目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな熱気に溢れる「盆踊り大會」より逆に考える「デタッチメント」としての価値ー「中根小学校」と「タコ公園」の盆踊り大會を観て感じたことー

そんな熱気に溢れる「盆踊り大會」より逆に考える「デタッチメント」としての価値ー「中根小学校」と「タコ公園」の盆踊り大會を観て感じたことー

 

 

 

 

【言葉づかいでバレる】「自分の頭で考えている人」と「思考停止している人」の決定的な違い (msn.com)

 

そもさうして「自分の頭で考える人」の発想は常に創造的であり且つ理解し難い部分をも含む。

わたくしが残念に思うのはわたくしをも含めさうした思考の出來る人が決して「多数派」には成り得ぬとの事實である。

 

さて「全體的ー天才的ー思考」とは「合理領域」と「非合理領域」とを双方向的に同時に見渡せる認識能力のことである。

だがAIの場合まずは「合理的思考」しか出來ないから認識能力に偏りがありよって創造的自我を形成する迄にはおそらく到りはしない。

 

AIの場合は其れこそ昔の藝術家並みの「無頼」や「放蕩」がそも出來ぬのである。

従ってAIとは単線的合目的的に「合理化」思考を為すつまりは「ロボット」であり其の「ロボット」に「藝術作品」を生み出すことはそも出來ぬ相談ながら其れも厄介なことに似非藝術つまり「藝術」を眞似たものであるなら幾らでも生み出せることとなることである。

 

故に其処に「藝術とはそも何ぞや?」との問いが生まれることとなるが自分の場合「藝術」を定義する場合に使う尺度のやうなものがズバリ「足搔き」のことである。

さう其の「足搔く」ものこそが藝術なのであり「足搔かぬ」AIに決して藝術を完遂させることは出來ない。

 

問題は其の「足搔き」を現代大衆が理解出來なくなりつつあることである。

そんな「洗脳大衆」はマイナスの領域を直視することにもはや耐えられぬ訳だ。

 

 

まさにさうして「合理領域」と「非合理領域」とを双方向的に同時に見渡せる認識力はほぼ「天才」的な世界理解の方法論たり得るものだ。

さう言葉で言えば言い方がまた難しくもなるが要するに其れは相反する要素を同時に受け容れる認識のことであり思考力のことだ。

 

さて其の「洗脳」による「思考力停止」に壱番効くのはむしろ「社會的なもの」からあえて離れてみることである。

 

例えば大昔にかの坂口 安吾がしたことのやうに日本海の拡がる大海原へと繰り出し海を見詰める行為であり、さらに昔自分が良くやったやうに山の中へと逃げ込むことなどだ。

ー但し学校の授業中に其れをやるのである、ああなんか今日は頭がオカシイな、とか言いながら学校を抜け出てそんな海や山へと逃げて行くのである。ー

 

左様に学校が嫌いでも自分は大學を最優等の成績にて出また坂口 安吾は後に無頼派の大作家となって居る。

また自分は後に登校拒否児の専属の家庭教師をやり小学生と中学生を壱名ずつ学校へ復帰させて居る。

 

 

精神科医・和田秀樹が教える、「もう〇〇歳なのだから」の「年齢呪縛」から自由になるコツ (msn.com)

 

ええっ?アノ養老 孟司先生と和田 秀樹先生は矢張りと云うべきかそんな御仲間だったのか!!

 

さて先にも申しましたが「天才」に歳などはそも関係が無く逆に彼は還暦を過ぎると若返ったりもまたするものだ。

尤も自分は「天才」其のものでは無く但しあくまで「天才」的資質をもまた半分程持ち合わせて居る者です。

 

また其のことが自分ではむしろとてもイヤで出來れば「放り出したい」ものの筆頭だったのです。

 

 

「終末時計」人類最後の日までの残り時間1分30秒 過去最も短く | NHK

 

ところでたった今こんなことにもなって居ます。

其れもむしろほとんどの人が知らないことではありませうが…。

 

故にまさに其のことに就き以下に述べます。

 

 

其処にてまずは「戦争」のことを考えざるを得ない。

だが「戦争」のことを考える場合に陥り易い弊害とは「戦争のことを考える其れも非戦派の自分は戦争とは無関係な善い人間だ」とさう思い込むことなのだ。

 

まずは其の思考こそが「間違って」居る。

まさに其の「自分が善い人間だ」との部分こそがまさに「偽善」としての価値なのだ。

 

左様に現在の「平和」はかっての夥しい屍即ち尊い人命の犠牲の上に組み上げられしものである。

ならばかの「靖國神社」にでも是非参拝などせずばなるまい。

 

自分はそんな右派の気持ちなどもまた意外と分かるのだが其れを参拝したにせよ世の中が變わらぬこともまた確かなことだ。

 

さらに其の「偽善」としての価値が結局は「自己矛盾」する。

 

そんな「偽善」者としての個や國が自らを「正しい」とさう思い込むことこそが「全體主義」としての基本構造である。

つまり最終的に「社會関係は自己矛盾する」に至る。

 

故により正確には「個」もまた「自己矛盾」する。

だが「個」による「自己矛盾」は其れこそ「学校嫌いや軍隊嫌い」になる位のものであり別に「戦争」を引き起こす訳なのでは無い。ーそんな本質的に「小さい」欲望だー

 

ところが社會の欲望は主に「力の論理」にて駆動されて行く。

「力の論理」とは上部価値としてのヒエラルキー構造が権力を独占することだらうそんな本質的に「大きい」欲望のことだ。

 

でもって「大きい」欲望のところに限りむしろみんなー洗脳大衆ーは群がるものと相場が決まって居る。

だから眞に理性的な知性はむしろ学校をサボり海や山へ逃げて行くのでありまた其処にて其れこそ自立的且つ自律的な思考をこそむしろドンドン深めて行く。

 

なのだが「洗脳大衆」はむしろ何処までも其の「力の論理」にこそ群がる。

つまるところは其の認識としての方法論其のものが知識人と大衆の間で質的に異なって居る。

 

 

従ってかってかの芥川 龍之介などは軍人の其れも偉い將校が軍服に勲章を其れも澤山ぶら下げて居ること自體をバカにし且つ嗤って居たものだった。

即ち眞の意味での知性とはそんな「力の論理」に群がったりは決してせぬものだ。

 

むしろ其れを嘲笑し「力の論理」をあえて「デタッチメント」して行く力こそが眞の意味での知性派としての認識なのだ。

よって眞の意味での知性派は軍部や國家の強大なる力に屈し「體制」や「祖國」を賛美する文學やらまた繪画や音樂などを決して創りはしない。

 

もうそんなもんを創る位なら首でも吊り死んだれ!!!

 

卑しくも藝術家であるならばむしろ其の位の決意を持ってして「藝術」と向き合ってこそ然るべきなのであらう。

兎に角其の「力の論理」に對する激しい「抵抗」をそんな「藝術の足掻き」として是非持ち続けるべきである。

 

また其の「藝術の足掻き」は先に述べし「偽善」なる様などにもまた大いに効く。

 

例えば先進國の首脳が集まり「サミット」をやる。

其れも膨大な金と準備とをかけて其れをやる。

 

だが何も世界は變わらん。

其れも首脳共がさうして観光をして壱流の飯と酒を喰らい其の後馬鹿面をして集まりホテルの便所でもってクソをして終わりである。

 

だからさう云うのをまさに「偽善」の世界と云うのである。

だがな、藝術と其の偽善は断じて違うぞよ。

 

 

兎に角さうして「戦争」とは「力の論理」が生み出すものなのだ。

 

では「力の論理」を去るにはまさに其れを現存在の認識より放逐せんが為に我我「個」は何をすべきなのか?

ですからまさに其のことが「デタッチメント」としての個としての認識の成就であり涵養である。

 

「デタッチメント」

其れは例えば其処に👩の裸が横たわって居ても其れには決して飛び付かぬことである。

 

また其れは例えば其処に美味さうな🍛が落ちて居る場合にすぐに其れに飛び付くことだ。

何故ソコでもって食い物には飛び付くのか?

 

だって人間は決まって食わぬと死ぬるのだぞよ。

だが👩の裸にはむしろ飛び付かぬ方が「平和」だ。

 

すると「平和」とは「食う」ことなのか?

さうだ「平和」とはまさに其の「食う」ことだ。

 

だが👩の裸は最終的に「社會関係での巣窟」を生み出しつまりはより「欲望世界」を拡張せしめることとなる。

即ち其の「👩の裸」こそが「デカい欲望世界」の根本因であり且つ社會関係での「母」となる。

 

其れが社會関係の「母」でもってそも何で惡いのだ?

其れ即ちまさに其れが「偽善の巣窟」でありまた「力の論理の巣窟」と化すからのことだ。

 

 

即ち「力の論理」とはむしろ「子宮の偽善力」が自己矛盾するものである。

何故子宮が偽善化するのかと言えば「子宮は盲目的に子を愛す」からなのだ。

 

さうした愛をイエス・キリストはむしろ「偽善的な利己愛」としてかって斥けられやうとした。

其の「偽善的な利己愛」は例えば「獣」=「自然界」の範囲ではむしろ上手く回ることとなる。

 

だが人間界ではむしろ其の獣性が災いし最終的には「力の論理」による闘争世界に明け暮れることとならざるを得ぬ。

 

尚其の「力の論理」による闘争世界を否定するのがむしろ宗教的な精神による次元である。

但し邪教の場合にはむしろ逆に其の「力の論理」による闘争世界をこそ目指し進んで行く。

 

まさに其処では教祖こそが其の「力の論理」による闘争世界の「覇者」として此の世に君臨して行くのである。

よって正しい教えとはまさに其れとは逆の「眞の意味での神の愛の世界か又は眞の意味での自立的且つ自律的な認識世界=眞我の世界」の體現者によるものでなければなるまい。

 

 

さても「平和」とは何か?

其れは「価値としての上部構造を望まぬこと」であり「反子宮思考」であり『価値ヒエラルキーを脱さんが為の「デタッチメント」としての成就』のことだ。

 

「平和」とは『共産主義』であるとか又は『アナキズム』であるとかむしろさうしたことでもまた無いのである。

結局「平和」とは「認識上の成就」のことである。

 

其の「認識上の成就」とはあくまで「個」に於いてさう為されるもののことだ。

さても話が難しいのだらうか?

 

尤もわたくしにはこんなにもカンタンな話なのだが或は話が「高等教育」をもスッ飛ばして進んで居るのであらうや?

 

まあいい。

読んでも分からんならまた分からんでもエエ。

 

要するに其の「力の論理」にこそ矛盾領域があり矛盾すると云うことはほぼ破壊と云うことなので其の侭にして置けば「世界は破壊される」こととならざるを得ぬ。

また其の「力の論理」と相似形なのが所謂「資本の論理」である。

 

「資本の論理」はより儲けより世界を良くするとさう「偽善」的に豪語するが其の實は彼等こそが「破壊」の推進者なのだ。

だから大TOYOTAは早う其の「資本の論理」の過ちに気付き其のことをかうしてズバリと指摘する地元の天才詩人に對し「壱億円」のアドヴァイス料を払った方が良い。

 

そんな安いアドヴァイス料は此の広い宇宙を見渡したにせよまるで何処にも無いことであらう。

そんな大TOYOTAよ、早う「目覚めよ」!

 

アンタしかしさうして「働かずに金をせびる」姿勢ダケはどうもイカンのではないか。

もしやさうなのかもしれない…。

 

 

さても「平和」とは何か?

「平和」とは「脱構築」の論理其のもののことだ。

 

また得意な哲學へと持ち込む御積りで?

まあさうですがなるべく面白い「哲學」にしてみます。

 

さて上にて『「デタッチメント」としての個としての認識の成就』こそが眞の意味での「平和」を齎すことを詩人は初めて此の場にて述べた積もりです。

逆に申せば此処🗾國はまた世界はさらに文明はそんな「理性的」に組み上げられた場では無いが故にむしろ「破壊」を進めて行くのです。

 

其れも「核兵器」の数はむしろ増える壱方でしかも國家間でのイデオロギー對立は熾烈さを増す壱方だ。

でもって温暖化はむしろ加速度的に進み兎に角暑いので掃除もなかなか出來ぬがでも御盆が近いのでたとえ死んでもやらねばならん。

 

…困った話ばかりだ。

嗚呼まさにこんな困った話ばかりです…。

 

ではどうするのだ?

どうするのだ、こんな文明であり詩人は果たしてどうする?

 

其れが壱つには「祭り」でせう。

「祭り」?

 

其の「祭り」をしてもまさか文明は助かりませんが…。

いや「文明」は助からんでも「個」としての気分が晴れればむしろ其れで良いのです。

 

そも何でそんな小さいものの方ばかりをアナタは向くのか?

そも何でそんな大きいものの方ばかりを君は向くのか?

 

 

さてそんな訳で昨夜は「盆踊り」を観て來た。

 

1.タコ公園での「盆踊り」大會

2.中根小学校での「盆踊り」大會

 

どちらが良かったかと言えば2.の方だった。

其処では、

 

3.マツケンサンバ

4.河内音頭

5.瑞穂区音頭

 

などが流され中根小学校の校庭に人が多く集まり踊ったりもまたして居る。

だが案外観て居るだけの人なども多い。

 

いずれにせよ其処には所謂「人の熱気」と「パワー」とが感ぜられた。

其の「人の熱気」と「パワー」をさうして目の当たりにしつつも自分が考えて居たことはまさに其の「人の熱気」と「パワー」とが齎す危険さのことであった。

 

「人の熱気」と「パワー」こそがむしろさうして「全體主義」を此の世に生み出す根本因となる。

 

 

よって其の「人の熱気」と「パワー」に接しつつも彼独りだけがまた別のことを考えて居たのである。

「どうか此の世の人人が其のことに是非気付きますやうに」

 

天白川の土手から、また中根小学校を壱周しつつ「盆踊り大會」を観察した我は結構感動しつつ家に帰る。ー特に瑞穂区音頭にはいたく感動したー

家に帰ると距離的にはより近い南区のタコ公園ータコを模した遊具のある公園ーからまだまだ音頭のやうなものが聴こえて來る。

ー家は所謂高台にあり色んな音がさうして聞こえて來たりもするー

 

名古屋囃子 名古屋城 2021 8 11 - YouTube

 

まさに其れがナゴヤ名物の「ナゴヤバヤシ」である。

コレが無いと名古屋の盆踊りは基本的に成立しない。

 

さて今日は先程から何やら異常に暑い。

其れは温暖化があらゆるものに浸潤するかのやうな暑苦しさである。

 

要するにかうしてエアコンをかけて居ても何やら暑い。

かうして暑いので庭の樹木がすでにヘロヘロである。

 

故にまた水をかけてやる積もりである。

さうして「打ち水」をすると樹木の多い我が家の庭はまた違う世界でのものとなる。

 

すると🐱などもまた喜んで其の庭に集って來たりもする。

要するに壱挙に涼しくなるのである。

 

 

いずれにせよ現代文明は「価値其のもの」に関してむしろ根本的に考え直してみた方が良いことだらう。

其の「求める価値」はプラスするばかりではむしろ「破壊」が生じて仕舞うのである。

 

逆にマイナス側を見る即ち「デタッチメント」することでこそ其処に「大いなる価値」が生まれやうと言うのに。

其のことがまるで分かって居ない文明の中でこんな詩人が生きて行くのは確かに辛いことながら其れもまたかうして生きて居る間はまさに其のことと闘わねばならぬことだらう。

 

そんな認識の上での所謂「断崖」のやうなものを感じつつ我はまさに此の目の前の夏を生きて行かざるを得ない。