此の世は地獄か其れとも天國ー極樂ーか?ー逆に「非合理的」な進歩こそがむしろ文明には必要だー
【精神科医が教える】 “人生を楽しめない人”の共通点 (msn.com)
さう、嫌なことを嫌なこととして認識出來ることこそがむしろ「心の拡がり」のやうなものを生むか又は広い心を編み上げるのだと思う。
其れも現代人に取り嫌なこととはつまりは「非合理的」なこと=「論理的に納得されぬ」ことだ。
だが現存在はむしろ「非合理的」なこと=「論理的に納得されぬ」ことの方をあえて向く位で丁度「認識のバランス」が取れるものと化して來て居る。
其処では要するに「認識上の合理化」がむしろ物凄く進んで仕舞って居る訳です。
わたくしは其のことをまさに「洗脳」であるとさう述べて居るのである。
其の「洗脳状態」にて生涯を終えるとすれば結局「人生の拡がりや悦び」を味わうこと無く終わりがちとなる。
尤も「人生を樂しむ」ことだけが価値なのでは無く「人生と闘う」価値などもまた重要な壱つの価値としての側面であらう。
但し問題は都市化による極端な「合理化」が人間の精神を著しく「壱義化」することで即ち「狭い思考」の中に其れを閉じ込めまるでもって「無機化」して仕舞うことなのだらう。
そんな無機質な人間の生からは其れこそ根源的に生命に備わるであらう「生きる喜び」さえもが失われて行く。
まさにそんな状況とこそかってニーチェによる「ニヒリズム」と云う概念やまたキルケゴールなどに始まる「實存主義」の哲學の分野が闘った訳なのである。
其れでもって結果我我現代人に「生きる喜び」が取り戻せたかと云うにむしろ最近はそんな百年、百五拾年前よりもより文明世界は混迷を極め全くのところむしろ「ゴタゴタ」での状況である。
つまるところは「生きる喜び」どころか「地球さえもが危ない」状況へと至りつつある。
むしろ百年、百五拾年前ならば「此のバカ野郎、クソ社會めが!」とさう叫びつつ山や海へ逃げて行けばむしろ其処には樂園の如き美しい自然の様が拡がっておったものだらう。
だが今やそんな山や海へ逃げたにせよむしろ熱中症が危険でありだからおいそれとは自然へは逃げられず従って結局は部屋に冷房を効かせ人間の「生きる喜び」に就き考えること位しかもはや我我には出來ぬ。
いやだが其れは冷房費即ち電気代が跳ね上がるので其れでは図書館へでも行かうと思い事實行ったにせよ兎に角其処にはそんな人間がむしろ壱杯來て居てだから空気は惡いわ、さらにコロナなどもまた怖いわで。
じゃあどーしたら良いのだ?
我我現存在はたった今どうすべきなのだ?
矢張りと云うべきか「文明による洗脳」は是非解いて置くべきだらう。
またどうも「非合理的」なことへの親和性を是非増して行くべきである。
例えば我我還暦世代の🗾人はかって昭和の時代に其の「非合理的」なこともまた日常的に體験したものだった。
だから当時は都市部にせよいまだ舗装道路ばかりでは無くまた便所なども水洗化はされて居らずよって畑などには「肥溜め」などが大抵あったものだった。
また家庭から出るゴミは家の前にドラム缶を出して其処にて全部燃やすのである。
其の「非合理的」なことが「嫌」なので無論のこと其れを「合理化」し都市型のインフラが整備され以降は確かにより清潔にはなった。
だが自分が思い出すのは所謂「懐かしさ」と共にむしろ其の頃の「非合理的」だった此処瑞穂区の様ばかりなのだ。
『現代人は「非合理的」なことと「嫌」なことに決まって拒否反応を示す』
つまりは其処で所謂「認知的不協和」の状況が強く働くのではないか?
また要するに所謂「正常性バイアス」などにも強く捉われて居るのであらう。
わたくしが危惧するのはむしろ其の現代人の「合理化」され過ぎた頭の中身のことである。
何故ならむしろ頭の中身を「合理化」して行くことで「生の實感」や「生きる喜び」のやうな素朴なる感情や感覚のやうなものが損なわれて行くやうな気がするからなのだ。
ところが当の現代人の側には其れがまさか「洗脳過程」だなどは感じられはしない。
其れは当たり前のことだ、何故なら現代人は其の現代としての「文明社會」を信じて御座る。
だが自分はそも其れを信じて居ないので其れが「洗脳過程」にどうしても見える。
ま、其れもまたどちらが正しいかは所謂「歴史」が決めることであり今アナタ方が「詩人の考えは✖だ」とさう思うにせよ逆にみんなが✖になる可能性などもまた半分は其処にあるのだ。
さてそんな「逆認識」が得意な詩人は兎に角世の価値観とは正反對のことばかりを述べる「天邪鬼」と云う者です。
ですが案外自分以外にもまた世の価値観への違和感を感じて居られる方などが居られるものです。
この世が地獄である5つの理由 | キリンノックスのブログ (kirinnox.com)
例えば先日こちらなどを読んで居て此処はまさに「正直且つ眞面目な方」が書かれたものであるとさう思いましたのです。
ですがわたくし自身はたった今「此の世は地獄だが自分は其の地獄には居ない」などとさう自分勝手に思うことにして居ります。
此のブログでは所謂「人間が實存的に抱える悩み」とのまさに哲學的な意味での考証がかうして重ねられて行く。
まず其のこと自體がむしろ認識として「優れて」居ることでせう。
人間は食って寝てクソをして終わり、なのでは無くまさに「考える葦」なのですからつまりはさうして「精神的に實存」する者のことだ。
「精神的に實存」する者は「物質的に實存」する者ー主に動植物ーに比しより苦しい訳ですが苦しいのであればかうして「足掻く」べきだと自分などはまずさう思います。
でもって「まるで苦しく無い」と云う偽善者などがまた世界には多く居られやうが其れは逆に「屈折」して居る訳でですがそんな「屈折」ばかりでは無く時には「本心」を打ち明けても良いやうにも思うのです。ー所謂「罪の告白」のやうにー
さて此の方が此処にて述べられて居ることはほぼ正しいことかと自分には思われますが先に述べましたやうにわたくしの場合はたった今「両義的」な価値に生きることをこそ精神的に目指して居ります。
そも此の世が、
地獄⇔極樂
であるならば宗教的ー原始佛法や禅宗的にー人間の認識としての癖である「相対分別」を滅しまさに精神的に「解脱する」のはそも人間には無理と云うものです。
地獄⇔極樂
であるならばむしろ此の両方ー両極としての価値ーを行ったり來たりすれば良いのではないか?
また理論的には、
そもー認識上のー分離が相剋し且つ相即する関係性である以上認識上「絶對としての地獄」も「絶對としての極樂」もまた成立し得ぬ。
つまりは其の對立関係其れ自體が「相對的」なものとならざるを得ない。ー所謂西田哲學で云う「絶對矛盾的自己同壱」の概念ー
よって最終的には其の概念其れ自體、其の認識其れ自體が「相對的」なものでしか無い。
とどのつまりは「地獄」ともまた「極樂」ともつかぬ世界こそが此の世界の實相となる。
故に「悩み」もまた「絶對化」されることは無い。
其の逆に「悦び」もまた「絶對化」されることは無い。
だけれども「温暖化」や「生物種の絶滅」はむしろ「絶對化」するのです。
要するにソコんトコダケがむしろ自分の「悩み」なのだ。
要するに其の文明社會が仕出かしたところでの犯罪ダケが如何にも問題なのだ。
が、あくまで其の認識上の「相對化」こそが40年余りに亘り「精神的に實存」する者として思い悩んで來し我が「答え」であり「眞理」でした。
さて「ニヒリズム」とのことですが其れもまたある種の「狭い領域」としての認識であるやうに今自分には其れこそ認識されるのです。
其の「ニヒリスティックな實存」とはしかしながら其処に言葉がすでに矛盾して居る。
何故ならば「實存」は「ニヒリスティック」である以前に「食って生きる」べくさうつくられし者だ。
【哲学】「自分の悩みはこの大宇宙に比べたらちっぽけ」なんてことはない | キリンノックスのブログ (kirinnox.com)
またかうして「哲學」の方なども御出來になる方のやうだ。
さて此の場合にも、
個⇔世界
個⇔宇宙
とのことですのでそも其処に「絶對矛盾的自己同壱」の関係性が成立する以上視点を變える=あえて向こう側の認識を取ることで其の大小だのまた尊卑だのさらに清濁だの善惡だの兎に角いずれの価値に於いても価値の「相對化」が為される筈です。
なのであればそんな「絶對的矛盾」でさえむしろ「相對化」され得るものと思われる。
どだい自分はかうして兎に角そも「社會が惡い」とさう文明社會を批判するのですが今後もしも田舎の別荘地へ逃げて行ければもう「温暖化」のことなども忘れ其処にて自然と戯れつつ文人生活を其れもスキップしつつむしろ樂しむことでせう。
だから根本にはまさに其の「社會」と「自分」との齟齬がありまさに其れが邪魔をしてこんな「絶望感」を植え付けて來るのです。
ですがイザそんな「社會」を捨てたれば僕はもうほんたうに「元気」になりおおまさにそんな「明るく」て「元気」な壱詩人としてむしろ永遠に此の地球上でもって生きて行かれるのです。
個⇔社會
あれだが待てよ此れはマズい!!
イザ其のやうに社會との相互依存関係があれば「温暖化」や「生物種の絶滅」や「ゴミ問題」などとはまるで縁が切れぬ。
社會<個
と是非其のやうにしてやらう。
さすれば社會は詩人に對しまるで文句を言えなくなる筈だ。
さて「華厳経」での佛法の方にある思想ですが、
「小は大を含み且つ壱切なり」
ー広大な真実の世界を包含する仏が,一切の衆生(しゅじょう)・万物とともにあり,さらに一切の衆生・万物も仏を共有し得るー一切即一,一即一切
との考え方がある。
其の考え方は大乗佛法に特有の論理の飛躍の部分が無いとは言えませんがまさに近代的な合理主義思想を超越するかのやうな認識的な展開を我我に見せて呉れるものとなる。
例えば近代科学は物質を分けて調べることで兎に角小さな領域のことを明らかにし其れと共に同時に大宇宙の法則性迄をも調べ上げて行った。
つまり其の近代科学其のものが弐元分離による大小世界ーマクロとミクロを対象とする分析的な認識世界ーの認識としての分別世界のことである。
だが極小の世界を見詰めて行くとやがて其処に極大の世界が通じて居てまた或は極大の世界が極小の世界に即通じて居たなどと云う所謂「環の世界」である可能性もまた否定出來ぬのではないか。
兎に角其の種の「不可思議な要素」を此の實存的な世界の壱つの価値として認めて置くべきだと個人的には思う。
「不可思議な要素」=「超越論的な展開」とのことであるがまさにそんな「神」の如き「超越的」な存在が有るからこそ「實存的」な価値がまた成り立つのであり其の神の価値を合理化し人間の価値として帰属せしめることは明らかに倒錯の論理であり且つ越権行為である。
社會<個
との壱見奇妙にすら見える其の関係性もまた其の辺りの認識に迄踏み込んで考えたものとすれば其れは別にオカシな考えでも何でも無いのである。
尚最後に壱言述べれば「禅宗」は其の「不可思議な要素」=「超越論的な展開」を嫌う筈である。
また御釈迦様の御考えなどもまた「不可思議な要素」=「超越論的な展開」を嫌う筈である。
だが自分の考えはむしろキリスト教の世界観にこそ基づくものなのやもしれずよってあくまで「神はおわし」人類ー文明ーの原罪はまさか消えぬのである。
さて最初に述べたやうに「合理化」ばかりを壱義的に進めて來し「近代文明」はむしろ「合理化」ばかりでの矛盾の部分にこそ苛まれ其の「進歩」の行く手を何者かに阻まれて居るやうに見受けられてならない。
其の何者かとはもしや或は「神」なのであらうや?
其れとも単なる「獣性」のことなのか?
いずれにせよ個は「苦悩」こそすれ「絶望」するには能わずとまず自分は考える。
だけれども其処でもってあくまで變えられるのは「自分の認識」のみであり「社會の認識」=「文明の認識」を正すことは元來無理だと今自分は考えるに至って居る。
故に現代社會よお前とはもう切れた、とさう言ってやりたい気分であり其れも奥三河の別荘地から兎に角其れをぶつけてやりたい欲望だけが不思議と何だかこんなに強くあるのです。