目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

要らんものは要らんとさう考えるZ世代やミレニアム世代の思想上の凄みに就いて

要らんものは要らんとさう考えるZ世代やミレニアム世代の思想上の凄みに就いて

 

 

 

 

自閉症の息子との日々生き生きと、五行歌で取り戻す“私” 「他の誰/のために書く/というのだ/わたしの/ものがたりである」 (msn.com)

 

さて其の「私の物語」は此の宇宙に唯壱のもので其の事實としての重みを誰も奪い取ることが出来ない。

まずは其の部分に世間のほとんどの人人は気付いて居ない。

 

其れはそんな御粗末な認識ー自立性、自律性を奪われた所謂不自由な認識の世界ーを押し付けられて居るからだ。

そんな御粗末な認識ではどんなに頑張ってもせいぜい「地球を破壊」すること位しか出来ない。

 

故に藝術や學問、其れに宗教の分野がまさに其の「破壊」と対峙せんが為に此の世に生ずる。

尚「私の物語」は「國家の物語」や「文明の物語」よりも下だと勝手にさう妄想して仕舞って居る人の割合が多いことかと思われるが其れはズバリ間違いである。

 

其れも厳密には逆に「國家の物語」や「文明の物語」の方が下である。

何故なら其れはより抽象度が高くあり事の具象性を酷く圧迫する話だからなのだ。

 

そんなもんはむしろ「要らん」とさう思って置く方がまずは正しい認識のあり方なのだ。

逆に申せば我我現存在はそんな「要らん」ものばかりを後生大事にし生きて行かざるを得ぬ情け無い現象である。

 

そんな「要らん」ものばかりを後生大事にし生きて行かざるを得ぬ情け無い現象であるからこそ地球は壊れるわまた戦争は起こるわ、さらにコロナにも罹りみんなの多くが死ぬんだよ。

 

 

ーしかしコロナ禍を経て、「仕事=人生ではない、自分の人間としての価値は生産性で測れない」と主張する脱「ハッスルカルチャー」が徐々に進んでいる。資本主義に毒され、人間を労働力としてしか見ない社会に抵抗する、という意志もその行動に含まれる。

仕事を必要以上に頑張らない、という考え方は以前から当然存在していたもので、Z世代やミレニアル世代特有のものではないかもしれない。しかしそれに“Quiet quitting” という名前がついたために、よりこうした風潮について議論される可能性が広まったし、コロナ期間中はリモートワークの普及を経て「人生の時間で何が重要か」を考え直す機会も増えた

「大切にされない職場で一生懸命働いても意味がない」「命と趣味を削って頑張ってもどうせ昇給しない」と諦めた若者たちは、仕事以外の別のところで人生の豊かさを求めている。また格差社会が悪化するばかりのアメリカにおいて、搾取されていることに気づいた労働者たちの抵抗でもある。ーアメリカの若者がいま「働かないこと」「大規模な退職」「静かなる退却」の道を選んでいる“本質的な理由” (msn.com)より

 

さて其の「搾取」こそが資本主義経済體制が抱える最大の問題である。

ところが其の「搾取」を放置して置きながら現代社會は「自由だ人権だみんなが仲間だ」などとまるで正反対のことをスローガンとして叫ぶ。

 

まずは其処に社會としての矛盾律が大きく存する。

そも其の「人間が大事」なのか其れとも「人間は自然と同じで搾取の対象」であるのかと云うことに就き是非ハッキリして頂きたい。

 

また「高等な人間」と「下等な人間」の区別に就き世間では「仕事を頑張り金を持ってるか否か」との基準にて概ね判断するやうであるが自分の判断に限り其れとは正反對である。

 

即ち「仕事を頑張り金を持ってる奴」程ズバリバカかまたはアホなのであり自分のやうに「仕事やらず金無くまた👪主義にも縁の無い自称のゲージツ家」程偉い奴は居ない訳だ。

 

尚社會に對する抵抗はかっての全共闘みたいなものばかりでは無くまさに其のZ世代やミレニアム世代による「無気力主義」のやうなものでもむしろ充分に批判として機能するものであるのやもしれない。

 

要するに「社會、お前なんぞはまるで認めて居ない」との逆に物凄い批判であるやうな気もするのである。

だからZ世代やミレニアム世代がダメなのでは無くむしろ物凄く良い可能性すらもが高まって來た。

 

 

ーこうした本質的な疑問を突き詰めていった結果、人生の大半を一つの職に捧げることの理不尽さに気づいてしまうのだ。上の世代が少なくとも昇給や年金、健康保険や安定した雇用が見込めたのに対して、Z世代はその期待を持ちづらい。

さらに雇用主は従業員に時間や資源を投資しなくなっており、格差は大きくなる一方だ。これは学歴インフレや大学のビジネス化によって、学歴を得るために、少なくない人々が一生借金を背負わなければならないというアメリカならではの状況の影響も大きい。いくら働いても借金の返済のせいで貯金は増えず、クレジットスコアに振り回される一方であるZ世代は、「資本主義」というシステム自体を強く疑っているのだ。

そして、繰り返しになるが、Z世代の中で「仕事が人生の全てではない」という価値観が強まっている。ここまで見てきたような様々な理由によって、「短い人生の時間をどう楽しめばいいのか、そして社会により良い変化を及ぼすにはどう行動すればいいのか」を考えざるを得ない状況に置かれているのだ。

より良い社会を目指すためにも、人種差別や性差別、そしてさらには悪質な資本主義の加速化や様々な搾取を行ってきているシリコンバレーウォール街に「万歳」と唱えた大人たちの安直な拝金主義には、手放しで賛同しにくい雰囲気になっているのだ。ーアメリカの若者がいま「働かないこと」「大規模な退職」「静かなる退却」の道を選んでいる“本質的な理由” (msn.com)より

 

實は社會に於いて壱番大事なのが其の「本質面」での課題であり問題である。

ところが近代以降の合理化文明社會はずっと其の「本質面」での課題であり問題からは目を背けつつ歩んで來て居る。

 

故にコロナ禍にせよ環境汚染による生態系の破壊の問題にせよさらに地球温暖化の究極的問題にせよ其の全部からあえて目を逸らした上で「今だけ金だけ自分だけ」でもってして近現代の文明は突き進んで來た。

 

また其れはまたかうも言える。

「今だけ家だけ👪だけ」

 

自分は其の👪主義を批判するまさに珍しい文人ですが其の理由とは👪主義こそが所謂「人間中心主義」を何処までをも推し進めるものだからなのだ。

故に搾取體制が惡いばかりなのでは無く👪主義者もまた同様に惡いのだ。

 

 

ーしかしその多様性の中でも、一貫して「もっと生きやすい世界になってほしい」という思いが強く存在しているように、私には感じられる。自分が生きやすい世界にしたいという気持ちは、今の社会が生きづらいことの裏返しであるとも捉えられる。

Z世代は、自分で簡単にコントロールできる「身の回りのこと」だけに集中しよう、という「丁寧な暮らし」や「自分のことだけをする」といった試みによって「個人の力で気分良く過ごす」だけではない。

そこから目を転じて大きなシステムの枠組みにまで疑いを持ち、なぜ自分の生活が豊かにならないのか、前の世代のように恩恵を受けるのが難しいのか、なぜ自分が好きなように生きられないのか、苦労をしなければならないのかを繰り返し問うてきた。だからこそ、その理由をZ世代は若い頃からどこかで悟っている。誰かが大いに得をし、誰かが搾取される格差社会が悪化しており、根幹に後期資本主義の問題があるということを。

「大人に任せておけばいい」という時代は、もうすでに終わっている。自分たちの手で、「昔からそうだったから変わらない」という前提ごと覆してしまう。どんどん「変化の前例」を作っていくことで、自分たちの手で腐った社会を少しずつ変えられることを証明している。我慢していても誰の得にもならない、という「絶望」と「希望」を抱えながら、「生きているという手応え」を感じるために、彼らは行動しているのだ。ー

アメリカの若者がいま「働かないこと」「大規模な退職」「静かなる退却」の道を選んでいる“本質的な理由” (msn.com)より

 

其のZ世代に限らず自分も全く同じことを言って居るが其れは自分が本質的に爺では無くむしろ小学生だからなのだ。

元元其の小学生には妻も子も無く家も何も無い。

 

また地球が危ないとさう言われたにせよ自分が何せちっこいのでそんなデカいもんまでまさか見られやせぬ。

さらに余計な學の部分もまだ無い。

 

まあ其れでもわたくしには確かに其れが有らうが其れを意図的に切りまた壱小学生に戻らうとして居るのである。

でもって還暦世代は確かにかって恵まれて居た部分はあったことかと思うが逆に言えば其れは社會の価値観に洗脳され夢を見させられて來たのだともまた言えやう。

 

だから今子や孫を持つ還暦世代の多くは兎に角「子や孫の将來が心配」であることだらう。

だけれども自分に限りソコがまるで心配ではありません。

 

何せ子や孫が何処にも居ないのです。

ですからすぐに小学生に戻れる訳です。

 

結局「腐った社會は変えやうが無いので放棄せよ」との命題がどうもZ世代やミレニアム世代には突き付けられて居るやうな気がしてならない。

 

 

養老孟司さん(85歳)が考える「わかる」ことの本質…スマホよりカラスを眺めたほうがいい「意外な理由」 (msn.com)

 

まず其の「分かる」と云うこと其のものが分離でありつまりは錯覚です。

「分かる」とはあくまで概念的にさう分別されることですので言わば「脳による認識」であり其れも御釈迦様風に言えば虚妄分別による認識であり即ち相対的分別のことである。

 

よって其の脳が「分かる」と云うこと其のものを積み重ね文明を形作ると「脳内世界」の価値観で充満して仕舞い要するに所謂「価値的な尺度」でしか物事を見られなくなる。

其れはそも内部世界でのみ価値観を築くとのことですので本質的にはソコから「他」が排除されて仕舞います。

 

其の他とは所謂大脳旧皮質としての「自然としての本能」領域のことなのでせう。

でもって「脳内世界」の価値観を例えば偏差値70以上に上げたにせよ其れはあくまで「内部世界での理解力」を上げただけの話にて本質的にものが分かった状態へはまさか至ることなどは出來ない。

 

そんな壱種癖のある認識をする現存在が他を理解しまさに全體論的に世界の實相を把握せんが為には「直感力」を磨く方面即ち所謂「般若智」を得るやうな形で其の認識を再構成して行く必要がまず何よりもある。

其れも最終的には「直感力」→「直観」へと認識其のものを持ち上げて行くべきです。

 

「直感力」→「直観」へと認識其のものを持ち上げて行くことは都市文明の中に埋没して居て成るやうなことでは無くむしろ自分から其の接続を切断し山奥の禅寺にて修行したりまた自らに千日回峰行を課し毎日山の中を駆け回りませんと實は何時迄経っても何も変わりはしません。

 

また山の中で滝に打たれることなどもまた良いことです。

自分は参拾代の頃に加子母村と云うところで其の滝行をする機會があり其れ壱回きりでしたが其処に物凄く良い體験を積みましたものです。

 

要するに此の文明世界は必ずしも良いものではありませんのです。

まずは其のことを自分から気付きませんと文明の価値観による「洗脳」を解くことなどはまず望み薄です。

 

 

良い⇔惡い

おそらく還暦世代以上の八割方の人が文明を「良い」ものだとさう考えて居りませうが其処をゲージツ家や學者の方方に限り「惡い」とさう見て居ります。

 

また自分も文明は「惡い」とさう見て居ります。

でもって其の「惡い」文明を批判するのが自分の仕事であるとさう思っても居る訳です。

 

さて養老先生の哲學的な談義の内容は自分に取っても常に難解です。

ではあれかの岡本 太郎氏ではないのだが養老先生は概ね文明の価値観とは逆のことを述べて居られることと思う。

 

1.大脳新皮質の働きの本質とは「同質的価値」の構築であり「変化しない」ことである

2.對する大脳旧皮質の働きの本質とは「差異的価値」の構築であり「変化する」ことである

 

其の2.での大脳旧皮質の働きとは即「自然界の認識」であり「動植物による認識」のことなのでせう。

要するに臨機応変に其の都度変化しまさに流れて行くやうな認識のことですので其れはまさに多様であり多義的な認識のことです。

 

對する1.での大脳新皮質の働きとは即「文明世界による認識」であり「ホモ・サピエンスによる認識」のことなのでせう。

要するに何時までも「今のココ」にだけしがみつきつまりは「未來はもっと良くなる」との壱種の全體主義としての進歩史観のことです。

 

また其れはあくまで「全體主義」ですので多様もクソも無くまた多義性もクソも無く兎に角其れダケです。

つまりはナチス政権やかっての日本のファッショ政権の如きものです。

 

なので所謂「高度経済成長」なるものもまた其の「全體主義」體制としての日本社會の歩みでした。

まあさう日本社會全體がかって洗脳されて居た訳です。

 

 

ではそも何故現存在は1.の方の価値ばかりに拘るのか?

其れを壱言で申せば其れは「社會」のせいです。

 

イザさうして「社會」が「全體主義」化し其の価値観を個に押し付けて行けばみんなはさうして「洗脳」され同じことだけをして行かざるを得ません。

 

でも其れには明らかに疑問が…。

おい、お前だけそんなインテリ振ってもしや違うことをやるんかい?

 

いえやりません。

さうだよなあ、おお良い子だ良い子だ。

 

「赤信号、みんなで渡れば怖く無い」

 

うわあー、僕はもうこんな素晴らしい文明世界に生まれどんだけ幸せなことだらう。

ありがたう、現代文明、嗚呼こんな輝かしい此の文明の未來に乾杯!

 

今本心とはまるで違うことを言ったな。

言ってません、まさに本気でさう思いましたのです。

 

とさう述べつつ「こんなクソ文明、早う潰れろ!!」とさう思って居るZ世代とミレニアム世代のしたたかさには今回舌を巻きましたものです。

 

 

さて前の話に戻れば壱つには「資本主義社會」としての限界がすでに突き付けられて居るものと考えられしかも其のことがむしろ加速され行われて來ても居る。

即ち「資本の論理」による暴走こそが閉塞した世相の大元に居座ることでせう。

 

其れでも猶我我自由主義全體主義陣営はまさに其の事の本質部を見ないやうにしつつ「朗らか」に日日を歩んで行かねばなりません。

其れはまるで新興宗教系の人人が教祖の言うことを其の侭に妄信し日日を突き進むやうなもので其れがある意味では気持ちが惡い様なのだが其のこと自體をどうかうすることなどはもはや誰にも出來ません。

 

しかしながら左様に「朗らか」にこんな「惡い」文明を生き抜くことこそが其のZ世代やミレニアム世代に對し突き付けられた課題であるのやもしれません。

またかっては還暦世代の親の世代が左様に「朗らか」に「惡い」戦争の時代を生き抜きましたのです。

 

ところが彼等はさうして厳しく生き抜いた分だけ我我還暦世代よりも生命力が強いのだと言える。

また逆にZ世代やミレニアム世代にせよ此の後期資本主義としての「惡い」搾取の時代を厳しく生き抜いて居ることでせう。

 

だからむしろ我我還暦世代よりは其処に鍛えられても居ることでせう。

そんな惡い社會での滝行に挑みさうして最終的には其れを放棄するに至る。

 

さて次第に個人的には其の放棄こそが「認識上の革命」のやうにも思えて來た。

まさに其の「認識上の革命」をやり遂げれば或は社會が変わらざるを得ないのではなからうか。

 

 

尚其の「変わらない文明社會」の根本での部分には明らかに抽象的思考を得意とする「大脳新皮質」による分別的価値に於ける壱方向性のことがまさに関わって居ることでせう。

即ち「進歩させたところでの文明の諸価値」はいつも同じであり且つ「自然」よりも常に上位にあります。

 

要するに其のやうに誤った価値ヒエラルキーをしかと其処に築いて仕舞って居る。

ところが實際には文明の価値はたとえ遮断するにせよ何とかなるものがまたほとんどです。

 

其れもこと人間の生命と云う本質的な価値に對し其れはむしろ要らんものが多いと云う事をまさに其れは指し示して居るこだらう。

ー何時迄経っても「資本の論理」がさうして追求して止まぬ巨大な利益や利便性はすでにほぼ要らんものでありむしろ其の部分が明らかに地球を壊して來たのだと言えるー

 

其の要らんものは要らんとさう考え「此の社會のバカ野郎!」とさう言って御座るZ世代やミレニアム世代の考え方に對し今わたくしは深い共感を覚える。

また其れはわたくしが本質的にはそんな還暦世代の者では無く今まさに「小学生」へと戻って居るからなのである。