目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

人類に取り究極の問題としての「全體主義」とは何かー+斎藤先生とブレグマン氏の対談より読み解く文明としての諸課題ー

人類に取り究極の問題としての「全體主義」とは何かー+斎藤先生とブレグマン氏の対談より読み解く文明としての諸課題ー

 

 

 

 

大江健三郎さん死去「もっとお話しを」 SNSに追悼あふれ (msn.com)

 

大江先生の御逝去に際し心より御悔みを申し上げます。

 

 

ーベストセラー『未来の年表』では、〈40年後には9000万人を下回り、100年も経たぬうちに5000万人ほどに減る…200年後におよそ1380万人、300年後には約450万人にまで減る…西暦2900年の日本列島に住む人はわずか6000人、西暦3000年にはなんと2000人にまで減る〉という絶望の予測が紹介されていた。ー

もはや「絶滅危惧種」の日本人…経済も人口も危機に陥る「絶望的な日本」がとるべき「納得すぎる生存戦略」 (msn.com)より

 

さて此の種の問題に関しあくまで私見を述べさせて頂きます。

まず百年後に現行型の文明が継続して居る可能性はおそらく可成に低くなることでせう。

 

時間の経過は其のやうにあくまで無慈悲で且つある意味合理的に完遂されるものです。

現行型の文明は2100年まで持たぬ可能性の方が正直申して高くある。

 

其れでも尚むしろ「悲観」に陥る必要などは何処にも無い。

つまりは我我個としての現存在は其の「文明」を生きるだけのことでは無いのです。

 

其のやうに我我個としての現存在はまずは「生活」をし生きて居るのでありそも「文明」だの「國家」だのの為にだけ生かされて居る訳では無い。

だけれども「文明」だの「國家」だのの側の方がむしろ其のデカい価値=抽象的妄想の類の方に我我個としての認識を縛り付けて仕舞うのです。

 

であるからこそ未來予測の面からはまさに絶望的な展開とならざるを得ません。

また宗教などが幾ら頑張るにせよ其の未來予測の面を好転することなどはまず不可能です。

 

即ち宗教に出来るのは「個としての精神のあり方」を救うことだけです。

では「どうするのだ?」と云う話と必然的になるが其れはむしろ個に於ける「社會」との接点を「限定」的に捉えて行く方が良いと云うことです。

 

また其のことに関してすでに多くの時間を費やし此処にてわたくしは論じて参りました。

 

 

ー日本企業は、日本の消費者は、「よりよいものを、より安く」「薄利多売」から卒業できるだろうか。

常識や既存の価値観を捨てられるかどうかが、日本の未来を大きく左右している。ー

もはや「絶滅危惧種」の日本人…経済も人口も危機に陥る「絶望的な日本」がとるべき「納得すぎる生存戦略」 (msn.com)より

 

より正確には現行の文明に於いて其の「ビジネス」云云の話は非本質的な論議となることはまず否めません。

要するに文明其れ自體がすでに其れどころではありませんのです。

 

でもすでに「文明」に洗脳されし我我個は少数派の気付きの良い人以外其の重大な事實にはまるで気付けやしない。

其れを言えば人類の八割位の人がおそらく怒ることでせうがでもまさに其れが事實であり事の實相です。

 

其のまさにヤバい状況に比ぶれば其の日本國の落ちぶれの様などは大した問題では無いのである。

ですが「生きんが為の努力」は等しく尊いとあくまでさう自分は考えますので其の産業界としての努力や個としての仕事への頑張りなどを我は否定するものではありません。

 

また出来れば「ビジネス」からは壱旦離れて自然に接したり或は宗教的體験を積むなどして所謂「文明社會」を逆向きに見詰めることなどをしてみると個の認識としてまた違うものが見えて來る筈です。

ですがあくまで現代社會が抱える問題は宗教にせよ藝術にせよまた哲學であるにせよすでに解決不能であるとさうも観念して置くべきことでせう。

 

 

「資本主義体制のまま、気候変動を解決できるか」と問われて…世界が注目する論客、ルトガー・ブレグマンの回答は? (msn.com)

 

さて其のブレグマン氏による「性善説」とのことですがあくまで我が解釈では其れに對し可成に懐疑的です。

 

あなたの人間観が変わる?若き知性が示す、性善説により導かれる未来―『Humankind 希望の歴史』 | GLOBIS 知見録

 

こちらには「共感」であるとかまた「権力」であるとか人間の社會に取り重要なキーワードがまずは出て來る。

 

ですが其の「共感力」こそがむしろ強い排他性を生み出します。

また「愛」なども範囲が狭いとむしろ「利己的な愛」をこそ形成する。

 

また「権力」は確かに個としての人間をおかしくする。

最近では安倍政権が其の個としての人間をおかしくしたことの好例でせう。

 

其のやうにプラスの価値の積み上げはむしろ見当違いなものを生み出していくことの温床となり易い。

資本主義もまた科学技術もまさに其のプラスの価値の積み上げのタイプでの制度であり概念です。

 

對してマイナスから出発するものがありまさに其れが宗教的な見解です。

さらに哲學のあり方などもまた概ね古いものほど其のマイナスから出発するものが多い。

 

尤もかのカントは近代を啓蒙せんが為に「理性の性善説」をかって展開した。

其の眞逆にショーペンハウアーは「生其れ自體の抹消説」を唱えました。

 

 

尚個人的には「プラス主義」でもって現代文明は喫緊としての諸課題を解決することは出来ないとさう考えます。

但し實は最近考えが変わりつつありまさに其れが「科学技術に對する期待」の部分です。

 

されど其れもあくまで「限定的」な期待に止まる。

其れでも例えば権力者が「目覚める」ことよりもまた大衆が「目覚める」ことよりも「科学技術が地球環境の回復を図る」ことの方がまだしも可能性は高いとさう考えるに至って來て居る。

 

故にまさに其の点ではブレグマン氏の科学への期待値と重なる訳です。

尤も其の科学などそも無い方が地球はずっと其の侭に健全だったのですが。

 

其れでも科学が仕出かしたことはもはや如何ともし難く故に其れをどうやって尻拭いするかと云うことだけなのでせう。

 

さて上でも議論されて居るやうに「気候変動を回避する為に残された時間は短い」のです。

にも関わらず我我人類はむしろ「同じことを繰り返す」ことしか出来ません。

 

でもそりゃさうです、文明とは元元さう云うものなんだ。

つまり其れを哲學的に説明すれば、

 

現存在はいつも「同じ」ことをやらんが為に「文明」を創った。

動植物はいつも「同じ」ことをやらうとしてもそも出来やしない。

 

のであります。

 

 

つまるところ「文明」とは其の「同じ」への共感でありまた「同じ」への権威付けなのだ。

で、「違う」と云う部分をつまりはマイナス思考をこそ所謂人文科学の分野が主に担って來ました。

 

ところが其れがむしろ弱體化して來て居り其ればかりか宗教の分野も實は弱體化して來て居る。

其れは要するに観念の分野が「現金化」したつまりは世俗化し思考が陳腐化するつまりはよりおバカになるものとさう見て置くより他は無い。

 

従って人文の徒としての自分がまず危惧して居ることとは其の「人類のアホ化」のことなんです。

「人類のアホ化」=「洗脳化」のことですね。

 

其の「アホ化」を阻止せんが為に自らの力でもって「御勉強する」しか無いのであります。

そんな自らの力でもって「御勉強する」タイプの人間の全てをわたくしは心より尊敬しむしろ拝んで居たい程でのものなのだ。

 

 

世界の富を独占する「上位0.1%の超金持ち」は“善良”なのか? 哲学者・斎藤幸平が考える、資本主義の限界の克服法 | 文春オンライン (bunshun.jp)

 

こちらでの対談などもまた示唆的であり可成に面白いです。

マルクス主義者の斎藤先生による「脱成長」の概念にせよまた「無駄な仕事」の概念にせよまさに本質的な議論が為されて居るのだと思う。

 

只壱人文理性として此処まで生き抜いて來た自分は御若い學者さんである彼等とはまた違う視点を持って居ます。

其れがまさに「全體主義」による大問題なのです。

 

さて其の「全體主義」とは哲學と云うよりは社會學的な問題であり課題です。

尚結論から申せばまさに其の「全體主義」こそが惡なのです。

 

例えば「全體主義」がかって文明を世界大戦へと導きナチスや日本の軍部による暴走を招きました。

ところが其れ以前に欧米諸國にて行われて居た所謂「帝國主義」とは壱體何だったのか?

 

其れもまた結論から申せば「帝國主義」とは「全體主義」の壱形態でありまた「資本主義社會」も「全體主義」の壱形態であることが否めない。

つまるところ近代文明其れ自體がまさに其の「全體主義」の温床となって居るのである。

 

さらに言えば「科学技術による宇宙開発」や「科学技術文明」其れ自體がすでに「全體主義」なのです。

さらには我我現代人の頭の中身などもまた其の「全體主義」による洗脳を受けて來て居ります。

 

 

でもって「全體主義」には次なる特徴が認められる。

 

1.個に責任は無く社會其のものに責任がしかとある点

2.でも元元抽象的に成立する社會は責任を取りやうが無い点

3.「全體主義」は形を変え近現代の社會に潜み滅ぶことが無い点

 

つまりはそんな不滅の惡こそがそんな「全體主義」野郎のことなのだ。

其の結果、

 

4.元元みんなでやる惡事の責任は誰にも取り得ない

5.故に地球の破壊の犯人は實はみんなであり社會其のものであり得る

6.今後もしかと其の「全體主義」が継続する

 

6.に就いて

 

今後は「環境保全主義」だの「宇宙移住主義」などが加速され「全體主義」化することだらう。

但し「環境保全全體主義」は惡では無くむしろ善での「全體主義」となり得る可能性が高くある。

 

5.に就いて

 

より正確には「社會の価値観を妄信するみんな」こそがむしろ破壊の履行者なのである。

 

4.に就いて

 

例えば「政治」や「行政」に於ける惡事もなかなか責任が問えぬのはまさに其れが「組織」的な犯行であるからなのだ。

 

そんな訳であくまで自分の場合には其の「全體主義」への警戒感が特に強くある。

「全體主義」とは社會科に特有の概念であり言わば「社會が仕出かす犯罪」のことである。

 

常に自分が「社會が惡い」と言い憚らぬのは其の「全體主義」のメカニズムを個人的に解読してみた其の結果なのである。

ー其の部分はハンナ・アーレント氏と藤井 聡先生の「全體主義論」を大いに参考にさせて頂きましたー

 

(2ページ目)世界の富を独占する「上位0.1%の超金持ち」は“善良”なのか? 哲学者・斎藤幸平が考える、資本主義の限界の克服法 | 文春オンライン (bunshun.jp)

 

さてこちらでブレグマン氏は「個としての人間はたとえ善良であれ権力は腐敗する」とさう述べられて居る。

まさに其の部分こそが上でのわたくしの「全體主義論」とも被って來る部分です。

 

其れは「社會関係に於いて人間は守るべきことがより大きくなる」などともまた言えさうなことである。

さう「守るべきことがより大きくなる」からこそ其の半面「破壊」の様もより大きくなるのです。

 

従ってあくまで理屈の上では「守るべきことをより小さくする」ことこそが「破壊」の様を最小限とする秘訣なのでせう。

ところが現存在による認識には矛盾が組み込まれて居てむしろ「守るべきことがより大きくなる」からこそ余計に頑張る訳です。

 

でも其れは理屈的つまりは哲學的にはあくまで「間違い」です。

「間違い」ですが、所詮我我は毛の無い🐵のやうなものですので「守るべきことをより小さくする」とやる気が無くなり「守るべきことがより大きくなる」ともうビンビンに反応しやり切っちゃう訳だ。ーたとえ間違って居てもさうやり切っちゃう=全體主義の基本構造ー

 

そんな訳で最近わたくしの興味の分野はそんな現存在が元來抱えるであらう心理上の癖の部分へと移って來て居る訳です。=心理学としての分野の方へと