目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「意識が高くある」映画に就いてー+眞我を目指さんが為の認識論ー

「意識が高くある」映画に就いてー+眞我を目指さんが為の認識論ー

 

 

 

 

ひろゆき氏、安倍元首相の国葬に持論「消極的賛成」「敬意を持って静かに送り出すぐらいはしてもいい」 (msn.com)

 

へえっ?

 

安倍「国葬大失敗」で自民党重鎮「岸田政権はガタガタだな」…この秋「ヤケクソ解散・総選挙」へ! (msn.com)

 

はあ、カン?

 

信長の子孫の男性、比叡山には「行ってはいけない人間と思ってきた」「来られることが幸せ」 (msn.com)

 

いやあー、良い御話です。

かうして互いに怨みは水に流して仲良くすること程良いことは無い。

 

仲良きことは良きこと哉!

しっかし当時比叡山の坊主共は果たして何人程が焼き殺されたのでせうか?

 

坊主の侭即ち袈裟か又は作務衣のやうなものを着た侭で燃えたのでせうか。

其れもぼおおーぼおおーとおそらくは燃えたのでせう。

 

 

「お金が足りなくて困っている」という人を、禅僧が「家族や知人に頭を下げて借りればいい」と突き放すワケ (msn.com)

 

個人的に其の現存在が精神的に苦しむことのほぼほとんど全てが社會的體裁に拘り過ぎることより引き起こされて居ることです。

また確かに其の我執は大敵ですが、我執とは現存在のまた社會人の根本欲ですので其れを無くすことなどは出来ません。

 

尤も出家するか修道士となるとかして其れをほぼCUT出来る態勢に持ち込めればまた話も変わって来る。

で、あくまで我が解釈によれば我執とは非我への執着なのです。

 

例えば名古屋人などは其の多くが🚙に乗り我などもまた35年は乗りましたが其れって實は世間體からさうなって居ました。

でもって今はどうしても🚙が要る時はレンタカーやタクシーを利用し主に自転車で移動して居るが不便と云うことは特にありません。

 

 

むしろガソリン代も車検代もかからぬので其の分の金を石やペンに回すことが出来る。

でも僕は🚙が大好きー其れも外🚙好きーでしかも兎に角スポーツ走行が好きで實は高速道路などを時速180キロ位で走ったこともあったものだった。

 

そんなわたくしですが其の常識と申すか兎に角みんなでやって居ることに幼稚園児の頃以上に疑問が出て来たのです。-實は幼稚園児の頃から明らかに世に對する疑問が多かった-

だから心を清め落ち着いて熟考すれば文明が今やってることのほとんどはむしろ要らぬものであることに気付く筈です。

 

また其れとシャワートイレ、コレなどは特に要らぬものですのでもはや電源を切ってあります。

なんですが電子レンジと全自動風呂には相変らずお世話になって居り其処が思想的には如何にも甘いかと思います。

 

 

だから人間は基本食って寝てウンコをして實は其れだけで壱日を樂しく過ごせるものだ。

尤も僕の場合はかうしてインテリでもってしかもゲージツ家ですので其処に御勉強の時間がタップリ必要なのですが。

 

でもって最近はエロの方にもほとんど興味が無くなりもう人生終わって居るやうな感じもまた致しますのですが其の代わりに物欲の方が兎に角盛んです。

でもって確かに金も無いですが借りたり貰ったりすれば其れで良い筈でせう。

 

兎に角僕の場合はさうして人生の最後に清貧詩人を是非やり此のバカバカしい茶番劇のやうな人生に幕を引きたいところではある。

 

 

でもってそんなことを口に出す割には金使いが荒いと来てる。

ですが其れもまた社會的にヘコんだとかまた飲み屋にツケが澤山あるとかさう云うことでは無いので額の方はたかが知れて居ります。

 

逆に申せば其の社會性の部分を意図的に切ることでこそ自立的、自律的な価値観に目覚めることが可能となる。

またつまりは其れが眞我に於ける価値観を生きると云うこととなる。

 

尚個人的に我はこんな佛教者ですが其の「無我」なる言葉には強く抵抗感を感じて居ます。

つまり釈尊による教義上の教えとはむしろ「非我」としての世間體を価値として生きるなと云うことなのではないか。

 

また其の「非我」としての世間體を価値として生きるとまさにかっての比叡山の如くに御坊様方ではあれ魔道へと堕ちて行くものと相場は決まって居ります。

社會的価値とは其のやうに至極危ういもので且つ其れは我我個の価値観を其の根底より縛り続けて居るものです。

 

さう云う状態を社會科の上から言えばまさに「全體主義」的なものとならざるを得ぬこととなる。

なので僕は今まさに其れとこそ闘って居ります。

 

 

つまりは其の社會的に齎される価値観に合わせ過ぎぬ方がむしろ己が幸福への近道となる訳だ。

でもってして今僕は自分自身に関しては悩んで居りません。

 

勿論今後は病やら何やらと色色と噴出して来ることだらうが何故か心の中はかうして晴れやかで居られる。

其れはひとえに其の社會的な価値其のものを本質的な意味で見切って居るからなのだ。

 

其れも心配と申すか悩むのは文明が今後地球への破壊を加速させて行くことでせう。

でも其れも僕は其れに反対し「止めよ!」とさう述べてますので其処にやれることだけはやって居る分心が案外晴れやかなのだ。

 

 

また本質的には其の社會関係に於ける諸価値としての財産だの地位だの名誉だの其の種のものはむしろ幻の如きものであり本質的価値には非ず。

むしろ其処に執着するからこそ我執に捉われさうして価値観を歪められて行くのだから。

 

どだい誰が考えても分かりますのですが今やかうして地球が壊れさうな時に財産だの地位だの名誉だのそんなことに固執して居ること自體心のあり方が低級であるつまりはクソッタレでありシミッタレなのだ。

だから要するに其の社會的な意味での価値ヒエラルキー地獄より脱け出す為の其の道程を我自身が實験台となりやって居るのがまさに此のブログの内容なのだ。

 

其れと其の「承認欲求」もまた我の場合は此処にて充たして居るのでもはや他で其れを得やうとも思わない。

まあ無視されやうがどうしやうが兎に角さう云う自分なりの結論なのでもはや社會の価値観のことなど「そんなのカンケ―ねえ」と云ったところでせうか。

 

ちなみにかの小島 よしおは早稲田を出て居てしかも教員免許も持ってる先生様だった。小島よしおのおっぱっぴー小学校 - YouTube

 

 

さて其の他とは結局自己に対置されるものであり基本的には相互理解は叶わずむしろ自分とは逆向きでの流れのものです。

其れが逆向きなのであればむしろ其の人はまともですので其の相違や齟齬に對し悩み苦しんだりせずむしろあっけらかんとして己が道を行けるところまで行けば宜しい。

 

其の逆に他と同じ価値の土俵に居ればむしろ洗脳されることは免れません。

其の洗脳自體がイヤなら生活保護でも屑拾いでも何でもやれば良いと云うだけのことだ。

 

要するに社會的動物である現存在に取ってはまさに其の社會性の部分こそが最も危ない橋となる。

 

アンタでもそんな滅茶苦茶で良いのか?

君の同級生は皆孫に囲まれて悠々自適にやってると云うのにそんな反抗詩人、放蕩詩人でもってほんたうに今後が乗り切れると言えるのかい?

 

いやまるで乗り切れまへんがな。

だから行けるところまで行って文明と共に滅びます。

 

 

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いやあー、此れはまさに其の文明への「反抗」の意識が滅茶苦茶に高く出て居る作品です。

 

『自律 Autonomous』 : 辺見庸ブログ Yo Hemmi Weblog (yo-hemmi.net)

Autonomous 自律 - 映画 (fc2.com)

autonomous 自律 - 普通に楽しめた (fc2.com)

 

つまりは此れが「我は至って意識が高くありますわやう」系での映画作品です。

でもって台詞も無く余りに退屈なので早送りしつつ見終わりましたがそんな映画は此れ迄で初めて視た。

 

他⇔己

 

さうして認識として分離されるが故に現存在は現存在で居られる訳だ。

 

其の己を無しにして仕舞えば其れはもはや涅槃の段階です。

だけれども其の涅槃は現存在の目的では無くむしろ其の非我を滅して眞我に目覚めることこそが現存在に於ける生の目的です。

 

他⇔己

 

其の対立関係もまた相剋し尚且つ相即するものです。

故に無関係なのでは無く理想的には其れこそ半半位に認識すべきものなのだらう。

 

ですが社會的動物としての現存在に取り往往にして他の方が強過ぎるが故にあえて我の場合はさうして我に固執して居ります。

また實は其れ位のことでようやく半半位に認識されるものなのです。

 

でもってして価値観の多くを他に依存する人が實はほとんどです。

また現存在はさうしないと生き辛くもなるやうになって居る。

 

勿論社會的価値の全てを否定するなどとは言って居ない。

否定では無く縮小した形ー限定する形ーにて肯定ししかし其れに全的には寄り掛からなくするのです。

 

 

尚釈迦の佛法は其の弐元的要素の弐重否定でありつまりは共に否定すると云うこととなる。

要するに其れは「生」其れ自體の消去を成り立たせる為の方法論です。

 

對してキリスト教の場合は「現世利益」の否定ではあるが其の逆にあの世での完全なる「神による利益」を享受せんとするものである。

どちらが不純かと言えばキリスト教の方が不純だが其の分其処に「愛」が生ずるのである。

 

 

尚壱般的な意味で「意識が高い」のは其の「愛」をも前提とする思考であり認識となる筈だ。

なのでどんなに意識が高くある映画でもまた佛陀の認識の高みに昇りつめられるものでは無い。

 

また我がかうして哲學しつつ今を生きるやり方などもまさに其の不純なる認識法の方です。

故に相対分別其のものを滅するのでは無く但し其処で「他に課せられる分別」=非我としての分別をも相対化し無力化ー半無力化ーして仕舞うと云うのが我が考えの核となる部分だ。

 

要するに其れでもって「眞我に目覚める」と云う認識に至る訳だ。

其の眞我に目覚めたところでの認識から致しますと今此の世では要らないものが多過ぎるやうに見えて来る。

 

だから現存在の生活ー認識をも含めー自體を簡素化し要らないものは努めて断捨離して行く必要があるのではないか。ー自然に要らぬものはむしろ無く文明にのみ要らぬものがまた満ちて御座るー

 

 

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尚いまひとつ「意識が高くある」SF映画を示せばまさに其れがコレです。

尤も『自律の方がより意識が高くあることでせうが。

 

さてマルクス主義無政府主義もまた結局は其の「意識が高くある」思想なのだと考えられやう。

意識が高いと云うことは理性的であると云うことですがおそらく理性的であることだけでは社會の理想は實現されぬことだらう。

 

社會の理想を目指す部分に関して最近の我はむしろ懐疑的です。

社會の理想を目指すのでは無く個としての認識の是正の方にまずは取り組むべきである。

 

1.邪教邪教の教祖に洗脳されぬこと

2.社會の価値観に洗脳されぬこと

3.食って寝てウンコして本日も快調なり

 

現存在とは結局そんなもんだ。

 

 

4.動植物の生を悲惨にしてはならぬ

 

其の4.が特に大事である。

其れは自然を敬う気持ちを常に持つと云うことだ。

 

其の自然を敬う気持ちはみんなが妻や子や親を思う気持ち以上に大きくしかも深く持たねばならぬ。

だから其処はチャールズⅢ世國王よりまさにみんなが學ばねばならぬ部分なのだ。

 

だがみんなはチャールズ皇太子のやうに不倫などをしてはダメだ。

そんな👩にはもう触るな!

 

其の代わりに自然に親しみ其れにこそ触れるべきだ。

 

 

さて本日はまた縁側に寝そべり靑い露草の色を愛でつつ『禅と福音』の続きを読んでおった。

すると石灯篭のところに何やらふにゃふにゃと動く物がある。

 

矢張りさうだったか、其れは🐈の尻尾である。

其れはクロー生後四カ月ーの尻尾である。

 

さう眞っ黑の仔猫がさうして居るのである。

 

其の代わりに立派な♂🐈がまた壱匹消えて仕舞った。

さうして🐈の實存は余りに激しく厳しい。

 

其の喪失感が癒えぬ侭にさうして変な映画を視て心を慰めて居たのであった。