11.『暴走する文明』を今読みつつ思う事
暴走する文明―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ | ロナルド ライト, Wright,Ronald, 淳, 星川 |本 | 通販 | Amazon
さてこちらを半分程読みましたがまさに明快な形で現代文明が批判されて居る優れた内容の本でした。
尚其の文明批判に関してはおそらくは人類の知的営為の中でも最も高い見識が要求されるものでもまたあることだらう。
此の種の著作をかうして堂堂と展開されて居る世界の作家や學者の方方にはまさに頭が下がる思いが致します。
其の學者であれ所謂御用學者の方方やまた作家であれ事勿れ主義の大衆迎合作家の方方からは此の種の文明に対するキツーイ壱発としての批判の書の類はまさか望み得ぬことでせう。
で、僕自身の批判は其れは其れでまたキビシイところを持って居るものと自分でもさう思う訳だ。
ですが僕の批判力には直観力の方が多分に含まれて居るので半分位は論理的なものでは無くまさに🚺が浮気を見破る力の少し高級なもの位なものなのですが其れでもみんなは此処を読んで居るともうイヤになったりもするのではないかしら。
『暴走する文明―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)
まあ世の中には頭が良く且つ眞面目な方が壱定数は居られそんな方方が此の本を読まれコレはヤバいとさう思われかうして眞面目に書評を書いても居られます。
此の本は2005年に出されベストセラーとなったさうですが其れからすでに16年が経過して居りみんなが危機感を失いかけて居たところへドーンと此のコロナがやって来たのでした。
ちなみに私が此の本を得たのは4、5年前でした。
さらにDVDの方も得其れはすでに何度も見て居りました。Amazon.co.jp: 暴走する文明 (字幕版)を観る | Prime Video
其のDVDの方の出来も大変良いです。
つまりは其の批判が的を射たもので至極眞面目なものと思われる。
さて物事は壱般に、過去の物の方がより眞面目です。
と申しますのも、現代のやうに抽象的価値が幅を利かせるやうな世の中となればなる程にあらゆる意見や価値がより抽象性を帯び要するに何でもありのゴチャ混ぜの状態となり壱體何を學び且つ何を信じて良いのやら分からなくなって来て仕舞うからなのです。
ー今さえ良ければいい、問題は未来の世代がなんとか出来るだろうという楽観では、現代文明は崩壊してしまうかもしれません。
ドキュメンタリー映画『サバイビング・プログレス − 進歩の罠』は、まさに21世紀を生きる私たちに文明崩壊の警鐘を鳴らす渾身のドキュメンタリーです。
本作品のナビゲーターのロナルド・ライトはこう言います。
「ものごとがあまりにも速いスピードで進行するため、手を打たないこと自体がもっとも大きな過ちのひとつになる」
「必要なのは、たんに短期的な思考から長期的な思考へのシフトであり、無謀と行き過ぎから、節度と予防原則へのシフトなのである」
「私たちには、資源を分かち合い、汚染を浄化し、基本的な保険医療や産児制限を実行し、自然の限界に合わせて経済活動を制限するための道具や手段がある」
『暴走する文明--「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ』ロナルド ライト (著),星川 淳 (翻訳)よりー「進歩の罠」に陥らないためには? | ハフポスト (huffingtonpost.jp)より
さうして最終的には其の文明に対する樂観主義こそが身を滅ぼす元となることでせう。
でも其れは認識としてはまさに逆です。
個ー悲観主義ー⇔社會ー樂観主義ー
文明は近代以降かうした認識のスタンスを我我個に対し強いて来て居ます。
しかしながらむしろ其れは逆です、其の認識こそが倒錯して居り逆なのです。
個ー樂観主義ー⇔社會ー悲観主義ー
正しくはかう認識して置かねばなりません。
つまるところ個は社會に縛られずもっともっと樂に構えて居れば良いのであり逆に社會こそが厳しく倫理的、道徳的に規定されて居なければならない。
然し近代以降はずっと其の逆の価値を歩んで来たのだと言える。
尤も我我個は確かに近代の成し遂げた果實をかうして貪り食っても来た。
確かに我我はかうして豊かになりましたがしかしながら其れは本質的に豊かになった訳では決して無かった。
むしろ我我個は近代的価値と云うひとつの大きな進歩の枠に縛り付けられ其の枠内でのみ勝った、負けたなどと延々とやって来たのであります。
しかも其のことは國家や超國家としての國際的組織、機関の間にも明らかに繰り広げられて居るであらう其の勝った、負けたでの近代的競争原理の枠内でのことだ。
わたくしはむしろ至極シンプルに「やり過ぎ」なのが文明の過ちだとさう申して来て居ります。
問題は其処で具象的に「やり過ぎ」なのと抽象的に「やり過ぎ」なのとの種別があり近代以降の文明は明らかに抽象的に「やり過ぎ」なので其れを止めるべきだとさう述べて来ましたのです。
何故なら具象的に「やり過ぎ」なのはまだしも自然による回復力が望めるのですが抽象的に「やり過ぎ」なのは自然治癒力の範囲を逸脱して仕舞うからなのだ。
さうしていざ自然治癒力の範囲を逸脱して仕舞うともはや修復が効かぬ訳です。
まさにドドーンと自滅へと眞っ逆さまに落ちて行くより他は無くなることだらう。
『暴走する文明』の中でロナルド・ライト氏がまた書いて居られるのですが、近代的価値とはまさに過去を切り捨てつつ歩む価値なのです。
例えば其れが天へ達する縄を登る行為であるとすれば、其の登って居る自分より下の部分は逐次切り離し否定して行かねばなりません。
然し過去からは多くを學ぶことが出来る筈だ。
では何故其の過去の見識、経験の蓄積としての価値を顧みないのでせうか?
其れ即ち其処では近代的価値ー進歩概念ーへの盲信、即ち誤った価値への洗脳振りが見て取れることでせう。
我我人間はさうしてむしろ容易に洗脳され得ます。
よってあくまで個としては其の洗脳を理性的に解いて行くことこそが人間の生の目的としての正しいあり方であり価値観となる。
逆に社會は自らを律し切れるところまで律し最終的には「持続可能性」に関する進歩の部分のみを最大限に追求して行かねばなりません。
所謂「見識」が有るか無いか、また利口か馬鹿かと云うことは其の文明の「持続可能性」に対してこそ設定されるべきものです。
故に其れは學歴だのまた文化人であるかないかなどの所謂社會的に規定される価値ヒエラルキーを離れた価値の部分をこそ問われるものだ。
また僕は特に其れが強い方なのでこんなに精神的に苦労しつつ生きて居りますのです。
さて『暴走する文明』は何とイキナリかのゴーガンの問いの部分から始まって居ます。
「われわれはどこから来たのか? われわれは何者か? われわれはどこへ行くのか?」
個人的にはそんな問いを発したゴーガンこそが大好きです。
ゴーガンの文明への疑問は人間の知性其れも上部構造としての知性に対し常に普遍的であり且つ誠實な問い其のものだ。
尤も人間は誰しもがそんな問いを発するやうには出来て居ない。
むしろ大抵の人間はほぼケモノとして其の生を送るのです。
たとえ高級な學問などをして居るにせよそんな問いの無い利己主義の様こそがケモノに等しい。
だから東大を出てもまるでケモノのやうな人が居るものです。
僕は東大どころか早稲田大學、其れに地元の南山大へも行けなかったがむしろ其の悔しさをバネに御勉強だけはかうして続けて来ました。
まさに愚直に其の文明への批判力を磨き続けて来たのでした。
ロナルド・ライト氏は『暴走する文明』がゴーガンの参つ目の問いである「われわれはどこへ行くのか?」と云う部分に就き掘り下げて行くものだとさう述べられても居る。
「われわれはどこへ行くのか?」
其の後戻りの出来ぬ壱方通行の変化が進歩であるとされるのであればまさに其れは自然界に於ける進化の過程にも通じて居るものやうにも見える。
但し自然界の進化は環境に限定される壱方通行の変化である。ー具象的に齎される変化ー
対して人間社會の進歩は環境に限定され得ぬ壱方通行の変化である。ー抽象的に齎される変化ー
其の抽象的に齎される変化には元より抑制が効きにくいものだ。
何故なら其れが實利的な豊かさを齎すものなのだから。
其処に道徳や倫理と云った精神的な価値はまさに其の種の現世利益への信仰へと置き換わって仕舞う。
故に其の「進歩」概念こそが「神話」と化して居るのがまさに現代を覆う価値観其のものだとライト氏は仰る。
だが其の「進歩」としての「神話」はむしろ凶器と化すことを氏は論じて居られる。
曰く、
「進歩には、理性を抑えて破局へ導く内部論理が埋め込まれて居る」ー『暴走する文明』よりー、のだと。
内部論理?
嗚呼、さうか。
つまりは内部規範のことだな。
要するに日本型の社會が内部規定による社會なのと同じことだ。
日本型の社會はむしろ其の故に本質的な批判力に欠けることだらう。
さうして誰も其れを批判したりはしないので形式的な価値ヒエラルキーを堅固に築けやうが社會としての柔軟性には欠け危機管理能力もまた低い。
要するに壱見堅固な社會に見えて實は至極頼りない社會を築いて来て居る。
さても何故進歩が理性的なものにはなり得ぬのか?
理性的な進歩をやって居るものと誰しもがさう思って居る筈なのに何故さうはならないのか?
其の部分に関して原理的には理性の原始退行による本能化と云うことが考えられやう。
より具体的に言えば近年日本の研究者が成果を挙げんが為に論文を盗作したりまた研究成果を捏造したりとまさに酷いことにもなりつつある状況がある。
さう云うのがまさに其の理性の本能化の具体例である。
されど理性は本来實利的に齎されるものでは無い。
其れはむしろ現實に対して批判的に展開されるべきものだ。
ところが其の内部規範型の組織ではさうした本質としての理性のあるべき姿よりも實利的な成果こそが優先されるが故に結局はさうして理性もまた須らく本能化して行くのである。
つまりは此の「内部論理」の危険性をすでに見切って居るライト氏の見方こそが鋭いものだと言えやう。
文明が不幸をもたらす: 病んだ社会の起源 | クリストファー・ライアン, 鍛原多惠子 |本 | 通販 | Amazon
さてこんな本などもまた是非読んでみたいところだ。
尚わたくしはかやうに文明の否定派なのですがとりあえず申して置けば文化や生活の否定派なのでは無い。
文明其れ自體の否定と云うよりも文明のあり方こそがそもオカシイので是非其れを直すべきだとさう申して居るのである。
但し其処で今我我が享受しつつある文化や生活は近現代と云う歴史過程の中で内部論理ー内部規範ーとして生まれたものであることを忘れてはならない。
要するに我我は其処に浸り切って居るからこそまた何でも言えるのであり現實にはストーヴやエアコンの無い生活などまさか出来やしないのだから。
だがわたくしの部屋には相変らずストーヴが無い。
どうだ、まさに凄いだらう?
ストーヴが無いと實に寒くまさに其れが情けない程に寒くまさに風邪を引いて仕舞いさうだ。
いやコロナにも罹るぞよ。
だが其れでも我は原始人になった積もりで其れに耐えるのだ。
さう、ライト氏もまたかのネアンデルタール人のことを此の著作中に書いて居られる。
要するに彼等を追い詰め殺戮したのがクロマニヨン人だとさう述べて居られる訳だ。
ところでネアンデルタール人には後頭部に出っ張りがあり實は其れがわたくしにもあるのである。
- ーネアンデルタール人の脳容量は現生人類より大きく、男性の平均が1600 cm3あった(現生人類男性の平均は1450 cm3)。しかし、頭蓋骨の形状は異なる。脳頭蓋は上下につぶれた形状をし、前後に長く、額は後方に向かって傾斜している。また、後頭部に特徴的な膨らみ(ネアンデルタール人のシニョン)がある。ーネアンデルタール人 - Wikipediaより
が、私の顔は彫りが浅く典型的な亜細亜人の容貌である。
されど後頭部に其の出っ張りがあるのであれば其れはもう現生人類では無くおそらく半分位はネアンデルタール人である可能性が高い。
さうか、矢張り我はネアンデルタール人でもあったか。
ひょっとすると其のネアンデルタール人の血が半分位混じって居てかうして寒さが我慢出来さうして批判力が強くあるのやもしれないな。
嗚呼、其れとわたくしは頭のサイズが兎に角大きいのだ。
なので帽子などは最大サイズでもまだ小さい位なのである。
つまりは其処に脳味噌が壱杯詰まっておる。
だからネアンデルタール人であれ別に馬鹿では無い。
むしろみんなよりもお利口さんだったのやもしれませんぞ。