目覚めよ!

文明批判と心の探求と

近代的価値は何故自己矛盾に陥るのか?

河村たかし市長の金メダルかじり騒動が、五輪の世論をひとつにまとめた理由

 

では早速此の問題に関する私の意見を以下に述べさせて頂く。

1.其れが理性無き老害である点

2.其れは國政に於いても同じである点

 

が、私はあくまで古い価値にむしろ理解を示す側にある。

例えば共産主義には其の過去から學ぶ姿勢が無いことを欠点の壱つに挙げて居たのである。

 

さうして過去には素晴らしく且つ美しい面もまた多々あらう。

むしろ過去の方が文明と自然の関係に於いてより望ましいものが築かれて居ただらうことなどもすでに明白だ。

 

但し過去に安住する理性はむしろ害ともなることであらう。

過去に安住する理性即ち自民党による政治は日本の未来を正しい方向性に導くことは出来ない。

 

 

其の河村氏は然しむしろ「馬鹿」であることを売りにしつつやって来た市長なので其処を考慮し大目に見てやる必要がある。

 

私は本人を何度か見て居り、

1.壱年程前に勤め先の文化施設にかの河村氏が来て講演をして居た。

2.拾年程前何処ぞの文化施設でとある歌手に対する氏の応援演説のやうなものを聞いた。

3.矢張り拾年程前相生山のホタル観賞會でもって山中にてすれ違ったことがあった。

 

さて問題は、何故70歳以上の人々には現代的に規定される理性的嗜みが理解されぬかと云うことである。

一言で言えば其れは所謂「平和ボケ」によるものだ。

 

70歳以上の人々は戦前、戦中、戦後に大きく関わった世代であり彼等は基本的に日本の社會が「豊かで平和」であるのならば其れでヨシとする価値観を何処かに持って居る。

だが六拾代の我我は其れも高等教育を受けて居る我我六拾代は其れとは関係無しにむしろ其の「豊かで平和」な社會を懐疑的に見詰め続けて来た訳だ。

 

其れは所謂全共闘世代ーまさに七拾代のーともまた違った意味での現代文明に対する不信感のやうなものなのではなからうか。

我我六拾代はさうして甘やかされ育てられおまけにかって社會は今程過酷なものでは無く気候も経済も遥かに安定して居た。

 

 

其れでも壱部の頭の良い人々の中には文明の崩落への懸念や文明の奉ずる価値観に対する疑念が渦巻いて居たのだと言えやう。

私もまた其の種の人間の壱人であったのだと思う。

 

そも日本の社會が「豊かで平和」であるのならば其れでもって万事は成功して居るのだらうか?

さうして國が「豊かで平和」であることの裏には逆に何かとんでも無い危機の兆候が見て取れるのではないか?

 

其の危機感を持ってして國の危惧を訴えたのがかの大作家三島 由紀夫氏による自衛隊への特攻作戦であった訳だ。

 

我我六拾代はむしろさうして甘い蜜のやうな社會と九十年代のバブル崩壊以降特に今世紀に入ってからの過酷な社會の有様を共に体験して来たのだと言える。

だが七拾代以上の世代には「豊かで平和」な社會こそが社會の理想としてあるべき現在の姿なのだ。

 

然し我我六拾代には、其れもかうして御勉強を積み重ねて来た理性派達には其の「豊かで平和」な社會こそが何やらウソ臭い社會にしかもはや見えぬのである。

 

 

其れも72歳の河村氏には「日本は平和と豊かさを達成した良い國でありおまけに此処ナゴヤこそが金持ちの多いサイコーの地域だ」との確信がありのみならず其の繁栄に胡坐をかいて仕舞って御座る。

其れもコレも河村氏の長期政権に最大の其の腐敗の因があるのであり、と云うことは別に其れは河村氏だけがつまりは名古屋人だけがオカシイ、気が狂ってると云うことでは無しにむしろ東京が、其の自民党による政策の方が腐って居りもはやどうしやうも無い域に達して居ることの証左なのだ。

 

いや大阪の方ももうダメかもしれんぞ。

 

要するに今文明は全部がダメだ。

ああー、もう早う山へ逃げたい。

 

其れか👽にでも助けて頂きたい。

又は奥飛騨だとか奥三河だとか是非そんなところにログハウスを建てて早う其処へと非難がしたい。

 

要するに理性派が多いと目される六拾代はもはや文明其れ自体をまるで信じては居らぬ。

でも七拾代以降の方々はむしろ其れを信じ切って御座る。

 

まさに其の部分の差が其処に現れ出て居るのである。

 

尚個人的に申せば七拾代以降の方々はむしろ「可愛く」感じられるものだ。

其処に懐疑が無い分かう言ってはまさに失礼ながら何やら可愛いのである。

 

丁度其れは🐈や🐕の子が可愛いのとまるで同じことではないか。

其れは理性の度が進んで居ないのでさうして自然的に可愛くなるのである。

 

 

だけれども作家の先生方がまさか可愛い筈などは無く、其処は勿論五木先生にせよ養老先生にせよむしろ私にとっては恐い方々ばかりなのであるが。

 

で、河村氏のおちゃらけ振りなどと云うものはたかが知れた馬鹿の噴出に過ぎぬ訳だが首相を始めとする國政上の馬鹿、其のおちゃらけ振りはもはや何ともならぬ日本の國としての破壊、沈没、爆発、粉微塵の様をまさに意味することとならうから其の馬鹿だけは何としてもたとえ人間爆弾と化し國会議事堂へと突っ込むこととならうとも断固として其れを阻止せねばなるまい。

 

では突っ込むのですか?

アナタ自身が其れをやるとでも申されるのか?

 

いや私は東京へなんか行きたくは無い。

第壱私が東京へ行けばすぐにウイルスを拾い病床を壱つ増やすだけのことだ。

 

 

むしろ私が行きたいのは山だ、海だ。

山でもって山菜を採り山菜御飯を飯盒炊爨でもって炊きたい。

 

また是非海へ潜って翡翠の原石を探し其れを生涯の宝物とするのだ。

 

かうして私は自然が根っから好きで逆に文明が根っから嫌いだ。

尤もこんなに文明が嫌いなのだが何故か筆記具と野球とゴルフだけは好きである。

 

とのことで、事の本質を是非見誤らぬやうに。

河村氏の馬鹿は所詮そんな可愛い馬鹿のことなのでさう目くじらを立て大事と捉えぬ方が宜しい。

 

 

大事なのはむしろ首相の馬鹿であり官僚組織の馬鹿の方ではないか!

何せ東京は國をやってるトコだらう?

だから必然として其の責任は最も大きくなるぞよ。

 

日本の豊かな自然の様は其の東京の決断にこそかかって居る。

あれ、間違えました。

 

で済むか此のアホンダラめが!

 

 

また信長公が乗り移って来て居るやうですが…。

あれさうでしたね、またいつの間にか憑依して仕舞ったやうだ。

 

全く振幅が激しい人だな。

其処が何やらとても疲れるわ。

 

いえ其れは関西系のノリでありボケのことです。

理性とボケ、其れが實は此処名古屋から発生して居ます。

 

で秀吉公が其のボケを関西へと伝えました。

また家康公が其の理性を関東に齎しました。

 

其の二元分裂の大元が愛知県だったと云うことですね。

 

なる程、では信長公は其れを両方兼ね備えた天才だったとさう云う訳なのですか?

まさに其の通りです。

 

信長公はそんな天才でしたが元々人間嫌いなので人間により殺されました。

 

尚河村氏は信長公とは比較にならぬ程に小者です、小者。

 

 

そんな訳で愛知から見ると東京のやることと関西のやることは全てがじぶんの分身でもあるのですが彼等はむしろ愛知のことなどスッカリ無視して居ますね。

さうして歴史上の親を無視するな此の親不孝者等めが!!

 

いや確かにアンタはさうして意外とボケが上手い。

また他面では妙に理性的なのでもある。

 

壱體ドッチが本心なのだ?

まあかうして半分獣で半分理性體なのが我我人間ですのでドチラが本心であるかを自分でも決めかねる訳です。

 

 

ですが問題は我我の活動がまさに今自然を破壊しつつあると云うことだらう。

 

故にむしろ其の自然に対しより潔癖であり得るかどうかと云う部分こそが我我に取っての最大の問題であり課題なのです。

ですので其れは経済体制の維持、國の維持、秩序維持と云った所謂右派の論理を超越して仕舞って居る問題です。

 

また人権の擁護、平等性の担保、近代的価値の履行、と云った左派の論理をも超越して仕舞って居る問題です。

まさに其処が難しい部分である訳だ。

 

またつまりは其の価値観、イデオロギーが人間中心主義=都市化による文明至上主義では全的に履行されぬと云う其の限界性をも指し示して居る。

 

だからむしろ其の文明の枠内で考え込むのでは無く自然側の視点から其の破壊を見詰め今後どのやうに思想を転換して行くかと云うことを是非決定して行くべきだ。

其の破壊を食い止める為には勿論科学技術の上でのアプローチが必須かと思われるのだが其れと両輪となる形での文學的哲學的な、即ち人文理性の側からの問題へのアプローチこそが案外有効に働いて呉れることだらう。

 

要するに其の破壊の問題が大き過ぎ技術的実効的に解決し得るものではすでに無くなって居る。

よって文明自体としての思想の転換をも含めた抜本的な改革が無ければ其の歯止め無き破壊に人類は最後まで付き合って居なければならない。

 

 

でも其れに果たして我我は耐え切れることだらうか?

其れに耐え切れぬので次第次第に精神は疲弊し事によれば狂って行って仕舞うことだらう。

 

尤も其れは個に於ける問題では無く社會としての問題なのです。

其の社會としての思想に誤りがあるからこそかうして今我我はかうして絶望の淵に立たされて居る訳だ。

 

其れをどのやうに解決へと導くべきか?

其れこそ全共闘世代ではありませんが私はマルクス主義の新解釈の部分にこそ今大きな期待を寄せて来て居ます。

 

其のマルクス主義の新解釈によりもはや死に體である筈の社会主義革命→共産主義社會の實現への新たなる可能性が拓かれやうとさえして居ります。

 

 

さて政府を始め自治体の首長などにはかうして何かと批判が集まり易いものです。

まさに其れは権力に対する批判其のものなのでもある。

 

でもって反権威、反権力を標榜する私の場合にも権力者への露骨な批判が往々にして見受けられる訳だ。

なのですが、あくまで理論的には近代的な権威や権力は人間である壱個人が背負い切れぬポストであることもまた理解して置かねばなりません。

 

要するに責任がデカ過ぎる訳だ。

またおそらく其れは社會構造的にさうなって仕舞って居ることでせう。

 

謂わば構造的に権力者は壱人の人間では担い切れぬのです。

 

近代國家とは元々其の種の無理難題を個としての人間にぶつけて来るものであるとさう理解して置くべきことでせう。

近現代と云う時代の癖とはさうして何もかもをデカくして仕舞うことだ。

 

さう問題をさうしてあえてデカくして仕舞う。

ですが金さえあればまた愉しみの方もよりデカくなる。

 

もう所謂酒池肉林に浸り切り高級ブランデーはいつでも飲み放題だわ、美女は常に侍らし放題だわでまるで極樂の世界のやうなものだ。

 

 

でもほんたうは其れは極樂世界なのでは無い。

 

極樂とはむしろ其れとは正反対の世界のことでせう。

でも其の極樂と天國とはほとんど良く似て居ります。

 

つまり佛教は途中からキリスト教化しても仕舞ったのですね。

或は密教の如くにヒンズー教化しても行く訳です。

 

まあ其れもまた不純な話ですが此の際其れは脇に置くとして其の近代の「デカくなりたい」病のことに就き少しく考えてみませう。

 

 

幸福⇔不幸

進歩⇔退歩

 

左様に「幸福」と云う概念を設定すること自体が實は「不幸」であることを容認するつまりは其れを生じさせて仕舞うこととなりませう。

また「進歩」する限りはまた「退歩」も容認されるつまりは生じさせられて仕舞う訳だ。

 

平和⇔戦争

 

其の「平和」に拘ることこそが實は「戦争」状態であることを容認するつまりは生じさせて仕舞うこととなる。

で、近代以降其の価値の二元分裂がより酷くなったので其の分問題がよりデカくなって行く訳だ。

 

此処で如何にも文人らしく穿った見方でもって嫌らしいことを申せば「平和」に拘る主張は暗に「戦争」を容認する思想であり「幸福」を目指す思想は逆に「不幸」をも生み出す考え方なのだ。

 

 

では其処をどうしたら良いかと云うことですが、我我人間は理性的認識の檻又は言葉の檻の中に捉われて居りさうした相対的に認識される価値をのみ求め続け生きて行くより他は無い生命なのです。

まずはソコを理解することこそが逆に眞の意味での理性的認識を始める為の第壱段階です。

 

つまり眞の意味での理性的認識とは世の常識として説かれるやうに、

「進歩万歳!」だとか「平和の希求」だとかさうした通りの良い一種正義の言葉の羅列ではまるで及ばぬものなのです。

 

また幸福追求に関してもまさに其れが言い得ることかと思われる。

人間はさうして「幸福」のみを追求しやうとして居ますが其の裏腹に確實に「不幸」を招き寄せ居て居る。

 

 

また最近何やら實際にそんな矛盾的な世の中の様にもなって来て居るやうだ。

 

其の例

派遣社員を増やす→結婚など出来ない→其れでも結婚して國を維持せよ

 

壱體何をやって御座るのか?

 

逆に、

金融経済を止め給料を増やす→みんなが結婚出来た→子が増え社會に元気が出た→結果として國も維持される

 

とせねばならぬことこそは明白です。

 

ですが政治的には金融経済を推進しつつある米國の価値観の手前其れに従わねばならぬ部分もまたある訳だ。

 

なのだが其れでは最終的には日本の國としての自立性は失われて行って仕舞う。

だから國が大事なところー危機管理的にーでビシッと意見を決まられず只のらりくらりとやってるので今や東京がエライことになりつつある訳だ。

 

 

そんな訳であくまで哲學的本質的には幸福だの進歩だの平和だのを求めることはむしろ悪いこととなるのです。

ですがさうした嫌らしい見方は一部の嫌らしいインテリ層がして居るだけのことでむしろほとんどの人は、

 

「幸福」を追い求め、

「進歩」を是認し、

且つ「平和」を希求して行くのであります。

 

なのだが其の概念の裏側には實はとんでも無い負の側面、つまりは毒のやうなもの、金輪際望みたくは無い酷い価値が必ずや潜んで居るものなのだ。

 

 

故にほんたうのお利口さん、つまりは眞に理性的な人は、

「幸福」を追い求めず、

「進歩」も是認せず、

且つ「平和」などはあえて希求しないものでありませう。

 

要するにデカい概念をなるべく設定せずにさうして生きて御座る訳だ。

まさに其れこそが理性的限定であり放棄による思想です。

 

 

人権の擁護⇔人権の蹂躙

 

尚左翼思想との絡みで其の人権に就いても述べて置きます。

其のやうに人権を擁護すればする程にー概念設定すればする程にー自己矛盾が生じ対立概念もまた設定されざるを得ない。

 

つまるところ世界中に人権思想を組み上げるなどと云うことは元より無理な話なのです。

左翼思想にはどうしても此の限定性との絡みであくまで抽象的に無理を押し通すところがあり故に其れは理想論へと陥り易い訳です。

 

 

ではコレもまたどうすれば良いのでせうか?

 

ですから其れもほんたうのお利口さん、つまりは眞に理性的な人は、

「人権、人権!」と声高に叫ぶことが無いやうな価値観ー境地ーに生きて居るとしか申せません。

 

ですが世間レヴェルでは特に國家権力に対抗するだけの事實上の労働条件の向上や福祉上の権利の保障は最低限必要です。

 

また其れは分かり易い譬え話としてはまさに以下の如きものです。

 

「國家、自治体の治安を守る為にはー警察官がー其れ相応の待遇を受けねば其れは成らない。」

 

其の言葉を私は元警察の幹部の方から直に聞いて居ます。

 

要するにさうしたことであり、保守の立場を貫徹させる為には個としての待遇を守ると云う労働待遇上の改善がむしろ壱番大事なことなのです。

まさに此れが保守の側からの秩序維持の為の観点なのだ。

 

自民党の方々は其のことをまず肝に銘じて聞いて置くべきなのではなからうか。

よって左の立場からは無論のこと自民党の政策は✖ですが實は右の立場からも自民党の政策は明らかに✖となるのです。

 

なのですが私の場合はそんな秩序維持だの日本の将来だのにはほぼ興味が無く只只かうして脱俗しつつ筆記具や石を愛でて居たいだけなのだ。

 

左様によりデカいー観念的ー価値を求め続けることは愚かなことである、とは一応申せませう。

またかように一見良い言葉の中に實は恐ろしい部分ー正反対の価値又は偽善的な価値ーが含まれて居るのが此の近現代社會を貫く価値観ーより分裂が酷くなる価値観ー其のものなのだとも申せませう。