目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

かうして「脱構築による構築」をこそ目指して行く我が精神ー兎に角物凄く潔癖な御釈迦様による教えのことなどー

かうして「脱構築による構築」をこそ目指して行く我が精神ー兎に角物凄く潔癖な御釈迦様による教えのことなどー

 

 

 

 

本日もまた良い感じで雨降りです。

つい先程雨が小降りとなり其れでもってたわわに實る黄苺を澤山収穫した。

 

其れを母とわたくしが喜んで食うのである。

 

さて本日のテーマはズバリ「潔癖症」のことです。

潔癖症」は所謂「精神的な病」と密接に関連することですが同時に「眞理方面」にもまた通ずるであらう精神的な作用のことです。

 

潔癖症」のことでまず考えたのがかの佛陀はどう考えても潔癖症だったのではないかとさう思われることでした。

またかの信長公もどう考えても潔癖症だったことでせう。

 

またわたくし自身も明らかに其の「潔癖症」です。

但しわたくしの「潔癖症」が酷かったのは小学低学年の頃迄で以降はむしろ人間不信や社會との格闘の面が押し出されて來たのでまた少し違って來た訳です。

 

其れがどう酷かったかと言うに、

 

1.人が触れたコップで水を飲むことが出來ず

2.土が汚く思え仕方が無く従って土には触れられない

 

と云った部分などが御座りました。

さう云うのは所謂「病的な感度」の部分であったのだと思われます。

 

【レベル別】潔癖症あるある集|綺麗好きを超える“衝撃エピソード”とは? | Smartlog

 

其れでもって自身の潔癖度即ち神経質度の部分を是非知りたく思い上のところでどれだけ該当するか調べてみたところ矢張りと申すべきかほとんどがさう該当して居りましたのです。

ですが「最重度」以上のものは該当しては居なかった。

 

なのだが究極の潔癖度としての「手袋」を持ち歩くと云うところが實は該当して仕舞って居る。

さうわたくしは兎に角其の「手袋」が好きなのだ。

 

また其の手袋は「綿の白」のものに限る。

 

 

ーなぜブッダは女性を極端に嫌う? 1.「女性は怒りっぽい、嫉妬深い、物惜しみし、愚痴る」(アナーンダの問いに) 2.女性の出家者を強く拒んだ(アーナンダの説得で撤回) 3.「女性が出家をしなかったならば、梵行(性欲を絶つ行)は永遠に守られるだろう」 4.「これで仏教は500年早く滅ぶ」(叔母の女性出家者第一号に対し) ブッダは女性に対して相当な嫌悪感を持っていた。 男女の純粋な恋愛、結婚観であれば、そのような感情は生まれないはず。ー●ブッダは出家前、義母と不倫関係?『寂聴の仏教入門』講談社文庫この著書が入門... - Yahoo!知恵袋より

 

ところで「潔癖症」は特に👩に對する感覚に於いて出易いのではなからうか。

まさに其の佛陀やショーペンハウアーなどはまさしくさうして「👩嫌い」であった。

 

逆に申せば「👩好き」の人間に「解脱者」などは居ない訳だ。

即ち「👩好き」は此の矛盾に満ちた世がまた大好きなのだ。

 

其の矛盾に満ちた世が好きだと云うことは所謂「心としての潔癖度」もまた低く設定せられて居る訳だらう。

逆に申せば釈尊ショーペンハウアー級に「👩嫌い」なのであれば「心としての潔癖度」もまた高く設定せられて居るのである。

 

なのだが世に蔓延る新興宗教の教祖共に至ってはむしろ「👩好き」でもってつまりは精力ギンギンな奴等が多いものとさう相場は決まっておる。

尚其の「👩嫌い」と云うことは結局「反自然」の立場であり至極「理性的」な物事への解釈をして居ることになるのではないか。

 

またかっては宮澤 賢治などもまさに其の「👩嫌い」でもって通って居た。

だけれども宮澤 賢治もまたエロとしての死と生の豊饒さとの間でもがいて居たのである。ー事實彼は春画を集めて居たともされて居るー

 

ちなみにエロと美はまた密接に関連して居り同時に死と美の方もまた密接に関連して居る。

さて、

 

エロース⇔死

 

とのことであるが「美」はどちらにも顕現する。

其の「👩嫌い」と云うことは左側の感度を否定する分右側への感度が増すことなのではないか。

 

でもってそも何で「潔癖症」なのかと言えば元元其れはさう云う人間の性質なのであり「變わりやうの無い」理性的性質のことなのだらう。

さう其れはどうも理性的性質なのである。

 

其の「潔癖症」と云うことは「理性を強く持つ人」の運命のやうなものであるに違い無い。

個人的に釈迦牟尼佛はおそらく人類壱理性的な方であったのではないかとさう思われる。

 

 

 

 

ーまた、宮元 啓一氏は釈尊は性交渉を嫌悪しており、もしかすると不能であったかもしれないと書いています。(極論過ぎて僕は同意できませんが。) 上座部の伝承では釈尊潔癖症で温泉を好んだそうですから、女性との性交渉に嫌悪感を持っていた可能性はあるだろうと僕は思っています。 また、長男出生の直後に出家していることからも、釈尊にとっての性交渉は子孫を残すという義務を果たすための苦行ではなかったかと考えられます。 釈尊が女性を避けられた理由は、修行にとって最大の障害となるからでしょう。 20世紀のタイの解脱者アチャン・チャーも、性欲の克服に非常に苦労したといわれています。 >Q2. >なぜ王子の身分まで捨て、29歳の若さで出家したか? >「四門出遊」といった綺麗事でなく、ブッダ自らの罪深さの故か? いや、きれいごとだと思います。釈尊は非常に潔癖症で理想主義的だったようです。ー

●ブッダは出家前、義母と不倫関係?『寂聴の仏教入門』講談社文庫この著書が入門... - Yahoo!知恵袋より

 

 

だのに良くぞさうして此の世に子孫を残されたものだ。

つまりはまさに其れが釈迦牟尼に取っての苦行であったことであらう。

 

ショーペンハウアーの場合は生前より👩と云う👩を貶しまくりついには「👩の敵」なる称号を得て居る訳でだから兎に角そんなもんに触ることなどはまるで無かったことであらう。

 

さて自分の場合には何処かに「👩のヒモ」として生きたいとの望みが無いでも無くよって👩と云う👩を全否定せしめて居る訳では無いのである。

つまりは常にそんなパトロンをこそ求めて來て居る。

 

 

いずれにせよ理性的に潔癖な人はどうもさうして「👩嫌い」となり易いのではなからうか。

また自分も明らかにソコへと嵌まり込んで行って居るやうだ。

 

尚宗教は壱般に「エロース」の部分を否定しがちである。

其れも新興宗教の教祖などを除けば。

 

「エロース」と共に「飲酒」なども嫌われることが多い。

 

ちなみに信長公は「飲酒」をしなかったさうである。

信長公もまたそんな潔癖者であり要するに少し變わって居たやうだ。

 

 

「煩悩即菩提」なんて仏陀は言ってない!? 仏教における煩悩の三毒とは? | 幻冬舎ゴールドライフオンライン (gentosha-go.com)

 

佛陀の思想とはつまりは常識的価値の「遮断」であり「断捨離」のことです。

 

其れも「根本的」に其れを行います。

故に其処には強靭なる「理性の力」が要る。

 

そんな「理性の力」に取り「酒」や「👩」は害毒でしか無い。

また「👪主義」などもまた害毒でしか無い。

 

さうした意味での徹底した「合理化」こそが「解脱」への道筋を開く。

 

兎に角其の「解脱」には「酒」や「👩」は害毒でしか無い。

「解脱」とは「究極の脱構築」でありあらゆる「価値ヒエラルキーの無力化」のことだ。

 

故に「高僧」が解脱出來るとはむしろ限らない。

「高僧」は教団のヒエラルキーの上部に居て常に威張って居りよってむしろ解脱出來ぬ可能性の方が高いことだらう。

 

其れよりもより「解脱」に近いのが庭や道端などに生えて來る「雑草」です。

つまりは「偉い奴」程むしろ「悟り」からは程遠いのです。

 

では例えば橋の下のルンペンさんなどはより「悟り」に近いのでせうか?

其れも個人的には「偉い奴」よりもまだマシかとさう思います。

 

ところでみんなはさうして何故よりにより酒飲んで騒ぎしかも👩に触りたがりますのですか?

宗教詩人などはかうして静かに独り部屋に籠り日日「哲學」に勤しんで居ると言うのに…。

 

だから其のことこそがまさに「人間の違い」なのです。

丁度石が幾ら澤山あっても其処からはなかなか💎が出ないことのやうに人間もまた💎級の人はまず此の世には出現致しません。

 

 

ですがたった今出た!

出たぞ其の💎の如き現存在が!!

 

其れもなあんだ、僕自身だった。

さてもかう何か佛陀の言葉に触れたい。

 

尚壱神教の「神」はむしろ「脱構築による構築」のことですが佛陀の説く「佛」は「脱構築」其のもののことなのやもしれません。

 

「認識」には普通「足場」のやうなものが必要で其の「足場」として機能するものこそが「名前であり仕事であり👨‍👧‍👧でありまたモノ」なのです。

ですが救世主のイエス様はそんな「足場」は腐っとるとさう宣われ其の代わりに「神への足場」をさう築かれた。

 

對して御釈迦様は其の「足場」其のものを消して仕舞われた。

 

するとみんなはもう眞っ逆さまに地へと落ちる。

ぎゃあああーー、佛教、お前の御陰ですでに周りがこんな眞っ暗闇だー。

 

だがさうでは無い。

其の眞っ暗闇なのがむしろお前等の本性のことだ、つまりは自分の心の暗闇のことなのだ。

 

…さうだったのか。

其の眞っ暗闇なのは此の自分の「酒が飲みたく」しかも「👩に触りたい」との邪な欲望の部分にこそあったのだ!

 

…すみませんが自分の場合はなかなか地面に着きません。

嗚呼君の場合は「無間地獄」へと眞っ逆さまに堕ちる相がすでに顔に出ておる。

 

無論のこと其処ではアベなどもすぐに傍に寄って來る。

 

 

ところでそも何故理性は左様に潔癖なのか?

 

理性⇔本能

 

其の「理性」の度ー分離度ーが高くなればなる程に「本能」とは違う方向性を向くことでせう。

 

~を食いたい、酔っ払いたい、👩に触りたい、と云うのは全て本能領域での「求め」のことでありむしろ理性は其れを抑制する側に向く訳です。

すると「食うな」「酔うな」「触るな」と云うのはつまりは「理性の命令」のことで要するに所謂「定言命法」に属することなのですね?

 

さうです、「理性」の度ー分離度ーが高くなればなる程に「本能」とは違う方向性を向くのだから「潔癖」と云うことはつまるところ「理性の命令」のことでせう。

 

さて此処からは其の佛陀による「潔癖な思考」=「理性的な認識」が果たしてどちらを向き歩んで行くのかと云うことに就き考えて行ってみませう。

 

まずは世間=社會での認識法と眞理を向くー聖なるー認識法とがまず別物であることを知る必要がある。

其の社會での認識法が正しいのであればそも環境破壊だのまた地球温暖化だのさうした大問題は生じやう筈がありません。

 

と云うことはまずは社會での認識法が間違って居ると云うこととなりませう。

でもって其れが間違って居るので人類を抹殺しやうと云うのが邪教での考え方です。

 

ですがキリスト様や御釈迦様はまさかそんなことを述べて居られる訳では無い。

キリスト様の場合には先に申したやうに「脱構築による構築」を目指される訳です。

 

其れが壱神教的な「神の価値観」の構築のことであり概ね浄土教密教などの大乗佛教各宗派もまた其れに近い構造を持つものと考えられやう。

だから間違って居るなどとわたくしは言っては居らずむしろ間違って居るのは「世の常識としての社會の認識」の方なのだ。

 

さう言えば即其処で「コイツ何を言ってるのだ?」とさう思うことでせうが僕は至極眞面目にほんたうのことを述べて居るのです。

だからそんなもんはもう「ポア」したれとさう破壊神シヴァの方に走るのはでも邪教の方であり僕の場合は勿論ソコへは走りません。

 

では果たしてドコへ走るのか?

其れも結局は「釈迦の理性」へと走るのだった。

 

つまりは其の御釈迦様による理性的潔癖度の部分に張り付いて行く訳です。

 

【幸せに生きる4つの方法】ブッダ思想「反応しない」ことこそ最強! | 416@BLOG (sakushinblog.com)

 

概ね其の通りのことかと思われますが此処での言説にはどうも「バイアス」がかかって居るやうに思われる。

でもって其の「妄想」とのことですがそも生きること自體が妄想と云う捉え方を佛陀はされて居たものと個人的には思います。

 

生⇔死

 

人間の観念による思慮分別によりさうして生死の別が分かたれるのですからむしろ何が惡いのかと言えば其の認識法其のものに問題がある訳です。

現存在の認識の癖のやうなものによる「不完全性」が生じるので認識上其れがバランス化されないのだと思われる。

 

所謂社會的通念とはあえて其のアンバランスな認識の領域の侭にむしろトコトン其れを「やっちまう」ことなのだらう。

 

だから常に其れを押し通して仕舞う訳だ。

でも其れをやっちまえばむしろドンドン「破壊」が進むのですけれども。

 

なのでまさに其の「破壊」を止めんが為に「自力救済」と「他力救済」での哲學的領域が宗教として生み出されて行った。

其処で「自力救済」を説かれたのが御釈迦様であり「他力救済」を説かれたのがイエス様でした。

 

其のことは確かに「人間の業」として其処に有るものであり元元無いのではありません。

宗教哲學とは其の「人間の業」としての病を救わんが為にこそ存する。

 

問題は其の「人間の業」としての社會病の部分と自己の認識とが常に相互作用して仕舞うことです。

 

 

よってイエス様の場合は其の社會認識としての病を直さんが為に其れを「神の認識」と壱致させることをこそ説かれました。

御釈迦様の場合には個としての認識上の病を直さんが為に其れを「佛の認識」と壱致させることをこそ説かれました。

 

だからイエス様の場合にはあくまで認識上の「脱構築による構築」を目指されるのです。

壱方御釈迦様の場合には「脱構築」其のものを目指されるのです。

 

するとイエス様の場合には最終的に其処に「神の國=天國」が出現致しますが御釈迦様の場合には「佛」なる何も無いものが其処に結果的に生ずるのです。

 

そんな無い「佛」とはそも何だ?

より正確には有無と云う分別を超越するものが其の「佛」でせう。

 

ですが「神の國=天國」の場合には有無の別はちゃんとあります。

でもまた其れも「神の次元」での有無のことです。

 

 

じゃあ社會が惡いんですか、結局のところは。

まあ社會が惡いんです、結局のところは。

 

でも「社會が惡い」とさう決め付けるのはむしろイエス様の場合のやり方ですね。

つまりは「社會が惡い」からこそ是非根こそぎに其の社會の全てを「神の國」へと移動させる必要が其処に生じる。

 

では御釈迦様の場合は「社會が惡い」とは言わぬのですか?

御釈迦様の場合はむしろ「君自身の認識が惡い」のです。

 

其れはでも酷い…。

第壱其れでは人間はまさか救われない。

 

でもあくまで「佛」を前提とする限りは「君自身の認識が惡い」のです。

じゃあどう惡いのだ?

 

其れも「酒を飲んだり」、「👩に触る」のが壱番惡い。

さうだったのか。

 

ヤッパリソコこそがまずかったんだ。

いえねソコがマズいのではないかと實は前前よりさう感じては居ました。

 

でもね、たとえば此の世では宴会やコンパニオンの派遣などがむしろ普通にありますものですからつい其れに慣れて仕舞い…。

 

尚欲に関しては其れこそ「生存欲」を断滅すれば人は死に到ります。

つまりは「食欲」や「物欲」を消し去ることなどはそも出來ない。ー但し其れを限定することは出來るー

 

問題は其の「承認欲」や「愛欲」などの社會的な欲求の方です。

社會的な欲とは相手が居る欲のことです。

 

自分の場合は其の欲をあえて自然や🐈ー動物ーなどに限定して居ます。

余分な欲ー主に社會的な欲ーを抑えむしろ「生存欲」の方に徹すれば次第に動植物と同じやうに素朴に生きられるのだとさう思う。

 

そんな訳であくまで自分に取り「酒を飲んだり」、「👩に触る」ことこそが大罪なのです。

 

 

さて其の事の「良し惡し」の判断に就いては其れをしないことは誰しも無理と云うものです。

何故なら現代社會はむしろ其の「良し惡し」の判断をする社會です。

 

また「反応しない心」で居ることなどもまた同様に無理と云うものです。

 

壱つには「眞面目過ぎる」ことは「眞面目過ぎる」人に取りむしろ良くないことだとさう言えるのではないかと思われる。

以前に「非眞面目」と云う概念に就き述べましたが此の世での認識其のものが「幻想」に基づくものであるのならばさう神経質となり価値ヒエラルキーに對し向き合う必要などはそも無いのである。

 

どだい👩共の子宮思考にせよまた♀🐈共の繁殖パワーにせよ至極いかがわしく且つ非理性的な力其のものです。

また此の世での常識的価値とは其の至極いかがわしく且つ非理性的な意志の部分からこそ生じせしめられて居るものです。

 

其のやうに此の世のいかがわしさに對し距離を置く感じで丁度良いやうに思う。

どだい宗教者やまた教育者であれさうさう立派なことばかりを言えて居る訳では無い。

 

またTVに出て來る評論家や大學教授の面面もさうさう立派なことばかりを言えて居る訳では無い。

要はさうして世の中を「客観視」し得る心の余裕を是非取り戻したいと云うことのみです。

 

また此の社會の価値観其れ自體を「客観視」して置く方が「全體主義としての洗脳」には何かと有効です。

 

さうしてあくまで「佛」を前提とする限りは「自分自身の認識が惡い」のです。

ですが「佛」を前提として生き「自分自身の認識を正す」人などまずは居ないことでせう。

 

 

要するに其の社會と個の認識上の関わり方故に個は「悟り」を開くことなど出來ぬのです。

第壱「悟り」を開くならばまずは本職の御坊様からして頂かねばならないが此処日本の御坊様で「悟り」を開かれた人など勿論何処にも居られぬ訳です。

 

實際「悟った!」とさう述べて居られるのは新興宗教の胡散臭い教祖様ばかりにてどだい其の中には「死刑」になったりする人などもまた居る訳です。

 

尚個人的にはさうして人間は「悟れない」とさう考えて居りよってキリスト教や大乗佛教各派の教えにも親近感を持たうとして居るのですがでも大乗佛教各派の教えには元元飛躍の部分が多くまさにソコが「胡散臭い」と正直さう思っても居る。

 

そんな訳で釈迦の佛法に寄りかかり過ぎますと「社會が惡い」とはまさか言えなくなりますので其の「社會が惡い」とさうハッキリ言わんが為に自分の場合はキリスト教や大乗佛教各派の方にもまた擦り寄る訳です。

 

またつまりは其れでもって認識上の「脱構築による構築」の部分を目指して行くのです。

其れも「脱構築」其のものが不可能に近いのでまさに其の「脱構築による構築」の方をこそ目指して行くのである。