目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

むしろ文明其のものが自己矛盾する様ー『暴走する文明』を読み終え且つ其のDVDを視て思う事ー

12.暴走する文明を読み終え且つ其のDVDを視て思う事ー

 

 

 

 

現代文明論講座 京都大学

尚わたくしが此れ迄考えて来たこととは其の「文明論」でありしかも「現代文明論」となる訳だ。

其の近代主義が齎す社會が何故自滅に向かうのかと云うことをまさにかっての社會科の講師としての視点からずっと考え続けて来た。

 

いや其れだけでは無く詩人即ち文人的感覚の方からもかの問題を見詰め続けて来たのだと言って良い。

事實かうした大學などの學問としての文明研究、さらに批判のみならずかの五木 寛之先生や養老 孟司先生、さらに加島 祥造先生のやうに大枠に於いて現代社會を手厳しく論じて居られる文人の方方が確かに居られるのだ。

 

さうして個人的には此の弐つの立場を纏めあげる形にて自己の論理を形作って来た訳である。

 

 

其の文明の自虐的崩壊に関しては壱般にまずは取り上げられること自體が稀である。

何故なら社會的自我としての個人には所謂正常性バイアスが強くかかりつまりは普通人は文明を信じて居りよって今の価値、其の今に安住する価値がずっと続くものとさう信じて御座るからなのだ。

 

だが人間の中には其の内部論理、内部規範に対しどうにも納得がならぬ精神的な変わり者と言うか或は変態チックな奴と申すか兎に角これでもかと社會をなじり続けむしろやっつけたらうかと思って御座るお目出度き人人がまた居るものなのである。

幸か不幸かどうもわたくしにはそんな性質がしかとあり其れでもって「むしろ現代文明は危ないよ」とさうも叫び続けて来たのであった。

 

 

要するに其れだけ鋭いのではあらうが其れも實は他の面がまるでなっては居ない面もまた多分にあるので其処で威張って居るやうに見えて實は威張ってなど居らぬ。

そんな個人的なことなどはもうどうでも宜しく其れこそみんなが末永くまともに生きて行く為にはどんな生き方が必要なのだらうと其ればかりを此の参拾年程も考えて来最終的に其れは「個としての認識の転換」に帰せられる問題であるとさう結論付けた訳だ。

 

だから今其の「個としての認識の転換」に就き述べやうとして居るのである。

つまりは其れがまさに「目覚めよ!」と云うことなのだ。

 

 

 

比較文化とは - コトバンク (kotobank.jp)

文化人類学とは - コトバンク (kotobank.jp)

 

其の文明論と云うのは人類の知の中でも特に統合的な知見でありまさに分野をまたぐ形で密接に関連付けられねばならぬ総合的思考を要求される分野でもある。

要するに其れは藝術のやうに個としての今、其れもフィクショナルな今を語るものなのでは無く特に歴史や文化、また宗教などと大きく関わりを持つであらう大きな思考のことである。

 

文明論を規定するものとはまさに其の統合知であり所謂文系、理系の枠を飛び越えた知なのでもある。

まさに其れがかのゴーガンの問いとしての「われわれはどこから来たのか?われわれは何者か?われわれはどこへ行くのか?」と云う人類自身に対する疑問に対する解をも探るものだ。

 

「われわれはどこから来たのか?われわれは何者か?われわれはどこへ行くのか?」と云う人類自身に対する疑問は最終的には社會の問題から個に於ける認識の問題へと移り変わって行くことだらう。

 

何故なら、

個⇔社會

であり、

主観⇔客観

なのであるから、

其れは対立概念ではあるが相互に影響し合い且つ必要不可欠な概念的分離なのである。

 

其の概念的分離を続ける限りは其れが必要不可欠なのである。

対してお釈迦様の思考の場合には其の対立的な分離の認識其のものを消去せんが為に両極否定を試みる。

 

が、イエス様の思考の場合は其の対立を保存する形の侭で丸ごと神の世界へと棚上げして行く。

なので我我凡人にとっては實はイエス様の御考えの方がより分かり易くしかも親しみ易い。

 

だが其れでもってお釈迦様の思考が間違って居ると云うことは無論のこと無い。

間違って居るのはいつも我我凡人側の方でありつまるところ神や佛が間違える筈が無い。

 

 

またやってもうたか?

其れも毎日毎日間違って居る。

もう全部が間違いだぞよ。

 

 

さう全部が間違いだと宣われても我我のやうなか弱き者共にソコまで言われましても所詮我我は認識上洗脳されて居り其の間違いにはまさか気付けません。

ですのでどうかどうか御慈悲を…。

 

さうか、ではまずは其の余分な暖房を今すぐに止めよ。

止めましたが今日はまた異常に寒い日です。

 

神佛はもしや此のわたくしめを殺す気なのでは?

いや其れはお前がやりたくてやってることであり神佛とはまるで無関係なことだ。

 

 

要するにお前自身が所謂マゾ體質なのだ。

つまりはもっともっとイジメて欲しい訳だな。

 

そんなんじゃないわ!

僕はかの阪神大震災のことを思い起こしかうして此の寒さに耐えて居るのだ!

 

さうか、お前はソコまで考え抜いて居たのか!

其れは偉い、だが其れに耐え続けても社會は金輪際変わらぬぞよ。

 

 

さて暴走する文明を昨日読み終えましたが其れは所謂文明論が展開された本でした。

大枠では此れは古来より世界に生じた文明が何故滅亡に至ったのかと云うまさに其のことを論じた本です。

 

また文明崩壊に至るパターンを明確に示した本なのでもまたある。

個人的には梅原 猛先生がかって提起された近現代文明批判にごく近いものであるやうにも感ぜられた。

 

梅原 猛先生はかってシュメール文明に於ける環境破壊のことを屡述べて居られましたが同様のことが此の著作中にも書かれて居た。

シュメール文明だけでは無くマヤ文明や近代に於ける英國米國での環境破壊に就いても触れられて居る。

 

 

尤も其のマヤ文明に於いて其処まで環境破壊が進んで居たことなど我は知りませんでした。

さらにイースター島に於ける環境破壊のことなどが事細かに述べられて居る。

 

此処からしても文明はまず例外無く環境を破壊し尽くして行くものであることが分かる。

其の環境破壊はむしろ農耕、牧畜と云う食料の生産性を高める行為即ち合理化より生まれたものなのだらう。

 

まさに其の合理化により村落共同体が出現し其れがより大規模となって行き地域が生まれやがては國家を形作ります。

其の國家は國家でより合理的に人間の生活の質を高めやうとして行く。

 

 

其の例としてかの羅馬帝國のことが本には語られて居ますがまさに其の羅馬帝國こそが古代の文明として合理的に完成された形でもあったことでせう。

ですが其の完全であるかのやうな羅馬帝國もまた滅びます。

 

さらに亜細亜ではかの蒙古帝國さえもが滅びたのです。

かうして古来より文明に於ける栄枯盛衰をまさに俯瞰する形にて眺めて居りますとまずは文明と云うものが「滅びる」ことを前提とする社會的価値であることが明瞭となって来ます。

 

 

つまり我我現代人は文明はまさか滅ばないことだらうとさう思いつつ日日を暮らして居りますがまずは其の認識こそが甘いものであることを認めざるを得ません。

故にまずは文明とはさうして滅ぶものであることを個としての認識の半分位は是非刷り込んで置くべきことでせう。

 

嗚呼、さう言えば昔世界史や日本史の教科書にさう書いてあったやうな気がしますね。

ならば何故其れを復習しつつ是非學んで置かぬのだ?

其れもゲームをやってるヒマがあるのなら其れを今すぐに止め其の教科書をこそ是非開くべきだらう?

 

…教科書なんぞもうとっくに捨てちまいましたよ。

確かに其れは僕もさうでした。

ですが参拾代の頃に正文館にて買い直して来ました、其の世界史や日本史の教科書を。

 

 

だから人生は全てがかうして御勉強だ。

御勉強以外の人生がむしろウソなのだ。

 

 

「われわれはどこから来たのか?われわれは何者か?われわれはどこへ行くのか?」

此の人間自身に対する問いかけは社會ー文明ーに対する問いかけであると同時に個に対する問いなのでもまたある。

 

實感として社會ー文明ーは此の本質的な問いに対し答えられないやうに見受けられる。

何故なら社會ー文明ーは自己矛盾領域を拡大する形でしか進めないものなのだから。

 

つまりは其の自己矛盾に対する答えを出すのは常に個としての側の思考です。

特に現代社會は此の複雑化しまさに価値的に収拾がつかなくなって居る文明世界を維持することだけで汲汲として居るのが現状だらう。

 

 

またコロナ禍以降は特にさうです。

 

まさに其れが、

 

「かっては当たり前のやうにあった日常と云う価値の崩壊」

=コロナ禍であり地球温暖化による被害

 

なのです。

ですが其のことを良く良く吟味致しますと、其れがむしろ文明と云う大きな価値が自ら招いたことであることが了解されて来る。

 

ですので其れは被害では無く単なる自滅としての様なのだ。

其の理由としての大部分を占めるのが社會的自我による意思決定の暴走、つまりは社會の価値観其のものが招く暴走のことだ。

 

 

尚個人的に其の文明論に興味を持ちましたキッカケがかって梅原 猛先生による近代哲學批判に傾倒して居たことが挙げられます。

まさに其れが近代合理主義批判であり東洋的、且つ日本的な価値観の再評価でもまたあった訳です。

 

ですが其れは単なる保守思想への固執、また右翼馬鹿と云うことでは無くもっと幅広く文明論を概括した上での文明による合理化への批判なのです。

まさに其れを為した上で文明による合理化が最終的には自滅に至らざるを得ないと云う点に就き考え且つ其れをどう阻止して行くべきかと云うことに就き同様に考えて置かねばならない。

 

ひとつには事實として現代文明による圧迫が度を超す形にて齎されまさに此の地球を破壊するに及んで居ると云うことがある。

其れが具象的に齎される物理的破壊ですが厄介なことに現代即ち此の廿壱世紀に於ける破壊は其れに留まらず我我個としての内面をも蝕んで行くのです。

 

 

其れが即ち抽象的に齎される精神的破壊です。

此の両面に於ける破壊が同時進行して居ると今や見て置くべきことだらう。

 

と申しますればほぼ絶望的な状況なのですが何度も申して居りますやうに絶望などはするに及ばぬことです。

何故なら絶望してサリンを撒いたり火を点けたり人を刺したりすればどんなに頭が良くても其れはもはや犯罪者です。

 

眞の意味で理性的であることとは其の犯罪者となることでは無くむしろ自ら其の大問題に対し立ち向かい己が知性としての解を探して行くことなのだ。

 

 

さて其の農耕、牧畜文明ですが哲學者の梅原 猛先生や藝術家の岡本 太郎氏などはむしろ縄文人の方が壱般に自然に対する見識が高い=人間としての生のあり方に対する志が高くあった、などともまた述べて居られたものです。

さらに近年では歴史學者としてのユヴァル・ノア・ハラリ - Wikipedia氏などが農耕、牧畜文明に於ける文明による自然からの収奪の歴史を明らかにされ必ずしも其れが良いことであるとは言えなくもなって来て居る。

 

まさに其の原始共産制としての縄文人の社會ではみんながまさに平等であり戦争や紛争などに至ることなども農耕、牧畜文明以降よりは少なかったことでせう。

まさに余剰の富や其れを背景とした権力や権威の集中やまた其れが可能とする國家の形成が進むにつれまさにみんなは不平等とされしかも単壱の価値ヒエラルキーー社會的自我ーの中へと組み入れられて行ったのです。

 

ですが其のことによりまさに人間は豊かさを享受出来るやうになった。

但し其れも本質的には壱部の特権層の者のみがです。

 

其のことはかの羅馬帝國に於いてもまた中世に於いても同じことでした。

かのマルクスが登場しました頃などはまた今よりも酷い搾取をみんなが泣きながら耐え忍んで居ざるを得なかった。

 

 

市民革命にせよ社會主義革命にせよ、結局革命とはまさに其の人間と自然に対する搾取への異議申し立てのことだ。

歴史過程をよーく観察致しますればつまるところ文明とは其の壱部の特権層がおおまさに酒池肉林をやらんが為に貧乏人や浮浪者共を足蹴にし野垂れ死にさせる其の暴力の力其のものなのだ。

 

だからわたくしは其の権力こそが最大の暴力であるとさう述べて居るのです。

権力や金力即ち特権層だけが偉いと云う価値ヒエラルキーの世界のことですね。

 

革命とはまさに其の社會的に成り立つ階層構造に対する反逆であり否定なのだ。

 

歴史過程をよーく観察致しますればつまるところ文明とは其の壱部の特権層がおおまさに酒池肉林をやらんが為に木を伐り農地や牧草地と化し其処で農耕や牧畜などを百姓共や牧畜民などにやらせ挙句には彼等を足蹴にし野垂れ死にさせる其の暴力の力其のものなのだ。

 

即ち其処に自然がまずは搾取されて居ります。

次に百姓共と牧畜民もまた搾取されて居ります。

 

 

では現代文明は果たしてどうなって居るのでせうか?

現代文明をよーく観察致しますればつまるところ文明とは其の壱部の特権層がおおまさに酒池肉林をやらんが為に経済成長しまた軍備拡張競争をしさらに科学技術にて地球を汚染し挙句の果てには派遣社員年金生活者を足蹴にし野垂れ死にさせる其の暴力の力其のものなのだ。

 

 

要するに文明とは結局其れ自體がみんなが豊かでもって樂しく暮らせる社會の仕組みではありません。

むしろ文明とは搾取其のものとしての壱部の特権層の為の暴力装置のことなのです。

 

だから文明其れ自體を革命したれ!

と云うことです。

 

 

さても我我は今すぐに革命してより理性的な社會のあり方を築いて行かねばなりません。

尤も其れは無理ですのでまずは頭の中身の方をこそ革命致しませう。

 

左様に恐ろしいことに文明の崩壊の因を築き上げるのがまさに其の社會的な価値即ち社會的に齎される価値ヒエラルキー其れ自體なのだ。

つまりはまさに其れが社會的に齎されやう自己矛盾の様のことだ。

 

では人類は文明を捨て原始共産社會へと移行すべきなので?

いや其れはやりたくてももはややれやしない。

 

ではどうするのですか、まさか此の侭みんながかうしてガマンをしつつしかも地球が壊れて滅びて行くのですか?

だから言ったれ。

 

 

はあ?

兎に角言うたれ。

 

何を?

君等自身の考えを。

 

だから其れを言わんが為に今此処で御勉強して居るのではなかったか。

さうだったのか。

 

まさに其れを言わんが為に今此処で御勉強して居たのだ。

其れも今日は「個としての認識の転換」を成し遂げる為に暖房は要らずゲームもまた文明も要らぬことをしかと此処にて學んだのだった。