15.自分と向き合うー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?2ー
『「自灯明 法灯明」ー他人ではなく自分を頼りにしようー』
『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?ーより
さて臨終が近づいた佛陀は弟子であるアーナンダに対しかう説かれました。
「自灯明 法灯明」
「むしろ自らをよすがとして歩め、法をこそよすがとして歩め」-我が解釈-
自灯明・法灯明の意味とは?漢字ばかりで分かりにくい言葉を簡単に解説。【お釈迦様の言葉】 | 仏事ペディア (b-pedia.com)
尚此の「自ら」と云う概念自體がお釈迦様の教えである「無我」とはそも矛盾して居ります。
されど其れを「眞の我」=「眞我」として捉えれば論理的にも整合性が保たれませう。
眞我⇔非我
其処でまずは此の弐元対立を想定します。
其の非我である状態とは誤った自我設定を為して居る態であり要するにウソの我を生きて居ることとなります。
其のウソの我とは謂わば洗脳された我であり操縦されし我のことだ。
正直なところ其れは其のやうに社會的価値として刷り込まれた己だと云うことだ。
お釈迦様はさうして非我を盲目的に信ずることを壱面では否定されて居たことだらう。
対してほんたうの自分と云うものが設定されやう。
其れが此の弐元分離認識により構築される世界の基礎認識でせう。
但し佛法は解脱を目的とするものですので本来はさうした考え方ー認識ーを超克する為にこそ設定される認識法のことです。
ですので、其の弐元分離認識其のものを滅する=人間では無いものにならうとして行くのだ。
故に眞我⇔非我と云う分析的な思考其のものが佛陀がお示しになる認識論とはそも矛盾して居ります。
では何故わたくしが其れを承知の上で其の弐元論に拘るのかと申しますと我我には佛陀の認識がそも理解出来ず従ってよもや解脱など出来ぬからなのだ。
ですがさうした弐元分離認識ならば我我に取りむしろスンナリと理解出来る訳だ。
尚、後代に社會的利他的佛法に変容した大乗佛法各派でも特に禅宗などでは其の佛陀の認識が重要な教えとなることでせうが他力救済宗教化ー平たく言えば壱神教化、キリスト教化ーした大乗各派に於いて此の教え其のものが頗る相性の悪いものとなるのです。
何故なら禅宗を除く大乗各派に於いて重要なのは利他行であり要するに修行者にとっての社會的な関わりとなるからなのだ。
なんですが、實は佛陀の教え其れ自體にそんな社會的活動の重要性が説かれて居た訳では無論のこと無い。
要するに禅宗を除く大乗各派の教えは佛陀の教え其れ自體とはまるで別物でありむしろ別方向を向くものでもある。
かうして兎に角ややこしい経緯がある故佛法を眞面目に見極めたいとさう願って居たわたくしめは兎に角長年に亘り概念的に苦労をさせられました。
要するに其のカラクリを見抜くこと自體に還暦となるまでかかって仕舞ったのです。
ですが、今わたくしは別に禅宗を除く大乗各派を馬鹿にして居る訳では無くむしろ此の末法の世では大事な教えであるとさう認識するに至りましたのです。
とのややこしい経緯が御座りますがとりあえずはわたくしの解釈でもって説明致しますれば其れもスッキリと分かることかと思われます。
ですが禅宗の御坊さん方ならばまたもっと難しいことを仰ることかとも思われます。
で、其のあえて設定する「眞我」の方にこそまさに世を「直したり」また「消し去る」為の欲望が含まれて居ます。
其の「直したり」また「消し去る」為の欲望とは悪い意味での欲望では無くむしろ自らを抑えて行かんが為の欲望です。
まさに其れがむしろ大事なのだ。
其れを別の言葉で表現すればかのカントやショーペンハウアーがかって述べたところでの「理性」の働きです。
逆に如何にもヤバいのは社會ー文明ーが設定致します価値観の言いなりとなり進歩主義となったり或は逆に👪主義となったりして要するに利己主義化し最終的に自然ー環境ーをブチ壊すことだ。
さて、其の「自灯明 法灯明」と云う教え其れ自體が實は価値として弐元分離して居ることにも是非気付いて置かねばならない。
1.自らをよすがとして歩め
2.法をこそよすがとして歩め
さても此の壱體どちらが上なのでせう?
ですが其のこともまた、
自ら⇔法
とのことですので、實はどちらも大事なのです。
ーまさに其処には相剋し且つ相即する関係性があるー
其れ即ち法=お釈迦様が説かれた教え、のみではむしろダメなのです。
しかも其処で非我としての自らを盲目的に信じ込んで居るやうではまた✖です。
ではそも其の「眞我」とは何ですか?
此れ迄に何度も述べて来ましたやうに、其れは批判であり反抗をも含んだ理性の働きである。
事實として佛陀の思想は当時の印度の宗教界への批判であり反抗を含んだ理性の働き其のものでした。
なので其れをずっとやり続けて行きなさいと云うことです。
ではアノオウム教はまさに其れをやったのですか?
金輪際やって居ません。
アレは麻原教であり佛教とは違うのだ。
でも反抗だけはやれて居ます。
現代日本の社會に対する反抗だけはしかとやりましたのです。
兎に角わたくしは此の「自灯明 法灯明」と云う教えを理解することだけにほぼ生涯を傾け考え続けて来て居る。
左様に自己の内部での導きと法とが対立し合いつつも融け合うやうな状態に至ることが「気付き」であり「目覚め」なのです。
其の「目覚め」とは「解脱する」と云うことではむしろ無く謂わば理性的に全てを見詰め其の「気付き」を得ることだ。
其のことが自己の意識変容無くしてはあり得ないと云うことを述べたものであるとさうわたくしは解釈する訳だ。
尚テキストの方にも其の部分が「他人の言葉に左右されることなく、自分が心に決めたことに従い、自分自身で進んでいけば、目指す世界が見えてくる」などとして書かれて居ます。
禅宗を除く大乗各派にとり如何にも弱い部分とはまさに其の佛道修行者としての精神の自立性であり批判的な理性としてのあり方のことだ。
『逢佛殺佛、逢祖殺祖ー理想像にとらわれすぎないー』
『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?ーより
―仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(『臨済録』示衆)ー
ー臨済は決して無神論者ではない。彼は門人たちに向かって、お前ら一人ひとりの中に具わっている「一無位の真人」(形なき真実の自己)を見い出せと迫ったのである。この形なき自己は、固定的に存在するものではなく、朝から晩までわれわれの感覚器官を通って、活発に出たり入ったりしているという。
それこそが「本当の自分」というものであって、それ以外に真実の自己などあり得ないという。従って真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないと臨済はいう。
仏陀は二千五百年前すでに、「己れこそ 己れの寄る辺己れを措きて 誰に寄る辺ぞ よく調えし己れにこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」(『法句経』)と説いている。そうなると禅宗こそ、仏陀の精神をしっかりと伝える「正伝の仏法」ということになろう。ー禅語「仏を殺すという勢い」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト (rinnou.net)より
同じ禅宗であれ曹洞宗であればまた別の解釈を取られるのやもしれぬが以上の引用部の内容は全くのところ非常に良く分かる部分です。
其の「一無位の真人」こそが謂わば「眞我」のことでせう。
別の言葉としては「本当の自分」です。
我我凡夫ー眞の意味で理性的に生きられぬ者ーは其の「眞我」を持つこと無く生涯を終え謂わば本能の檻の中に閉じ込められた侭に死んで行くのです。
すると其のやうな状態ではまた生まれ変わりをするなどして苦痛としての本能的自我の成就を繰り返すこととなりませう。
まさに其の様やケモノの世界のものです。
但し人間の生はケモノの世界其のものでは無い。
即ち其処に理性の力を発動し生が苦であることに気付けば悟りには至らぬまでもカントやショーペンハウアーが居る理性の苑位まではおそらく死後に行けることでせう。
僕が目指して居るのはまさにさうしたことで、即ちかの文人哲人の苑へと生まれ変わらんが為にかうして日日御勉強を重ね謂わば生を日日諦めて行くのです。
ですがより多くのみんなの生はむしろケモノの世界其のものの生でせう。
まあどう美化してもそも危険な野っ原を突っ切り肥溜めに落ちるか又は断崖から落ちる位のアホな生のあり方でせう。
どうも酷いことばかりを申して御免なさい。
僕は如何にも名古屋人らしく性格がそも悪いやうだ。
「真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないと臨済はいう。」ー禅語「仏を殺すという勢い」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト (rinnou.net)より
「真実の自己」つまり「眞我」はさうして権威主義でも👪主義でも無くさらに言えば宗教教団と云う組織に惑わされるやうなものであってもならない筈です。
つまりはまさに徹底した社會的否定であり批判である。
其れも理性による社會批判である。
ですがあくまで禅語ですので其れは我我凡夫に取り可成に難易度の高い言葉なのでもまたある。
なのでまさに其の「眞我」の形成こそが荊の道です。
荊の道ではありますが「眞理」を生きるとはまさにさうしたことだ。
我が解釈に拠れば其れは物欲と云うよりも「みんなでもって行かう」とする其の帰属欲のことだ。
其の「みんなで行く主義」でもって御遊戯して居るとこんなにも世界は破壊されて行くのです。
なのでまずは其処から身を引きます。
其れは「逃げ」のやうに見えて實は逃げでは無くあえて逆向きに進むことだ。
なんとなれば世間とはつまりは其の権威だのしがらみだのが強いて来る破壊的な価値の集合體なのだから。
其の危険なものからは自ら進んで距離を取り其れこそ冷静つまり理性的に其れを見詰め其のことにより形成されるであらう自己としての価値観をこそ生きて行くべきだ。
尚其の「理想像」なるものは所詮は世間の欲する価値観の投影でありそんなものに拘って居るやうですと其れこそアノ彼の如くに東大の前で人を刺したりもして仕舞いがちです。
「理想像」なるものは自己でもって築き上げるものこそがむしろ本物であり本物とは本質的な価値であり誤りを含まぬ価値のことなのだからして。
『「おのれの得るところに軽んずることなかれ」ーあなたが持つものの本当の魅力に気づいてー』
『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?ーより
エッ?
佛法はそも無壱物つまりは無所有であり何も持って居ないのじゃないの?
いや、持ってますよ、ちゃんと其れも眞我を。
其の眞我を得るが故に他人の所有物に対し関心を払わなくもなる。
要するに金持ちが住む大豪邸だの高級車だのまた美人妻だの、さらに貧乏だけれどもあったかい我が家などと云ったまあ人間的な基準での幸せの価値であれ其れ等に対し大して関心は無くなって行く。
眞我を得れば其の種の価値ヒエラルキーが正もまた負をも含めどうでも良いやうなものに思えて来るのです。
但し同様に眞我を得た人、即ち「気付きし人」、「目覚めし人」に対する感度もまた増すので其の種の人が至極魅力的に見えて来るやうにもなる。
逆に俗物的な意味での上昇指向などは滅し去りむしろ下降指向のやうなものに捉えられて行くのだと言って良い。
とは言え「解脱」を前提とする限りに於いては其の「気付きし人」、「目覚めし人」であれ其れは不完全です。
だって高僧でもってしても解脱したことは証明出来ぬのですから「解脱」はお釈迦様だけのものだと考えて置く方がより自然なことなのです。
なので僕は「解脱」しやうとして居るのでは無く「気付きし人」、「目覚めし人」でありたいとさういつも願う者だ。
で、僕は自分の考えと申しますか認識には自信があるのですが其れは客観的にはどう見えて居るにせよ僕自身がかうしてほとんど限界まで精神的に生きて来たので結局は其のことに対する實績と云うか自信がある訳なのだ。
「自信」とはまさにさうしたことです。
其の生と格闘した上で自ら得る「自信」こそが本物の自信です。
ですが僕は其の自信と共に其れに見合うだけの大きな不安もまた抱えて居る。
主に其れは人間存在の形成する文明世界への不安であり同時に其処には長く帰属して居たくは無いと思うインテリジェンスとしての不安です。
故に其の不安の持ち方と申すか対象と申すか兎に角其れがみんなとは違うんですね。
また其れは自慢をして居るのでは無く出来ればそんなクソのインテリジェンスなど放棄したい訳ですが其処で金輪際おバカにはなりたくないのです。
だから其れがまさにインテリの不安と云うことじゃらう。
『自分を励ますのも戒めるのも、自分自身ーみずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。-』
『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?ーより
解説ー個人からの高評価・低評価で一喜一憂しても仕方がないー
此の本が優れて居るところとはかうして書かれて居ることの内容がまさに正しく優れて居り壱般人に取り且つ佛道修行者に取り大いに為になることです。
ところで佛陀は他者からの評価を重視して居ませんでした。
エッ?とさう思うのやもしれませんが逆に佛陀の価値観とは世間の価値観とは逆だ位に思って置けば大抵は当たって居るものです。
ですので所謂常識とは非常識のことであり逆に非常識こそが佛法に取り常識となるのです。
但し其れは佛法の専売特許なのでは無く例えば佛法にも程近いジャイナ教の教義などは佛法以上に非常識が常識となります。
またキリスト教にせよイスラーム教にせよまた佛教やジャイナ教とは違う意味でまさに非常識が常識となって居るものです。
要するに其れは聖なる認識と云うものが世俗ー社會壱般ーの価値観とは正反対の方向性を向くものであることがまさに其処に示されて居るのです。
ですのでたとえ社會的に高評価を与えられた人であれ其の聖なる認識からすればタダの人若しくは逆にケモノ並の扱いとなることさえもがまたあるのです。
故に其の世間的な意味での正なる価値ヒエラルキー、まずは此れに捉われ過ぎぬ方が良いことに気付いて置くべきだ。
エエッ?ウソこくな!
だったら学校の先生や親や警察官や裁判所の言うことに従わなくても良いと云うことなのか。
だったら天皇様を敬わずしかも革命のことばかりを考えいつか社會を転覆したらうとさう牢屋に入りつつ考えて居る反体制詩人こそが偉いと云うことなのか。
だから君はまた考え過ぎても居らう。
其れは要するに外面的評価でもって持て囃されるものに心を惑わされてはならないと云うことなのだと思う。
其れに前回もかのショーペンハウアーがまさにそんなことを述べて居た筈だ。
ショーペンハウアーは富や名声、其れに大金を求めてあくせく働き生きることをむしろ否定的に見詰めて居た筈だ。
要するにまさに其れ等こそが其の外面的評価による果實なのだ。
逆に彼ショーペンハウアーは内面的充實の方をこそより重視した。
其れは貧乏だらうがまた名も無く👪も無い馬鹿詩人であれ充分に可能なことなのだ。
いやもうさうなっちゃってる。
實は僕はもうさうなっちゃった。
どうだ、偉いだらう?
だから僕はかうしていつも自信満満なのだよ、わーはっはっはっのはー。
佛陀は「他人の評価で心が揺れ動いてしまうことから自由になることを目指した」とさうもまた本にはある。
自由とは左様に他により全的に規定されることからの内面的離脱のことなのだ。
また其の自由が得られずば眞の意味での内面的成就は無い。
まさに其の心の上での勝利者とならねばなるまい。
故に其の為にこそ自分を褒め励まし、また同時に自らを戒めるのも他ならぬ其の自分自身なのだ。
さてどうであったらうか。
例えば現代社會はー特に日本の社會がーむしろ人の顔色を窺い考え且つ行う社會であることがむしろ「良い」ことでは無く「悪い」ことであることが良くお分かり頂けたことかと思う。
無論のこと其れは共同體や國家と云う社會関係の維持の為には必ずしも悪いことだとは言えぬことだ。
されどこと眞理と云う面に関してはむしろ悪い方向性でのこととどうしてもなって仕舞う。
わたくしは以前から日本人は精神の破壊に対しむしろ警戒して置くべきだとさう壱種過激なことを述べて来ても居るがまさに其の根拠となり得るのが以上のやうな眞我の形成に関し明らかに戦後日本は逆方向を向き歩んで来たからなのだ。
まさに其れぞ価値観の倒錯より生じせしめる精神の危機である。
なので結論を申せば日本人はもっともっと気樂に自己本位で持って生きて行くべきなのだ。
但しあくまで本当の自己を見出してからそんな自由をこそ満喫して行くべきなのだ。
本当の自己を見出してからそんな自由を満喫するのであれば犯罪者などにはならなくて済むぞよ。
また僕のやうに自己の認識に対し自信満満ともなれやう。
ですが最後にひとつだけ付け加えて置けば、僕は自己の認識に対する限りではかうして確かに自信満満なのですが生活力には概して欠けて居ると云うのが實情です。