目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「縁起」に就きまた考えてみるー山奥の寺の貫主の御意見と臨済禅の理論的展開より學ぶことー

「縁起」に就きまた考えてみるー山奥の寺の貫主の御意見と臨済禅の理論的展開より學ぶことー

 

 

 

 

「ずん」飯尾和樹 新幹線で会った「すごくきれいな」女優の最悪マナー明かす「まあ、汚い汚い」 (msn.com)

 

人間の中身と外見はかうして違うこともあるので決まって話が難しくなる。

でも人間を長くやりますと次第に人間の外見はむしろどうでも良いものであることが分かって來る。

 

即ち彼が彼女が何を考えて來、且つ今何を考えて居るのかと云うことのみが人間の全てなのだからして。

 

クマに食われ、頭蓋骨だけ発見された男性登山者の手帳に書かれていた“悲劇の真相”…秩父の山中で何が起こったのか (msn.com)

 

其の🐻に喰われる程の山奥へ入ることの無い自分ながら其の🐻に喰われる實存としての人生はある意味では壮絶なるつまりは凄い死に方であり生き方である意味では其れに憧れぬ訳でも無い。

 

蛇にもともと足がなかったわけではない、蛇が足を失った経緯とは?【生物の話】 (msn.com)

 

そも其の🐍に足が無いのは生物として非常に合理的な選択であるのだと思われる。

だが逆に蜘蛛や百足等の多足化と云うことなどもまた他方では合理的な選択であるのだと思われる。

 

 

「縁起のなかで」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

 

さて昨日はこちらの番組を再放送で視た。

此処では其の法然院貫主としての梶田御住職が所謂「縁起の理法」に就き述べられていて其処がまずは勉強となる。

 

次に「変わらぬこと」と「変わること」の違いに就き述べて居られ其の部分に就き考えさせられた。

 

其処はまずは、

 

「変わらぬこと」=諸行常住

「変わること」=諸行非常

 

である。

 

其の「変わること」の空虚さを知るのが佛法の意義なれど「変わらぬこと」もまた本質的には空虚である。

其の意味での常態の永遠化は空虚其のものである。

 

何故なら此の世は諸行非常でしかも縁起的な妄想の産物である。

其処に實體など無いので其処を救わんが為にまさに「神の國」やまた「阿弥陀佛」に縋るのである。

 

さらに「大日如來」や「久遠實成の佛」などに縋ることとなる。

尤も禅宗だけはそんな壱神教にはならなんだ。

 

禅宗はまず掃除をやりさらに座禅を組み心をば掃き清める。

すると心の合理化が其処にこそ為されやう。

 

 

だから禅宗では別に神様に御縋りする訳では無い。

むしろ自分に御縋りし最終的には其の自己をも放棄せしめる。

 

いずれにせよ何宗であれ日本の山中の寺は皆良い。

尤も其れは「自然が良い」のである。

 

即ち最終的には「自然崇拝」=「アニミズム」へと帰着する。

 

「変わらぬこと」と「変わること」のバランスが取れて居るのが其の神意としての自然の素顔である。

自然もまた最終的には「破壊」されるがもしも人類が居なければ其れは数拾億年後のこととなる。

 

だが其処に人類が居たので自然は後百年位しか持たぬ可能性すらもが出て來た。

さうかでは此の際人類を🐻にでも食わしたらどうか。

 

其れと大🐍だ。

其の大🐍をゲノム編集技術にて大量生産し人類を種ごと丸呑みにすれば良からう。

 

いずれにせよ人類の救済は今大變難しいのだと言えやう。

 

「変わらぬこと」と「変わること」のバランスが取れて居ないのが逆に申せば「文明としての営為」である。

其れ即ち「文明としての営為」は「変わること」への強迫観念が成り立たせて來て居る。

 

「変わること」即ち「進歩」し「より豊かになる」ことで文明は此の世に「樂園」を築きたがる。

ところが其れはあくまで「近代的自我」が欲する観念としての欲のことであり其の實は具體性に欠けて居るのだ。

 

つまりは其処で観念的尺度ー数値や外面的要件ーばかりが重視され具體的に展開されるであらう生としての實存性がむしろ其れにより圧迫されるに至る。

なので何かスッキリせずつまりは「成功」だの「勝利」だのそんなことばかりに振り回され生きる實感や幸福感の方がむしろ薄れて行く。

 

 

また其のことは世の中が「バカ」だから必然としてさうなることであるに過ぎない。

 

梶田貫主は自然には「変わらぬこと」をやり続ける力があるとさう述べられる。

さう自然はさうして移ろい行くやうで居て毎年同じことを繰り返す。

 

つまり「自然其れ自體」に求められて居るのはむしろ其の種での「保持」の力である。

其の「保持」の力をこそ植物型生命やまた🐻や🐍が皆担って來たのだとさう言えやう。

 

もしや其の「保持」の力は「保守」の力のことなのですか?

もしや其の「天皇制」や右の人の力のことなのですか?

 

いやそんなもんとはむしろ関係の無い植物型生命やまた🐻や🐍のイノチの力のことだらう。

 

でも人間の社會にだってそんなイノチの力はありますよ。

例えば右翼の街宣車の猛猛しさだとかまた日本共産党がワイワイ反對!とかを言う力などは皆イノチの力のことですよ。

 

いやそんなもんは「自然」其のものとは違い観念的に汚れ切って居るもののことだ。

ではどーすれば良いのですか?

 

此の閉塞した日本の社會に對し今政治宗教詩人さんが言いたいこととは壱體何なのだ?

うーん、まあ、其れも結局は「無視」でせう。

 

まあさうして「無視」しつつ森歩きでもして來た方がより勉強になることでせう。

 

 

「本当の愛国者は、もっと思慮深く」鈴木宗男氏 ゼレンスキー大統領を批判「責任はすべて他人に押し付け」 (msn.com)

 

だからゼレンスキーが言ってることは其の通りにオカシイのです。

 

 

目覚めよ岸田首相、目覚めよ植田総裁…グローバル経済は複雑数奇な「ハイブリッド危機」(浜矩子) (msn.com)

 

全くのところ浜先生の仰る通りにて此の國の支配層がまずは「目覚めて無い」のです。

彼等が「目覚めて無い」のでかの國は何時迄経っても「変われぬ社會」でしか無い。

 

だからビンタをしてでもまたギロチンにかけてでも「目覚めよ!」とさう叫ばねばならない。

さても目覚めよ、サアキシダ!目覚めよ、サアウエダ!

 

 

でもつい先程「変わらぬこと」をやり続ける力は「保持の力」であり大事だと確かさう言われたばかりではないですか。

 

でも其の「保持の力」は「近代」を成立させる力とはそも違うものです。

其れもまあ言ってみれば「前近代的均衡」の力なのです。

 

ですが「近代」が其の「前近代的均衡」をそも破壊した訳です。

其の「破壊」により「人口爆発」だの「豊かさの成就」だの「合理的利己性の確立」などが實現されたのである。

 

逆に申せばたった今「子孫繁栄」や「未來」を信じ尚且つ「自己利益の最大化」を目指す人人の心には其の「破壊」への警戒感が何より欠けて居るのである。

またつまりは「洗脳」レヴェルでの認識しか其処では為されて居ないのだともまた言える。

 

またつまりは「保持の力」をむしろ無力化して仕舞うのが「近代的価値」としての基本構造なのでもある。

「近代的価値」としての基本構造には其のやうな「綱渡り的なギャンブル」としての側面がしかと存して居やう。

 

其れは謂わば「自然からの離脱」であり「自然の摂理への大反抗」であり「神佛への離反」のことである。

其のやうなまさに犯罪者としての文明の営為を「知る」ことなくばまさしく其れは須らく「洗脳」の範疇での物語とならざるを得ぬ。

 

では浜先生は正しいのですか?

 

個人的にはあくまで浜先生の顔が怖いとさう感じます。

さうして其の顔が怖い學者なり哲學者なりは総じて我が好みなのです。

 

 

ところで「近代的価値」はそも何処へ行くのですか?

「近代的価値」にはそも「限度が無い」が故にまさに何処にでも行って仕舞います。

 

其の「限度が無い」ことこそがそも社會的にビョーキなのだと言えませう。

 

すると其のビョーキの現代社會が何処までをも周りー環境ーを破壊しつつ只増殖して行くのですね?

さうですね、其れもまさに病原菌の如くに増殖して行くんです。

 

もしや現代社會とはそんなウイルスの類でのものでせうか?

もうこんなもんは根絶して置いた方が良くはありませんか?

 

…仰る通りでものです。

其のウイルス共がもう此の地球上にうじゃうじゃと居るのです。

 

なる程。

かってオウム教が其の根絶を図った理由がよーく分かり申した。

 

いやでも爆弾とか密造銃とかは金輪際ダメですよ。

ならサリンでも撒いたるー!

 

ダメですって、そんなテロ行為は。

じゃあどうすれば良い?

 

どうすればみんなが幸せになれるのだ?

いえみんなが幸せになると云うことではありません。

 

ええっ!

では人類に對する救済は無いのだと…。

 

さうです、またつまりは「個としての救済」が其処にあるのみです。

「個としての救済」はさうして限定的に齎されるものであり「普遍的」なものでも何でも無い。

 

また人とは比べられぬものであり時には🐻に喰われたりもまたするものだ。

要するに其のやうにあえて「抽象的概念」を離れるとの「デタッチメント」により成立する価値観のことだ。

 

ならば「個としての救済」は所謂宗教ともまた違うものなのですか?

いや「宗教による救済」とも結果的には被るものながら其れも最終的には「具象的限定」が其の宗教による社會性の部分を否定するに至る。

 

 

「みんなが幸せになる」

其のことはあくまで「概念的理想」でありつまりは「社會的な希望」のことです。

 

其の「概念的理想」であり「希望」から世の中が實質的に良くなることなどはまず無い。

現代社會を構成するものはまず「理念」であり其の「理念」こそが価値化されるので「保持の力」は無視されがちです。

 

しかしながら今後より加速化されて行くことだらう「気候変動」や「地球温暖化」の流れは否応なく其の「保持の力」への再評価をこそ促して行くことでせう。

「保持の力」とはまずはそんな個としての力なのであり其れこそ「理念」的なもの以前での實感であり「選択」としての力のことです。

 

さう「縁起」するものとしての虚的な認識世界に「自我」を振り撒くことが自分にはまず理解の難しいことです。

「自我」を振り撒くとは「現世利益」なるものを求め此の世に子孫を残しまた會社で偉くなりより稼ぐこと等です。

 

自分にはまず其のことが基本的に理解出來ない。

でも佛教のことなら理解出來さうなものですが其れも定期的に勉強して置きませんとすぐにまた分からなくなる。

 

例えば「縁起の理法」と言われても其れが何のことだったのかまたすぐには思い出せない。

おそらく其れは日日生活に追われるうちに忘れ去って仕舞うことなのだらう。

 

此れではイカン。

早速にまた御勉強しやう。

 

 

理論的には此の「臨済禅」の川口 英俊師が書かれたものがまさに自分にとってのテキストです。

 

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第二章「仏教基本法理の理解」 (oujyouin.com)

 

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第三章「時間的縁起・空間的縁起について」 (oujyouin.com)

 

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第四章「論理的縁起について」 (oujyouin.com)

 

 

どうでせう?

其の内容は至って難しいことが語られて居るのですが至極分かり易い解説であるやうに思われます。

 

其の無常ー非常ーにせよ無我ー非我ーにせよ無自性にせよ結局は分別世界での仮の認識ー虚構的認識ーであることが次第に見えて参ります。

其のー不完全なー分別世界での仮の認識を完全なる神の認識に移して行くとの壱神教に於ける壮大なる外道としての計画さえもが此処に仄見えて参ります。

 

釈尊は無常、無我に捉われたインテリ層に對し逆に常であり我を説かれたとの部分はしかと御記憶下され。

要するに無だの空だのさうした概念的分別は基本的に錯誤的な認識であるに過ぎません。

 

但し其の根本での認識上の誤り以前に現代文明が今まさに陥るであらう「強欲」の部分こそが現代社會を破壊するに及んで居ります。

まさしく其れがさうして抽象的に規定される過分なる自己保存欲であり過分なる承認欲と其れに基づく支配欲のことだ。

 

また其のことはどこそこの國が惡いと云うことでは無く何処の國の人間であれ惡い奴には常に其のやうな心が生じて居ります。

 

なので善人の方方は其れ等惡の巣窟からは自主的に離れ独り静かに佛教やキリスト教などを學び特に酒と👩とギャンブルより逃れて行かねばなりません。

嗚呼、今日もまた清い壱日が終わった。

 

まずはベランダの溝に埋まり込んで居た薄紫色の蛍石ー平岩鉱山産ーと他の平岩鉱山産の蛍石を標本ケースに詰め入れた。ー其の全てが自己採集での石ー

次に使用して居る万年筆の収納を行った。ー結局ダイソーにあったデカいガラス瓶に纏めて入れることとなったー

 

後は其の「施本」の方にて是非御勉強でもしたいところである。

臨済禅は其の「御勉強」には意味が無いとさう語りつつむしろ徹底的に「御勉強」をするのでまさにソコが自分好みなのである。

 

故に此の施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」 (oujyouin.com)もまた其の概念的な意味での修行を完遂させんが為のものとなる。

佛法のことはネット上などにも情報が溢れては居るが自分に取り最も役立つところこそがまさに此処なのだ。