目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さうしてみんなで幸せを目指すとやがてはみんなが不幸とならざるを得ぬのは一体何故なのだらう?

 

 

一人一人が相対的幸せを追求してると全体で不幸になる理由

 

かうして28歳で彼女無しでしかも派遣社員の方が幸福の本質的意義に関し様々に考察されて居ますがまずは此れを一読して驚かされました。

つまるところ其の相対的幸福を強いる日本の社會とは果たしてどうなんだ?と云うことを此処に論じられて居る訳です。

 

で、結果的に此の方は其の相対的に規定される幸福追求はむしろ社會全体か又は個としての不幸を招くと云うことを仰って居る。

まさに此れぞ正論であると言うべきだらう。

 

其の競争があるからこそ発展があり進歩があるからこそ社會はより豊かになるつまりはより幸福となるとの価値観を文明は奉じて居る。

だが其の所謂弁証法による幸福追求の論理には大きな落とし穴がある。

 

其れは一方通行による不自由の蔓延=全体主義の履行なのだと私は思う。

 

 

 

1.格差の無い社會ー平等な社會ーでは相対的幸福が是認され得る

2.閉じた社會では相対的幸福がそも生じたりはしない

 

まさに此の方が述べられて居るやうに格差の無い社會では相対的幸福の幅自体が縮小されるので相対的幸福と云う価値観其れ自体により社會全体が不幸となる虞が無くなることだらう。

また閉じた社會ー例えば鎖國主義や唯我独尊での國家ーではそも価値ー絶対的価値ーを他とは比べやうが無い訳なので相対的幸福では無く絶対的幸福こそが価値観として規定される筈だ。

 

故に其の1、と2.は共に社會のあり方としては現代文明の主流としての価値観ー主流としての体制のあり方ーよりもより望ましいものです。

 

かうして確かに其の共産主義社會や鎖國社會は其の余分な競争の部分を制限するが故により理性的な社會を實現する為のものであるとも申せませう。

ですが明治以降の近代化以降我我日本人は欧米近代が掲げる社會発展思想にむしろドップリと浸かり逆に其れを信奉するに及んで来て居る。

 

でももしも其れが間違って居たとしたら一体日本のみんなはどうするのだ?

 で、此の方は何で其れが間違って居るのかと云う部分にまで踏み込んで論じられて居ます。

 

其れがどうやら相対的幸福が時代にむしろそぐわず簡単に個を不幸へと陥れる作用がある故に結果的に全体として不幸となって行かざるを得ぬとさう述べられて居るやうだ。

 

此れぞ全くの正答でせう。

其れも物凄い思考力ですぞ。

 

つまりはむしろ現代社會としての其の体制の不備により人間は自らの首を絞め最終的には社會全体を不幸にして行くより他は無いと云うことなのだ。

 

 

また其の相対的幸福を追求すればする程にむしろ人を貶めることで其れを成就しやうとするなどとも述べられて居る。

 

だからこそ人間の心が荒ぶとでも申しますかむしろ悪の方向へと必然的に向かって行って仕舞う訳だ。

また其のことは個としての人間の心のあり方である以上に實は社會的制度的に規定されて居ることなのだ。

 

まさに其の点こそが此の方の分析力の凄い点なのだと思う。

 

対して宗教は基本的に社會を批判せずまず自己としての心のあり方をこそ正そうとする。

 

無論のことまさに其れは正しいことだ。

ですが現代社會に於ける最大の問題点とは其の社會的制度的に齎される不利益のことであるより他には無いことだらう。

 

其の弁証法的進歩過程にそも欠陥が存するが故に現實的に矛盾が生じしかも其れが常に最大化されて仕舞う訳だ。

其のやうな欠陥若しくは間違いは感情的に或は心理的にどうこうしやうとしてもまるで太刀打ち出来ぬことだらう観念領域での大問題です。

 

 

さて其の「相対的幸福」では人間は決して幸せにはなれぬので例えば老子は所謂「小國寡民」と云う概念を人間の社會の理想的な状態であるとかって説いた訳です。

 

小国寡民
使有什伯之器而不用。
使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所之。


使民復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死、不相往来。

"出展:「老子」(老子道徳経)独立第八十"


小さい国で国民は少ない(国があるとしよう)。
(そこでは、)便利な道具(*)があっても(国民には)使わせない。国民に命を大切にさせ、遠くに移住させないようにするのであれば、たとえ小舟や車があったとしても、これに乗ることはなく、たとえ鎧と武器があったとしても、これを並べることはない。(並べて戦争をすることはない。)

国民に、縄を結んでそれを約束の印として用い(た古代のような生活をさせ)、食事をおいしいと思い、着ている服を美しいと思い、住居に満足し、自分たちの生活の習慣を楽しいませるようにすれば、近隣の国がすぐ見える所にあって、鶏や犬の鳴き声が聞こえる距離にあったとしても、国民は老いて死ぬまで、互いの国を行き来するようなことはない。老子『小国寡民』書き下し文、現代語訳と解説 より

 

ー国民が昔ながらの生活をし、食事や着ている服、住んでいる家や習慣に満足をしている。このような環境下であれば、例え隣国が目と鼻の先ぐらいの距離にあったとしても、国民は自分たちの国に満足をしているので、わざわざ他国まで出かけて行くこともない。結果的に、他国と比べることがなくなり、自分たちに無いものを求め、自分たちよりも持っている人たちを妬み奪おうとする心が芽生えなくなる。また、領土を拡大しようとする欲求も生まれない。そんな世界が理想である。

老子『小国寡民』書き下し文、現代語訳と解説 より

 

 

其処で老子はむしろあえてマイナス思考をプラス思考へと転換せしめて居る訳だ。

 

やる(+)⇔やらぬ(-)

 

むしろやらぬこと方がやることよりもあくまで社會的には理想的な環境ー体制ーが築ける訳だ。

しかも其れは個に対しどうのかうのと云うことでは無くまさに社會がさうでなくてはならぬのです。

 

老子はむしろ其の社會を限定することでこそ社會的な理想が築け結果的に國民は幸福となることを其れこそ2500年も前に述べて居た訳です。

 

其の近代が奉じる人と人を比べると云う価値。

其れが最終的には格差を生みしかも其ればかりか人を貶めることで優越感を高める価値へと繋がり要するに利己主義の様を助長して行く訳だ。

 

ところがそも比べなければ其の破壊的な自我の拡大などは無い。

破壊的な自我の拡大により其れを続けた社會は結局崩壊して行かざるを得ぬことだらう。

 

さうなんです、残念ながら此の近代と云う価値過程はさうしてやがては崩壊して行かざるを得ぬ。

其れがあと三拾年なのかまたは五拾年なのかと云う時間の問題であるばかりで本質的な意味での其の誤りからはすでに抜け出せぬ訳だ。

 

 

相対的価値⇔絶対的価値

 

また此の方はかっての歴史過程では其の「相対的幸福」は問題とはならなかった旨に就いても述べられて居る。

まさにさうなんです。

 

近代以前の社會では全ての価値ー価値に於ける矛盾ーが大きく対立を引き起こし破壊に至らしめると云うことが無かったが故にだ。

逆に言えば其の相対的価値の肥大により絶対的価値とのバランスが崩れ社會としての価値がむしろ一元化して仕舞う=一方通行化すると云うことなのだ。

 

其れもこれも、全ては幸福と云う価値次元に於いて合理化をして仕舞うからこそさうなるのだ。

幸福と云う価値次元に於いて合理化などしてはならぬと云うのにさうして合理化を進めるので根本のところでの価値認識其のものがやがて狂って来やう。

 

いや狂って来ざるを得ぬ。

 

 

ではどうしますか?

其れに抗い価値認識を正す手立てが何処かにあるのでせうか?

 

其れを私の言葉で述べれば社會としての価値観を一度分断した上で今度は自己としての価値観の方で其れを組み直してみるべきです。

要するに社會としての其の相対的価値の實現などはまさにゴミみたいなものでそればかりか誤り其のものでの価値追求ですのでまずは其れを無視してみる他は無い。

 

でも余程の金持ちにでもなるか其れとも年金生活者となってから其れをやって行く他は無いことだらう。

社會とは結局のところそんな檻ですので其処から逃れるにはまずは金と理性とがどうしても必要となる。

 

但し此の方はたとえ派遣社員でも其れをやって行かれる訳なので其れは全くもって凄い人間だと云うことである。

其れも我我のやうな旧人類とはまるで違う多分新人類の方なのだとさうお見受け致しました。

 

そんな訳で個としての人間に可能なのはさうして社會に対し理性的に抗うことのみなのです。

ですが其れを行うことが可能であるのはまさにごく一部の理性的に生きるー自己として生きるー人人のみです。

 

逆に大方の人間は其の間違った社會のあり方と一緒になって只流されて行くばかりです。

まるで土座衛門の如くに只さうして社會的に歴史的に流されて行くばかりです。

 

あああー、ドロドロ、うわあー、ズルズル。

 

つまりは其れが幸福でなど有り得る筈が無い。

自己實現としての機会を奪われさうして虚としての相対的価値に惑わされまるでバカみたく価値の🐜地獄の中へとさうしてみんなで吸い込まれて行くのだ。

 

 

またみんなでさうして其の間違った価値の野っ原を突っきらうとすると必ずや肥溜めなどにも落ちませう。

もうみんなが肥溜めに落ち其処でもってみんなが肥溜め野郎となる訳ですよでも私だけは其れは金輪際御免なのでもはやかうして社會のことなどは全て無視を決め込んで居る訳だ。

 

みんなも是非さうして大人しくして居ませう。

理窟の上ではあくまでさうして此の社會は間違って居る訳だ。

 

其の間違って居るのは妄想でも無くウソでも無く眞實の様です。

 

此の方は社會の仕組みが悪くて格差社會を招いて居るにも関わらず旧態然とした侭に其の相対的価値の成就を求める思考こそが凶悪なものであるとも述べられて居る。

まあまさにさうでせう、まさに其れこそが凶悪なものであり破壊的なものであると云うことです。

 

ですが現在日本社會が抱えるであらう此の自己矛盾の様は近代化の問題としてまた合理化の問題としてまさに複雑化されても居りさうさう簡単に解決されるものではありません。

 

なのではあれ此の種の理性がかうして社會に対し物申すことで一部の馬鹿に対し薬としての効果を齎すのではないかと私は考えます。

理性とはさうして人間のバカさ加減に対する薬でこそあるべきだらう。

 

他方で人を貶めたりすることでむしろ自己としての優越感を得其の事を幸福だなどとも勘違いして居る馬鹿はむしろ現代の多数派に達して居るのだと私は感じても居る。

其の馬鹿の増長、馬鹿の蔓延こそが大衆社會としての本質なのでもあり無論のこと其れは社會全体、文明全体での馬鹿の増長、馬鹿の蔓延にも即繋がる訳だ。

 

ですから、其の馬鹿思想に与して居ればやがては全てがおバカ化して仕舞うのです。

なので自分が其の馬鹿思想を生きて居るなどとは金輪際思えなくなることだらう。

 

逆にみんなはじぶんだけは利口なので馬鹿な人の頭の中を正してやらう、などとも思って居ることでせうがまずは其れこそが間違いなのです。

何故ならさうしてむしろみんなが喜んで社會的営為に加わりおおまさに悪をやって居る君等は私から見れば単なる洗脳者であるバカ其のものなのですから。

 

 

其の絶対的価値と云うのは自己實現を含む方での揺るぎない価値其のものなので社會的にどーたらかうたらと決められるものでは無い。

 

例えば宗教的な価値がまさに其れに当たる訳だ。

さらに自然が本来持つであらう具象的価値、また自身の肉体に宿る具象的価値などが其れに含まれやう。

 

問題は社會的価値に圧迫され過ぎると其の具象的価値への感度を失って仕舞うか或は次第に其れが鈍くなって行って仕舞うことだらう。

さうした意味からも此の現代社會が奉ずる近代的価値観に対しむしろ自ら限定して行く方がよりまともなつまりは理性的な思考としての場が築ける訳です。

 

即ち其の資本主義による強欲振りだの自由の追求による権利行使に於ける放埓振りだのさうした非限定性がむしろ個としての幸福追求を困難として仕舞う訳だ。

なので至極難しいことではあるが個の立場として社會的関係を自ら限定して行くこと、権利の行使並びに人間の可能性、理性、未来に対し常に限定的に扱い其れを拡げないこと、つまりは人間が自らを獣として認識し其の分を弁えることこそが最も大事なことなのだ。

 

一般に宗教は其の限定に関しては親和性を有するものだ。

宗教に限らず倫理的に生きる団体や思考が生み出すものは結果的に其の限定性へと連なることであらう。

 

 

相対的価値⇔絶対的価値

 

其の相対的価値は相対的幸福に繋がるが結局其れは一部の幸福を生み出すに限り決して全体の幸福に繋がるものでは無い。

其の絶対的価値は絶対的幸福に繋がるが其処では常に強靭な理性の力がまた必要ともされて居やう。

 

と申しますのも相対的価値は社會的に形成される利己主義へと繋がり易く逆に絶対的価値は自我の範囲での利己主義へと繋がり易い訳です。

であるからこそ絶対的価値の追求に於いては常に個としての強靭な理性的な意志の力が其処に求められて居る。

 

 

28歳で非正規雇用・恋人なしの僕が胸を張って幸せと言える理由

 

仰る通りで其のしがらみだの何だのが個としての精神をむしろこっぴどく制限し且つ蝕んで行く訳です。

 

それにつけてもなる程、其の絶対的幸福とSNSとの相性は最高なんですか?

でも私の場合はそも其のソーシャルメディアなるものを否定して居ますので其の点に関してはまさにどーでも宜しいやうなことなのですが。

 

 

最終的に私にとっての幸福とは壱理性として築き上げし-としての価値、拡張しない価値、限定された具象性を保った侭で生涯を終えることなのです。

 

自己とは所詮は實存的展開ですので其れは他人には決して変わり得ぬものです。

さうした意味で人間は決して社會的にばかり規定されるべきものでは無いことだらう。

 

ですが近代と云う認識が其の社會性を重視せざるを得なくなった。

 

 

「自分にとって当たり前のことが他人にとって当たり前とは限りません」

他とは結局自分では無いものの塊のことです。

故に他とは他でしか無く、また自己は自己でしかあり得ず。


他に理解して貰いたい、自分のことを大事にして欲しい。

などと考えて居るととんでも無いしっぺ返しを食らうのがオチである。


だから逆に別のものとして尊重してあげれば良いのではないでせうか。

尤も私は何せ癇癪持ちですので大抵は他を罵倒することが多いのですがむしろ其れが優しさだとさうも思って居るのです。


他面で私は理性的な御意見には頗る弱く、だから派遣社員だらうがまた彼女も無い人であらうがこんな方の御意見にはコロリと参って仕舞う訳です。


自分にとって他を理解し難いことと同じやうに他もまたコチラを理解出来ぬものなのでせう。

ですが例えば感情的に合う人と合わぬ人が居るやうにまさに理性として合う人と合わぬ人とが居るやうに思う。


其の理性として合うか合わぬかと云うことこそがまさに社會性と云う立場に於いては最も大事なことかと思う。


理性として合う人の御意見はかうしてスンナリと受け容れられる訳だ。

また其れは年代の差や性別の差と云うことなのでもまるで無い。



「幸せの基準は他人ではなく自分の中にある」


尚私はむしろ今幸せです。

人間の中には私のやうに社會的に縛られるのが何よりイヤな人もまた居る訳なので社會で活躍して居るのが良いだとか家庭を築いて居るから良いだとかさう云う具合に決め付けて仕舞わぬ方が良いことだらう。


さうして幸せの基準はあくまで自分の中にある訳ですのでさうして派遣労働をこなし余った時間を自分の好きなことに使うだとか、要するに価値観は其れこそ多様で何処を基準にして世の中をまた人間を見詰めて居るかによりまさに千差万別となる訳だ。

ちなみに私の場合は「果たして文明が何処まで持つのか?」と云う視点でもって全てを見詰めて居ますので少なくとも其れが一般的な視点では無いことだけは確かです。


まさに其処では常に文人めいたものの見方をして居ると云うことです。


さうした認識をする癖のある私は労働に時間を束縛されて居ること自体が何よりも苦痛でした。

會社要するに資本主義とはさうして何よりー個としてのー時間を奪うものでもある訳だ。


但し其れが苦痛にはならず逆に誉、栄誉の如くに思う人もまた居る訳だ。

でも私は結局其れとは別ものなのです。


別ものなのであれば其の別ものとしての生を歩むことこそが自己實現へ向かう道だと云うこととなる。

但し其の変わり者としての能力が足りず結局六十過ぎまで勤め人の方をせざるを得なかった。


ですのでむしろ其のことが私にとっての悔い其のものなのだとも申せませう。

其れも四拾位までに芥川賞でも貰って置いてやれば毎回クドクドと訳の分からぬやうなことをブログで書いては居らずとも良くもしや今頃は信長作家として文學界の統一を果たして居たことだらうに其れを思えば實に残念なことであったものよ。



左様にまさに幸せの基準は人それぞれなのです。

其の千差万別である筈の基準を近代社會が勝手に決め込むなと云うことなのである。


其れも其れが上手く行って居る基準であり制度であり体制であるのならば文句は申しませんが第一其れは持続不可能なものであってしていつどうなるか知れたものではないじゃないか。

そんな馬鹿社會、おバカな体制を逆に権威化して奉じて居るともうロクなことにはならぬと云うのに一体なーぜ其れが分からぬのか?


まあ兎に角かうして怒りまくる訳ですが其の怒りにも疲れ果てたと申しますかもはやバカバカしくなりましたので最近に限りむしろ「どーとでもなれ」とさう思って居る位なのです。


それにつけても宗教の皆様は人間が出来て居て決して社會を罵倒したりはせぬのでまさに其処こそが偉い!

私の宗教は其れとは違い謂わば「怒りの宗教」としての文學ですのでそんな清廉潔白な善人様の世界へはよもや行けぬことでせう。



眞面目な話、現代社會の問題とは心の問題である以上に制度的思想的に齎されるであらう不備若しくは誤謬での大問題なのだ。

此の方はまさに其の部分を指摘されて居る訳で其の彼の炯眼の部分にこそ此の度私は屈服致しました。


其処からもかうして金の有る無し、家庭の有る無しには関わらず其の理性が有るか無いかと云う部分でこそ人間の魂の価値、心の価値と云うものが規定されて居るやうに思う。