其の社會がおかしい、つまりは社會が迷走して居ることと佛法が説くやうに人間の認識其れ自体が迷いにうち沈んで居ることとは哲學的には違うことかとも思う。
でも其の根の部分では問題のあり方は同じなのかもしれない。
社會の迷走とはみんなでやる迷走なのでより厄介と言えば厄介で人間存在としての個が抱える問題とはまた違った集団心理での問題であり歴史や人類其れ自体の課題なのでもある。
但し其の酷い社會の迷走はたとえば合理的に解決し得る筈だと私はさう考えて参りました。
つまるところ人間を止めるー此の世から抹消するーには佛法が是非必要な訳だが社會を修正するのはむしろ所謂社会科学としての領分のことだ。
其れでもって社会學者は一体全体此れ迄何をして来たのだらうと正直さう思いますのです。
でもって壱文人として其処で何を考えたのかと申しますと社會と個ー己ーの間に境界線を築き個の側のことだけを考え且つ論じて行きたいと云う一種の個人主義へと至りました。
其れは利己主義なのだとも言えるのかもしれぬがでも此れ以上社會の問題と関わって居るとほんたうにじぶんの方が破壊されかねぬ訳だ。
また其れは今多くの日本人の皆様の思いなのでもあるのだと思う。
なのですが日本人の多くは其の民族としての心理的性質から云ってもまさか其の社會を捨てられぬ訳だ。
でも私はこんな変わり者ですので喜んで捨てたりますわ、はい、捨てた、ああー何だか至極せいせいしたわいな。
ですから人文理性と云うか社會科の理性と云うかソコのところがまるで機能せずたとえばTVでは芸能人やお笑いタレントが其の社會の現状に就きしたり顔で論じて居ることなどがまずは変だ。
きっと學問の分野が専業化、専門化され過ぎおまけにTVに出て来るやうな學者は大抵が出たがりの変な學者が多いのでむしろ眞面目な社會學者が仰って居ることなど我我の耳には届かぬと云うことなのだらう。
さう言えば中学の後輩に一人社會學者が居りますのですが、さても彼は最近一体何を述べて居るのだらうか。
さて釈迦は社會ー他ーを変えることは出来ない、などとかって述べられて居たやうです。
其れはおそらく自分が変わらずば社會は決して変わらぬと云うことなのではないか。
さうして佛教は社會を変革する為の教えでは無く自己の認識を変えるつまりは認識を正す為の教えなのだと理解される。
ちなみに私個人の仏道修行歴は實はとても長くすでに参拾年以上となる。
なのではありますが其の間常に真摯に佛法と向き合って来た訳では無く主に哲學的に即ち内面として佛法とは向き合って参りました。
其の理由は先にも述べた如くに文明論との付き合いが長くまた勤めの方もあり実践的に佛法と関わる時間が其処には無かったが故にです。
ですが其の中でも若き頃にはとある宗教団体とも関わり其処で仏道修行としての基本的なものを学び其れを教える側の資格を取ったことなどもありました。
なのではあってもほんたうの意味での仏道修行が始まったのはむしろ其の後のことで其処では主に原始佛教の方へと至り其れこそ様々な著作に触れても来ました。
要するに後者の方では本を読んだだけのことなので實践的なものは何ひとつ学んでは居ない訳だ。
兎に角社會生活の方がさうして忙しかったのでさうして社會に振り回されつつ自らの心の中でのみ佛教哲理のやうなものをまさに自己流に組み上げて居ただけのことだった。
だが此のコロナ禍にて気付かされたことがひとつだけある。
其れはコロナ禍に対して世間の常識ー世俗としての価値ヒエラルキーーはまるで通用しないと云う事實でした。
其の世俗としての価値ヒエラルキーにて其の種の大きな社會的課題を解決に導くことはまず難しい。
と云う事は、問題がより根本のところへと遡及されまさに人間存在が抱えるだらう本質的問題の辺りにまで戻って仕舞って居る訳だ。
地球温暖化の問題を論じた時にもまさにそんなことを述べたことが御座いましたが、現代の文明が抱える大問題とはさうしたより事の本質を問う問題でありより根源的な何かを問うであらう問題其のものなのです。
其のやうな折に學者が専門外のことは何も述べられない、だの、また作家の先生方でも御自分の作品を仕上げる為に時間を費やすのは其れは仕方がなからうが、まさに我のやうに捨て身にて此の大問題に立ち向かい、揚句の果てにはついに何かにやられ倒れたと云う其のけなげなる努力と人類全体を思う心、おお、其のまるで暖炉の如きあたたかい心が何故理解出来ぬのか。
まるで暖炉の如きあたたかい心?
むしろおまへは毎回毎回文明を罵倒し馬鹿とか阿呆だとかウンコたれだとか兎に角そんな悪口雑言ばかりを連呼し自らの鬱憤を思い切り此処にて晴らして居たのではなかったか!
ついに見破ったな、我の本心を。
まあいいでせう、此処からは眞面目に佛法に就き語って参りませう。
まず世俗としての佛道修行と本職の僧侶の方々にとっての佛道修行とはまた別ものなのだとさう思われる。
特に新興宗教に於ける佛道修行は世俗としての価値観を離れるものでは無いが故に余程に注意が必要です。
つまりは其処で佛法を信じる訳では無く其の教義の上に立てられた教祖様自身を信じて仕舞って居るからです。
でもおまえの場合も實は似たやうなもので、何故なら君はじぶんの観念を佛道修行だと何か勘違いして居るやうだが其れは只の自称哲學であり佛法とはまるで関係無いものなのではなからうか。
だから私の佛法は文學であるに過ぎぬと其処は前々から何度も述べて来たではありませぬか。
故に私は眞理を語って居るのでは無く文學としての其の私の心の中での佛法との関わり合いを述べて居るだけのことです。
さて、昨日以下の番組をTVにて視ましたが其処から大きく感銘を受け其の部分に就き以下に書きます。
こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する1
まず其の瞑想に就いてですが、個人的には其れをさほど重視しては居りません。
何故なら個人的に常に集中し何かに就き考えて居るやうな人間なので基本的にはいつも所謂動禅状態にあります。
だから瞑想じみたことをするのは其れこそ年に弐度程奥三河の山中に入った時のことだけで現状で其れが程良いバランスのやうにも思って居る訳だ。
なのではありますが、瞑想の本質的意義とはまさに其の分別する自己としての観念的営為を滅することにこそあるのでせう。
其の意味ではむしろ今の私、またこれからの私にとってはむしろ一番大事なことなのやもしれません。
其の「考える」ことに就いては、私は考えることは大事だとさう思って居ます。
何故なら近代的に規定された社會の矛盾に対抗する為には個としての思考力が何より大事なものとなるからです。
近代的に規定された社會の矛盾ー問題ーに対しては佛法と云う本質論的な論議では無く社会科学からまた科学技術からのアプローチこそが最も有効であることでせう。
ですが、無論のこと其れだけでは人間存在が抱える本質的矛盾を解決することなど出来ません。
其れが出来ぬことは分かっては居るのですが、とりあえずは大問題に対し時を稼ぐ為にはむしろさうして行くより他ありません。
また文學にせよ其れは決して実効的に大問題に対し機能するものでは無い。
文學もあくまでまた其の本質的なもののありかを問う場であり其れでもって現實的に社會としての明日が救える訳では決して無いのです。
藝術とは所詮はそんなものなのですが、其れでも猶私があえて今藝術の力に拘るのは其れがまさに個としての力によるものだからなのだ。
逆に近代以降の社會化されし宗教の領域はさうした意味での個としての純粋さを離れ其処でもって社會的にヒエラルキー化されしかも教祖様が威張る場とも化して来て居る。
但し其処は藝術にせよ権威化し且つ高額化して居ることだらうまさに腐ったやうな商品としての場なのですが其れでも猶我は新興宗教の教祖様だけには従いたくは無いのであります。
元より私にはそんな反骨としての心性が色濃くあるので其処に限ればむしろ宗教向きなのでは無くむしろ仙人向き、つまりは文人系の世捨て人のやうなものなのだ。
なのではあれ折角かうして内面にて様々にやって行ける性分の人間ですので其処はむしろ其処の部分でやって行くことの方でこそ自己實現が可能な訳だ。
尚其の自己實現と云う概念其れ自体がまた佛法とは乖離して居りませうが其れも本質として自己を問うた時の話に限り近代を生き抜く上ではむしろ其の自我執着こそが大事です。
ですが其の自我執着からこそ諸の苦は生じると佛法は説きます。
故に本気にて解脱を目指す限りは是非其の自我の意識をこそ滅して行かねばならない。
ところが釈迦はむしろ其の最晩年の説法で「自己を頼りに進め」とさう仰られた。
其の自己こそが眞の自分、即ち眞我であるところまでは前回説明させて頂きました。
では其の眞我をどう形成して行くのでせう?
其の眞我の形成は然し並大抵のものには非ず。
でも結局其れは所謂観想によりまさに成し遂げられて行くものなのだらう。
ー仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。止(シャマタ:奢摩他)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパシヤナ、毘鉢舎那)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる[3]。ー止観より
其の瞑想が止と観の二元論となることに気付いたことこそが今回私にとっての最大の学びの部分でした。
キリスト教の場合も明らに其の二元論なのですが原始佛教にせよ後の大乗思想にせよ矢張りと云うべきか其の二元論をこそ奉ずるものなのだらう。
止と観は併せて念処とも称せられる。
ー釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である[要出典]。
- 身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
- 受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
- 心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
- 法念処(法念住) - 諸法の無我を観ずる(諸法無我)
四念処より
で、現代人の皆様、其の不浄観って何のことやら果たして分かりませうや?
まるで分からないことでしょう。
でも私はかってさうした認識を持って居ました。
何故なら幼い頃私は所謂不潔恐怖症だったからです。
其れを偉いなどとさう威張って居るのでは無くさうして感覚が普通では無かったが故に分かることもまたあったと云うことをまさに述べて居ります。
また其の頃は肉食さえをも體が受け付けませんでした。
ですが小学校の高学年の頃に親により矯正され逆に肉は🐟以外なら何でも食うやうになりました。
言わば其の不浄と云うことは、私にとってはむしろ当たり前のことだったのですが世間にとってはまるで通用しない感覚其のもののことでした。
故に私はまさに世間の逆を悩みに悩んで来たとさう言える部分を確かに持って居ます。
しかも其れは生まれつきのもので自分で選択して得たやうなものでは無かった。
ですので、其の一切皆苦と云う概念なども元々分からぬ訳では無い訳だ。
むしろソッチの方へと傾き易い人間なので自然と其れが良く分かる訳だ。
さて問題は、まさに此れ等の概念が世俗に於ける価値ヒエラルキーとは眞逆の価値基準となって居ることです。
故に世俗の壱佛道修行者として其の価値を世俗流に焼き直し解釈などすべきでは無い。
要するに社會に身を置く者として都合の良いやうに佛法の内容を解釈などしては断じてならぬ筈だ。
第一釈尊は👩には触れるなとさう述べて居られます。
でも我我世俗の者はむしろ此れ迄に充分👩にまみれて来ても居りませう。
ー四つの道理に背く見解。すなわち、凡夫が無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。これを
其の世俗の価値観とは基本的に眞理とは眞逆の認識作用が生み出し其の誤った認識作用を基に価値ヒエラルキー化されて居るもののことだ。
謂わば眞理とは眞逆の価値観にて全てが構成されて居る訳だ。
有為⇔無為
観念ー概念ーとは分離ー分裂ーですので生滅変化としての苦ー迷いーがあれば他方に常住不変の樂ー眞如ーが形成されます。
観念ー精神としての認識=主体ーと物質ー物としての客体ーは相互に影響し合いー相即しーさらに矛盾的にいがみ合い-相剋する-もします。
其の認識其れ自体を佛法は迷いー誤りーだとして断ずる訳だ。
ですが其れ、實は人間の否定に繋がることでもまたある訳だ。
だからオウム教の事件などあれはひとつの必然でもまたあった訳です。ーオウム教が佛法の影響を受けて居たこともまた否めぬ訳ですー
ではズバリ申しませう。
聖なる認識、其の清らかなる認識とはむしろ人間であることを否定して行くことにこそある。
但し有為が否定されると同時に無為もまた否定されて行く訳だ。
有為✖且つ無為✖
佛法では此の両極否定が屡行われて居る。
其れこそが即ち釈尊による中道としての概念規定のことだ。
では一体何が正しいのですか?
即ち有為でも無く無為でも無い分たれること無き心の流れとしての中道こそが正しい。
概念規定としてはさうなりませうが、解脱にとっての其の核心部とは實は観念ソレ自体の抹消にこそある。
観念を消しますともはや人間じゃ無くなりますが…。
だから其の人間じゃ無くなることこそが佛法の目的なのです。
もう何言ってるのだかまるで分かりません。
タダでさえコロナにみんながやられかうして苦しんで居ると云うのに…。
だがそんなものは本質的苦では無い。
本質的な苦とはまさにおまえの其の観念にこそある。
さても果たして今どちらの方が教えを説かれて居るのですか?
かうして自称佛教詩人が今説いておる。
其の自称佛教詩人に限らず、考えることが好きな人は声聞、縁覚的な悲観論に陥り易く要するにマイナス思考へと傾き易い訳です。
ですが佛教とは實はマイナス思考ではありません。ー究極的には至樂を追い求めると云う意味でー
一切皆苦は確かに超ネガティヴ思考ですが此の世はそんな一切皆苦なのでたった今華厳の滝から飛び降ります、では無く謂わば悲観も樂観も同時に否定し観念其のもの、概念其のものを消し去ることこそが佛法としての要諦です。
故に其処ではぜんたいのことを考えずー感じずー部分的利益に終始しー諸欲に捉われー自らの魂を汚して行くことこそが生存の本義とならざるを得ない。
即ち生存の本義とはむしろ穢すもの、壊すものに全的に捉われることだ。
其のやうな認識をして居る限り常樂であり浄土である彼岸へと至ることなど決して無い。
よって認識其れ自体を念処ー止と観ーにより整え名色の分離智へと至るべし。
其の念処にて是非戯論を抑えよ。
其のやうな概念否定ー観念否定ーをなす為にこそ瞑想を行う訳だ。
其れは概念ー観念ー其れ自体が戯論であり故に本質的には其の戯論としての迷妄ー虚妄分別ーを去らねば常樂の境地は無いからだ。
彼岸ー動じない佛の境地ー⇔此岸ーせわしなく動き回る現世での価値構築ー
其の此岸とはまさに今此処にある我我の住する世界のことです。
我我は今此処に居てこうしたい、ああしたいなどと余分な欲望に苛まれて居る。
なのですが其の欲望は本質としてかなえられることが無い。
何故なら世界は具象的に限定されて居りー諸行非常ー眞の我による認識には基づくものでは無いー諸法非我ー虚妄のものであるに過ぎない。
でも妻は子はかうして此処に居ります。
だから様々なものが必要となりアンタみたくオレは藝術に生きるのだなどとそんな世間離れしたことを言ってたら皆に笑われませう。
笑われやうがどうしやうがオイラはとっくの昔に其れを捨てて居るのだよ。
第一縛られるだらう心が、そんなしがらみにこそ。
今に拘泥することなどもまた愚の骨頂だ。
其の今は迷いの今なのだ。
其の迷いの今を大事になどしてどうする?
でも禅とは今に生きることなのでせう?
其の点に就きこちらで元名古屋大學教授の中野 紀和男先生が物凄く理性的な佛法解釈をなされて居ます。
仰るやうに「今だけを大切にして生きる」などと良く説かれたりもする其の「今」の解釈は間違って居るのだと私も思う。
むしろ其れは逆です。
今を滅する即ち相対分離することの無い自我を目指さねばほんたうの今は我我に訪れない。
じゃあ我我にとっての「今」とはウソの今なのか?
此処でも先生が仰って居るやうに「今此処」と云う生体験の連続としての瞬間の積み重ねこそが生を形作って居る。
其の瞬間瞬間が果たして大事なのだらうか?
大事だと捉えるのであればまさに其れは有為であり逆に常見に傾き大事で無いと捉えるのであれば其れは無為であり断見へと傾くこととなる。
其の有為と無為の二元否定、常見と断見の二重否定をしてこそのー概念的な意味でのー解脱であり正しい事象の見方なのではなからうか。
また其れは「生き方」の問題では無く事實其のものだと先生は仰る。
全く凄く理性的な佛法解釈ではありませんか。
確かに其の事實の正しい認識があってこそ生き方の指針や道徳が其処に成り立つ訳だ。
尚私個人も其の「今」の解釈には困り果てて来て居ましたのですが最近になり此処にて其の「今」の二元論を述べて来て居ます。
即ち今には二種があり其れは分離された今と分離されぬー永遠のー今とです。
もう少し噛み砕いて申しますとまさに其れがウソの今とほんたうの今だと云う事です。
では我我が生きて居る今此の瞬間とは果たしてどちらの今なのだらう?
残念ながらまさに其れこそがウソの今なのです。
逆に言うと其れがウソの今の集積だからまるでウソみたく社會がボロボロとなって行く訳だ。
釈尊は其のウソの今を大事にし且つ続けよなどとはまるで仰ってなど居ない。
釈尊は逆に「今」を滅し常樂へと至れとさう申された筈です。
つまりは我我の認識其れ自体にそも過失または過誤または負債つまりは間違いがあると云った話のオチです。
またつまりは其の過ちを正し正しい認識と云うか穢れ無き明らかな認識に至ることこそが佛法の目的なのです。
「今だけを大切にして生きる」
一見すると良い言葉のやうに聞こえまさに正しいことのやうにも思えます。
でも其処を疑ってかかっていらっしゃる元名大教授の知性にこそ私は感服致しました。
「今だけを大切にして生きる」
ですが私は今此の価値観を否定するつもりなど無くむしろ座右の銘となしていきたい位です。
一体其れは何故でせうか?
其れと申しますのも私は藝術の方をやらねばなりません。
弐箇月前に藝術のことを書くことを二人の🚺にさう約束致しました。
でも其の約束を破ってでも宗教ライターにでも是非なりたい位です。
何故ならかうして宗教的闘争をして居る時がむしろ自分として一番樂しいからなのです。
其のやうに宗教は人間にとっての根源的本質をしかと見詰める訳ですが藝術もまた違う場にてまさに其のことを見詰め続けて行く。
故に私は其の選択に於いて大いに悩みました。
かうして物事を観念的には把握し得る人間であるが故にむしろ其の種の苦を与えられたことだったのだらう。
今一度述べますがむしろ其の相対分別されし虚妄としての今と云う認識に拘泥するな、むしろ其れを放棄せよ、と云う位のことがまさに眞理としての認識のことなのでせう。
じゃあやる気が無くても良い?
やる気など初めから無い方が良い。
でも其れでは生きられぬから逆にやる気を出して今を生きて行かねばならぬ訳だ。
ー本質的には生への意欲は最終的に自己矛盾する。宗教は其処から人間を救おうとする。でも藝術は其処から逃れず悩み苦しみのたうち回りつつ作品だけを此の世に遺す。ー
今詩人は其の創造的自我にだけは向いて居ると云うことなのです。
彼岸ー佛の境地ー⇔此岸ー現世での価値構築ー
其処からしても彼岸にはむしろ何処にも「今」が無い訳です。
逆に捉えれば「今」は今此処と云う我我の認識ーの癖ーに起因するものなのだ。
すると「今」とは分離即ち時と云う分離に過ぎぬ訳だ。
其の分離ーウソーにしがみつくのが我我大衆で、対して聖人は分離ーウソーなどにはしがみ付かず彼岸を見詰め生きると云うさうした意味です。
左様に佛法とは此岸での二元対立ー弐項対立ーを超克する為の教えです。
従って至極哲學的でしかも科学的なものでさえある。
其れ即ち新興宗教の教祖様の妄想とは其れは別物だと云うことだ。
だから其れを學ぶにはとりあえずは理性が要ります。
故に理性無き教祖様への服従ほど危ないものはありません。
苦は迷いから生じる。
迷いとはウソを信じることである。
なのに我我は其のウソを信じ続け永遠に続く今を生きる。ー永遠其のものでは無くー
だから何だか余りにも人間が可哀想だ。
まさに其れぞ慈悲の視座でもまたあることだらう。
最後にひとつだけお尋ねします。
そりゃ何でせう?
我我人間は馬鹿なのですか?
馬鹿も悪も所詮は相対概念です。
相対概念を離れぬ限り馬鹿からも悪からも決して逃れられぬ。
また利口からも善からも決して逃れられぬ。
ひいては生からも死からも病からもまた老いからも。
其れは凄い、流石は藝術家の言葉だな。
いえ僕は今藝術家としてでは無く壱佛道修行者としてさう申して居りますのです。
現代文明にとっての今はまさに辛からう。
でも其の辛いのは社會が至らなかった故のものでみんなの持ってる認識上の馬鹿が悪い訳では決して無いのだ。
みんなはむしろ其の侭に馬鹿で良い?
だから馬鹿は決して治らぬからまさに其の馬鹿でもって「今」を生きるしか無い。
かうして欲にまみれた限りでの今を生きみんなで樂しく遊んで是非滅びて行かうではないか!
なる程、すると今太宰や今鴨 長明の方がまだしもみんなにとり優しかったと云うことだな。
しかも其のお釈迦様が説かれた眞理よりも何よりも!
眞理とは、其の眞理とは其処に世俗の者が思い描くものとは比べ物にならぬ程の厳しい心の道程を其処に指し示すものだ。
さう眞理とは心の苦行のことでもまたある。
其れは人並みの情や常識的な発想、またさうして価値ヒエラルキーの上部構造に殉ずると云った大衆的な性質とは本質的に異なるものである。
貴方の佛道修行とはさうして何処までも己としての佛への観念を磨いて行くことか?
さう其れも私には其れしか出来なんだが故に。
観念では解脱することは出来ぬが故にまさに其の故にこそかうして今観念を磨き続けるのだ。