目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ほんたうの価値とほんたうの幸福とは?ー誰も奪い去ることなどは適わぬ美と今の幸せとー

62.ほんたうの価値とほんたうの幸福とは?ー誰も奪い去ることなどは適わぬ美と今の幸せとー

 

 

 

「もうこれ以上は体が持ちません」官僚が次々に辞めていく…ブラック霞が関は変われるか 人事院トップによる異色のチーム「人人若手」が抜本改革プランをまとめるまで (msn.com)

 

其の保守體制に於ける最大の問題とはむしろ自己の内部での破壊と云う自己矛盾である訳だ。

でもってして何でこんなに御國だの自治體だのつまりは體制の為に頑張って居るのに逆に制度的組織的に崩壊して行くのかと云う部分こそが問題なのだ。

 

つまりは其れが個を犠牲とする形で価値ヒエラルキーを守らんが為に其れをやって居るから仕舞いには個に対する無理が祟りガラガラガラとむしろ組織自體が崩れ去って行くつまりは自滅へと至る訳だ。

 

要するに其れが江戸幕府大日本帝國の終焉の時の様とまるで同じなのである。

だから保守の人間はまずは其の何かを崇めてもう後は奴隷扱いでありまた其のドレイは其の偉い何かに滅私奉公し最終的には敵艦へと特攻するのが当たり前のことだ。

 

との其の思い切り時代錯誤した認識を正さぬ限りはむしろ絶対に其の組織的硬直性は打破し得ぬことだらう。

だから其れは現在教員や公務員が置かれる立場など共共通する組織上の問題なのだ。

なので其の「守る」=「保守」と云う立場はむしろ革新派よりももうひとつ頭が良い位でないとならないと云うのに事實上はまさに其の逆でほぼみんな頭が悪い訳です。

 

だからまずは其の保守體制としての組織上の馬鹿を是非治さねばならぬのです。

 

 

さて今朝「正義のミカタ」ー大阪の局のワイドショーーを視て居たら最後の方に件の和田 秀樹氏がなんと登場して居たのだった。

其の和田 秀樹氏が仰って居ることで壱番良い部分が「ガマンしないでやりたいことをやれ」とさう言われて居ることなのである。

 

ではやりたいことをやるとどうなるのかと言えば其れこそ幸せホルモンが出まくり常に前向きなさうして充實した「今」を過ごせるやうにもなるのである。

即ち其れがあくまで個にとっての「今の幸せ」なのだ。

 

しかしながら現存在とは社會的現象だからみんながやりたいことをやれば結局牌の奪い合いとなるつまりは利己的に利益を奪い合うケモノの世界と最終的にはなっちまう。

さうして誰もが欲望丸出しで外へ出れば👩にはすぐ飛びつくわ、また道端でションベンはするわ、さらに人間を襲うわ其れを焼いて食うわで。

 

でもってしてもう余りにも酷い有様にて心の清い我などはもはや其れを正視するに耐えぬ訳です。

だから其れを法律でもって止めよ!とさう規定されて居るのであり従って近代社會人である限り其れに従うのはむしろ当たり前の話である。

 

 

だが實は其れに盲目的に付き従うばかりでは實はならぬのだ。

まさに其れが先に述べた體制維持の論理により自己矛盾的に内部的組織崩壊が加速されるが故に最終的には組織の維持もクソも無くなって仕舞う訳だった。

 

でもって零戦と云うかっての我が國の優秀な戦闘機は当初世界壱だったが、其れも最終的にはパワー不足と防御力の弱さの点で米國の戦闘機にはまるで及ばなくなって行くのだった。

其れもひとつにはパイロットへの防御不足の為に折角の戦闘性能が次第に持ち腐れとなって行かざるを得なかった訳だ。ー取りあえず我はさうして壱戦闘機マニアでもまたあるー

 

要するに其処では人間を大事にして居ないので折角の其の優秀な零戦は次第に空飛ぶ棺桶化して行ったのだった。

 

我はどうも今日本國が陥る状況とはまさにそんなものなのではないかと考えて来て居る。

即ち日本人はかうして頭が良くあらゆることがこと細かく出来るのだが肝心のところで組織が馬鹿をやるのでドドーン!と沈没して行かざるを得ぬのであらう。

 

まさに其のことが日本社會に於ける宿痾のやうなものでもまたあるのやもしれぬ。

 

 

でもって此の世の中の出来事ですが、其れをむしろ余り眞面目に且つ眞剣に捉えて居無い方がむしろ良い。

自己本位的意思決定とは實はさうしたことであり其れ即ち価値観を社會に売り渡さず自分の方へと引き寄せると云うことである。

 

なんとなれば、事實上此の世の出来事はかうしてゴチャゴチャで且つドロドロのものとなりつつある。

其処を哲學的に言えばまさに矛盾の巣窟と化しつつある訳だ。

 

其の場合に信仰でも保って居ない限りは其処に幸福感を保つことなどほぼ不可能と化す訳だ。

其れを平たく申せば其れと眞面目に向き合う程に絶望感にすら打ちひしがれることともならう。

 

であるから其れはさうしたものであり謂わば悪の所業なんである。

だからそちらの方をあえて向くから自分に取っての仕合せからむしろ遠のいて仕舞う。

 

だが神が佛が果たして其のことを望まれて居ることだらうか?

いいや、さには非ず。

神も佛も實は我我の幸福を、我我個としての幸福をこそ何より望んで居なさる筈だ。

 

 

でもって社會が悪いのは其れはそも仕方が無いことなのだ。

どだいホモ・サピエンスは其の社會的能力に優れるからこそ他の人類を押しのけかうして生き残って来られた。

 

ところがむしろ其の社會的能力故に自己矛盾に陥りかうして自らの首を絞め始めた。

故に其の行き着く先とはまさに自滅である。

 

なのだが今日明日に其れが引き起こされると云う訳では決して無い。

いやむしろあと弐、参拾年は何とか持ち堪えることだらう。

 

ならば其の間をむしろ是非生きる喜びに充たしてやるべきではないか。

なのにさても何を迷って居るのだ?

 

 

そんな👪だの学校だの町内會だの國家だの墓だのそんなものに何故君等は拘り其れをまたデカくしたく思って居るのか?

我なんぞはもう其れ等なんぞ全部捨てた。

 

だから限り無く自由で毎日生きて居る事其れ自體が愉しい。

そんな生き方は限定的に其れも刹那に咲くアタラクシアとしての🌸の命であらう。

 

🌸だから何時かは萎み全てが終わって仕舞う単なる心の中での喜びのことだ。

 

だが其れはどんな組織も権力もまた奪い去れぬ内面的幸福の様なのだ。

しかも宗教ですら其れを奪い去ることは出来ぬ。

 

 

其れは其のやうな壱つの認識としての🌸のあり方だ。

其の認識におおたった今我は到達せり!

 

但し大きいところでは常に潔癖に禁欲的であれ。

即ち大なる欲望は悉く捨て去り小さな欲にこそ正直にならう。

 

では飲み屋とピンサロと競輪、競馬へ行きたいです。

いいか、酒を飲んだり御触りしたりギャンブルをするのは其れはまさに大きな欲望のことだ。

 

 

では小さい欲とは何のことですか?

普通に飯食ったりションベンこいたり御勉強したり山歩きをしたり自転車にてサイクリングしたりすることだな。

 

第壱学校の先生でもって後者のことを悪だと決めつける人などはよもや居ない筈だ。

なのでまずは学校の先生の言うことをよーく聞かうではないか。

 

次にお巡りさんや自衛隊員さんの労を労い、ついでの共産党員の方方の御苦労をも同時に思い常に其の右と左の思想を共に大事にするのだ!

またお父さんとお母さんの言う事をよーく聞き、さらに爺や婆、奴等の昔話を真摯に聞き間違ってもそんな都會の邪なる価値観に決して染まったりしてはならぬ!!

 

またまずは木を大事にしやう。

其の木を決して伐り倒したりしてはならぬ。

 

其れも学校や公園でもしも木が伐られたならもうソコへ抗議でもしたれ!

 

 

お分かりだったでせうか、まずは其のやうに価値観を「限定」し己の側へと引き寄せる=社會的洗脳を解くことこそが急務である。

すると其処に新たな世界がまた見えて参る。

 

其れは日常の些細なことに喜びを見出せるそんな自己本位での価値観への転換であり其れ即ち「小欲知足」での境地の實現である。

 

 

 

求めない

すると多くを持って居ることに気付く

 

求めない

すると悪と善とのけじめがはっきりと付く

 

求めない

するとより大きく全てが見えて来る

 

求めない

すると幸せが今此処にあることに気付く

 

 

註…此の「求めない」詩は加島 祥造先生による詩の『求めない』とは無関係なものであくまでわたくしの創作物です。

 

 

全ては其の気付きの力の中にこそある。

だが残念ながら世間の人人は其れに気付けないで居る。

 

だからアナタ自身が其れに気付くのだ。

誰しもが出来ぬことだからこそむしろ自身でもって其れを行うのだ。

 

 

かうして現存在は常に頑張る。

だが其れは何に対し頑張るのか?

 

其の欲望に対し頑張るのだ。

確かに其れにもまた壱理ある。

 

何故なら現存在とは常にケモノだからだ。

常にケモノは欲深くしてしかも罪深い。

 

 

だがほんたうに汝等は獣なのか?

汝等は獣では無くあくまで人間だらう。

 

人間とはホモ・サピエンスのことであり🐍でも🐊でも🐒でもましてや👻ーお化けーでも無い生き物のことだ。

其の人間にだけ有り🐜にはまさか無い性質がある。

 

つまりは其れが理性のことだ。

果たして汝等に其の理性は有りや否や?

 

 

無い?

ならばもう何処までも堕ちていけえー、ほうらほれほれもう何処ぞなりとも堕ちていけえー。

 

…いえあります。

私達にはかうして学校の先生から教わった知識がしかとあります。

 

 

ドレドレ、ほう1足す1は2か。

 

だが其れは間違って居るぞ。

だから何遍も申したではないか!文豪弐人を足しても同じものには決してなりません。

 

なのでまずは其の思考法、認識の仕方こそが大間違いだらう。

 

 

さうか、するとそも1足す1を2とするから社會的な大欲望に捉えられるのであり1足す1はあくまで1足す1に止めて置けばそも文明は踏み堪えることが可能なのですね?

さうです、良く出来ました。🌸

 

其のデカい社會的欲望こそが文明の自己矛盾を加速させ引き起こすものだ。

だから其れを2にして仕舞ってはそもイケナイのです。

 

でもケモノには常に欲がありませう?

だから🐍でも🐊でも🐒でもましてや👻ーお化けーでも皆欲のあり方が小さいではないか。

 

🐍でも🐊でも🐒でもましてや👻ーお化けーでもあくまでソイツラがまさか🚙を造ったりPCを生んだりまた宇宙開発したりはして居ないではないか。

また群れを組んで何かに熱狂したり木を伐り倒したり便所を水洗にしたりはよもやして居ない筈だ。

 

では其の水洗便所はデカい欲望を解放する扉なので?

 

まさしくさうだ。

だから便所などはむしろ野っ原でするのが壱番だぞよ。

 

はあー、またもや極端な御話でもってして…。

 

 

さうして文明は価値の全てをー未來へとー先送りにして御座る。

だがほんたうの生きる喜びはたった今此処にて實現して行くものだ。

 

其れはそんなデカい抽象的価値などでは無く今此処に咲く壱輪の🌸の美しさのことだ。

 

今此処に咲く壱輪のグレイヘアの美しさのことでもまたある?

いや其れだけはダメだ。

何故なら👩とは皆必要悪なのだからして…。

 

 

求めない

するとたった今此処に幸せが見えた

 

 

註…此の「求めない」詩は加島 祥造先生による詩の『求めない』とは無関係なものであくまでわたくしの創作物です。

 

 

まあさうしたことなのだ。

逆に求めれば求める程にホモ・サピエンスは現在ー現實ーとしての幸福からは遠ざかって行く。

 

では果たしてどーすれば良いのですか?

壱體どーすれば其の妄想的自我のやうなものから脱し今此処で幸せな気分に浸ることが可能なのか?

 

だからデカい欲望の全てを捨て去るのだ。

まさに其れを理性的に分別せよ。

 

尤もお釈迦様と禅宗の考えはむしろ其れを分別せぬ。

分別せぬから其処に本質的救済が成立する。

 

でもキリスト教浄土教はあえて其の分別を神や阿弥陀様の次元へと底上げする。

また其れも今此処で幸せな気分に浸ることが可能とはなるのだが…。

 

だが其処には常に信仰が求められて居る。

お釈迦様と禅宗が捨て去った筈の其の信仰こそが其処に復活して居る。

 

 

では宗教詩人さん、アナタの考えはまた其れとも違い信仰の代わりに理性を置くのですか?

何故なら現代人はすでに信仰を保つ程に心が清くは無い。

 

現代人はすでに社會を信仰して居りつまりは其の力にて生活を成り立たせて居る。

其れの何処が悪いので?

 

何故ならさうして社會の諸制度が自己矛盾し崩壊の途を辿ると其れと共に個も沈没せざるを得ぬのだからまさに始末に負えぬ。

なる程、何だか其の社會の齎すカラクリだけは分かって来ました。

 

ですが何か納得出来ません。

何でまた宗教詩人さん、アナタだけは正しくて現代社會は全部間違って居るとさう言い切れるのですか?

 

 

いや僕も別に完全にさうだとは言っては居らず只どうもさう云う匂いがして来た、おっとどうもコレは臭いぞよ。

何やらどうも全てがウソ臭いのだしどこか水洗便所の匂いすらもがする。

 

もしや其れはサンポールの匂いのことですか?

いや其のサンポールにね、田口鉱山産のパイロクスマンガン石を浸け込むと母岩がボロボロとなりもうエライこととなるのだ。

 

なのであくまで田口鉱山産のパイロクスマンガン石は重曹水に浸け込むのが正しい処理の仕方なのだ。

なる程、其れはそんな直感詩人が言うことの割にはあくまで正しい化学的な知識ですね。

 

 

だからあくまでかうして詩人の認識は正しいでせう?

うーん、どうも何かがオカシイやうだがとりあえずはさうしたことにして置きませう。

 

ですので基本的には社會的な出来事からはあえて距離を置き個としての価値観の方をより大事にして行くとさう云うことだ。

但し個としての価値観の方をより大事にすると云うことは同時に常に理性的に抑制される価値を生きると云うことなのでもまたある。

 

従って其れはカップ焼きそばばかりを食ったりまた大酒に飲まれたりピンサロばかりへ行ったりまたアノ山口での馬鹿のやうに四千五百万もの金をたった弐週間程の間にギャンブルにてスッて仕舞ったりすることなのではよもや無い。

さうでは無く日日御勉強に勤しみ欲は小さくでも確り飯は食うわ山にて石は拾うわ。

 

万年筆は安いのに限りもう何本でも買うわ、しかも日光浴を努めてするわ。

さらに宗教のことが分かるわかうして哲學もやるわ文學が好きだわでもってして。

 

其のやうに放逸なやうで居て實はしかと理性的に生活が規定されて居り従ってかうしてマジでもって眞の我のあり方の方にしかと繋ぎとめられても居る。

嗚呼そんな暮らしの中にこそ現存在に取っての「ほんたうのさいわひ」が顕わになって来やうと言うものよ。

 

 

ちなみにデカい欲望は實現することが概して難しくなるが小さな欲望ー求めない中での欲望ーは常に實現することが樂に可能である。

よって理性の力とはむしろ其れを實現せんが為にこそ有る。

 

理性の力とは其の大の価値をやらんが為に使うものではむしろ無く其の「今此処にある幸せ」に気付かんが為にこそ使うべきものだ。

 

でも地球温暖化が…。

 

其の温暖化は確かに究極の大問題であり其処には逆に大きな理性的改変力こそが今後求められて行くことだらう。

科学の力にて其れを食い止めぬ限りは文明の継続は事實上難しくなることだらう。

 

但し其れとはまた違う次元にて其の個に取っての「今此処にある幸せ」の部分は常に現象して居る。

だから其れとコレー内面的幸福ーとはまた話が全然別だと云うそんな話のオチである。

 

 

わたくしは今其の「小さな内面的幸福」こそが眞我により捉えられし眞の幸福だとさう捉えるに至った。

なので其れは夢なのでもまた希望なのでも無い。

 

まさに其れがたった今此処に展開されるであらう實存的な幸せの形である。

だから其れはまさに何処にでもあるありふれた価値なのだ。

 

其れもすでに其処に有るものなのだから其れを取り出すのに技術は要らずまたどんな数式なども要らぬ。

だけれども其の抽象的なデカい価値を志すことが得意な現存在に取ってはむしろ其れは遠くに隔てられし価値なのだ。

 

なので逆に其処からは遠ざかりわたくしはピッタリと其の己が幸福感にこそ寄り添う。

 

また其処に得られるものが「感謝」の意である。

どんな感謝だ、こんな感謝だ、でも其れは文明に対する感謝の意では無くまさしく内外に拡がる自然に対する感謝の気持ちである。

 

 

さらに其処には哲學的且つ宗教的な意味での「有無」の問題がしかと絡んで居る。

即ち本質的な意味で此の世は有るのか其れとも無いのか?

 

自力救済の次元に於いては其れはあくまで無いのである。

逆に他力救済の次元に於いては其れは有る。

 

よって自力救済の次元に於いては現象は欲望の発露として捉えられあくまで其れは迷いの世界であり虚の世界であり其れ即ち誤った認識上の妄想の如きものと見做される。

なので其の妄想をこそ自分の認識を正すことで消去して行く。

 

また其れは自分でもって自分の認識を正すことでのみさう解決されやうー救済されるー。

従って其れは自分の無化をあえて行うと云うこととなる。ーあらゆる価値の本質的な無意味さに気付くと云うことー

 

 

だが其の逆方向を向くと其処にはむしろ有の救済世界が拡がって居る。-浄土教を始めとする大乗各派及び壱神教的な救済の世界-

其の他力救済の次元では世界は無いのでは無くあくまで有るがー但し唯識中観派を除くー、其処に信仰のみが無いので救済が不可能となって居るのである。

 

されどいざ信仰されれば世界は其の有の次元の下に他力救済される。

また其の場合には個による認識上の誤謬はむしろ問題とはされない。ーそんな悪人正機がまた可能となるー

 

でもって其処では欲望ー煩悩ーですらもが部分的に肯定される。

浄土教にせよ密教にせよ結局はさうしたこととなるのであらう。

 

 

さても其れでは皆様はどちらを選択されるのであらうか?

いやより正確には第参の選択としての「無宗教」と云う手すらもがまた有る。

 

其れも多くの日本人の如くに會社だの組織だの國だの👪だのそんな外側のものばかりを信じて居る人人に取りまさに其れは願ってもない立場なのであらう。

また合理主義者であれば其の種の合理的価値を信じても居るので其処には所謂「無神論」が成立しもする訳だ。

 

では果たして我がして来たこととは何か?

實は我は其の有と無の間を行ったり来たりして来たのであった。

 

無⇔有

其れを言い換えれば、

 

虚⇔實

である。

 

でもって其れこそ本質的にはまさに虚こそは無であり實こそは有である。

 

ですが概念はそも単立ー独立ー出来ぬので壱言で申せば其の両極を「行ったり来たり」して居ざるを得ない。

そんな「有無」だの「虚實」だのと云う概念対立の間にて我はやがて「美醜」と云うまた全然次元の異なるであらう概念対立に深く捉えられて仕舞う。

 

まさに其の「美」はあくまで本質的には虚であり無であらう。

されどあくまで感度ー感性ーの願いとしては實であり有であって欲しいものだ。

 

 

そんな訳で結局のところ其の本質と非本質的なものとの違い、非生命と生命、實體と現象の弐項対立のやうなものに苛まれて来つつも同時に其処に夢を見ることからはついに逃れられなんだ。

つまりは其処に南海の樂園の如き浪漫の世界をまたどうしても欲して仕舞うのである。

 

其の藝術としての浪漫の世界と宗教の価値観とはまた別物なのであらう。

さらに言えば文學的な世界観と宗教の価値観とはまた別物なのであらう。

 

よってわたくしはむしろ其れ等の全てをやってみることとしてみたのだった。

さうして全てをやり其の世界の「有無」や「虚實」の判定を自分なりに決着して置きたかったのである。

 

 

されど其の決着はいまだついては居らぬ。

其の決着がつかぬ侭に眞我のやうなものが次第に出来て来て仕舞いまさに其れを基に文明に対し批判を為したまには美を語って来たのだとも言えやう。

 

またつまりは其の概念的な「分別」以前の場にさうして自然の美しさや眞の意味での幸福のあり方などが確かに拡がって居たのである。

 

まさにさうした意味では其れは「無い」のでは無く「有り」其の幸福さえもが社會が個に対し与えて呉れるものでは無くむしろ自分でもって築き上げるものなのだった。

逆に其の意味ではむしろ世界ー社會ーとは虚であり無ですらあるのだと言える。

 

そんな訳でさうして我は所謂「無我」に目覚めた訳なのでは無く単に「非我」であるところでの所謂社會的常識に気付き其れをあえて放逐したのである。

すると其の捨て去った価値の代わりに美しい🌸がまた心中に咲き乱れるやうにもなった訳だ。

 

であるからして其の有であり實であるところの🌸の美しさと幸福の価値はもはや誰も奪えはせぬものだとさう述べて居るのである。