映画『ANIARA アニアーラ』を視聴し思うことー全ての生命に取って「永遠なる癒し」の母胎である自然ー
光合成には役立たず? 葉が緑色をしているわけ (msn.com)
かうして科学的に自然を見詰める目を持つこともまた大いに有意義なこととなる。
「学生時代と今では、どちらが幸せか」残念な思い出も"昔はよかった"と美化してしまう人の深層心理 (msn.com)
「心理学」上はまさに其の通りのことなのだらうが以前自分は「心理学」其れ自體を批判したことがある。
「心理学」は「社會がまともであり君の頭の中がオカシイ」とさう決め付けるのだがどうも其れは變だ。
對して「宗教」や「文學」などは必ずしもさうでは無い。
つまり其の壱種「非科学的」な認識領域の中にこそ「壱面での眞理」が宿る訳だ。
ー日本人は全体的に、自分たちの感情の持ち方について、自己認識を誤っているのではないでしょうか。ー
社会的地位や学歴はまったく関係ない…精神科医が「本当にバカだ」と思う人の特徴【2022編集部セレクション】 (msn.com)より
精神科医でも此の方の言説などはもうほんたうに面白くてしかも為になる。
1.前頭葉の老化
2.成功體験への固執
3.脳の全體主義化
さて自分は所謂「自立的で且つ自律型の思考」をするタイプの人間であり其れ故に「社會的に齎される闇」の部分をもまた同時に生きて行かざるを得ない。
まあ其れが「アタマの良い」人間に取っての宿命であり「ビョーキ」である。
だからまず1.がなかなか起こらない。
むしろ還暦以降は物凄く頭が活発に動いておる。
また2.などは無い。
其れも飯を食わんが為に長いこと下らん仕事ばかりをやって來たので別に「成功」などはしておらん。
「成功」して居るのはむしろかうして「頭の中身」の方だがいずれにせよ其れもまた「茨の道」であることだけは間違い無い事實であらう。
また3.は自分の場合起こりやうが無い。
だって兎に角「全體主義」からは「逃げる」ことにして居るので。
其れと其の「アンガーマネージメント」に就いてですが、此処日本では怒りは全てが「タブー」化されて居てまずは其れがオカシイ。
だから例えば政治の都合で「派遣社員」化され其れ即ち「生存権」を脅かされるに至ればむしろ「怒り狂って」当然なのだ。
でも日本人は何処までも「お上は偉い」とさう信じて御座るが故に「どうもありがたう、派遣化して下さりむしろ嬉しい。」などともまた感じて御座る。
コノアホンダラ!
其れも何時迄さうして破壊政権に對し尻尾を振り続けて居るのだ?
故に此処日本では「社會制度」は何時迄経っても變わらずつまりは「革命」が無い。
だが今むしろ必要なのは「革命」に必要なだけの「強い怒り」の方だらう。
マイケル・J・フォックス、死が「ドアを叩いている」 (msn.com)
まあ實は寿命は其の60が限界である。
其れを80に迄押し上げて居るのは現代文明による「まやかしの力」である。
つまりは其れが「魔術」でありウソのイノチのことである。
だから其の「ウソのイノチ」をこそ我我還暦以降の人間は生きて居らざるを得ぬ。
なので還暦以降人は何時死んでもオカシクは無いのである。
尤も僕はあと五年程をまだ生きて居たい。
さて文明のことを考えるにどうも其れ自體が「全體主義」化して居るやうだ。
さうだ自分には其の「全體主義」への感度が異様に高くある。
嗚呼そんな變なものに高く感度が設定されて居るぞ!
文明は結局其の「👪主義」としての「全體主義」に圧殺されやう。
特に「NHKオンデマンド」にて「混迷の世紀」などを視て居ると其の文明が「お先眞っ暗」なのがよーく分かる。
特に戦争の勃発などで「石炭による火力発電」が今最盛期を迎えて居りつまりはドンドン惡い瓦斯を地球上に溜め込んで居る。
此れはもうとてもではないが2100年迄文明は持たぬ。
サア困ったぞ、さてもどうする文明?
だがな、今ならまだ「我関せず」で生きて行かれやう。
其れを尻目に素知らぬ顔にてかうして「今」を樂しく過ごせる。
嗚呼また庭でもって黄苺が澤山採れた。
其れを食すとまさに「自然の味」がする。
此の「黄苺」もまた拾年後には絶滅して居る可能性が高くある。
何故なら家がデカいので半分位土地を売りたいのだ。
すると「庭」もまた「黄苺」もほぼ絶滅することとなる。
左様に「現象」とは常に「諸行非常」のものとなる。
「現象」には「神」や「佛」の永続性を其処に担保出來ぬ「不完全」なところがどうしてもある。
「現象」とはズバリそんな「不完全」な認識のことなのだ。
昨日はかかりつけの医者へ行き「暖かくなり黄苺が採れる」とついはしゃいで仕舞った。
其れも新緑の季節となり體調の方が上がって來たのであらう。
兎に角最高の新緑の季節だ。
其の「最高の新緑の季節」しか實は動く時が無い。
文明はでもそんな「最高の新緑の季節」とは無関係にヤバいことばかりをやってくばかりでのことだ。
此の馬鹿文明めが、さうだ其れを是非無視し山崎川をサイクリングしに行かう。
其処にてまずは新緑の香りがする。
其れは濃い「フィトンチッド」の香りである。
其れは植物型生命による「呼吸」の結果によるものである。
植物型生命はさうして此の時期になるとのべつまくなしに其の緑としての體積を増すつまりは増殖する。
だが植物型生命の其の増殖を嫌がる者などは何処にも居らぬ。
むしろ誰もが其の「緑の桃源郷」の様には酔い痴れて居やう。
ところが「文明」に取って其の様はさう大したものではないのやもしれぬ。
嗚呼だから「文明」は2100年迄持たぬのか。
何やら🌸もまた所所に咲いて居る。
さても🌸は👩か👩は🌸か?
いやだが其の👩の生臭い認識と🌸を同壱視などして居ては如何にも危険だ。
ところで何故「昔は良かった」のか?
其れは結局「文明が惡い」のだ。
「文明が惡い」から「昔は良かった」とさうならざるを得ない。
さうか、では文明を止めると「今」が良くなるのですか?
まず間違い無く良くなりませう。
でも其れが止められない、止まらない。
今度はうわあー、こんなお花畑だー。
其処に様様なハーブが植えられて居る。
しかも市が管理する小さな御花畑でハーブの匂いを嗅ぎ放題なのだ。
あああー、あんな大木が壱斉に芽吹き何て美しいのだ!
其の大木の列だけが林から残され其れ以外は全て伐られて仕舞った。
左様に現代文明による罪と罰とはまさに其の「自然」への感度を失うところにこそ生じる。
壱昨日此の『ANIARA アニアーラ』なる映画を字幕版と吹替え版の両方で視聴してみた。
其の感想から言えば此の映画は「明確な文明批判」としての其れも「自然」と云う価値其れ自體に就き表現する作品である。
故に「自然」が好きな方にはまさに納得しつつ観られる映画となって居る。
ースウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの作品を原案としたSF映画。気候変動により地球が荒廃した未来、軌道を外れた宇宙船の中で、生きる希望を失っていく人々の姿が静かに描き出されている。
宇宙を舞台としているが、セットはどこかのホールやホテルのような屋内での出来事が中心だ。明らかに低予算なのに、壮大な宇宙や無を感じることができる。終盤にかけてはさらに絶望感が重くのしかかり、見終わった後には言葉を失うほどの虚無を感じた。(MIHOシネマ編集部)ー映画『ANIARA アニアーラ』のネタバレあらすじ結末と感想 | MIHOシネマ (mihocinema.com)より
4.明らかに「意識が高くある系での映画」である。
5.原作が何せ「自然に對する意識が兎に角高くある」スウェーデン人の其れもノーベル賞作家の作でありだから其の内容は無論のこととても意識が高くもなって居る。
6.さうして「自然に對する信仰」と「文明に對する絶望感」が鮮やかに対比される作品となって居る。
7.自称の詩人の意識の高さは元元此れ位のところを常に漂って居る。
だから其の内容に對し別にさう驚いても居ない。
其れも此の位の何かを書けと言われれば金ー壱千万円ーさえ呉れるのであればもうすぐにでも書きませう。
尚意識が高い系の人で田舎の古民家暮らしなどを好んでして其れも良い物だけに囲まれてどうたらかうたらする人人も居られますがどうも最近はさう云うのに懐疑的です。
勿論自分もまた其れを出來たらやりたい訳ですが自分がほんたうにやりたいのはむしろ詩人高村 光太郎のやうな独居生活です。
つまるところ其の「意識が高いわやう系」での「意識が高いわヒエラルキー」を出來れば粉砕したい訳だ。
また奥山の独居生活にはそんな作家物の食器だのラムプだの御大層な物は必要では無くむしろ拾って來し碗であるとかまたボロ着であるとか其れからムシロであるとかそんなものこそが必要とされる筈だ。
だから「意識が高いわやう系」でもって群れをなしつまりは其処に社會を創り上げ自分等だけが「意識が高いわやう系」なのではそんなもんはほんたうの意味での「意識が高いわやう系」の人ではありません。
ほんたうの意味での「意識が高いわやう系」の人は其れ即ち「デタッチメント」をあえてして行く人のことなのだ。
そんな「デタッチメント」を履行し得た時にこそおおまさに其の人は眞の意味で「意識が高いわやう系」の人となるのである。
尚映画の中での「ミーマホール」なるAIが創り上げる疑似空間に出て來るのは實は「自然」の様だけです。
即ちまるで大金持ちのやうに豪華な食や美女や壱流品に囲まれた暮らしなどが其処に出て來るのでは無くあくまで「川のせせらぎ」や「樹木の繁茂する様」にまた「小さな蜻蛉だの」が其処を飛び交う様なのだ。
また其のことは此の映画の内容が事實化するにせよ確かにさうなることでせう。
つまるところ現存在に取っての本質的価値とは其の「自然現象」以外にはあり得ないことなのだから。
逆に申せば現存在に取っての社會的価値の方にはむしろ目壱杯に「バイアス」がかかり続けて居る。
まさに其れが「社會的バイアス」であるところでの「全體主義的進歩価値」のことだ。
其の「漂流する宇宙船内」と云う究極的な環境下で現存在が望むものとは豪華な食や美女や壱流品に囲まれた暮らしなどでは無くそんな「川のせせらぎ」や「樹木の繁茂する様」やまた「小さな蜻蛉だの」が其処を飛び交う様の方なのだ。
だが社會にはまた必ずや馬鹿が多くなるので「価値観の倒錯」が益益酷くなり齎される。
其の馬鹿共がまた社會的には潔癖では無いので兎に角益益「価値観の倒錯」が酷くなりむしろドンドン地球を破壊するに至らしめる。
じゃあもしや社會的には全部がバカなので?
まあ其の可能性は高いことでせうね。
だから此の映画は何せ凄く「絶望的」なんです。
其れと対極にあるのがハリウッド制の「ヒーローもの」としてのSF映画でせう。
まあ其れも文明としては元元ネジが外れた米國の価値観が生むおバカキャラの羅列のことなのですが。
でもホレ、以前には其れも大きく評価された作品で「2001年宇宙の旅」だとかさうした英國流での哲學的内容を持つSF映画などもまたあった訳です。
またつまりは其れが「理性による屈折」のことです。
其の「理性による屈折」が存するか否かで例えば映画であれ文學であれまた繪画であれ音樂であれ其の出來の「高低としての優劣」が生ずる訳だ。
するとつまりは其の藝術作品の「優劣」つまり「良し悪し」とは「屈折して居るか否か」と云う部分にこそあるんです。
其の意味でまさに此の『ANIARA アニアーラ』なる作品は良く出來た映画です。
また「極限状況」に置かれた人間は果たして何を求め得るのかと云う問いの部分にも此の映画はしかと回答を与えて居る。
例えば主人公の友の👩が船内で子を産みますが宇宙船が彷徨える棺桶でしか無いことを知る彼女は6歳になった子を殺し自らもまた命を絶ちます。
では何故そんなことになるのかと言えばまさに其れが「文明の棺桶」でしか無いからです。
つまりは子もまた自分自身も「自然による恵み」を甘受し得るどんな機會も奪われて居るのですから。
おそらく此の映画はまた原作は其のことをこそ世に伝えたかったのではないか。
其の人為として拵える価値の何と浅はかでしかも頼りないことか。
いや其ればかりか其れー文明ーは壱歩間違えば其の種の「地獄」しか此の世に生み出せぬ訳だ。
其れも上手いことばかりを言い「経済成長」だの「文明國」だのとさう威張り続けて來たのです。
だからもう万博だあー、どうだ、人類の進歩と調和だあー。
アホンダラ、そんなまるで屁のやうなスローガンをコクな、其れもよりによりそんな臭い屁を。
あああー馬鹿万博がまた其のアホンダラの大坂万博がまた來ます~~~。
勝手にしさらせ!
其れもいっぺんシバイたろか、ワレ?
どうも其の「棺桶」と化した宇宙船こそが現代文明の象徴其のものであるやうに思えてならない。
さうだ現代文明のやりたいこととは其の地球其れ自體の「棺桶」化なので無くて何であらう?
全くのところバカ文明めが。
なあにが人類の進歩と破壊だー?
ー本作は現代における信仰を見つめた作品だ。未来が見えず「今」を直視するしかない状況で、その過酷さに耐えられない人が出てくる。人々は現実逃避の存在を神として崇めるようになる。それは夢を見させてくれるAIかもしれない。またカルト教団かもしれない。この泥舟で起こる物語は、信仰の対象が断ち切られた時の人間心理を描くことで「神」の本質を突いている。これはある種プラトンのイデアの理論に近いものがある。我々の住む世界は本当ではないと思い、イデア(=理想)の天界を渇望する。宗教は人々に希望の道を指し示す存在であることが説得力もって本作で描かれるのだ。ー
『ANIARA アニアーラ』泥舟から神を渇望し見捨てられチェ・ブンブンのティーマ (france-chebunbun.com)より
こちらではまた壱種鋭い批評が展開されて居る。
そんな風に現代文明はまさに「今」しか無い状況に陥って居るのだと言えやう。
だが本來ならば「過去」と「未來」を同時に見詰める精神的な余裕を持つのが人間と云うものだ。
ところが社會のあり方其のものが狂って仕舞って居るので其れを見詰める余裕がもはや誰も持てない。
だから社會のあり方ー価値観ーから意図的に個として離れる必要があらう。
また其のことは現實逃避では無く言わば個として行い得る緊急避難のことなのだ。
さうだ過剰防衛なのでも無くあくまでそんな「緊急避難」のことである。
また確かに此の作品には「宗教」的な価値が投影されて居る。
だが其の宇宙船内での「宗教」には實は「救い」が無い。
何故なら「ミーマホール」と云う人工的な自然空間ダケが次第に神格化されて行くからなのだ。
なのだが其れはあくまで「神」が齎す恵みとしての空間には非ず。
ところで「神」が齎す恵みとしての空間とは果たして何のことか?
其れは火星移住やAI開発なのか其れとも大谷君や藤井君の如きスーパースターのことなのか?
いえいえ其れは違いませう。
「神の恵み」か又は「佛の功徳」とは左様なものでは御座らずたった今此の新緑の苑に咲く壱輪の雑草のことです。
つまり其れはそんな「デカいパワーの発現」なのでは無く「ちっこい奇跡」のことなのだ。
正しい認識とはむしろそちら側を常に見詰めて行くと云うことなのだ。
ー今やコロナ禍、世界は激しいインフレに苦しんでいる。地球を巨大な宇宙船と見立てたら、まさにアニアーラ号と同じ状況である。ぬるっと閉塞感を引きずって1年、2年、5年と経過しようとし、絶望に耐えられない人は発狂したり、カルトにハマったりするのである。
本作が生々しいのは、経済的政治的側面にも言及していることである。アニアーラ号が絶体絶命な状況に陥った時にトップ層が会議をする。不味い藻を供給する必要があると結論づけられる。実際には、ポイント制が導入され、高いポイントと引き換えに人材を確保しようとする。また、絶望的状態を乗客に伝えると不利だと考えたトップ層は、絶対に2年で復旧できないことは分かっていながらも、希望を持って伝える。このハリボテの希望にグロテスクな手触りを抱いた。ー『ANIARA アニアーラ』泥舟から神を渇望し見捨てられチェ・ブンブンのティーマ (france-chebunbun.com)より
現實がどうであれ、文明の支配層は常に「希望」を語り「大丈夫」なことを我我個に對し伝えやうとする。
また宗教ー正統的な意味でのーですら「信仰」さえ保って居れば其れでもって何とかなるとさう言わんばかりである。
確かに「絶望的状況」と事實としての「絶體絶命」なのとはまた違う。
故に我我の生活に「絶望」する必要はむしろ無いが「絶體絶命」なのを知る必要は個人的に大事なことなのではないかと思う。
但し「絶望」する必要が無いのは自立的且つ自律的に社會の価値観を離れる場合に限られて居ることだらう。
逆に申せばまんま社會の価値観を奉ずる侭で田舎暮らしをしやうが無人島へ移り住もうが其れは場を變え其の文明をやることに他ならない。
所謂「意識、見識が高くある」と云うことはまさに其のことを見切って居るとのことではないか。
であればこそ彼はまた彼女は文明が提供する価値により踊り狂わされる機會を持ちはしない。
いま壱つ其の「意識、見識が高くある」映像作品を併せて此処に紹介させて頂く。
此の作品は半年程前に視たものだったが其の後所在が不明となり其れに就き述べられなかったものである。
尤も内容的には再視聴して居らず今は語ることが出來ない。
だが此のやうに特に「藝術」の分野からはつまるところ「意識、見識が高くある」何かが世に遺されて居る可能性が高くあるものと見て置くべきである。
つまりは「其れ」はすでに「有った」のであり「無かった」訳では無い。
ところが其の倒錯した社會の論理即ち「ゴタゴタでぐちゃぐちゃの世間での価値観」に我我個としての精神が惑わされかうした眞實としての認識の扉若しくは眞理への道なるものへ認識が其処に閉ざされて仕舞うのである。
またさう云うのが現代的な意味での所謂大衆的認識世界の惡循環ともなり得て居るのだ。
故に藝術家やまた宗教家、さらに「特に意識が高いわやう」系での庶民の方方はむしろ自分の方から此の難解で且つ奇妙な世界観の方にこそ飛び込んで行く必要があるのだ。
さうだもうスッカリ裸となり其れに飛び込もうではないか!
…でも妻が子が上司が隣近所が。
何だ、そんなもん。
そんなもんが此の危機的な状況にある地球を救うのか?
其の妻や子や上司や隣近所が地球を助け人類を破滅の淵から救って下さるとでも申されますのか?
いいえまさか其れは出來ませんが少なくとも其の「體裁」ダケは整えて置きませんと…。
だから君の其の「正常性バイアス」に刺し貫かれた論理こそが地球の未來を根こそぎ奪うのだ。
つまりは其の妻や子や上司や隣近所こそが宇宙船地球号を破滅へと至らしめる元凶なのさ。
尚連休の場合はプライム・ヴィデオやDVDにてSF映画の鑑賞などをするのが實は御勧めです。
連休の場合は學問をしてはならずさうかと云ってエロを研究することなどは避けるとすると後はもうSF映画の鑑賞位しか出來はしない。
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Amazon.co.jp: ガタカ (字幕版)を観る | Prime Video
此の辺りでの作品がさても自分は好きだ。
さて最終的に本日個人的に語りたいことは此の世が壱種ディープな世界であると云うことです。
ディープな世界即ち「ヒエラルキー価値」を有する世界でありまさにピンからキリまで物質的にまた精神的にさう構築されて居ります。
でもって自分の場合は其の「ヒエラルキー価値」に對し常に最高のもの、最高難度でのものを見詰めて参りましたのです。
特に藝術の分野や宗教の分野がまさに其のことを担って居る訳です。
故に其の地点より発見されることに就き出來れば述べて行きたい訳だ。
また其のことが自他に置ける「精神の地平」を切り開くことであって欲しい。
現存在とは結局認識する動物ですので其の現時点での認識の内容こそが其の価値観を形作る訳だ。
其の「現在」としての社會の価値観と藝術的認識や宗教的な認識との違いに就き述べてみたい訳です。
其れは今流行りでの「感情面での同調」だとか「文明への盲目的追従=洗脳」だとか云うことでは無い壱種尖った認識ともなることでせう。
本日こちらにて示した弐つの映像作品はまさに其の「尖った認識」を剝き出しにし示すものです。
尚先日掃除に來る参歳下のオバサンに庭で摘んだ黄苺を食べさせたら「美味しい」と云い喜んで食べて居りました。
其れでもって最終的には「参拾年前」の方が現代社會はまともであったと云う話にもまたなった。
ところが母は母でまた戦時中に「爆弾ー焼夷弾ー」が怖く其れが落ちて母の實家の参軒横の「永井 荷風」の親類の家が焼けた旨を話して居た。
其の「永井 荷風」はほぼ名古屋人で其の實家が鳴海の方にある金持ちの永井家です。
まあ其の戦争と環境破壊はどちらがより怖いかと云う問題ですが個人的には環境破壊の方がより怖いものだと思います。
何故なら今北朝鮮から核ミサイルが飛んで來て名古屋人が皆死んでも地球は生き残るが百年後に人類が生き残れる保証などは何処にも無いのです。
…うわあほぼ「絶望的」だな。
いや絶望的なのはそんな絶體絶命の地球では無くむしろ君の認識の方だ。
君の認識の方が惡いからこそこんな風に全てが壊れて行くのだ。
では認識を正したく僕は此の際是非さう思います。
さうか、では早速に此の弐つの映像作品を観て御覧。
視ましたがどうも今壱つピンと來ません。
其れは君にそも「自然への感度」が欠けて居るからなのだ。
君はもう以降「自然」だけを見詰め生きて行きなされ。
「自然」だけを見詰め生きてみたところ早速に獣や虫などが自分に寄ってたかりつまりは死體に涌くウジ虫や大発生したボウフラやデカい蜘蛛やらムカデばかりでもうロクなことにはならんのです。
だからまさに其こそが「自然」現象の本質部なのだ。
「自然」の本質部とはそんな美醜としての混交のことぞ。
つまりはキレイ事だけでは無く自然界は常に厳しいのだ。
でもまたそんなものこそが「自然」なのだ。
「自然」現象はさうして對立するが結果的に何をも壊すことが無い。
のみならず其れは全ての生命に取り「永遠なる癒し」としての母胎なのだ。