「禅」の要諦部と「親友」との對話ー+三河岡崎にある一畑山薬師寺への観光の御話ー
エスパー伊東さん死去 上半身裸に黒スパッツ姿がトレードマーク 鞄の中に全身入れて登場/略歴 (msn.com)
南部虎弾、エスパー伊東さんに面会できず「悔しくてしょうがない」事務所対応には「ひどい話だ」 (msn.com)
左様に今の六拾代、また七拾代が案外脆くつまりはあっけなく死ぬのはおそらく食生活が昔の🗾人とは異なり「食い過ぎ」て居るからなのだらう。
だけれども基本的に虚弱體質系の人はむしろ「肉食」を心掛けた方がより有意義に生きられやう。
まさに其の彼エスパー伊東は大好きな芸人であった。扇風機-Bing 動画
「今すぐ逃げること!」NHKアナが大声で避難呼びかけ…視聴者の「自分は大丈夫」バイアス打ち破る (msn.com)
元より其の「バイアス」が強くかかるのが🗾人の特徴だらう。
🗾は外圧に弱いと申すかそも外圧とは無関係に長く生きて來たのでそんな危機管理の分野には元元至極弱いことだらう。
「明治維新」以前以後の「大きな差」…「村八分」という現象は昔はなかった かつてあった「包摂」の仕組み (msn.com)
多くの人が意外と気づかなかった、東日本と西日本の「決定的な違い」(若林 恵,畑中 章宏) | 現代新書 | 講談社(1/3) (gendai.media)
非常に面白い考え方であり論題である。
元より外圧無き島國である🗾國はむしろさうして東と西に分かたれて「違い」を生じて居たのである。
但し今現在の自分の捉え方とすれば「あくまで同時に其れを見渡し且つ理解する」ことに努めて居る積もりである。
例えばつい先日アマゾンにて関東から「草加せんべい」を取り寄せ食ったところだが昨日家に届いたのは道頓堀の「岩おこし」と「粟おこし」であるとのことで要するにさうして関東と関西を常に同時に食うのである。
またソコへ赤味噌煮込みおでんやら台湾ラーメンやらそんなナゴヤのソウルフードなどを混ぜ込むとさらに面白い。
おまけに北海道のアーモンドプラリネなどをプラスすればもう何やら訳が分からん味ともならうが兎に角其の全てが美味い!
左様に「感覚」の分野はむしろ「違い」を乗り越えて進む方がより幅広く樂しめる。
さて此処暫くブログ表示のレイアウトが狂い投稿も編集も出來なんだが其れは高齢者詩人による勘違いより生ずるものであることが此の程判明した。
…結果もうそんな耄碌ジジイなのか?
でもって其の間は主に高校時代からの親友とメールにて話し込んで居た。
結論を言えば彼E・K氏は相当に悲観的な🗾社會の見方をして居たのである。
彼は高校時代ー高校壱年の折にー私の席のすぐ前に何故か居たのである。
でもって其れから凡そ半世紀が過ぎ去ったがかうしていまだ現役での親友なのだ。
彼は英語が出來関西の大學へ行った。
卒業後地元へと戻り所謂堅い職業に就いた。
元元互いにコレクターなので兎に角仲が良く理解し合えるところがある。
但し其のコレクションの分野は違い彼は所謂洋物の高級🎸などを蒐集して居たものだった。
要するに音樂が好きでバンドと云うか其処迄行かずとも音樂仲間で集まり何かを演奏したりする人である。
實はわたくしもまた音樂は得意分野であり歌が上手いがあくまで個性的であり音域が高いのでカラオケ位でしか歌えやしない。
其れと私は皆で集まり何かをやることがそも好きでは無く部屋の中で何かを勉強したり物をナデナデして居る方が性に合うものと來てる。
いずれにせよそんな彼とかれこれ拾年振り位に語り合ってみるとまさに其処に出て來るのは所謂「ジジイの愚痴」のやうなものばかり。
要するに「自民党批判」や「文明批判」や「🗾の御先が眞っ暗」なことばかりとなって仕舞う。
さう言えば大學を出た位の頃に彼と旅行へ行き夜遅く迄「天皇制」に就き話し込んだことがあった。
だが其れ以降彼とそんな社會的な問題に就き語り合ったことなどは無かった。
何故ならむしろ壱緒に遊んで居たので。
レコードを聴いたりギターを弾いたり壱緒に石を採りに行ったりとそんなことばかりをして居たので。
また厄年の時に三河岡崎の一畑山薬師寺一畑山薬師寺 (ichihatasan.or.jp)を共に訪れたことなどもあった。
ご祈祷について | 一畑山薬師寺 (ichihatasan.or.jp)
まさに此の御祈祷を受けたのである。
季節料理について | 一畑山薬師寺 (ichihatasan.or.jp)
此の飯を食ったか又は御茶を飲んだ覚えなどもある。
ところが其の折に自分がして居たのは主にモンブランのメディチ限定🖋の話ばかりでした。
要するに祈祷なんてそも効きゃあせんがさうして友と壱緒にドライヴして遊びに行くこと自體が有意義なことなのだ。
でもって一畑山薬師寺 - Wikipediaは何と臨済宗の寺であることを本日初めて知った。
つまりは密教系の寺だらうと勝手にさう思って居たのだが禅宗での寺だった。
禅宗系の寺にしては何やらゴチャゴチャとしてつまりは観光系での寺であった。
確か佛像などもまた色色と観たやうに思われるが禅宗に本來佛像は要らん筈なのであるが…。
いずれにせよ其のことはまた自分に取り良い思い出となって居る。
思うに佛縁とはむしろ左様なことを言うのであり其は難しい禅宗の教義であるとか座禅の作法であるとか其れとはまた別に成立するであらうあくまで現象としての出來事なのではないか。
其の臨済禅がかやうに各派に細かく分かれて居ることも今回初めて知った。
悟り
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。ー臨済宗 #悟り- Wikipediaより
此処でまさに観念的な意味での問題とは果たして其の仏性 - Wikipediaなるものが何か?との問いの部分にこそ有る。
そんな「佛性」に就き自分も拾年程前に独自に研究し現在では其れを「分離」として捉えるに至って居る。
尚釈迦の佛法に於いて「佛性」と云う観念的な意味での「分離」などは無い。
何故なら釈迦の佛法はあくまで自己完結型での「自力救済」となるが故にだ。
では禅宗は何故あえて「分離」するのかと言えばまさに其れが「大乗教説」だからなのだ。
「大乗教説」とは「自力救済」することの叶わぬ凡夫の為の救済の教えであり最も分かり易く申せば「あえて佛法として不純化することで他力救済を可能とする」教えのことである。
故にこそ其処に「佛性」なる概念が登場するー有化されるーのだ。
尚上の解説の部分で藝術的な表現が「悟り」と同壱視され書かれて居るがおそらくは誤りである。
藝術的な表現では所謂「直観」が駆使されることによりまさに「天才的な認識」の保存が可能となるが其れが即「悟り」の境地かと言えばむしろまるで違うものとなる。
「直観」其れ自體がイコール「悟り」であれば世にあまた居ることであらう藝術家やまた其の予備軍の方方は皆「佛」となって仕舞う。
また昔は特に多かった放蕩藝術家などは「佛」どころかむしろ「野垂れ死ぬ」奴が多く要するに放蕩に生き其の放蕩の果てに死んじまうので其れは宗教ではまさか無く単なるゲージツのキチガイのことよ。
そんなゲージツのキチガイはそも頭がオカシイ。
其れもまるでボクみたくに。
要するに「天才」=「佛」には非ず。
されど天才と佛は大いに関係はして居るとさう見るべき。
天才⇔佛
つまりは其処に切っても切れぬ縁がしかと生じて居る。
でも、
凡才⇔佛
とは實はならない。
矢張りどう考えても、
凡才<天才であり
且つ、
凡才<佛
なのであらうから。
つまりは其の石。
其の石が「玉石混交」なのと同じで其処に💎が出る確率はおおまさに宝くじ並みに低いと來てる。
そんなバカか盆暗のやうに民を貶めるな!
うーむ、バカ凡。
そんなバカ凡のパパか。
バカ凡のパパ即ち彼は天才なり。
が、所謂「観念」の本質部とは左様に「価値ヒエラルキー」にどうしても捉えられる点にこそ存する。
左様に「価値ヒエラルキー」に捉えられる限り其れは「佛」とはまるで無関係な「世俗」の価値認識であるに過ぎず。
だけれどもたとえどんな行を積んでも「世俗」の価値認識を捨て去ることはそも人間には無理だ。
ならばむしろあえて「世俗」化しむしろ其の中で「脱観念化」して行く方がエエこととなる。
そんな意味ではクリスト教やイスラーム教が奉ずる「神」の變わりに大乗佛法では「佛性」なるものを置きまさに其れを「信仰」することとなる。
尚そんな壱神教的な世界観と神道やヒンドゥー教の如き多神教の世界観とはまた異なる。
されど「大乗佛説」は以上のやうな理由でむしろ壱神教的な教義構造を有して居る。
さても少し話が難しくなり過ぎたやうだ。
だが宗教の本質や観念の本質部を語るが為の此の位の話の難しさはむしろ当然のことである。
「佛性」
さてもアナタはたった今其れを信じますか?
はい、信じて居ます。
其れもクリスト様を信じるが如くに其れを信じるのであります。
もしやアナタはふざけておいでなのか?
…全然。
アナタはしかしヤッパリ何処かの教祖なのだらう?
いえ別に教祖位ならどんだけでもやれませうが何せ僕の場合はみんなと何かをやることがそも嫌いなので合って無いのですよ、まさに其れが。
さうか、ではヤッパリアナタは声聞、縁覚の類の者なのか?
まあ独覚とでも申しますか元元そちらの方のタイプであることだけはほぼ間違いが無い。
されど悟る能力の半分を藝術にやられて居ましてむしろ其れがありませんのですけれど。
なる程、話は極めて難しいがみんなに其のことだけは伝えることに成功したとのことなのですね?
…仰る通りです。
ですのでわたくしは其れを藝術表現ー文學的表現ーとしてたった今此処に書いて居りますのです。
そんなアナタにはもしや作家などが向いて居るのかもしれません。
いやまるで向いてません、向いて居るのはむしろ宗教家でありズバリ教祖だらう!
…こんな眞面目な話の中でふざけるのは是非止めて欲しい。
はい、どうもすみませんでした、これからは是非眞面目に「眞理」に就き語ります。
公案体系
宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
修行の初期段階に与えられる公案の例:
- 狗子仏性 - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
- この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。
- 隻手の声 -「片手の拍手の音」
- 弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。
- ー臨済宗 #公案体系- Wikipediaより
其の「公案」とはまさに「脱論理」であり「脱観念」の認識段階の創出のことだらう。
其の「脱論理」であり「脱観念」の認識段階の創出の部分はクリスト教やイスラーム教などの所謂壱神教には見られぬ認識となる。
謂わば「禅」はさうして「他力救済」での擬態を為しつつも其の實は人間の側の認識の転換であり革命による「観念の抹消」をこそ目論むであらう「自力救済」での流れでのものとなる。
つまりはさうして壱神教の振りをしつつ本質的にはあくまで自己救済をするとの釈迦の佛法に何時の間にか擦り寄って行く教えなのだ。
嗚呼實にややこしい。
まさに其のカラクリを見破るのに凡そ参拾年程を要したわ。
だからもう「禅宗」なんて嫌いだ。
さう「嫌い」だとさう言いつつむしろほんたうは「好き」なのだらう?
まあ他の大乗教説よりは好き♡ですかね。
ところでアナタは其の「公案」に對しどう答えるのですか?
アア其れね、もしもいつか臨済宗の坊さんにでも聞かれたら「モンブランのメディチ🖋」の話でもしてやりますわ。
うーん、流石に其の「モンブランのメディチ🖋」の話には流石の禅坊主もついてはイケないことでせう。
だからまさに其の「ついてはイケないこと」ばかりを言ってれば「コイツは天才か又はバカかキチガイだから相手にするのはもう止めやう」との思いが生じることとならう。
まさに其処こそが「公案」の本質的意義であり且つ禅宗が語るところでの「眞理」への要諦部のことぞ。
そんな君は坊さんに滅茶苦茶を言いそうで何だか怖い。
さうです滅茶苦茶難しい話を是非してあげたりもしたい。
さう云うのを日頃から精神鍛錬して「質問」として創って置くのです。
でもって最終的には其の「佛性」の部分に弱みを持つことであらう「禅宗」を其れじゃまるでクリスト教やイスラーム教だとさう喝破し嗤ってやるのだ、わあーはっはっはっはーのはー。
アンタさう何にでも對決姿勢でもって突っかかる癖は此の際是非直した方がエエ!
直りゃあせんですよ、其れももうこんな高齢者なのですし。
尚個人的に言えば「現代社會」による価値ヒエラルキー構造と眞逆となるのが其の「禅」の公案による認識の世界なのだと思う。
よってむしろ今壱度「禅」の公案による認識の世界を見詰め直し其の「脱論理性」であり「脱観念性」の部分をこそ現代文明に取り込むことこそが急務なのではなからうか。
「禅」はタダ「座ること」のみでは無く其れこそ「臨済禅」に於ける観念的苦闘の過程をこそ文明の推進原理に僅かでも取り入れることこそが「脱文明」なり「脱破壊」を推進して行くことの要諦部となるやうに思えてならぬ。
尚自分はそんな親友に「必要以上に心配するな」とさう今後是非伝えて行く積もりです。
彼は「此処🗾は御先が眞っ暗だ、百田等の言うてることが正しい。」とさう云うのだけれどまさに其のことは御尤もながら最重要のこととは常に其の社會のあり方とは違いむしろ己自身の認識のあり方の間違いの方にこそ有らう筈なのだから。
だがわたくしはむしろ初めて彼の其の強い🗾社會に對する憤りの部分にさうして接したのである。
さう彼は自分等よりも温厚でしかも人間が出來た人である。
そんな善人の彼が今や「本当のことを言う人間は抹消される」などと言いつまりは周りに對しいきまいている。
であるからこそむしろほんたうの意味で「此の世は惡い」のではないかとさう確信するに至ったのだった。
さうかヤベえぞ、コレ。
果たしてどうする?
だがもはやどーにもならん。
どーにもならんことはどーにもならんのでとどのつまりはどーにもならん。
ーたった今考えた私製公案の例ー
1.「佛性」と「神」とは何がどう違うのか
2.💩は何を食っても何故いつも同じモノなのか
まあこんなものを百位程も創り禅の御坊様方に是非問うてみたいものです。
4.観念と座禅はドチラがより大事か
5.釈迦とクリストは共に何故母ちゃんの腹から生まれたのか
6.自称作家は何故どこまでも逮捕されぬのか
まあこんな具合に幾らでもイケませう。
7.佛と化した佛陀はたった今何処におわすのか
8.此の世界は惡の世界だがすると禅の御坊様方は所詮「惡の僧侶」なのであるか
9.かの壱休禅師は然しどう考えてもやり過ぎではありませんか
10.可愛い何かがたった今御坊様の頬を撫でた、果たしてアナタは其れを捨て切れますか?
11.何故坊主の世界がこんな「金次第」なんだ?
12.おいらはもう終わりました、あとは禅坊主が如何に団結し「公案」を世に広めるかどうかダケだ、アナタはその責務に就きどう御考えになられるのか?
兎に角こんな質問責めにしてあげますわ。
喝!
おやたった今何か音がしたぞ。
喝!!
誰かに𠮟られたやうな気がしないでも無いがもしや気のせいか?
喝!!!
やられたー、ついに「禅」の坊主共に捕まったー。
でもむしろ良かったではないか、其れも警察や検察では無くあくまで御寺の方にさうして捕らえられたのだから…。
さう良かった、僕はもう「コレ迄生きて來た中で壱番幸せ!!」です。
ちなみに僕はもはや足が痛いので「座禅」が出來無いのです。
さうか、では足を組まずに只ひたすらに御堂の「壁」に向かい禅定をせよ。
まさに其の「壁」こそが己の心の姿を映す鏡ぞ。
…だがココからどうしても逃げたいものだ。
でも金輪際逃げさせてあげない、ガシッ。
あれええー、ついに「禅」其のものに捕まったー!!!
そんな訳で「禅」とそんなわたくしのしつこい観念との闘いはむしろ未来永劫に亘り続いて行くのであらう。