目覚めよ!

文明批判と心の探求と

我の有無ーコロナ禍での佛道修行 ー

現代社會が抱える其の深い闇の部分、其れも根深く堆積する其の罪と煩悩の部分は文學を始めとする文の領域では決して其れを根本的な解決に導くことが出来ない。

ひとつだけ解決に導くことが可能であるのはまさに其れは宗教的次元に於いてでのことだ。

 

但し是非勘違いをしないで頂きたい。

教祖様を其の組織の頂点に戴き其の言説を神の如くに信奉すると云うのでは其れではまるで本当の宗教では無いのである。

 

本物の宗教とはむしろ自己としての哲學の範疇に属するものだ。

 

眞理への希求の其の根の部分とは其の自己としての心の性質にこそある。

 

其の性質の部分は然しほとんどが生まれながらのものである。

釈迦がまたキリストが其の類での特殊な心の性質の持ち主であっただらうことはまず間違い無いことだらう。

 

またたとえば學問の世界であるにせよ東大や京大へまた阪大や名大へ入る奴など滅多に居るものでは無く謂わば其れは其の分野での特殊能力者ースペシャリストー達なのだ。

 

さらに其の上に準教授や教授になる人間も居て其れなどはまた違う次元での學問のスペシャリストなのだ。

 

 

其の心の上でのスペシャリストが釈迦でありまたキリストである訳で、其れは断じて新興宗教の教祖様などでは無いと私はハッキリ述べて居るのである。

 

新興宗教の教祖様の価値観は概ね現世利益的なものでまさに其処が俗物の代表格のやうなものなのでそんな腐ったやうな価値に重きを置く宗教などはやがては大方腐り切って行くのである。

 

 

でもまあ其処は良い。

今は正直其れどころでは無い。

 

今文明は「破壊」と日々対峙し闘って居る。

 

元より其れは偉い。

良くぞ頑張ってる。

 

だが私は五年も前からいつかはさうなるぞとさう警告して居た筈なのだ。

 

 

では何で其れが分かったのか?

 

無論のこと私は釈迦やキリストほど心が清くは無くむしろ心が醜いまさに心のウンコたれであらう。

 

だがあいにく其の詩的感性の権化のやうな感度の鋭敏さだけは常に持ち合わせて来ても居た。

むしろ其の感度の高さ故に少年時代より此の方ずっと苦しみ続けて来たのであった。

 

さて其の「破壊」に就いてである。

 

 

まさに其の破壊は、社會の価値観即ち進歩だの資本主義だのと云った正の価値観からすれば眞逆の価値ともなる筈だ。

然し我我はまさに其の眞逆の価値をこそ今突き付けられて居る訳だ。

 

だからこそ先行きに対する不安が大きく拡がり社會的に大きくダメージも受けて来て居る。

 

然し釈迦やキリストがかって説いた眞理に照らし合わせてみればー其の教祖様の言説などとは別にー、實は其れが当たり前のことであったと云う其の事實にまさに愕然とすることだらう。

 

即ち其の「破壊」とは必然なのである。

 

 

釈迦は滅びぬものー破壊されぬものーがあらう筈は無く滅びぬことー破壊されぬことーがあらう筈も無いとかってさう述べられた。

其のやうに諸行は非常であることこそが眞理である。

 

またキリストは其の非常なる世での神の愛への帰依を説かれた。

と云うことは其の神の愛に背き自己流でもって社會がやってると其れはいつかは滅ぼされると云う話のオチである。

 

要するにどちらの場合も其の「破壊」が説かれて居るのではなかったか!

 

 

仕舞った!

何故こんなに基本的なことに気付かなんだのか。

 

ー其れはおまえらの心がくもりにくもって居るからだらうー

 

 

其の「破壊」を説く教えこそが人類にとっての正教である。

何故なら、もしも我我が深く釈迦又はキリストの教えに帰依して居たのであれば、此の社會を滅ぼさんとする邪悪な流れに対しむしろ「ありがたう」とさえ言えることであらう。

 

ところが邪教の教祖を信じる余りにか「コロナが悪い」と云うレッテルをコロナに貼りまた「自分は正しいのに悪いコロナが来て正しい自分を苦しめる」との誤った認識を繰り返すと云う始末だ。

 

其のやうな邪な心ではまるでもって此のコロナ苦を終息させることなど出来ぬ相談だ。

 

 

其処でまずは釈迦又はキリストの教えに帰依することとしてみた。

 

すると、「コロナが悪い」のでは無かったことにまずは気付く。

 

尤も宗教的には其れも当たり前のことで、何故なら其れは眞理からはほど遠いところを歩み過ぎた文明の内容が陥る必然の態でもまたあった訳だ。

 

 

但し宗教的な捉え方が価値の全てでは無いことだらう。

 

特に経済対策や科学技術からのコロナ禍へのアプローチこそが現實的には大事である。

 

哲學や宗教は人間の根本の部分を問うていく為の観念的アプローチなので無論のこと其れがほんたうのほんたうの意味では大事な領域なのだがまさに其れが現代人にとってはもはや意味不明の領域であることもまた否めぬ部分なのであらう。

 

 

で、其処であえて宗教をやるとなるとむしろ邪教の教祖様を頑なに信じて仕舞ったりもするので全くのところタチが悪い訳だ。

が、科学技術を信じるよりは其れはまだマシかとも正直思うのである。

 

しかも其の信ずるに足らぬ科学技術によりコロナをやっつける他無いと云った矛盾に陥る様こそがむしろ實情なのだ。

 

 

現代社會が抱える其の深い闇の部分、根深く堆積する其の罪と煩悩の部分は文學を始めとする文の領域では決して其れを解決に導くことが出来ない。」

 

其れにつけてもまたイキナリ怖いことを申されたものですね。

 

でもほんたうのことですので要するにまるでほんたうのことですよ。

ではどうすれば良いのですか?

 

かうして何度も何度もお尋ねしますが一体どうしたら良いのですか?

 

まあどうにもなりまへんな。

 

でも意識が高い系の方々は皆様御自分で解脱に至るか又は神と一心同体になることを目指す、即ち「目覚める」為に今を生きて居られやう筈だ。

 

では其の意識が高い系のおまえ自身はすでに「目覚めた」のか。

 

 

まるで目覚めてなど居ません。

 

其処はまるで今太宰であり今鴨 長明ですのでソコの辺りをウロウロとしつつ色んなことを考えて居るばかりでなので御座ります。

 

で何故「目覚め」ても居ないのに社會に対し「目覚めよ!」などとやって居るのだ。

 

あ、でも實はソコだけは目覚めてます。

 

社會に問題が大きく存して居ることだけはもう中学生位の頃よりハッキリ分かって居りましたが故に。

 

 

では其の社會の一体何が問題ですか?

 

其れは前々から申して来て居るやうに抽象的価値の履行ー合理的世界観の確立ーが過ぎたことから具象的限定が引き起こされて居るものかとも思う。

具象的限定とは具象的破壊と云うことでもあり重要なことは其の破壊が自然の範疇を離れて仕舞って居ることだ。

 

たとえば鳥は空を飛ぶのだが文明の場合は金属の塊を加工することで其れを飛ばして仕舞うことだらう。

 

まさに其れがオカシイとさう述べて居るのだ。

 

 

何処がオカシイ?

何故なら金属の塊が空を飛ぶことはいざ感覚にて捉えればまさに其れはオカシイことだ。

 

そんなことを言い始めたら文明の諸価値はみんなおかしくなるのではないか。

だから其れがオカシイと思う心もまた必要だとさう述べて居ることがまだ分からぬのか。

 

其れに宗教的な価値もまた是非必要なものだったのだ。

あえて其れを合理化し罪だの煩悩の深さだのに不感症になってる文明其のものがむしろオカシイ訳だ。

 

 

さても君は文明を全否定して居るのだな?

うーん、さうでもないね。

 

文明其れ自体よりも文明のあり方、考え方其のものに誤りがあると云ったところではないかな。

 

つまりは其の思考の方がオカシイ?

 

さう其の思考こそが何よりオカシイ。

 

 

では何故釈迦が解脱を目指したかと云うことに就き深く考えてみやう。

 

私は今其れは抽象的に齎される破壊を阻止する為だったのではないかとさうも考えて居る。

 

たとえば先にも申したやうにコロナ禍は今社會に対し具象的限定を齎して来て居る。

 

だが元を辿ればまさに其れは文明の抽象的欲望が齎すものなのだ。

 

抽象的欲望には同質化ー画一化ー及び拡張化ー非限定化ーとしての原理が働き易い。

 

つまりなるべく社會が安定的ー計画的ーに大きくなると云う形態が其処に恒常化されて仕舞うこととならう。

 

 

対して具象的願望ー前近代的な願望ーは元々不安定で計画し切れぬものなのでまさか其処まで大きくはなれない。

 

すると近代とは其の計画的によりデカくなると云う人間の抽象的願望を實現したものだと云う事か。

 

つまるところはさうである。

 

其のことをかって私は「人間の巨大化=巨人化」だとして述べて居た筈だ。

 

 

其の人間の抽象的な願望はいつしか具象的な欲望への供給源としての仕事を離れ具象性其れ自体を圧迫する程に肥大化して仕舞う訳だ。

 

たとえばAIに於ける所謂シンギュラリティの問題や環境破壊の大問題などもまさに其のことにより齎されて居ることだらう。

 

 

では不安定で且つ貧乏でまさに小さくなって生きてる方が人間の社會にとっては良いと云うことなのですか?

 

だって釈迦もキリストもいつもそんなやうなことばかりを仰って居られた筈でせう。

 

釈迦の場合は此の世から人間を消して仕舞うことがむしろ良いことだとされキリストにせよ此の世では救われぬから神を信じあの世でもって是非パラダイスへ行きませうとさう申されて居るではないか。

 

つまりは人間がデカくなり過ぎたが故にまさに其のことにより現世の大破壊がたった今進行中であるとさう云うことなのであるか。

 

 

さうだ、つまりは人間がデカくなり過ぎ其のことにより現世での大破壊が進行中なのだ。

 

で、今まさにソコをどうするかと云った点だ。

 

コロナ禍がもし終わったにせよ今後は其れこそ次から次へと大問題が文明に対し突き付けられて来ることだらう。

 

 

さうして其の「破壊に対する破壊」はおそらく止むことが無い。

 

まさに其の「破壊に対する破壊」を釈迦やキリストは其の優れた心の感度にて分かって居られた可能性がまた高いことだらう。

 

だから釈迦は人間なんて此の世から消えた方が為になるとさう思われキリストは神の國へ入らぬ限り人間の幸せなど無いとさう見做された訳だが實はどちらでも其れは正解である。

 

正解じゃないのはむしろ社會の方だけなのだ。

 

 

でもソコまで言われると何だか気分が悪くなって参ります。

何故社會つまりはみんなをもっとあたたかく抱き締め、サアもう大丈夫だ、もうコレで人類は文明は安泰だ、などとは言って下さらぬのですか?

 

だから其れはな、優しさとは愛じゃないー谷川 俊太郎氏によるーからなのだよ。

 

優しさとはな、鞭のことだまさに此の言葉の鞭のことだよ。

 

 

かうしてどうも釈迦とキリストは文明の自爆の様を予知されて居たかのやうだ。

 

「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くだろう。わたしは自己に帰依することをなし遂げた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。その思いをよく定め、おのが心をしっかりと守れ。この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみを終滅するであろう」ブッダの遺言:自帰依と法帰依より

 

それにしてもこちらの方はまさに鋭い指摘をして居られる。

ちなみに私も「わたしは自己に帰依することをなし遂げた」と云う部分に全ての鍵があると今感じて居るのである。

 

まさに其の自己と法とに帰依せよとの部分にである。

 

其の自己と法とに二元分裂するのは概念にて規定される認識としての常なので其処は仕方の無いことである。

 

 

さてでは何故自己を無くす=無我を説いた筈の釈尊が逆に自己に帰依せよなどとさう述べられたのだらうか。

 

其れが實は「無我」では無く「非我」だからなのではないかと私は考えて居る。

 

其の非我としての我を生きる限り人間に解脱ー悟りーは無い。

 

つまりは非我では無い眞我としての我を其処に見出さねばならぬのであらう。

 

眞我としての我に利己心は無くまた下らぬ欲望なども無い。

 

其の自己にこそつき従い同時に法と云う眞理に従い生きることでようやくのこと修行は完成する。

とさう述べられて居るのではなからうか。

 

 

対して現代文明と云うか兎に角文明の壱員で居るより他無い我我個はむしろ非我の方に雁字搦めとなりまるで価値観が狂って仕舞って居る。=文明による洗脳状態にある

 

また👪が居れば其の👪に縛られ動物が居れば其の動物に縛られまた会社に縛られ学校に縛られおまけに金にも縛られおおまるでマゾヒストプレイのさ中のやうなものではないか。

 

だから私は昔からさういうのが嫌いだ。

そんな主体性に欠ける生き方が一番癪に障るのである。

 

其のマゾプレイの好きな奴等が沢山集まりおお、あんな風に赤信号を渡って行くぞ。

 

と云うやうな認識でもう長いこと居りましたのですがどうですか、其処こそが如何にも憎たらしいことだらうか?

 

そんな私ではあっても根が純粋且つ過敏でまるでガラス製のやうな詩人ですので此処弐箇月ばかりは其のマゾヒストプレイ共の圧力にやられもはや立ち直れぬやうなまでの精神的打撃を受けておったのです。

 

 

尚其の唯一神への絶対的帰依に就いてですが個人的には其れは否定すべきものでは無いとさう考えて来て居る。

 

何度も申して来ておりますが自力救済と他力救済は二元分裂での救済の概念設定だと云う事なのです。

 

故にあえて言えばどちらも正しいとさう申せませう。

 

其の概念設定に対する哲學的考察もまた近くする予定で居ます。

 

概念設定と際限無き抽象的欲望とがリンクして居るが故にそも文明がこんなんなって仕舞って居る事かと思われますので。

 

逆に申せば究極的には概念設定を解除せずば解脱は無くよって他力救済にて人間が本質的に救われる訳では無いのだとも思われる。

 

 

なのですが唯一の絶対的存在としての其の神により現實としての心が救われるのであれば其れは其れで素晴らしいことではありませんか。

 

では最後に今私が目論んで居る概念的な企みに就いて少しだけ述べておきませう。

 

 

私はさうして意図的に社會での価値観から己を護り藝術的に形成される創造的自我の方をこそ生きようとして居る訳だ。

 

こんな腐り切った社會に対してはもはや何を言っても無駄と其れを意図的に無視することでお家時間を充實させ其れこそじぶんなりでの具象的限定を行って居る訳だ。

 

具象的限定?

 

一体何のことだ其れは?

 

いや其れも何も、全部が眞我を形成せんが為の方策ですよ。

 

すると其の創造的自我こそが眞我なのか?

 

 

其れも社會がこんな時に創造的も何もあったものじゃ無くみんなが飯を食うだけで精一杯だと云うのに全く呑気なものよのう。

 

だからまさに其れが脱社會より得られるもののことじゃありませぬか。

 

つまるところ社會は社會でじぶんはじぶんなのですから勿論誰にも迷惑など掛けて居りません。

 

じゃあ此の侭に政府の甘い対応が仇となり日本の社會が滅びたら一体おまえはどうするのだ?

 

おまえも社會科を人に教えたことのある人間の一人として其れに殉ずるのか、つまりは腹を切るのか?

 

 

いえ逃げます。

 

何処までも何処までも逃げて参る所存です。

 

何処までも何処までも逃げて行き其処でもってかの鴨 長明でも是非読んでみたい。

 

 

偉い!

 

この期に及んでまだまだ御勉強をして行く意欲がさうしてあるのだな。

 

まあ其れも御飯が食べられて居る間のことでせうがね。

 

 

尚其の「自己に帰依すること」即ち自帰依、自灯明の教えに就いてですが、以下での五木 寛之先生の番組中にも其の場面がしかと出て参ります。

 

 

【21世紀仏教への旅】第一集 ブッダ最期の旅 インド

 

ー色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり。
この色はまさに有るに非ず、受想行識もまさに有るに非ず。
この色は壊あり、受想行識も壊あり。
故に我に非ず。

 

 

此処にも非ず、非ず、とさう述べられて居ます。

 

即ち我は無いのでは無く有るが其れが眞の我には非ず、と云うのがより正確な佛法解釈なのではないかと拾年程前から私は考えて来て居ます。

 

謂わば見えるものに拘るのが嘘の我、偽りの我であり俗世間での価値観はむしろ其の我により組み立てられて居る、即ち価値ヒエラルキー化をされて居る訳です。

 

但し大衆レヴェルでの感度での此処からの脱出はほぼ無理でせう。

 

 

さらに大衆は哲學することなども大層苦手である。

 

そんなものがアナタそも解脱などしやうが無い筈ではありませぬか。

 

 

さうして此の「無我」と云う訳語こそが曲者であり只でさえ難解な佛法を余計に分かりにくくして居るのではないか。

 

なので諸法無我→諸法非我、諸行無常→諸行非常、と云うやうに私の場合は努めてさう言い換えても来て居る筈です。

 

 

ー「真実は無我なのに、もし我ありと答えたら、固定不変の自己が永久に続くという常見じょうけんという迷いに陥るであろう。
しかしもし無我と答えたら、彼は死ねば無になると誤解して断見だんけんの迷いを深めるのだ
」ー無我とは?より

 

其の我の有無に就き實際には釈尊は無記にて答えられた。

我の有無に就き其れを二項対立の概念の選択として取り扱わないと云うことなのだらう。

 

だったらむしろ無我ではイカンのではないでせうか。

 

なので其れを非我の問題として取り扱い、非我と云うからには眞我が何処かに有る訳なので其の眞我こそが佛だと云う事になりませう。

 

 

さうして佛陀の説く眞理としての不常不断の中道とはまた難しい概念でありよって其れを理解することもまた難しい。

 

なので眞我が何処かに有る、其れは修行することにより自らが見つけるものだ、さうだ「わたしは自己に帰依することをなし遂げた」と云う其の自己とは非我としての常識のことでは無く個としての眞我のことだ。

 

とさう理解致しますと概念的には至極スッキリ致します。

 

所謂輪廻転生と佛法との関係性に就いては此れもまた難しい問題を孕んで居りませうが其処でもまた眞我が有るので輪廻転生するのだとさう考えても良いやうに思う。

 

 

但し個人的には輪廻転生はしていてもまたしていなくてもまるで良いやうなことだと思います。

ですが、個々の魂と申しますか個としての生命には必ずや其の気性と云うものが御座ります。

 

丁度先程も述べましたやうに哲學的な思考が出来る人と出来ぬ人とがあり、また👩が好きな人が居れば逆に嫌いな人もまた居る訳でして其れは皆それぞれにさうした気質を持ち實際にかうして此の世を生きて居るのです。

どうも其の気性は生まれついてでのものであるやうに思えてなりません。

 

と申しますのも、私自身は其れこそ幼稚園児位の頃から全くの私自身にて今でも其の頃より微塵も変わって居ないからなのです。

 

かうした不思議さを考えますと或は其の我的な気性、性格の違いのやうなものは時空を超越する形で継承されて行くのかもしれません。

 

また頭脳の優秀さの程度とはまた別に悲観的な考え方をする人と樂観的な考え方をする人とがありますが其れなどもまた全く不思議なことです。

 

 

悲観的⇔樂観的

 

其処は所詮相対分別による世界観である他は無い人間の認識ですので其れを一つに纏めることなどは出来ず従ってどちらも有ってしかるべきなのだらうと個人的にはさう思います。

 

ですが観念的な人程悲観に傾き易い傾向があるが故に其処は是非注意が必要です。

 

事實として釈尊は断見の方へと傾き易い知識層に対しては此の世が常見であることを説き、逆に常見に捉われた俗人には断見的な世界の見方を説かれても居たやうだ。

 

なのですが文明に対しては今こそ是非断見の方こそが説かれるべきなのではなからうか。

いやコロナ禍がすでに其れを文明に対し説いて来て呉れて居る筈なのです。