ANA過去最大の赤字でも「宇宙事業」設置 「いずれ救世主に化ける」3人の熱き思い
かうして長引くコロナ禍不況にて資本主義経済体制としての文明の価値が大きく揺さぶられて居ることもまた確かなことである。
コロナ禍其のものを具象的限定と捉える我はまさに其れが文明の価値観の転換点に当たることだらうと考えて来て居る。
まさに其れは市民革命ー民主革命ーでも社会主義革命でも無し得なかった理想としての体制への移行期なのではなからうか。
其の理想の体制とは然し、一種しょぼくれたものとなることであらうことが否めぬ訳だ。
何故しょぼくれて仕舞うのかと言えば、資本主義体制とはあくまで何かを搾取することー犠牲に晒すことーにて一部の者が肥え太る社會構造に刺し貫かれたものであるからのことだ。
ところが今現在はコロナvirusにより社會其れ自体がやられて仕舞って居り其処ではまともな産業構造が一種崩壊して仕舞って居る訳だ。
其の状況を哲學的、或は文學的に評せばまさに「日常の崩壊」であり「現實としての今の死」に直面して来て居る訳だ。
其のやうなまさに抜き差しならぬ文明の状況に対し壱文人としての我が今一体何を考えて居るのかと云う点につき以下に述べて置きたい。
まず上記での状況を踏まえた上で結論から述べれば「赤字」は赤字で赤字である以上会社は潰れると云うことである。
其の会社の崩壊が大企業にまで今後及び資本主義体制の奉ずる「自由」な競争原理に寄り掛かるであらう「利潤追求」の原理が大幅に偏るであらうことが予想される。
むしろ此れ迄花形であった航空宇宙産業や観光業などの所謂人間をして元気に移動させる仕事が大打撃を受けて行く訳だ。
勿論現代文明を推進する上での花形産業の衰退は如何にも文明にとりマズい訳だから公的資金が其れ等の産業に回され特に大企業は存続する可能性が高い訳なのだが其れも全てを救済する訳には行かぬ訳である。
さらにさうした傾向が進み移動と云う価値が✖とされるとより人々はよりネット環境に依存して行くこととならう。
ところが、ネット環境とはあくまで抽象的価値を共有する場なので、其の具象的限定には實は関与するものでは無い。
つまるところネット世界と現實的世界は本質的には乖離したものなのだ。
だが人々は現世利益としての抽象的価値の成就を求めネット世界の中へと埋没して行くことであらう。
コロナにより人間が自由に動けなくされて仕舞ったのでコロナにやられずに済むネット世界の中に埋没して行くことであらう。
よってネット世界の中のものがより繁栄を極めより大きくなって行くのである。
其れは要するに利潤のネット化なのでさうした情報産業には巨額の儲けが出て航空宇宙産業や観光業などの所謂人間をして元気に移動させる仕事には金が回らぬやうにもなって行く訳だ。
ところが人間の社會を回して居るのはむしろエッセンシャルワークの方で、實はネットなど無くても人は生きられるが生活インフラがそも無ければ社會的に人間は生きて行けぬ訳だ。
まずは此の本質的に「要るもの」と「要らぬもの」の違いがつまりは其の社會的な価値としての矛盾が我我に対し突き付けられて来る訳だ。
さても一体何が要り、何が不要なのか、まさに其の点が戦後の民主主義社會に於いてまたより抽象的に推進される資本主義体制に於いて全く分からなくなって仕舞った訳だ。
まさに其れが只ひたすらに抽象的な価値を追及し続けて来たことの弊害なのだらう。
かうして過度な抽象的な価値の追求はむしろ日常性を破壊し我我にとっての生活の具体性をも奪い去って行く訳だ。
即ちさうして抽象的な利益の追求を野放しにして来ただらう資本主義体制、特に新自由主義経済体制に於ける欲望の暴走こそが今回の悲劇を招いて来て居るのだらう。
また其れに留まらず今後は世界をネット環境と云う仮想現實の中へと閉じ込め我我現代人の価値観をして益々抽象化して行くことでもあらう。
だから其の放任された自由主義による抽象的に規定される利益への耽溺こそがコロナvirusによる具象的限定を齎して居るのである。
まさに其れが必然のことであることをまず我我は知るべきなのだ。
コロナvirusによる具象的限定は自然の摂理でありあえて宗教的に言えば人間社會に対する「神の怒り」か又は「佛の諫め」によるものなのだらう。
ところで、我我個は一体何が要り、また何が不要なのか、と云う価値観の選択に於いて全くの無能なのだらうか。
でも事實上世間には所謂理性的で且つ意識を高く保つ人々が居られる筈である。
さうなのだ、我我個の範囲にはむしろ其の良識としての部分、理性の命じるところでの良心的な価値としての現在が宿って居るのだ。
だが其れも近代と云う価値の全体主義に組み込まれ自らとしての意思決定を失って居るやうではまるで機能などするものでは無い。
其の全体主義と闘うこと、近代と云う諸価値と対峙し其れと渡り合うことでのみ我我は其の理性の命じるところでの価値としての現在を履行して行くことが可能となることだらう。
すると所謂脱近代とは其の個としての社會的闘争の中に組み込まれて居るものなのですね?
最終的に其れは個としての理性と全体としての獣性との闘争の過程即ち最終戦争のやうなものとなることだらう。
さうして戦争はあくまで外側にあるのでは無く我我の内側にこそある。
逆に言えば我我の内側での闘争が不充分な故に社會としての誤った価値観が内面を浸食し挙句の果てにはコロナ禍をまた社會の産業構造の崩壊を招いて居るのである。
つまりは全てが自業自得であると?
まさに其の自業自得である。
社會ー他ーと無関係では居られぬ我我個に其の文明としての崩壊の責が免れて居ると云うことには非ずだ。
さうして我我は何よりまず社會の一員であり、まさに其の社會により生かされて居る個であるより他に無い。
ところがまさに其の構図こそが全体主義を生み逆に我我個は決して自由にはなれぬ訳だ。
我我が本質的に自由を獲得するのはむしろ死する時ばかりなのだ。
ではこんなものは自由では無い?
むしろ自由などであり得よう筈が無い。
我我個は本質として社會の虜囚であるより他は無い訳だ。
其のやうな認識に於いてむしろ初めて個は本質的に社會を捨てられる筈だ。
さうか、では誤った社會の価値観に対抗するには個としての理性的な成就の成否に懸かって居る訳ですね。
さうだ、常に近代社會はさう高望みをし続けて来て居る。
だが其れはあくまで抽象的に規定されるだらう現世利益としての追求のことだらう。
よって其の功利性の部分、現實主義の部分はいつかは破綻するものである。
何故なら此の世はまさに具象的に与えられた限定物であるに過ぎないからだ。
よってそもそんな抽象的欲望の堆積を持ち堪えられるだけの余裕が無いのである。
他人種ー他文化ーを搾取し、且つ自然を搾取しどれだけ豪華に見える文明を築き上げやうとも其れは表面的に立派な文明であるだけのことだ。
眞に知的な存在は其のやうな不毛なる価値の集積をむしろ断じて行くものだ。
たとえば其の宇宙への指向の価値とは人間にとり不要なものである。
其の観光への価値とは人間にとり不要なものである。
対して生きることへの価値で大事なものとは何か?
其れは社會の奉ずる価値観に其の侭に従うことには非ず。
また教祖様の価値構築に無条件に従うことには非ず。
むしろ個として死なぬ程度に食べ其処に名誉栄達を決して求めずまた過分な物、金、愛を欲せず自らを律して生きることに他ならぬ筈だ。
またさうしてみんなでもって赤信号を突っ切ることには決して非ず。
さうして近代以降社會は常に巨大なる夢を追い求めて来た。
自然科学は其の巨大なる夢の手先となり諸の現實の改変を行って来た。
嗚呼だが其れは理性の名の下に行われし殺戮であり破壊であった。
さう彼等は神を殺しまさに此の世を破壊してかかって居る。
其の殺戮者の名前、其の名をこそ永遠に留めよ、まさに其こそが進歩と云う名の下に行われし文明としての仕業なのだ。