「組織としての暴走」を無視する「デタッチメント」としての意志の力ー+「東山一万歩コース」でのトレッキングの話ー
ー日本人は元来、「自然と一緒」という感覚を持ち、一方で人間と自然が分離された歴史も知っている。反対に欧米では人と自然が分離されていたところから出発して、アニミズムに到着した人が多いのだろう。
日本文化の特徴をアニミズムだけでなく、二元化された捉え方の世界とも両立しているという姿を見せることができれば、日本の価値はもっと高まるはずだ。ー
米国人はなぜ宗教から離れたのか ヨガ=ヒンズーに入信するわけではない【神秘的なモノに引かれる人たちの経済圏】 (msn.com)より
面白いです。
但し「人間=現存在」は「自然=環境」と壱體になることなどは出來ません。
何故なら元來其れは分離ーつまりは失樂ーされたものであるのだから。
また「人間=現存在」はむしろ弐重に分離されて居る。
要するに物質的次元及び精神的次元の双方に亘り分離されて居る。ーさう分裂して居るー
問題は物質的次元に於ける分離を元へ戻すー壱元化するーことは不可能ながら精神的次元に於ける分離を元へ戻すー壱元化するーことは不可能では無いと云うことです。
従って主に宗教的な次元に於いて其のことが図られて來た歴史的経緯が存する。
其のアニミズムと云うのは至極簡単に述べれば「自然=環境」との壱體感を常に感じて居ると云うことです。
壱體になることなどは出來ぬのにさう感ずることなのですからまさしく其れは観念的営為でありまた同時にまさに宗教的な次元での世界と自己との関係性の統壱のことです。
また其れは難しい話では無くさう「感じる」ことである。
但し文明の側に常に軸足を置いて居ればまさかさうは感じられぬことの方が多い。
故に其れ等との意図的な「断絶」の段階に於いて初めて自分が「自然=環境」の眞の意味での美しさに気付く訳だ。
ですが社會生活にドップリと浸りつつ其れをやらうとしたにせよまず其れは無理なことでせう。
實際にわたくしもまたかっては「自然=環境」の眞の意味での美しさに気付く迄には至らなんだのです。
ですが長い間に亘りあれこれとやるうちに次第次第にものの見詰め方が變化して來て今に至って居るのです。
つまるところ其れはそんな風にむしろ「個としての認識上の變化」のことである。
要するに人間其れ自體もまた自然其れ自體も結局大きく變わりはしない。
尤も環境破壊により今後半世紀位の間に自然は徐徐に變化して行く。
其れも良い方向へは行かずに惡い方向へとドンドン進んで行きます。
ところが文明社會が望むものはむしろ其の環境破壊其のものですので其のことはむしろ何処まで行っても變わらない訳です。
またさう云う社會が仕出かす犯罪のことを「全體主義」としてすでにわたくしは規定し終えて來て居る。
では貴殿は其の「全體主義」に抗えとさう仰るので?
いや抗えと言ったってかうして毎日腹が減るわ何かがどうしても欲しいわでもはや誰も抗いやうが無いではありませぬか。
只其の「滅び」を前提として生きることが個として可能なばかりのことでせう。
なる程、つまりはかのハイデガー流での「死の先駆=滅びの自覚」としての現在を生きよとさう仰るので?
はい、要するにアノ偏執的なヘーゲルの考えの如くに矛盾律を止揚せしめることでより良くなるなんてことがある筈が無い。
もしあるとしても其れは「ジャンボ宝くじに当たる」位でのイチかバチかの生き方となる。
でもほんたうに理性的な生き方とはそんなギャンブル依存症なのではまさか無く「地に足を付けた地味な生き方」の方だ。
またつまりは其れが「デタッチメント」に刺し貫かれた価値観の構築のことである。
其の「デタッチメント」とはむしろ簡単なことである。
其処には高い偏差値もまた大金も要らぬ。
但し心が居座る位置をむしろ今よりも意図的に下げて行かねばなるまい。
つまりは偏差値もまた大金も全て捨て去るべきだ。
さう棄て去る為にこそ「断絶」するのだから。
イキナリそんな禅僧の如きことを言われても誰独り分かる者などは居ない。
第壱アナタの話は元元宗教染みて居て何だか気持ちが惡い。
いやわたくしには君の価値観こそが気持ち惡い。
どだい今度の連休でまたデズニーランドやIKEAや其れに外資系のデカいスーパーなどに出向きしこたま食い物だの何だのを買って來る積もりだらう?
いえ海外へでも行って参ります。
では果たして何処へ行くのか?
實は独逸の古城巡りに…。
…其れは儂が生涯に壱遍だけどうしてもやりたかった浪漫的旅行のことではないか!
尚此処日本にはすでに「アニミズム」などは無いことだらう。
だがそんな「アニミズム」の遺跡ならばまさに日本の各地に点在して居る。
また死に體ではあるにせよ日本には自然の豊かさなどもまたある。
だが其れを求め生きる人が實は余り多くは無い。
對して欧米では近代以降進んだ自然破壊に對する「意識」の面より自然への憧憬がどうも此処🗾よりは顕在化して來て居やう。
いま大問題になっている「ケニアのカルト教団が起こした大量虐殺事件」について私が知っていること【カンバ通信】第279回 (msn.com)
ところでかうして邪教が大量虐殺だのまた反社會的なテロだのをするから現代人に取り余計に宗教が分からないものとなりがちだ。
だが邪教とは概ね「教祖の欲望」に突き動かされて居るものである。
要するに其処ー宗教としての場ーが「教祖の欲望」其のものと壱致して仕舞うのである。
さて此処数日は「オウム眞理教」の仕出かした「犯罪」のことを2012年に制作されたNHKの特集番組ー四つの番組ーを視つつ考えて來て居た。
でもって其れに就き感じたことを以下に感想として纏めて置きたい。
1.教祖麻原はバカでは無かったこと
2.「オウム眞理教」が反社會勢力だったこと
3.あくまで彼等の論理には「世直し」の面があったこと
などをまずは考えた。
其の「反社會勢力」として彼等が機能したのは實際に「世直し」をしたかったからなのであらう。
ところが彼麻原は頭が良いにも関わらず所謂アカデミックな勉強をして居た訳では無い。
逆に高学歴の幹部達はすでに學問を修めだけれどもむしろ其の高偏差値での「世間知らず」の部分に毒されて居たことだらう。
じゃあ偏差値なんぞは30位でも良いのですか?
ところで偏差値30ってあるの?
あるんじゃないですかねえ、其れも丁度詩人さん位のもので。
さうだったのか、自分の偏差値をたった今知らしめて呉れてどうもありがたう。
いえいえどう致しまして。
ところで連休はもう終わりましたね。
あれだけ遊べばもう思い残すことは無いでせう。
何故そんなこと迄知って居るのだ?
確かに晴天に恵まれし昨日は「東山一万歩コース」へ行って來た。
名古屋の東山一万歩コースをウォーキング。動物園と植物園をぐるっと周って東山動植物園に寄って帰りました - ほどほどに人生を楽しむブログ (okomotot.com)
サルでもわかる「東山一万歩コース」。もう、迷わない! | 旅とラン (tabitorun.com)
其の「東山壱萬歩コース」の40番台の地点を歩いて來た。
但し「東山壱萬歩コース」へ入るに山の中から入って居り其処では何時ものやうに石英の採集などを行いつつ進んだ。
また實は「東山壱萬歩コース」其れ自體からもまた石が出るのである。
ところが市内ではメジャーなトレッキング・コース故何せ此処を訪れる人は多い。ー其れでも平日ならば日に百人も來ないことだらうー
だから其処で💎級の石が出たにせよ其れは拾われる可能性が高いことだらう。
其れでも誰もそんなもんが出ることを知らぬのでそもまるで石なんぞは探しては居らぬのだ。
そんな訳で昨日もまたデカい準💎級の石英を幾つも拾ったが石は良く水に浸け込み洗いさらにミューズ石鹸や界面活性剤入りの洗剤に浸け込み洗わぬと正體が良く分からない。
だが御宝級の💎はもう最初から光輝いて居りつまりは其れは役者級なのだ。
つまりは石もまた人間と同じくして屑石が多くスタアの石はまさに壱握りしか無いと來てる。
☆の石はもう最初から☆でありつまりは石としての偏差値が70以上は間違い無くある。
だから其れは努力してさうなると云うものでは無くむしろ生まれつきにさうなって居る。
大體壱万個に壱つ程其の準💎級の石が出て💎級の石は百万~壱千万個に壱つ位出るものとさう思われる。
さて「東山壱萬歩コース」の40番台の其れも西側のコースは森の際が高台の高級住宅街となって居り要するに金持ちが散策を樂しめる最も整備された広いコースとなって居る。
だから此の辺りの豪邸に住む金持ちは気軽に此の散策路を樂しめることとなって居る。
其のやうに何故か金持ちは「環境」をも金で買って居るのである。
其の点が非常に悔しいが昨日は金持ちの御婦人らしきプラチナヘアーの人を壱人見ただけであり要するに金持ち共は豪邸の中で株やら何やら兎に角「東山壱萬歩コース」とは別のことにセッセと励んで居るのであらう。
對して詩人はそんな余分な金の無い分まことに心が自由である。
しかも山道から石を盗んで來るのが兎に角上手い。
ちなみに昨日は歩き過ぎたのか兎に角疲労困憊し家へ戻った。
だが庭に黄苺が澤山實るので是非其れを収穫せねばならない。
其の収穫には脚立が要り結構大變である。
さうまでしても手を目壱杯伸ばし収穫せねばならずそんな拍子に脚立から落ちるとつまりは地面に叩き付けられる。
其れなどはまだ良いが四日前には石灯籠を倒しあやうく大怪我をするところであった。
本日もまた天気は良いが疲れ切って居るので主に洗濯と日光浴とに勤しんだ。
さうして此れ迄に地元で採った石英を陽に翳し眺めつつ…。
また石は部屋の隅などに落ちて居るので掃除をすると昔採った良い石英などが出て來たりもするものだ。
…また何故かこんなに良い石が出て來た。
此れはもう「握り石」としては極め付けのモノだがさう言えば此処半年程はスッカリ消えて居た石だ。
其れを今左手で握りつつかうしてキーボードを叩いて居る。
日光浴にてバルコニーに出ると時折バナナの香りがふっと漂う。
其れは高く伸びたカラタネオガタマから発する香りが此処まで届くのだ。
我が日光浴をすれば🐈共もまた共に日光浴をする。
親のタマが生んだ子は黑🐱ありペルシャ🐱ありでとても同時に生まれた子だとは思えない。
要するに同時に生まれても父親が違うと云うことなのであり其処が流石は獣である。
さても其の「教祖の欲望」には是非気を付けられたし。
「教祖の欲望」は此の世で最強の邪な力である。
でもって邪教の欲望とはむしろ其のまんま「教祖の欲望」なのだ。
其れもオウムの場合には其の麻原の欲望が異常に強かったのだと言えやう。
兎に角教祖はさうして決まって精力の方がギンギンだ。
他方で「現代文明」がダメだから是非「世直し」するとのオウムの考えが分からぬでも無い。
また「ハルマゲドン」が起きぬとも限らないことだらう。
其の「ハルマゲドン」は大體今70パーセント位の確率でもって引き起こされることだらう。
だがオウムの場合は「ハルマゲドン」をやったのが他ならぬ自分達であった。
オウムと言えば無論のことかって良くTVの報道は視て居たが兎に角壱番気持ち惡いのが靑山と云う弁護士の顔であった。
ー1988年元旦に刊行した著書『マハ一ヤーナ・スー卜ラ 大乗ヨーガ経典』で麻原は、「現代の人間は、まあ大体地獄か、餓鬼か、動物かに生まれ変わる(略)なぜかというと、まず殺生をしますね。盗みもします。邪淫もしますし、嘘もつく。酒は飲むと。これはもう救済の方法がない」と現代社会に対しきわめて否定的な見方をした[58][59]。
10月頃、富士宮市人穴に総本部道場が建設された[70]、麻原は10月に、ヴァジラヤーナ(金剛乗)のプロセスに入ってきたとし、自己を空っぽにしてグルへの絶対的な帰依を説き[1]、「凡夫の救済、地獄化した人間の救済は不可能かもしれない(略)新しい種、霊性の高い種を残すことが私の役割だ。」と説き[71]、11月に麻原は遠藤誠一に、国家が宗教弾圧しようと警察がきたらどうすると問い、「本署ごとポアしちゃえばいいんだよ」と述べている[72]。1989年1月、麻原は「資本主義と社会主義をつぶして宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」と幹部に語った[73]。ーオウム真理教 #沿革 - Wikipediaより
其の麻原氏は全く見当違いのことを言って居る訳では無く但し現代社會を可成に否定的に見て居たのだと思われる。
事實「資本主義」もまた「社會主義」も同時にダメだとさう述べて居た訳です。
其のこと自體は間違っては居なかったのではないかと個人的には思う。
宗教的な國をつくり世直しをしたいと云う気持ちもまた分からんでも無い。
但しオウム眞理教のやり方は明らかに「邪道」です。
では何が正しいのかと言えば今の自分は価値観の上での「デタッチメント」を推し進め「無視」を決め込むことこそが大事なのではないかとさう思う。
「無視」とは「バカにする」ことであり要するに古の仙人や風狂禅の人人のやうな世に對する態度のことなのでせう。
つまりはもう全部をバカにして相手にもして居ない訳です。
對してオウムのやり方はある面で眞面目過ぎ且つまとも過ぎる。ー尤も社會からすれば不眞面目過ぎるのだがー
自分の場合はもっともっと理性的に屈折があるので「デタッチメント」するだけでもうまるで相手にもしてやらない訳だ。
尚御釈迦様が説かれた原始佛法の場合にも其の「デタッチメント」の部分こそが色濃く語られて居るのではないかと個人的にさう思う。
つまりはもう「バカ=無明者」は相手にしてやらないと云うことです。
「バカ」を相手にして居るともう其れだけでこんな限られた人生の時間の大部分が終わっちゃう。
「バカ」を相手にして居る位ならもう石でも相手にして居る方がずっと有意義です。
そんな訳で最近は「民放のおバカCM」を視て居るだけで「洗脳」されて居る感じがどうしても致しますのです。
即ち其の「バカ」とはまずは「洗脳」のことでせう。
「洗脳」と言えばまずはオウム眞理教のやり方のことでせうがでも現代社會其れ自體もまたズバリ「洗脳」の壱形態でせう。
其の「洗脳」に對する護身術こそが自分の場合にはまさに「デタッチメント」なのだ。
其の「デタッチメント」の立場では、
1.理想を語らず
2.組織に属さず
3.「今」を丁寧に見詰め直し且つ其れを愛する
のです。
まずは其の「自分の今」を愛さずば他に愛を伝えることなどは出來ません。
「理想」は正しいもののやうに見えて正しいものでは無い。
また「組織」は正しいもののやうに見えて正しいものでは無い。
其れに🗾は多分間違って居るので相手にはして居りません。
文明もまた多分間違って居るので相手にはして居りません。
オウム眞理教の暴走はまず「組織としての暴走」であり其れも「教祖の欲望」をヒエラルキーの最上位とする最惡のパターンでのものであった。
「組織としての暴走」は邪教に限らず國家や文明単位でもって常にあり得るものです。
オウム眞理教の暴走の場合は教団幹部や教祖の死刑によりとりあえず決着が付きましたが國家や文明単位の暴走の責任は果たして誰が死刑になるのでせうか?
國家や文明はまさか死刑には出來ないではありませぬか。
もうそんなもんにかまわず連休を是非樂しみませう。
分かり申した。
ではまたオンデマンドかプライム・ヴィデオにて何ぞ探究の題材を探すことと致してみます。
ところでアナタは明日から天気が惡くなることをすでに御存知なので?
はい、其れも「良かったなあ」と正直さう思うのです。
何故なら天気が惡いと決まって「作文」が出來るのですから。
だから連休前にすでにやりたいことをやり連休中はPCの前にさうして釘付けです。
全くイヤな奴だなあ、其れもみんなとはまるで違うことをして居て…。
ですのでまさに其れが僕の魅力の部分ではないか。
其れも組織が生じさせる「全體主義」からは常に自由で居ることだけが自分に取り最も大事な価値なのだからして。