左様に文明とはまさに因果なものです。
ー【鈴木】僕は「衰退五輪」ですね。1964年の五輪は経済成長とか、何か日本が上昇している様子の象徴だったと思うんですけど、今回は五輪をきっかけにさまざまな問題が明らかになって、逆にダメになっていっている様子を強く感じました。世界に日本のいいところをアピールしようとしていたはずなのに、ダメなところばかり出てきて、皆が「日本って大した国じゃなかったんだ」って気づいてしまった感じがします。
【山崎】この五輪をきっかけに色々な膿が全部出て、ここから日本の政治が変わっていったんだよって伝えられたらいいな。その願いを込めて、私は「きっかけオリンピック」です。そうなれたら、この問題だらけの五輪にも少し意味があったのかなと思います。
【國武】1964年の五輪はこの先も折に触れて思い出したいものかもしれませんが、今回は「忘れたいオリンピック」。私は将来、子どもにどんな五輪だったか聞かれたら、きっと「聞かないでよ、忘れたいんだから」って言っちゃいますね。
【森】IOCに迎合しまくったという意味では「ご機嫌取りオリンピック」が露呈していたかなと思います。あと、結局はお金重視だったっていうところで「商業主義オリンピック」。一方で、選手はコロナ禍で大変な中すごく頑張っていたので、子どもには「色々よくない点があった」と言いつつ、でも選手たちは頑張っていたよってことは必ず伝えたいです。ー
「"ダメになっていく日本"を強く感じた」若者たちが東京五輪に失望した理由 (msn.com)より
大作家の五木 寛之先生が以前から述べられて居るのですが「成長」だの「上昇」だのと云った価値に踊らされて来た文明、また日本の社會其のものが虚偽であり偽善でありウソコキでもまたあった訳です。
と申しますか其れはまさに近代型の文明其れ自体の限界を指し示して居る訳です。
其の「衰退」も「膿」ももはや日本壱國のみのレヴェルでは捉え切れなくなって来て居る。
日本が抱える問題点とはまず第壱にさうした文明のあり方、近代型の合理化文明に対する日本的東洋的な視野からの批判を加えられなかった点です。
まさに其の点では日本の學者連中もなって居なかったのだと思われる。
學者は確かに何処までも考えていかれるものですが、其の考えに於ける危機と現實としての危機を結び付けられなかったのは最終的には其の學者の責任でもまたある訳だ。
しかしながら其の文明乃至は現實としての社會の様がアホなのはむしろ昔からのことなのです。
さうして近代化を成し遂げた明治政府が最高だったかと言えば逆に最高に脳天気で馬鹿だったとする見方さえもが壱方では生じて来ます。
理性とは其の価値としての両極ー弐元分離の様ーを常に見据え反対の方での危機の可能性を同じやうに感じて居られる感度のことです。
其の感度が無ければ其れは全い意味での理性では無い。
先の話に戻ればさうして自ら「僕は暗い」と仰る五木先生はおそらく誰よりも其の感度をお持ちになられて居てかうした文明の危機が訪れる遥か以前より一貫して日本の社會のあり方に対し警鐘を鳴らし続けて居られた訳だ。
尚其の「暗い」のが理性の働きであり「悩む」のが理性の特質です。
ですから、「明るく」しかも「悩まず」に戦後突進し続けて来た我我戦後民主主義世代の生き方とは眞の意味で決して理性的なものでは無かった。
だから文の人即ち作家や詩人と云う人種は其の理性をこそ持ち合わせて居なければならない。
故に理性とはむしろ絶望して居る暇等無いものなのです。
いや絶望もかっては許されて居りであるからこそ其処で大作家の方々が幾人も自決なさった訳ですがむしろ今さうしたある意味贅沢な展開が許されぬ厳しい世界へと突入して来て居ることだらう。
でも作家や詩人でもって「死を賭して」世の中に訴えかけるやうなそんな潔癖な心の持ち主が果たして今居られるのだらうか?
僕みたいな自称の文人でさえかうしてまさに心理的には半分死にかけつつもやって来た積もりなのですが…。
其れもほんたうの文人であるのならば少なくとも五木先生位のことはしてしかるべきだったのではありますまいか。
で、其の文明の馬鹿な様、特に日本の政治の馬鹿な様はまさに革命でもしないと治りやうの無い病気なんです。
だから我我はあえて革命と云う価値観の方を向かねばならぬ場合もまたある。
なので少なくとも学生の頃からさうした選択肢のあることを學んで置くべきなのではないか。
さて文明に対し突き付けられて居る課題は今須らく大問題化して来て居る。
其の大問題に対し軛を放ち其れを解決の方へと向かわせるのは理性の力のみです。
また其れは宗教的な課題なのでもまた哲學的な課題なのでも無く極めて現實的に齎される限度の問題です。
謂わば即物的に其の限界が我我に対し忍び寄り牙を剥き襲い掛かって来て居る訳だ。
なのですが、其の問題の核心部に横たわるものこそがまさに其の宗教的な課題であり哲學としての課題なのだ。
ところが社會とは、其の矛盾を平気で推し進める社會とは實は其の種の宗教的課題や哲學的命題に対し顔を背けつつ歩むものです。
ですので、其の社會の価値観をこそ個の範囲にて意図的に無視して行く必要があらうかと思う。
即ち其の社會との繋がりを意図的に縮小し自らの範囲での新たなる価値観の醸成を急がねばならぬことであらう。
其の価値観へといざ顔を向ければ此れ迄に文明が行って来た無理や無駄のことがまるで手に取るやうに分かって来やう筈。
まずは其れが分かるやうになることこそが我我にとっての第壱歩です。
なのですが、あくまで其れは理性的に到達すべき場なのであり其処で全ての欲望を抑え込み我慢し、たとえば何をも欲しがりません勝つ迄は、などとする必要は何処にも無い。
ですが決して大きく欲してはならない。
また社會的に齎される価値に対しては熱狂しないやうな自己を創り上げやう。
其の自我ー眞我ーはかう言うことでせう。
あえてやらぬことの方にこそ理性と云う自制心が宿るのだと。
また成功とは戦争に勝ったり社會でもって成功を収めて大金持ちになったりすることでは無い。
成功者とは理性による自制力を身に付けた人々のことです。
其の理性による自制力は申します。
曰く余計に欲してはならない。
👩に触るな酒を飲むなギャンブルからは遠ざかれ。
本は読んでもー自らー読まれるな。(?)
自らの下の始末はちゃんとせよ、ゲームばかりして居らずにちゃんと本を読みなさい!
マンガは読むなまずは本を読め。
學校や塾の先生を尊敬しやう。
だが本質的に學校や塾の教師は馬鹿であることを知ろう。
でも其れは所詮哀しき馬鹿なのであり決して先生自身が悪いのでは無いことも。
さうだ座禅をしてみよ。
座禅をして一ミリも動いてはならぬ。
座禅とは「動かぬ」ことを學ぶ為の自発的自己放棄の方法である。
人間共よもう其れ以上動くな、止まれ!
文明とは動くことである。
其れもまるで🐀のやうに走り回りたがる。
文明を止めよ!
今すぐに止めよ!
🍚ー。
金メタル。
金メタルの味わい方とはまさに其れを齧ることだ。
さて動植物は非理性的な筈であるのに極めて理性的です。
其れは彼等がまさに自然的自我を生きて居るからなのだらう。
自然的自我はさうして自然の摂理に貫かれ自らの分を知って居る。
しかしながら人間は、其れも自民党は自らの分を知らず其ればかりかじぶん等の下の始末さえ出来ぬ始末だ。
此の自民党壱党支配を打倒することが出来ればおそらく我我の今の苦しみの半分以上は解消されることであらう。
さうか、私は今新たに決意したぞ。
其の自民党壱党支配をこそ何としてでも阻止してやる。
まさに其の為に今「世界革命」が必要なのだ。
サア「赤旗」を読み進め思想的闘争を開始しやう。
いやでも掃除をせねばならなんだ。
其れに御寺にお布施も持って行かねばならず「革命」に勤しむ時間的な余裕が無い。
いや其れが豪雨でな、御坊様が来られる前に實はお布施を持って行ったのだ。
すると前の御住職のお内儀が出て来られ、
「どうもこんにちわ、○✖で御座ります。」
「あれ○✖さんですか、四拾年振りですね。」
「お久し振りです、其の節は色々とお世話になりまして。」
「私も今年で八拾四となり今年病気にもなりましたがようやく退院出来ました。」
「私もすでに六拾弐となりましてかうして母の面倒を見て居ります。」
「今の御住職は御幾つになられましたか?エッ?拾歳下。結構イイ歳なんですねえ。」
「永平寺にて参年半修行したのですよ。」
「いやー、アノ永平寺でもって参年半も良く持ったものですね。」
「それにしても禅とは…禅とは厳しいものですねえ。」
「でも私は観念人間なのでむしろ観念禅をこそ指向して参りました。」
「本が沢山残されて居ます。前の住職が實は本を読むのが大好きでした。何時でも貸し出しますのでまた是非来て下さい。」
「なかなか機会が御座りませぬがまた修行させて頂くべくいや是非遊びに来たいと思って居りますので其の節はまた宜しくお願い致します。」
其れに付けてもどうも禅寺の敷居は高い。
「禅」と云うだけで何やら非常に難しい教えが其処に説かれて居るやうで其処が何やら怖くもまたある。
其れはおまえがダラダラだからこそまさしく恐いのだ。
其れも禅はな、まさにおまえの心の本質とは違いとても潔癖だぞ。
でも私はたとえば「カルト」的価値に対しては酷く潔癖ですが…。
また観念的闘争に対してもまさにさうです。
どうもソコが「常識人」とは違うところだな。
普通はソコは反故にして置き其れこそ「生活」だの「生臭さ」だのに血道を上げて行くのだ。
だから君はそんな世間の常識とはまるで逆の道を歩んで来て居るのだ。
さうか矢張りさうだったのか。
でも還暦を過ぎてから方向転換しやうとしたって其れはもはや無理と云うものだらう。
ではまさに座禅を組む良い機会ではないか。
今こそ禅定を組み自己の内面の変革を目指すべき時だらう?
うーん、でも何か面倒臭いなあ。
其れも何かに管理、束縛されるのが何故こんなにイヤなのかなあ。
おそらく本質的に我は自由人なのだらうな。
多分眞我に忠実に生きて居るからこそ社會の束縛を離れて居るのだらう。
さてもこんな人間でもまだ禅定が必要なのだらうか?
尚其の自然的自我乃至は眞我を生きると世間的価値が其処に解体され其処に一種の逆ヒエラルキ―としての価値観が形作られて行く。
故に「成長」だの「上昇」だのと云った+のみの価値に踊らされることが無くなる。
同時に-の方の価値へとむしろ関心が移って行く。
其れは単に貧乏人を助けやうとか虐げられた人々を持ち上げやうとかさうした人道主義、人権思想の履行のことでは無く只其の悲惨であり悲劇の面が見たくなる訳です。
なので私が今住して居る価値観とは一般的且つ大衆的な価値観とは眞逆の世界でのものです。
だから私は自分を詩人だと称して居る訳です。
ですので、今の優秀な學生達がさうして感じて居る「日本の衰退」や「日本社會の矛盾」に関してむしろ当たり前のことのやうに感じて居る訳です。
其れは其のやうな状況を招くやうなことをして来て居るのだからこそむしろ必然のことでせう。
其の根本での原因、そもそもの原因のことを私は大衆としての「認識の偏り」にあると結論付けて来ても居る。
哲學者のオルテガがかって述べたやうに大衆は近代的価値に只迎合して生きるものでしか無い。
「認識の偏り」を正すのはまずは理性的闘争なのではないか。
ですが根本的には其れは「禅」での境地でせう。
さて五木 寛之先生がかねてより仰って居るやうに、「日本の衰退」とはむしろ「日本の下山」のことであり實は其れは悪いことでも何でも無い。
ですがあくまで現世利益に捉われた合理主義的価値観の上からは其れはまさに落ちぶれて沈んで行く様なのです。
なんですが我ー眞我に目覚めて居る我ーにとっては、其れはむしろ輝かしい精神の夜明けであり目覚めへの機会の時なのです。
で、僕はさう妄想して居る訳では無く確かにさうして価値観と云うか認識が世間とは違う位置に何故か居るのです。
其れも様々な因が重なり還暦を過ぎふと気付くとさうして自らの価値観が世間とは丁度逆価値となって居たのだった。
おまえはアホか?
還暦過ぎてそんなではもはやまともな死に方など出来ぬぞよ。
いやそうでも無いと思いますよ。
僕は最近世の中が変わる良い機会なのだとさう思って居ます。
其の世の中つまりは妄想的自我、妄想的価値観としての塊のやうなものが今如何により理性的見地に立てるのかと云うこと、其の誤った価値観を解体し眞の意味での価値観に目覚められるのかと云う点こそが其処に問われて居るのだと思う。
まさに其の見地から申せば今は逆に絶好の機会を得て居る時だとさう申し上げられやう。
ですが其れも大抵の人にはおそらく逆に見えて居る筈なのです。
つまりはこんなに悪い時に生まれて損だなあ位に皆思って居る筈なのだ。
なんですが何度も申しますがあくまで私にはさうは見えて居ません。
但し其の彼等、若い優秀な学生さん達は矢張り可哀想なのだと思う。
何故なら私は三拾、いや四拾歳位まではかうしたことは何も分かりませんでした。
其れは私が天才では無く所詮凡人だったからなのでせう。
其れがかうして精神的なカルト生活を送るうちに次第に物事が分かるやうになったと申しますか眞理らしき認識への扉が開かれて参りました。
なので彼等が至極可哀想なのです。
其の時間が無いと言う意味でこそまさに彼等は損をして居ます。
其処からしてもまさに此の文明世界とは因果なものです。
もしや文明は彼等を見捨てやうとして居るのか?
おまえだって見捨てられるぞ、其れもすぐにな。
まあ僕はもうすでに終わった人間ですから…。
後は禅をやりカルトも続け食って出して永遠の眠りにつくだけのことなのだから…。
と矢張り最後に逃げてみましたが皆様は其処を果たしてどう思われるのでせうか?