松山英樹が日本人初制覇を果たした「マスターズ」ってどんな大会?
私の場合はゴルフ歴が長かったー三十五年程ー訳ですが最近はゴルフに対する具象的限定ー足腰の調子がいま一つーを受け其れを続けられなくなって来て仕舞った。
尤も其れ以前にスポーツ其れ自体の意義と云うか意味と云うか其れが根本的に問われる社會のあり方となって仕舞った訳だ。
何故ならコロナ禍や地球温暖化の進捗状況などから鑑みるに其のスポーツをやる余裕が次第に文明から失われて行くやうに思えてならない。
實際我我の生活は今其れどころでは無い状態にある。
今文明は継続して行くこと其れ自体が難しい状況へと次第次第に追い込まれて行くかのやうです。
まさに其処が現代文明が抱える自己矛盾性の体現であり同時に未来に対し構築すべき価値の模索の時期であり文明自らが反省をなし其の価値観をシフトしていくべき課題を現實として突き付けられて居る様なのだらう。
文明の現在とはさうした意味での理念的転換が是非必要な時でありよって此れ迄に追求して来たやうな諸価値に対する根本からの問いかけを其処に投げかけて行かねばならぬことだらう。
事實上はさうした状況にあるので結局は全てが其の新たな価値の尺度より再評価されるべきで其の点に鑑みても要らぬ部分は是非切り捨てて行かねばならぬことだらう。
特にスポーツや藝術は文明が健康体であるべき時にあくまで機能するものであり其の文明其れ自体が病んで人々に余裕が無くなって来れば必然として限定されて行かざるを得ぬものであらう。
逆に言えばスポーツに興じ藝術に親しむことは社會に余裕が無ければ其れは成らないと云うことともならう。
其れにかうした食うや食わずの領域がもしも社會に蔓延するやうでは其れこそ文化や運動どころでは無い訳で其処で求められるものとはまず飯であり飲み物でもあることだらう。
其の食うや食わずでの領域がもしも社會に蔓延するするのだとしたら其れは二千五拾年以降のこととなるだらうと私は以前からさう考えて来ても居た。
従ってスポーツに興じ藝術に親しむことはむしろこれからの文明にとり「古き良き」時代の豊かさの体現其のものであり過去に存して居ただらう幸せでの形のことなのだ。
さうしてスポーツに興じ藝術に親しむと云う日常は今後否応なく圧迫され其れどころでは無くなって行くだらうと云うのが私自身が取る文明の基礎認識です。
故にスポーツに興じ藝術に親しむことは文明にとっての最後の夢の場としてむしろ今のうちに日々其れに親しんでおくべきだらう。
何故ならさうした役立たぬ価値、本質的にはあっても無くても良いやうな価値こそが實は我我の心や體を励まし此の辛い浮世での勤めに対し癒しを与えて呉れるものなのだからこそ。
但し其の領域は今後次第次第に圧迫されても参りませう。
其れも社會の合理化により其の役立たぬ方の価値からまずは切り捨てられて行く訳だ。
なのだけれども本当はむしろそちらの方こそが心と體にとっての糧となるものなのです。
要するに心にとっての潤いこそが文化であり體にとっての潤いこそが体育なのです。
将来もしも其れが無くなったとして、其れでもって人間は心地良く生きられて居ると其処で言えることだらうか?
社會としての其の利益の追求の為に、其の人間の妄想としての利益の確保の為だけに懸命に日々を生きる、まさにそんなディストピアとしての未来に対し我我個は果たして我慢が出来るのだらうか?
であるからこそ今私は逆に其の心と體の為の価値を肯定的に捉え直します。
但し、商業主義と結び付いた文化やスポーツを其の侭に認めるものでは無論のこと無い。
まさに其れは会社による資本主義や國家による経済的負担を其処に背負わされた不純なる価値観のものなのでさうしたものはむしろ全否定しておきたい位のものです。
また其のゴルフにせよ環境破壊を進めることでまた大金が動く近代的なスポーツとしての不純なる価値観の部分を免れるものでは無い。
なのでさうした抽象的に規定される大スポーツ大会や華々しい売買の場を離れむしろ個として具象的に其れを規定して行くべきことだらう。
なのではありますが、兎に角大スポーツ大会や藝術祭等が続けられるのは此処参拾年余りに限られることだらう。
だからむしろ其の機会を享受し今のうちに愉しんで置く。
さうした意味での其の實質的には役立たぬ価値を今こそ最大限に大事にして置きたいとさうも思う。
だからこそ其処でもって一般大衆が喜ぶやうな「優勝」だの克己努力だのと云った価値をむしろ否定しないこととしてみた。
其れにかってイチローが王や長嶋がまた青木やジャンボ尾崎や中島がスポーツ界を背負って居た時代は時代としてむしろ恵まれたものだった。
何故なら其れは文明にとっての自己矛盾が今程大きく具現化されては居ない時代だった故にだ。
此の度プロゴルファー松山 英樹はそんな時代にはやれなかったことをやったのですから時代が如何に悪からうと心中での展望のやうなものを我我に与えて呉れたのだ。
ですが、おそらく其れは薔薇色の未来への契機となるものではおそらく無いことだらう。
文明はまさに自己矛盾の度を日々高めつつあり其の未来は逆に閉ざされつつもあることだらう。
然し彼は其の人類にとっての根本的課題とは異なる次元での具象的課題をこなして行ったのだとも申されませう。
其の根本的には解決を齎さぬことだらう課題の解決が、其の役立たずとしての具象的構築がむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すと云った意味でさうなのだ。
翻り文化芸能のことを此処で考えてみませう。
文化芸能、即ち藝術には何が可能でまた何が不可能であるのか。
無論のこと其れは役立たずとしての非日常の集積のことなのです。
なのですが其れもスポーツと同じでそんな役には立たぬことの具象的構築こそがむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すに至ることだらう。
また其の役立たずとしての非日常の集積としての最高位には宗教的次元がありませう。
宗教もまた飯のタネにはならずで實際に其処でもって宗教的な活動に勧誘されたりしても普通は鬱陶しいばかりでのことです。
ですが、其の心の安定が無ければむしろ人間は生きて行けぬ生き物なのです。
人間は衣食が足り住まうことに不足さえ無ければ果たして其れでもって幸せなのか?
結局其れだけでは幸せではあり得ぬのが人間存在としての心のあり方なのです。
むしろ其の生存の維持には関係の無いところで役立たずなことを頑張ることこそが人間にとっての最も大事な価値なのだらう。
さて、かうしてスポーツとしての価値と藝術としての価値及び宗教としての価値を十把一絡げとなし今回は論じて居ります。
まずは其れが本質的には役に立たぬ価値の追求であることを先に述べた訳です。
何故なら動物にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことなどは無論のこと理解することなど出来ません。
動物、たとえば猫などには感情がありますが其れは抽象領域の価値を追い求めるやうなものなのでは無論のこと無い。
何せ彼等にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことを理解するだけの抽象的能力が常に欠けて居るのです。
だが其処が欠けて居るからこそ抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築に惑わされる必要も無い訳だ。
逆に抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築こそが場合により人心をして悪の方向へと惑わすことでせう。
故にスポーツや藝術、さらに宗教と言った抽象的な価値はむしろ具象的に展開される場にて正常に機能されるべきものなのだらう。
松山英樹に祝福続々 青木「待ち望んだ瞬間」ジャンボ「大偉業」中嶋「袖を通させて」
彼松山 英樹が今回成し遂げたことは往往にして國威発揚だの、また日本人の人種としての優秀さだのそんなところへと結び付けられて仕舞うことだらう。
實際にわたくしが年老いた母に今回の彼の快挙を説明したところでは其れはかって日本が日露戦争に勝ったことと同じ位重みのあることである、と云うものでした。
ゴルフを知って居る人には其の位の事實としての重みが其処にはある。
マスターズと云う大会は其の位に他のメジャートーナメントとは異なり特別なものだ。
ですが、あくまで私は松山 英樹個人としてのゴルフに向き合う真摯さが其の分厚い壁をこじ開け日本人にとってのゴルフマスターへの道を切り拓いたとさう見て居る訳だ。
其の意味では確かに社會的な偉業でせうが、其の社會的な意義を離れたところに彼の努力の本質はありむしろ其れは役立たずなことが齎す価値其のものであると私はさう考えて居る訳だ。
何故なら此のやうなご時世には其の役立たずなことが齎す価値こそが人々の心に灯を点けるからなのです。
同様に此のやうなご時世に人の心を晴れ晴れとさせ価値としての灯を心中に齎すのは資本主義に於ける諸の成功やグローバルな活躍や近代主義の履行の徹底としての科学技術開発や人権思想の履行にあるのでは無くスポーツや藝術や宗教が常に人間存在に対し語りかけて居ることだらう體と心に対する豊かさへの希求のことです。
左様にグローバルに展開されることだらう抽象的価値は我我に対し晴れ晴れとした気持を決して与えては呉れない。
だからまさに其処の領分にて松山プロの活躍を見て居てはイケナイのではないか。
尚私はもう拾年近く松山プロの大ファンです。
何より彼の男らしいところが昔から好きでした。
ー其れが私自身の心性の本質とは別のところにあるが故に滅法好きである訳だー
現在わたくしが考えて居ることとはかうして次第に追い込まれて行くことだらう社會の価値観に対するプロテストでは無く如何にして合理的に其処から逃れるかと云うことです。
と言えばまさにかの鴨 長明のやうな社會からの逃避行を地で行くものですが、其の鴨 長明に限らず古来より東洋の知恵の中には其の種の厭世観がしかと組み込まれて居るものです。
まさに其れは表立って批判しない言外での社會への批判のやうなものなのでもまたあらう。
其の逃避行としての武器と申しますか持ち駒が体育であり藝術であり信仰であるとさう申して居るのです。
其れも社會的に規定される価値なのでは無く個として保ち得るであらうスポーツであり藝術であり宗教としての価値なのです。
其のうちのひとつの価値の成就をまさに今彼松山によるマスターズの勝利と云う形でもって私は感じ取って居る訳だ。
さうして足腰が弱りゴルフを止めたのに何故其れがおまえにとりそんなに大きいことなのだ?
ゴルフも石採りも左程変わらず其の本質とは運動のことです。
また自転車に乗り買い物へ行くのも同じ運動です。
運動は體の糧となるもので他方で藝術や宗教は心の糧となるものだ。
其の糧となるものこそが具象的探究としての世界にはふさわしいものだとさう述べて居るのだ。
対して地位だの名誉だの金だの👪の存続だのを追い求めて生きることとは世界の抽象的な価値の探究を行うものであるに過ぎぬことだらう。
故に其の種の抽象的現實をあえて捨て具象的現實としての心身にとっての癒しの世界を生きて行くと言ったところだらうか。
さうして石や庭のツツジの花などの美しいものを見、相変らず小難しい数々の本を読み、さらに松山の活躍をTVにて視て勇気付けられたりもした。
真夜中にも関わらず其の中継を全部視たのか?
そんな具象的探究だけは實際何処までもやりませう。
でも社會の出来事にはもはやほとんど無関心なのだ。
たとえ社會にどんなに余裕が無くならうと其の食べて排泄する以外での価値こそが人間には是非必要である。
まさに其れが体育ー運動ーであり藝術ー文化ーであり信仰ー宗教ーであるとさう申して居るのだ。
2021-04-17