目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

死や病気と云う運命に我我人間は抗い難しーだから連休中はせいぜい美味いものでも食い過ごさうー

死や病気と云う運命に我我人間は抗い難しーだから連休中はせいぜい美味いものでも食い過ごさうー

 

 

 

 

神」「ヤバい」…現代人の言葉の貧困化が招く末路 言葉が「減っていく」ことは何を意味するのか (msn.com)

 

其の現代人の語彙の減少は即「思考力」の減少で「思考力」がそも無いから世間の価値観にスッカリ「洗脳」されて仕舞うこととなる。

 

 

日本の企業の原型を作った天才僧侶・法然の「念仏宗」とは? (msn.com)

 

さてこちらでは非常に面白い論理が展開されて居ます。

まずは「🗾の社會」が所謂「文明では無い」との点に就き興味深く読ませて頂きました。

 

「世界史」の上から見て其の「文明」とはつまりは「型」です。

其の「型」は壱定の期間を「文明」として世界の各地にて染め上げて行く。

 

されど其の「型」のある文明は同時に滅ぶ訳でありよって「世界史」の上からはあくまで「文明の興亡史」としての世界が繰り広げられて行くこととなる。

ところが日本の文化文明のあり方は確かに柔軟であり其の時時に応じて違う内容のものとなって居る。

 

また穿った見方をあえてすれば「佛教」は元來體制的では無い教えであり従って「文明的」なものでは無く但し非常に倫理的で且つ理性的な教えの内容を説くものです。

ところが其の本來の潔癖な「佛教」が此処日本に伝來した訳では無く所謂大乗佛教としての「壱神教的な佛法」の方が日本に伝わった訳なのでした。

 

さて其の「日本人の同壱性」を大事に据えることだらう日本教の教祖様は矢張りどうしても天皇家と云うこととなる。

其の日本教の教祖と所謂鎌倉新佛教とは相性が良かったのだと思われます。

 

日本の神神は元元多神教としての所謂八百万の神神ですが壱方で天皇家はそもさうして万世一系 - Wikipediaであり要するに壱神教のやうなものなのです。

 

 

朱子学:とりわけ、山崎闇斎(あんさい)学派

 この学派は、儒教の原則に照らすなら天皇が日本の正統な統治者であるとし、江戸幕府は非合法政権だと結論しました。

◯古学:とりわけ、荻生徂徠(おぎゅうそらい)

 荻生徂徠は、儒教のテキストは書かれた当時の意味で読むべきだとし、後世の解釈である朱子学を否定しました。

国学:とりわけ、本居宣長(もとおりのりなが)

 本居宣長は、徂徠の科学的なテキスト読解の方法論を古事記に適用し、儒教と関係なしに、日本のそもそもの統治者は天皇であると結論しました。

 これらの考え方が合流して、後期水戸学になります。

 水戸学は儒教原理主義から出発して、次第に過激な尊皇思想に変わっていきます。それが当時の人びとに大きな影響を与え、倒幕運動の原動力になりました。

日本の企業の原型を作った天才僧侶・法然の「念仏宗」とは? (msn.com)より

 

 

日本の社會はそも👪主義であり「文明」などとは違うものなのやもしれない。

よって日本人に取り大事なのがズバリ👪なのだ。

 

だが日本人はかって「特攻」にて鬼畜米英の敵艦に對し體当たりをしたのだぞ。

さても其れの何処が👪主義なのか?

 

だから其れはまさに👪を守らんが為の敵艦への「體当たり」ではないか。

また企業戦士として「24時間働く」のが其の👪を守らんが為の勞動ぞ。

 

嗚呼さうだったのか、では君の場合は壱體何を守らんが為にさうして今を生きて御座るのか?

まあ其れは強いて言えば「観念の苑」を守ると言うか其れを信じんが為にかうして日日奮闘して居るのです。

 

ではアナタに取り其の「👪主義」はむしろどーでも良いことなのですね?

いえ🐱共とはかうして👪なのですし、其れに💎などとももしや👪でせうか。

 

 

尚自分は「🗾の近代化」のことをそも認めては居ないのだ。

🗾は近代國家では無くまた民主制の統治形態を取っても居ない。

 

では🗾はもうダメなんですか?

今や🗾は政治もまた給料の額なども最悪だ。

 

でも美味いもんが其れもあちこちにある。

故に今のうちに其れ等を是非食って置かう。

 

だがアノTOYOTAを除いては皆が貧乏なので安いものを是非食うべきだ。

 

 

例えばマルシンのハンバーグマルシンハンバーグ | 株式会社マルシンフーズ (marushin-foods.co.jp)などが御勧めである。

ドラッグスギヤマでは此れが税込み108円で売られて居り腹が減った場合に弐個同時に焼き其れを食えば高級レストランでしこたま肉を食った感じとほぼ同じこととなる。

 

但し其の肉は怪しい部分がもしやあるのやもしれぬ。

其れでも別に腐った肉が其れへ練り込まれて居る訳ではなからう。

 

其処へさらにスギ薬局で買って來たリーフサラダ108円を合わせてみ給え。

其れにマヨネーズだのサラダ・ドレッシングだのをたっぷりふりかけ食えばもう高級レストランでフルコースの飯を食ったのとほぼ同じこととなる。

 

つまりはパック飯かまた仏蘭西パン代を加えても大體400円位でスッカリ満腹となれるのだ。

 

 

ところで先の統壱地方選で自民党が沈没し🗾維新の會が躍進したやうですが此処名古屋に限れば其の「維新の會」は負けて居ます。

「維新の會」は関が原で負けた西軍の流れを汲む革新派の政党であり其の政治理念は極めて危険な政党です。

 

最後まで“泉節” 「根っこが腐ってるんですよ日本の政治…『腐った』は撤回します」明石・泉市長退任 (msn.com)

 

確かに日本の政治は其の根っこからすでに腐り切って居ます。

だから其れを「正す」ことなどはむしろ考えぬ方が良いことだらう。

 

 

其の「文明の型」に嵌まらない🗾の體制のあり方はしかしながら👪主義にはしかと嵌まって居ます。

だから其の👪主義者であるキシダは最近支持率を盛り返して來ても居る。

 

ところが親中派である弐階氏などはもうダメです。

さうして兎に角日本人は共産主義者では無い👪主義者ダケが大好きなのだ。

 

其れでは其の👪愛にこそ生きればかの國では全てがヨシとされるのですか?

さうです、間違って居やうとどうしやうと其処でもって全てがヨシとされるのです。

 

でも御釈迦様はむしろ非👪愛主義者ですよ。

さうなんだ、御釈迦様はむしろ非👪愛主義者でしかも非天皇制支持者です。

 

 

其れ即ち御釈迦様は「デタッチメント」の達人であらせられ其の👪もまた天皇制も皆捨てて仕舞われるのです。

すると日本の大乗佛教各派と御釈迦様の教えはまるで違うものなのですね。

 

だって日本の大乗各派は禅宗を除きまた密教壱部を除きまさに👨‍👧‍👧の為の佛法となって居るのでせう?

さうなんです、其の鎌倉新佛教こそがまさに其の👨‍👧‍👧主義の為の佛法なんだ。

 

でも佛法の本質部はそも非👪愛主義ですので其処に思い切り矛盾化して仕舞うのである。

つまりは其れが矛盾化佛法のことで?

 

つまりは其れが矛盾化佛法其のものでしかも壱神教化して行く佛法の流れのことだらう。

でもそも👪主義者で何が惡い?

 

また壱神教化した佛法で何が惡い?

いや別に惡いとは言って居ないがなんか變だ。

 

變とは?

 

どうもヒエラルキー絶對主義に陥り易いのではないか、其の🗾人其れ自身が。

そんな「ヒエラルキー絶對主義」故此処日本では生きることばかりか死んでからもまたヒエラルキー化されやう。

 

 

「死んだあとのことは知ったことではない」養老孟司さんが"終活"は無意味ではた迷惑な行為だと断言するワケ (msn.com)

 

でも養老先生などはかうして「死んだ後のことは知らん」とさう述べられて居る。

死は自己規定出來ぬものであるが故に其れに就き拘り過ぎるな、とでも言うやうなことなのでせう。

 

つまりは「死はヒエラルキー化」出來ない現象だ。

其れを👪主義の論理でもってヒエラルキー化すると「先祖供養」重視などの所謂日本の大乗佛教的な価値観が形作られやう。

 

ところで本質的に死がヒエラルキー化されぬものなのであればまた同時に生もまたヒエラルキー化されるべきでは無いのである。

だけれども此処日本に限らず其れこそ「文明圏」ではむしろしかと「生其のものがヒエラルキー化」されて行くことと相場は決まって居る。

 

要するに壱種生死は生ものであり物質化ーヒエラルキー化ーされぬものであるに関わらず現存在は👪主義と云う主に感情面から共にヒエラルキー化して捉えることしか出來ぬのだらう。

其の「感情面」から全ての価値を組み立てることへの拒否感がどうしても以前より自分にはあるのだと言える。

 

「死んだ後のことは知らん」ともしもさう言えば其の人は冷たくしかもものが分かって居ない人だとさう思われがちなのだがむしろ「死んだ後のことは知らん」ことこそが個としての正しい認識の仕方であるやうに思えてならない。

 

 

ー病気とは、人間の問題に自然が勝手に介入してくることです。それで人間のことしか考えていない政治家は錯乱するのでしょう。そんな予定はない、というわけです。

病気と死はつきものですが、どちらも基本的には人力及び難し、です。

 

現代社会、とくに都会の日常は、日常自体の継続がその日常を破壊するという、一種の自己矛盾の問題になってきています。だからSDGs(持続可能な開発目標)であり、COP(気候変動枠組条約締約国会議)なのでしょう。

日常を考え直すのは簡単ではありません。病気がその契機になれば幸いというべきです。ー

「人間は本来、40歳を過ぎたら余生」養老孟司さんが82歳で大病を経験してたどり着いた"境地" (msn.com)より

 

 

まさに問題は其の文明としての「自己矛盾」の様なのです。

文明としての「自己矛盾」と言っても大多数の人には何を言って居るものやらまるで分からない筈です。

 

ですが知性はかうして至るところで其のことを述べて下さっても居る。

従って要は其の「眞相を語る言葉」に気付くかどうかだけなのです。

 

故に其のことに関しては連休も何もありません。

でも連休はこんな独逸の古城巡りでもって忙しくて…。

 

いいなあ、そんな金持ちの君は。

其れもバカの癖にさうしてホイホイと観光地へ繰り出し如何にも樂しさうだな。

 

でも今日は雨でもって何も出來ませんでした。

ほれ見よ日頃の行いが惡いからだ。

 

さても何で石詩人は連休前に快晴の中トレッキングを樂しみ僕等は其れが樂しめないのか?

其れはね、所詮は君等の「考えが甘い」からだな。

 

さて其の「人力及び難し」とは人の力ではどうにもならんものがあると云うことで要するに其れは現代社會には太刀打ち出來ぬ領域がしかとありむしろ其れが日常的に我我に對し覆い被さって來るものなのです。

 

ところが現代社會はまさに其れを「無いもの」として扱おうとする。

其れがまさに👪主義による「感情中心での世界観」の履行のことです。

 

「感情中心での世界観」→「理性中心での世界観」

 

現存在が理性的であることとは、つまりは自分に取りイヤなものもまた見詰められると云うことである。

また性欲や過分な欲などをもまた抑えることが出來ることである。

 

理性の輝きはさうして失せることなどは無い。

「人間は常に理性的であらねばならず其の理性は常に限定されることをこそ欲する」

 

つまりは死や病気が人間の手には届かぬものであることを知ることこそが眞の意味での理性の働きなのである。