目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

現存在を心の底より癒やす音樂ーまるで天女の歌のやうな「アンサンブル・プラネタ」によるアカペラの樂曲ー

現存在を心の底より癒やす音樂ーまるで天女の歌のやうな「アンサンブル・プラネタ」によるアカペラの樂曲ー

 

 

 

 

スギ薬局の店舗改装の都合で本日が買い物日となって居り其れでもって朝から大忙しで洗濯をして居たらNHKにて「大江 健三郎」の番組をやって居たので家事をしながら其れを視て居りました。

 

Hikari Oe: Music of Hikari Oe - YouTube

 

其の大江 光氏の音楽はつまりはピュアーなのでせうがどうも趣味では無い。

 

#150cノーベル賞文学賞 大江健三郎 基調講演 - YouTube

 

其の大江 健三郎氏其のものがどうも趣味では無い。

どうも其処に「非眞面目さ」が足りないのではなからうか。

 

尚自分はこんな潔癖な人間の割に「面白い」作家が好きである。

 

例えば坂口 安吾は「面白い」のではなからうか。

また養老 孟司氏などは兎に角面白い。

 

かうして人間には「合う」、「合わない」と云うことが兎に角あるやうです。

 

 

さて本日は地元の黄色い石を陽に翳しつつ観且つ日光浴をして居りました。

其れは黄色い石が何故か綺麗に見える日だったからである。

 

さうして日によりまた光により石の色との相性と云うものが存する。

また其の点を感じて仕舞うこと自體がわたくしが持つ感度の眞骨頂の部分である。

 

またつまりは其の鋭い感度の部分に自分の人生はもう長いこと苦しめられても來た。

要するに「見なくても良い部分まで見える」との其のことが自分に取り重荷だったのである。

 

まあでも其れはどうでも宜しい。

問題はそんな人間が壱體何を観たり聴いたりして心を慰めて居るかと云うことです。

 

要するに其れは「藝術」や「宗教」の領域でもって其の心の慰めを得る訳だ。

ですが「宗教」の領域とはまさに抜本的な精神の救済の課題であり従ってさうさう気軽に行けるものでは無いのです。

 

無論のこと其の宗教的希求の部分が自分の場合はまた特に強くありますが其れでも其れに對し樂な気分で相對する訳ではあくまで無い。

「哲學」などもまた大好きでむしろ壱番得意な分野ですがこと「癒し」と云うことを前提とした場合には其の「癒し」とはまた違うことのやうに思われてならない。

 

 

では壱體何にて癒されたら良いのか?

自分の場合は「繪画」と「音樂」でもって癒されることが兎に角多い。

 

つまるところ自分に取り「癒し」とは「言葉」其のものでは無いやうです。

ましてや論理では無くまたイデオロギーの貫徹などでもまた無い。

 

どだい「繪画」と「音樂」にイデオロギーや論理が必要なのかと言えばむしろ要らぬのです。

同じ藝術表現であれ「詩」の場合には必然的に其の論理乃至はイデオロギーが入って來る。

 

ですが其れがある面では鬱陶しい訳です。

もっと論理乃至はイデオロギーを離れた状態で兎に角癒されたいだけなのだから。

 

其の「癒されたい病」が自分の場合は可成に酷くある。

つまりは常に観念と対峙して居る分疲れる訳だ。

 

其れがもう兎に角酷いんです。

もう夜になると星空の彼方ー宇宙ーへと逃げて行きたくなる程なのです。

 

さて今其の大江先生の基調講演を聞きつつ此れを書いて居ますが何を仰りたいものやら何か良く分かんないです。

つまりは「ピンと來ない」と云うことでせうか。

 

其れも養老 孟司先生の仰りたいことなどはほぼ全てが分かるのに何故さうなって仕舞うのだらう。

 

 

ところで此れ迄に何度も述べて参りましたが自分は「クラシック音樂」の其れもズバリ「ベートーヴェン」の音樂のファンです。

つまりはそんな高尚な音樂が「分かる」人間ですがむしろ最近は「ベートーヴェン」の曲が別段「高尚な音樂」には思えなくなりつつある。

 

其れこそ坂本 龍一氏ではないが自然の中に満ちて居る様様な音の方がより「高尚な音樂」だと言えるのやもしれません。

自分はそんな反文明主義者でありつまりは人間臭をむしろ此の世から消して行きたいタイプでの人間です。

 

非常に其れは珍しいタイプの人間なのではないかとどうも自分でもさう思う訳だ。

故に其の大江 光氏の音樂のピユアーさに對しすぐに同調することなども出來る。

 

なのではあれ其れが「合うかどうか」と云うことに関してはまた違う話となる訳です。

 

尤も其の「ベートーヴェン」は自分には合います。

むしろ壱番「合う」のが其の「ベートーヴェン」の作品です。

 

が、其の「ベートーヴェン」を常に聴いて居る訳では無い。

最近むしろ常に聴いて居るのがアンサンブル・プラネタ - Wikipediaと云う🚺によるアカペラ・グループの曲である。

 

 

尤もCD弐枚を買ったのがすでに拾年位前のこととなる。

故にもう長く聴き込んで來た訳でありすでに自分としての「癒し」の評価が確立して居る音樂です。

 

でもって自分はこんな「👩嫌い」ですが「女性の声」に限り嫌いでは無い。

また自分は歌も歌えるのですが所謂女性の持ち歌を得意として歌うことが可能だ。

 

つまりは所謂「キー」がとても高いのです。

ですので大抵の女性歌手の歌が歌える訳です。

 

事實昔良くカラオケで歌って居たのが宇多田 ヒカルや倉木 麻衣の曲でした。ー独りカラオケなどが實は大好きー

ところが其れをジジイがやると何だか気持ちが惡いでせう。

 

なんですが男性の歌手で持ってる「キー」の高い人は普通「歌が上手い」人が多い。

 

尚自分は「唱歌」などもまた歌うことが出來る。

要するに何かかう本質的に「藝術」に強い部分があるのでせう。

 

そんな訳で自分でも其の高い声で歌が歌える訳ですので女性歌手が元來嫌いではありません。

實際に其の「ベートーヴェン」以外で良く聴いて居るのが久米 小百合ー久保田 早紀ーさんの樂曲です。

 

ですが其の「アンサンブル・プラネタ」の場合はまた其れとは違う魅力があるのです。

其れはアカペラ・グループですのでつまりは「社會的に👩の声」が成立するのです。

 

「社會的に👩の声」がするのであればむしろ其れはわたくしが壱番嫌いなものの組み合わせではないかとさう思われるのですが實際にはむしろ其れにこそ癒されて居ますのです。

 

 

嗚呼、また何て良い社會化なのだらう。

まるで天女が歌う様のやうに其れが見える。

 

G線上のアリア - YouTube

アヴェ・マリア - YouTube

 

アンサンブル・プラネタ」の魅力とは曲を聴いて居る時と其れを聴き終わった時にむしろ何も残らない「快適さ」のことだ。

世の中には逆に「耳に残る」やうなつまりは「耳障り」な音が溢れて居ます。

 

ところが高度に調和された「美しい」音はむしろ何処にも寄りかからず其の瞬間にだけ出現し曲が終わるとすでに異世界へと旅立って行くかのやうだ。

故に其の「癒し」とはまさに其の「美的忘却」の世界のことを言うのです。

 

 

アメイジング・グレイス - YouTube

愛のロマンス (スペイン民謡) - YouTube

ヴォカリーズ - YouTube

主よ 人の望みの喜びよ カンタータ147番より - YouTube

 

 

アンサンブル・プラネタ」はまた日本の歌などもカヴァーして居るのです。

其れは自分もまた聴いたことが無く今回初めて聴き込んでみましたが案の定其れはほんたうに素晴らしいものだった。さくらさくら - YouTube

 

其の🗾の歌はかって由紀さおり - Wikipedia氏と安田祥子 - Wikipedia氏が歌って居りまた其れも良かったのですが自分はむしろ「アンサンブル・プラネタ」の曲の方が性に合います。

 

planeta - ウィクショナリー日本語版 (wiktionary.org)

 

其のplanetaと云う言葉には女性名詞としての「運命」や「宿命」と云う意味がありますがまさにわたくしと「アンサンブル・プラネタ」の出合いこそが其の「運命」であり「宿命」其のものだったやうです。

 

其れも当時は特に「社會的」圧力が自分に取り強くかかって居り要するに其れから何とかして解放されたかった訳です。

ところが社會其れ自體に其れを開放して呉れるやうな力はむしろありません。

 

畢竟「社會」とはそんな因果なものでありつまりは現存在をして何処までも圧迫して止まぬ「地獄鍋」か又は「地獄の釜」のやうなものでもまたありませう。

嗚呼そんな「生き地獄」から早う解放されたい!

 

 

だがおや、こんなところにおおまるで天女の如き歌声がして居る。

もしや此れが此れこそが其の「生き地獄」からの解放其のもののことではないかいな。

 

尚自分は至極「合理的」な人間ですのでそんな「癒される」曲に就いてウソなどはまさか申しません。

つまりはほんたうに人の心を癒して呉れるのが此の「アンサンブル・プラネタ」による樂曲なのだ。

 

むしろ其の「癒し」の度合いでは最高値を示すのが其の天女達の歌声なのです。

 

さて其の👩共の発するであらう高い声とは何か?

其れも何故「高い声」はかうして魂を揺さぶりさう心地良く胸に響くのか?

 

其のことは結局良く分からない部分です。

然し「最高峰の歌」はまず必ず「キー」が高く設定されて居る。

 

でもって音痴つまりは歌が下手な奴程つまりは高音が出ないものと來てる。

逆に申せば例え男性であれ高音にて歌える人こそがつまりは💎級の歌手なのです。

 

ああああー、また独りカラオケになんだか行きたくなっても來た。

 

ですが「アンサンブル・プラネタ」のキーで歌うことなどは勿論無理と云うものです。

いやもしやイケるかもな、其れもやってみんとわかりゃあせんぞー。

 

 

いやあーですが此の「アンサンブル・プラネタ」による🗾の唱歌集は實に凄い。

こんなものはまさに初めて聴いたのかもしれません。

 

 

尚東京藝大出の安田 祥子氏は確かに歌が上手かったが「アンサンブル・プラネタ」の場合は何故こんなに歌が上手いのでせう?

もしや其の全員が東京藝大出なのでせうか?

 

もう兎に角此れはまさしく壱線を越えるであらう「癒し」の音樂です。

其れももう癒され過ぎて死んで仕舞いさうだ!

 

己の中で全部の社會的機能が停止し其の歌其のものに自我が没入した。

であるからこそまさしく其れが天女達によるアカペラ音樂なのだらう。

 

あ、「千の風になって」だ。

素晴らしい、ほとんど此の世のものとは思えない。

 

即ちすでに君は死んでおる。

もはや野を吹く風となり野に咲く雑草の壱本となり人間の社會的営為を遥かに超越して居る!

 

さう社會的営為を完全に断滅するとでもかうして何故かとっても美しくなれるんだ。

 

此の世にはさうしてほんたうに「良いもの」が確かにある。

只其れと出合うことが出來るか否かと云うことだけである。