そんな漱石の「文明論」より學ぶことー+マルクス・ガブリエル氏による「倫理的資本主義」に就いてー
2023 マルクス・ガブリエル ニッポンへの問い - 欲望の時代の哲学 - NHK
欲望の時代の哲学 2023「マルクス・ガブリエル ニッポンへの問い」20230806 - 動画 Dailymotion
其の今世界を代表する哲學者であるガブリエル氏は、
1.抽象的な資本主義の普遍化による破壊への危惧
2.倫理的な資本主義の樹立
3.独逸的な「潔癖」な精神性への期待と回帰
との哲學的な観点を今持って居られるやうに個人的には思われる。
また時に氏は「カント」や「ハイデガー」の哲學を引き合いにし話をされるやうだ。
特に「カント」による倫理性と「ハイデガー」による現存在の限定性の部分は個人的にも現行の文明に取り最重要の哲學的要素かと思います。
4.「資本の論理」の暴走
5.大衆の暴走
何故なら此の4.及び5.にて現在進行形でまさに破壊が進んで居るからです。
ですが世の中には「破壊」など無いとさう考える人間さえもが居る訳です。
6.暴走資本家
7.大衆の中の大衆
おそらくそんな人達は「破壊」など無いとさう考えたがる筈だらう。
ですが残念ながら「破壊」は有ると哲學者にせよまた哲學詩人にせよさう考えるのです。
なのではあれわたくしは「倫理的な資本主義」に関し可成に懐疑的です。
何故なら6.や7.が出現するのはそも人間の「認識」の問題でせう。
例えば言ってみれば其のヤル気ギンギンの暴走資本家は元元さうした認識での人間なのです。
逆に眞夜中の白神山地の如くに其の認識が静かでしかも心優しい人間はそも資本家などにはならずに文人にこそなりたがる訳だ。
また暴走資本家に限らず暴走政治家や暴走官僚、さらに共産主義でもまた出て來る独裁的な権力者つまり暴走権力者は元元さうした類での認識の人間なのです。
と言うことは、此の世と申すか社會は結局變わりやうが無いと云うこととなる。
また其れは別に絶望をあえてしたいやうなマイナス思考なのでは無く眞實なのです。
なのであれば、まずは「社會を變えたい」とさう思うこと其れ自體に問題があるのです。
「社會を變えたい」ので「共産主義」か又は「アナキズム」に是非走りたい。
或は「社會を變えたい」ので「オウム教」か又は「👪主義の宗教団體」へと是非走りたい。
ですのでまずはソコが違うのであります。
つまり「社會其のものは變えられない」のですから後はもう人間の認識を變えることを目指して行くばかりです。
でもって何が問題かと言えば其の「暴走」こそが問題なのです。
「暴走」するからこそ「破壊」が引き起こされつまりは地獄へと堕ちるのです。
ならば「暴走」しない為に「認識」を變えて行くつまりは大人しくなればイイ話です。
またつまりは「近代的認識」其れ自體が「暴走」して居ます。
さらに資本家だけでは無く科学者や技術者もまたそんな風に「暴走」して居ます。
まさに其のことを「全體主義」とさう呼ぶのである。
其の「全體主義」に對し本質的に其の「罪」を問うことなどは出來ない。
「全體主義」はかってのファシズムに限らず自由主義陣営の奉ずる資本主義経済體制に於ける「経済成長」や「宇宙開拓」の分野なども全てが其の「全體主義」です。
また「近代化」其れ自體がすでに「全體主義」なのです。
問題は其の「全體主義」の「罪」が本質的に問えないと云う部分です。
例えば「温暖化」や「生物種の絶滅」などの罪はかの大TOYOTAが壱社でもって背負う罪なのでは無く人類全體での罪なのだ。
また大衆洗脳の罪は「学校」なのかと言えばなかなかさうも言えず其れも言わば社會全體でさうして行くであらう罪なのだ。
よって其処にてすでに人間はもう何処まで行っても「罪」が本質的に問えないのであります。
要するに「やりたい放題」が其処にやれしかも自分等がおバカだものですから「反省」もクソも無くむしろ自分は「常に正しい」とさう信じ込んで居る始末です。
まさにソレぞ惡が身に纏う「偽善」の様であり其の隠れ蓑の中でこそ行われる「犯罪」其のものです。
左様に近代もまた近代國家も此処参百年余りに亘りさうして「偽善的な破壊者」であり続けて來た。
だから其れは何が惡いのかと言えばつまりは「近代文明」其れ自身が惡いのです。
たとえ観念的に潔癖な方などが其の惡い「近代文明」をやっつけてやらうとしても其れは罪にもならずまた其れは死にもしません。
何故なら彼等はあくまで「全體主義」の履行者なのですから。
其の「全體主義」の履行者である限り其のやうに本質的には其の「罪」が問えなくなる訳だ。
其れでも時折かの羅馬教皇様などが「近代文明」を全否定されるかの如き批判を文明社會に對しされて居ることがありますが確かに其れが正しい宗教的立場でせう。
其れに「近代文明」はむしろ「プロテスタンティズム」の作品なのだらう。
故に「カトリシズム」の側はむしろ其れに對し懐疑的と申すか少なくとも怒ってることでせう。
尚家は父が独逸「カトリシズム」の大學へとかって進んだのでわたくし自身もあくまでそちらでの側です。
さて問題は其の「偽善による破壊」でせう。
其の「偽善による破壊」は「倫理」により解決されずに決局「認識上の転換」でしか食い止められぬ筈です。
従ってわたくしの世直しの論理とはあくまで「認識上の転換」となる。
其の「認識上の転換」とは人文學や藝術や宗教迄をも含む総合的で且つ統合的な知見より成し遂げられるまさに遠大な精神の行程でありつまりは其れは「精神の茨の道」のこととなる。
わたくし自身はさうして其の「精神の茨の道」をこそ此の40年余りに亘り歩んで参りました。
故にもうすでに「分かって居る」部分などもまた多くあるが其れでも「分からぬことがあることが分かる」のでむしろ死の瞬間迄かうして其の「精神の茨の道」は続いて行くことでせう。
さて此処にてわたくしの精神の立場を纏めれば、
8.社會ー外部ーは變えられない
9.個ー内部ーを變えられるだけ
10.「破壊」は「認識上の暴走」が引き起こすこと
との結論となる。
よって真夜中の白神山地の如くに其の認識が静かでしかも心優しい人間はそも10.をやらず其のことは元元さうなのです。ー元元そんな認識でもって生まれたー
ところが此の社會の推進者の側はむしろ「ヤル気ギンギンの暴走人間」共が多いのです。
よって其の「ヤル気ギンギンの暴走人間」共の洗脳的な其のヤル気をどう削いで行くべきか?
とのことをまずは自分なりに考えてみたのであります。
でもって最終的に言いたいのは其処にて「御勉強」がむしろまるでなされて居ない可能性が高いとのことでした。
其の「御勉強」とは「自分の頭でもってやる」御勉強のことであり学校や塾でやる體制維持の為の御勉強とはむしろ本質的に異なって居る。
ですがまさに其れこそが「眞の御勉強」です。
其の「眞の御勉強」と学校の御勉強が得意な人とさうでは無い人が居て自分の場合はむしろ其のどちらも得意な方でした。ー但し理数系の御勉強などを除きー
ではそんな御勉強をせんが為には、
11.不純なる異性交遊に走らないー脳を體でもって支配しないー
12.大酒を飲んで脳味噌を麻痺させない
13.ギャンブルに狂い脳味噌を腐らせない
とのことに限る訳です。
さらに、
14.出來得る限り働かずに「御勉強」をする
15.出來得る限り群れずに「御勉強」をする
とのことがやれればほぼ「完璧」でせう。
しかも「御勉強」は「社會的評価」などよりもより大事です。
また「御勉強」は「現實的生活」などよりもより大事です。
故にそんな「御勉強主義」をこそ自分は今とって居る。
ちなみにわたくしの父の名は「學」でした。
だから戒名などにも其の「學」が入ります。
羨ましいことに其の「學」が入ります。
ところが自分の場合は「明ちゃん」なので其の「學」が入りません。
しかもこんな風で果たして何処が「明るい」のでせう?
いや「明るい」のでは無くあくまで「明らか」なのだ。
さうか、まさに其の「聡明の明」であったのか。
まさにそのうちに自分でもって自分の戒名を決めてみたいとさう思ってなども居ります。
【名著】私の個人主義|夏目漱石 耐えてばかりの人生に、終止符を。~天才作家が教える、自分だけの”勝ち筋”の見つけ方~ - YouTube
かって其の夏目 漱石と云う作家が兎に角「近代」と云うことを悩み抜きました。
また彼漱石は「近代が間違って居る」ことをすでに其の頃ー明治時代ーより分かって居た。
でも今や芥川賞作家ですらそんなことを言う奴など居ません。
ああきっと今の芥川賞作家は精神のレヴェルが落ちたんだな。
夏目 漱石はさうして只の文學者では無くまさに思想家でありまた近代文明への其れも辛辣な批判者です。
さて其の漱石がかうして「個人主義」を説く。夏目漱石 私の個人主義 (aozora.gr.jp)
ー金力権力の点においてもその通りで、
こうした
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。
個ー實存ー<國ー文明ー
國や文明、文化など社會関係には元來力があり其の力が有るが故に個ー實存ーを抑圧して仕舞います。
また其れを「搾取」と言い換えても良い。
彼漱石は其の「力の論理」の背後に「徳義」があれば所謂「権力の濫用」は起こり得ないとさう述べた。
個ー實存ー⇔國ー文明ー
概念的にはあくまでかうした「相互依存関係」を築くべきなのが理想であるのだと思う。
其の「小さき者、力無き者」と「力の有る組織」との関係性はあくまで理性的には「相即」し且つ「相即」すべきです。
ところが「権力」や「金力」にはとある癖があり其れは「壱義的に利己主義化」する部分なのだ。
要するに其の「権力」者=政治や行政を司る者や「金力」者=資本家や大地主は大抵の場合何故か頭が惡くつまりはまるで御勉強して居ないんです。
勿論其処での「御勉強」とは自立的で且つ自律的な意味での自分の脳味噌でもってちゃんと考えるタイプでの「御勉強」のことです。
ですが先にも述べたやうに自分の脳味噌でもってちゃんと考える「御勉強」の好きなタイプの人はむしろ働かずに金をせびりたいやうなつまりはヒモ文人タイプがまた多い訳だ。ー自分などがまさにソレだらうー
だから「多義的に理性を内省として使える」やうな御利口な人は其の「徳義」の持ち主であることがほとんどながら現實的には「ヤル気満満」の「権力」者や「金力」者に限りそんな徳義なんぞは無いんです。
なので其の「徳義」に長けた文學者などを政治家にしたらどうだとの御話ですがかの石原 慎太郎先生や三島 由紀夫先生が政治的活動をされ其れが良かったのかどうかはまた微妙なところを含んで居ります。
尚自分は石原 慎太郎先生と三島 由紀夫先生を共に尊敬して居ります、其のイデオロギーとはまるで無関係に。
要するに権力にもまた金力にも「徳義」=人格に支えられた道義心のやうなもの、がむしろ「義務であり責務」として必要なのだ。
また其のことは先に述べたガブリエル氏が提唱される「倫理資本主義」などとも通じ合う部分でせう。
また自分流に其れを言い換えますと「理性的に規定される力であり金」でなければ其の力や金はニセモノであり其のニセモノ振りによりむしろ社會は破壊されて行くこととなる。
くれぐれもそんな「理性以前での獣性」にてやりたいことをし放題ではイケないのです。
其れがイケないからこそかうしていつしか地球は破壊されみんなが此れから温暖化地獄に飛び込み灼け死ぬことになる。
其の「理性以前での獣性」を直すのはズバリ言って「御勉強」です。
其れも何かに取り憑かれたかのやうに兎に角毎日が御勉強です。
拾時間、いや弐拾時間は其れを是非やらうではないか。
弐拾時間もやったら飯も食えんわ便所もイケんわい。
飯は机上でもって食い便所は机横のオマルにて是非用を足されたし。
ーそれからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな
個人の幸福の
ま、其の國家はむしろ無い方が良いです。
其れは何でかと言えば國家が集まるとまさに「烏合の衆」状態となり例えば「サミット」などをまた好んでするのですがむしろ其れが文明の経済状態を圧迫するのです。
まさに其処には「抽象的概念」の持つ「非現實性」の問題が隠れて居るのではないか。
近代に於ける「力の論理」を支えるものとはまさに其の「抽象性」である。
また其の「抽象性」のあるものの方が逆にデカくなり力を持つ。
對して「個」とは概ねそんな「力」には欠け「金」もまた無いものである。
ですが其れこそがむしろ「世界に壱つだけの實存」と云う具體性の象徴のことだ。
また其の具體性とは「自由」であるか否かには関係無くそんな實存に備わるであらう唯壱の価値である。
よって最終的には「體制」に関係無く其れを個より奪うことはむしろ出來ぬ。
――国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。
其の「國家主義」にせよ逆に「共産主義」にせよむしろ其れが「偉いもの」であるとさう洗脳されぬことこそが個としての権利であり義務なのだ。
個としての権利及び義務とは左様な「大仰な価値」に与せずさうして飯のおかわりの数などを自立的且つ自律的に決められると云うことだ。
個ー實存ー⇔國ー文明ー
尚此の関係性がある以上我我個は國家を否定出來ないこととなる。
さうなるが少なくとも、
個ー實存ー<國ー文明ー
こんな「洗脳」状態では個には幸せも何もあったものでは無い。
故に兎に角自ら進んで「御勉強」することでそんなデカいものへの隷属状態から抜け出すべきだと云うのが社會科詩人の意見なのであります。
夏目漱石 現代日本の開化 ――明治四十四年八月和歌山において述―― (aozora.gr.jp)
自分は以前より漱石の「文明論」に大きく興味があり其れは非常に的確な文明評なのだとさう考えて居ますがいまだ體系的、網羅的に其れが読み込めて居らずつまりはかうしたものを何度か読み返した位でのものです。
されど夏目 漱石の文明論はおそらく🗾壱の文學者による文明評となる筈です。
何故なら彼漱石程「文明」に悩み苦しんだ人はおそらく居ないことでせう。
其の「足掻き」こそが所謂「偽善」では無い文明とのほんたうの闘い其のものだったことと思われる。
尚漱石の言う「個人主義」とわたくしの「自分主義」は構造的に良く似た論理にて組み上げられて居る。
ですがわたくしの「自分主義」は漱石の言う「個人主義」をパクったものでは元より無い。
其の「自分主義」=「眞我主義」はむしろ宗教的要素をも含む考え方なのである。
夏目漱石の哲学とは?(自己本位?則天去私?) – よっとん先生 (yotton-coaching.com)
ところが最晩年に漱石は所謂「即天去私」なる境地に達したとされて居ります。
さて「即天去私」の「天」とはそも何であらうか?
則天去私(そくてんきょし)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
調べてみても實は良く分からない。
何となく其処には所謂天道思想や老荘思想的な世界観が仄見えるのだが。
また「禅的な悟り」に近いものではないかと論じて居るものもまたある。
但し其の「則天去私」と言うだけでまるで完全に悟ったかのやうなつまりはそんな「言葉としての威張り」が其処には入って仕舞うやうな気がしないでも無い。
自分の場合はあくまでそんな「威張らぬ」自分主義でもっておそらくは最期迄行くのであらう。
つまりは「威張る」ことこそが「普遍化」なのでありまた「力の論理」其のものなのだ。
故に其の「威張る」ことは眞理として認識される事の「多義性」に對する犯罪である。
犯罪でありしかも謗法ですらある。
普遍化→✖
壱義性→✖
権力、権威、名誉、金→✖
👩→✖
要するに世間的には〇のものが逆に皆✖となって仕舞う。
そんな「さかさま」な世界を自分は今生きて居り其れは非常に珍しい世界観なのではあらうがこと僕にとってはまさに其れが眞理の世界其のものなのだ。