に限定された特別な哲學的資質を持つ人間の為に説かれた教えなのだ。
例えば其の特別な哲學的資質を持つ人間のことを佛教では「声聞」や「縁覚」と云う呼び方でもって古くより語って來て居る。
また「独覚」とも言い要するに独りでもって悟りまで至って仕舞う人間の精神的性質ー精神的素養ーなどもまたある。
ですが「独覚」は主に「法を説いても世人には理解されぬ」とさう達観して居りむしろ其の侭に死んで行ったりもする。
ではそも何故御釈迦様は我等凡夫の為にあえて法を御説きになったのか?
結局其のことは「社會」の問題があったからなのではなかったか。
人間にはそも其のやうに優れた精神的性質ー精神的素養ーを持った人がほんの僅かながら居ます。
ですが其の人等は自分でもって自分を救う可能性がまた高くある訳だ。
なのですがあくまで「社會」を救うことは難しいと申すかほぼ不可能に近い。
其処でもって何で「社會」其のものを救えぬのかと言えば結局其れは「倒錯の度がより酷い」からなんでせう。
だから自称作家や自称詩人の妄想なんぞはたかが知れて居ります。
ですが自称作家のヤバい奴が京都のアニメーションの會社に放火することなどもまたして居り此の場合はむしろ其の作家の妄想こそが被害を拡大して居りますのです。
ならば自称詩人もまたヤバいではないか?
いいえまるで大丈夫です。
何故なら自称詩人は自作の詩が盗作されたとはまるで思って居ない。
また自作の詩もまるで発表などして居らぬが故に。
ほんでもって御釈迦様はむしろ「社會」の為に法を説かれたのだと?
御釈迦様にはむしろ「ハルマゲドン」の様がしかと御見えになって居たのやもしれぬ。
さう、いつか法は廃れ僧は堕落し「外道としての邪教」が蔓延る。
だから邪教だとは言ってません。
只佛法に取り「外道」であることはまず間違い無い。
尚南師は著作中で「クリスト教に於ける罪の概念」が理解されずクリスト教から離れたとさう述べて居られる。
ですが自分の場合は「クリスト教に於ける罪の概念」こそが重要な教義であるとさう考えて來ておる。
つまりはまんまクリスト教徒ではないか!
いえ違います、わたくしはあくまで「仮設的な佛教徒」なのだ。
何だ其の「仮設的な佛教徒」とは?
ならばいいですか、此れから御話することを壱つよーく聞いてみて下され。
まずは「現象の根拠」としての「自己」との観念が所謂創唱宗教に於ける最大の問題点です。
でもってアニミズムだの神道だのさうした自然宗教に於いては其の「自己」は大して問題とはならない。
ところが普通「自己」を「自己」として救うことは人間には不可能なこととならざるを得ぬ。
もしも出來たにせよまさに其れが「声聞」や「縁覚」級の認識世界でありそんな高級なもんが庶民の側に迄下りて來る筈が無い。
であるからこそ其処に「神」が生まれる訳だ。
でも其の「神」はあくまで「仮設」された「自己」としての根拠です。
また「神」さえもがあくまで「仮設」された「自己」としての根拠なのだとすれば「文明」であれ「國家」であれまた「👪」であれ要するに其の實存に取っての根拠其のものが「仮設」されたものであるに過ぎぬ。
ところが「禅宗であり原始佛教」は其の「仮設」される自己としての根拠としての「神」や「所有」を認めないとさう南師は本に書かれて居る。
まさに其れはさうであり「神」や「所有」を認める壱神教であれまた多神教であれ言わば其の意味での「仮設」的な観念なのですから。
エエッ?すると「禅宗であり原始佛教」以外の教えはウソの教えなのか?
いえウソでは無くあくまで「仮」のものなのだ。
あくまで「仮」のものでもこと「救済」に関しては其れが「實」ともまたなり得やう。
故に問題は其の現象の根拠をそも否定してかかる「禅宗であり原始佛教」は果たして其処で何をやりたいのでせう?
其れが實はまさに根本的な意味での「苦の抹消」なのです。
即ち分かり易く言えば「神」や「所有」とは「現象としての不確かな實存」を根本より包んで呉れるつまりは「根拠」なのだ。
なので其れがあれば人間はたとえどんな状況に置かれてもむしろ其れを信じ生き抜くことが可能とならう。
例えば障碍があり生きるのが難儀だ。
たった今病気であり生きるのが難儀だ。
子の出來が惡くしかも妻がよりにより不細工だ。
金がネエ、しかもあと百円しかネエ。
だが「幸いなるかな、心貧しきもの、天國は汝のものなればなり。」とさう何処かで宣う。
だから明らかに其れは壱つの心の「救い」である。
なのですが其れはあくまで「仮設」に於ける「救い」でありつまりは人間に取り抜本的な「救い」なのでは無い。
また祭りだ祭りだ、ワッショイワッショイ!!
こんなまさに漢の世界だ、其れも日本酒の壱気飲みだ、さうして夜這いだ、こんな大漁だ五穀豊穣だ、ワッショイワッショイ!!!
又は自然派詩人の如くに原生林へと深く分け入り其処にて哲學的黙想に耽ることなど。
其れも所詮は其の「仮設」に於ける「救い」でありつまりは人間に取り抜本的な「救い」なのでは無い。
ならばどーするのだ?
神でも所有でもまた祭りでも救われぬ人間を「禅宗であり原始佛教」はどう救うのだ?
いえだから「禅宗であり原始佛教」は別に君を救おうとさうして居る訳ではありません。
なので「禅宗であり原始佛教」は他の國へ行き君達の信じている其の自然崇拝的なものは下等な教えなのでもう壱切止めクリスト教に是非改宗せよ!などとはまさか言わないのだ。
だったら「禅宗であり原始佛教」の価値とは壱體何処にあるの?
そんなもん無い方がエエやうなもんではあーりませんか。
其れではまさに其の君の疑問に答えてしんぜやう。
「禅宗であり原始佛教」の価値とはズバリ「佛とは屁である」とのことです。
でももう止めやうそんな禅問答は。
「佛とは💩である」とかおそらくはまたさう言いたいのだらうが…。
つまるところ「禅宗であり原始佛教」は「仮設」せず「眞理」其のものを歩まんが為の教えのことだ。
そも「仮設」しないので現象の根拠が危うくされた侭に其れでも「他」を受け容れて行く教えのことなのかもしれぬ。
なのかもしれぬとさう言いましたのは自分はそんな「禅宗であり原始佛教」とはまた異なる自分でもって「仮設」するであらう「クリスト教的な佛法」をこそあえてやって來て居るのでソコんトコが正確には分からんのであります。
「仮設」⇔「解體」
尚佛法は概ね「解體」の方をこそ志すものですが、大乗教説の場合はそもクリスト教化、またヒンズー教化などもして居り其の様は純粋な意味での「解體」とは異なるのやもしれません。
「解體」とはズバリ「自己」又は「自我」の解體のことである。
「自己」又は「自我」の解體はされど庶民に取りなかなか出來ることでは無い。
何故なら普通人間は特に近代以降の人間は「自己」又は「自我」の仮設構造をしかと学校教育により築き上げて居るからです。
逆に申せば山の中で🐺だの🐵だのまた🐗だのそんな野生動物に育てられたオオカミ少年だのまたターザンだのそんな人間の方が其の「社會的自我」が刷り込まれて居らずよって「禅宗であり原始佛教」の方での自力救済の方に近いともまた言えるのではないか。
またルンペンさんや山奥の變人さんなども「禅宗であり原始佛教」の方での自力救済の方に近いともまた言えるのではないか。
でも「自力救済」とはそもそんな變質的な教えなの?
ええ確かにさうなんでせう。
だから僕にはまさかやれんのです。
ではアナタの狙いとはそも何ですか?
うーん、其れはまた難しい御話しですが其処をあえて言いますと「仮設」しあえて「仮設」には拘らず「所有」しあえて「所有」には拘らずとの壱種の「風狂の禅」としての境地を究めたいとさうも思います。
まさに其れがアノ壱休禅師の生き方なので?
さうですね、壱休禅師の認識のあり方ともまた似ては居りますがでも自分の場合👩にはまず触りませんので…。
また酒も飲まないですね。
其の代わりに菓子を食うぞ。
旅してゴメン、菓子食って御免。
ですが其の「眞我」の仮設構造はもはや「佛教」では無いですよ!
ですので「クリスト教的な佛法」だと何度もさう述べた筈です。
でもそんなもんはまさに邪教だ!
どだいそんな邪教の教祖は何やるか分からんぞ!!
…別に。
別に何と言われてもほんたうの自分に取りあくまでコレが眞理なので…。
ほれ見よ、ヤッパシ邪教の教祖だ。
間違いない、まさにおめえこそが大犯罪者だ!
第壱なあにが「風狂の禅」だ。
そんな高級な「風狂の禅」じゃなくおめえは単なる「マルクス主義者」なのだらう?
でも「マルクス主義者」と「風狂の禅」を同時にやったら其れは人類初の快挙ではないか。
いずれにせよ『「悟り」は開けない』はまさに最高の佛教哲學書なのだとさう思う。
其れも参度程読んでもまだいまひとつ意味が掴めなんだのだが今回の再読では何故かスッと全てが分かりしかも此の本が極めて重要な思想書であることにしかと気付いたのだった。ーよって此の御話はまだまだ続きますー