目覚めよ!

文明批判と心の探求と

持てる者と持たざる者の眞の意味 壱

 

「持てる者と持たざる者」(もてるものともたざるもの)の意味 (jitenon.jp)

 

とのことで持って居る人とは金を持って居る人のことで持たぬ人とは金が無い人のことを言うやうです。

ですが其れもあくまで通俗的解釈なのでは?

 

何故なら聖書に「持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに奪われるであろう」(マタイ伝)と云う言葉があるさうだ。


此れをどう解釈したら良いのかと云う事であるが結局検索しても良く分からなかったので自己解釈してみるとしやう。


まずは其の持ってるモノが物かどうかと云うことさえもが分からない。

ですがとりあえずは聖書とは精神的な内容を述べたものである筈だ。


と云う事は字義の通りに解釈すれば「持てる者」即ち神を知る者はさらに与えられ神を知らぬ者はさらに奪われて行くのだとさう解釈されやう。



ところが今は其れを物質的に解釈して居るところがほとんどのやうである。

だから私にはまずは其の部分こそが疑問なのである。


私は現代と云う時代過程の価値を「合理化」として捉えて来て居り其の合理化過程こそが善悪対立としての最終戦争ーズバリ其れがハルマゲドンのことだーのことだとさう考えるに至った。

合理化とは数的還元の価値に操られる所謂功利主義的世界観のことであり其れをいま少し噛み砕いて言えば現世利益主義のことであらう。



現世利益主義即ち功利的価値観の中には其のやうに基本的に思考が欠落して居やう。

よって金儲けは考える力の醸成には決して繋がらず。



だが物質的な富を持ってる者にはさらに与えられ富の無い者はさらに搾取される、との解釈もまた同時に成り立つ。


ところがキリスト教に於いて富を持つことが+の価値とされて居るとはまた言い難いのではなからうか。

なので其の富の無い者はさらに搾取され其処でまさに死にさうになるが逆に其のやうな境涯にあってこそ神を見詰めることが出来るのだとも解釈されやう。



キリスト教ばかりか佛法に於いても物質的な富を持ってる者はむしろ何も持って居ないのである。

逆に人間は本来無壱物であることに気付いた修行者こそがまさに「持って居る」人なのである。


まず私が申したいのは凡夫ー一般人ーとしての認識が常に眞理とは逆方向から何かを見詰め論じて居ることの愚かさのことである。


で、其の正教に於ける価値認識が21世紀を迎えて以降はより理解されなくもなって来て居るやうだ。

要するに全てが合理的還元価値を基準とした価値認識をして居る訳で其のやうなことでは元より人間としての精神の未来など無いと私は常々よりさう考えて来ても居た。


で、他方では私は大乗佛法を是非合理化して置くべきだなどとも述べて来た訳である。



合理領域⇔非合理領域


此の二項対立領域が實は曲者で、其のやうに二元分離する関係性即ち相対分別認識には其の二元的要素に対し相剋し尚且つ相即する関係が築かれるが故に話が極めてややこしくなるのである。

尚其の関係性を見出したのは私自身による直観的解釈である。


其れでもって兎に角私が今述べて居ることとは功利的解釈ー合理的解釈ーにて精神の世界を論ずることは誤りではないかと云う疑問をこそ今まさにぶつけて居る訳だ。

要するに唯物論の世界へと傾き過ぎると正確な認識ー価値判断ーからはむしろ遠ざかって仕舞うのではなからうか。



第一其の「持てる者」と「持たざる者」との違いは比較でなどあってはならず、まさに其れは神か又は佛に対しての「持つ」「持たぬ」で無ければ宗教的にはまるでお話にはならぬ訳だ。

宗教とはさうしたあくまで實存としての認識を対象とするものでAの人は今壱億円を持ってるがBの人は今壱萬しか持って無いなどと云う数的還元価値の比較とはまるで別物なのだからこそ。


で、たとえ今百億を「持ってる」人でも神佛への機縁を持たぬ人なのであれば其れはむしろまるで「持って無い」人なのであらう。

逆に今拾円しかありませんのですが一体どうやってコレで飢えをしのぎませうや?


いや欠食したならしたでちゃんと神佛を信じて居さえすればむしろ大丈夫だむしろ君は何処までも生きられる。

其れに欠食したならしたでむしろ精神は黄金の宮殿にさえ住んでも居らう。


其れに其れは天國でも浄土でも良い、兎に角其の心を持ってることだけが現世での価値でありイノチの糧としての全てなのだ。


ですがもはや壱円きりしか持って居ないので我はもはや死にさうです。

ウソコケ、さうしてまだちゃんと生きてるじゃないか。


其れは壱体誰のお陰だ、結局は神佛の御力によるものだらう。

其のやうに實存としての価値を比較することなどは出来ぬと云う意味で宗教的に人間は平等なのである。


尤も其の平等性が担保される領域はあくまで絶対性をも視野に入れたところでの認識である。



相対的幸福⇔絶対的幸福


前回述べたやうに相対的幸福はむしろ社會構造として大多数の人をむしろ苦境へと陥れて行く。

其の幸福としての価値其れ自体を比較して仕舞うからこそ其の絶対的に齎される實存的価値からは遠ざかって行って仕舞うのである。


其の面では資本主義による自由競争原理や近代オリムピックによる能力至上主義などは其の全てが其の比較による正の価値ヒエラルキー序列としての具現化である。

まさに其れこそが近現代社會、近現代文明が奉ずる価値認識の正体なのだ。


本来比較など出来ぬ価値をさうしてワザワザ比較し元来平等である価値をワザワザさうして競争させ其ればかりか其処からしこたま搾取しても御座る。

さうしてみんなが正しいと其の価値を信じ込まされ其れもイキナリおまえなどはもう派遣だ、の、おまえなどはもう操り人形だ、など、そんな酷いことばかりを我我に強いさうしてチュウチュウと毎日毎日我我の生き血を啜って御座るのだ。


だが元より我我はそんなドレイなのでは無い。

奴隷では無いのに何時の間にか我我の精神をさうして功利的価値観ー現世利益主義ーへと引き摺り込みじぶんの頭ではついぞ考えぬうわあまるでもってロボットの如き人間とされて仕舞うのだ。



持てる者と持たざる者の格差が増大するということ - たぱぞうの米国株投資 (americakabu.com)


此処には何やら如何にもまともさうなことが書かれて居りますのですが個人的には其の投資をやり其れでもってひたすらに自己利益の拡大を図って居る人などは基本的に嫌いです。

但し其れでもって儲け世の中から引退すると云うのならば其れは逆に充分に理解出来るのですが。


さて其の投資をやり金を儲けて居る人が以前🏥へもバイトに来て居ました。


其の方は何もやらずに年間参百万は儲かるとさう言われて居た。


勿論其の収入の方がバイト代よりもずっと高い訳です。

其れでもって彼はデカいワゴン🚙などを新🚙にて買い求め屡其れに乗っても来るのです。



ところが其の人は悪い人では無くむしろ感覚的には私と合う人であった。

だから其の良い悪いと云う人間の心の基準其のものが其処でまさに分からなくもなる訳だ。



持つ者と持たざる者


此の庶民としての問いに対しさても御坊様方は何を答えられて居るのでせうか?


まずは他と「比較する」と云うこと其れ自体がオカシイと云うことを述べられて居るやうだ。

ところが我我はつい比較して仕舞いがちだ。

でも所詮其れは認識上の曇りが齎す相対論議なのです。


だが其の相対論と云うのは現代に於ける価値認識のむしろ主流でもある考え方です。

科学的思考ー相対論や量子力学にせよーまたさらに哲學ですら例えば構造主義による文化相対主義などと云うやうに相対的価値認識こそが現代の主流での価値観です。


ですが其の価値観こそがむしろ個としての幸福のあり方を圧迫しさうした所謂金儲け至上主義だの行き過ぎた自由の蔓延だのに繋がって行く虞がまた大きくありませう。

ならば我我個はさうした社會が奉ずる価値観を一旦退いた上で御坊様方や神父様方がかうして御教えになって下さる価値に就き學んでいくべきなのではなからうか。


其の御勉強と云う事には矢張り弐種があり、其れは頭の内容に関するものと心の内容に関するもののことだらう。

しかしながら現代人は概ね後者に関することがまさになって居ない訳だ。


またつい其のプライドに拘る部分なども現代人の悪い癖なのだらう。


だがむしろ眞に理性的なこととはプライドを減じて行くことである、などとも私は考えて居る。


家族の中で言えば家族の中で、また親類縁者の中で言えば親類縁者の中で、さらに町内会の中で言えば町内会の中で、さうして會社の中では其の會社の中で常に力関係だの何だのさうした社會的価値を比較されることこそが近現代社會が奉ずる相対的価値観のことですので其れにドップリ浸って仕舞ったが最後もはや其処で身動きが出来ぬやうにもなって居ります。