目覚めよ!

文明批判と心の探求と

社會による悪の合法化

社會がなかなか変われぬのは其れが其処に価値ヒエラルキーとして絶対的に構築して仕舞って居るからだ。

其れも観念的、抽象的に規定する価値を価値ヒエラルキーとして絶対的に構築して仕舞って居るからだ。

 

其の絶対的な価値の場はたとへば封建制の如き社會の段階に於いては許されやうが民主制や資本主義を奉じる近代的体制にとってはむしろ其れが重荷となり変わること自体が難しくもならう。

 

かと言って、価値ヒエラルキーの維持は社會にとって大事なことなのでたとえコロナ禍のやうな状況下でも其の維持は不可欠であり其処に諸価値の序列自体が変わることは無い。

序列は変わらずとも経済的損失は大きくあるので結局政府は何処かで金を儲けやうとして躍起となり其れもあぶく銭の方で儲けると云う金融資本主義の方がレーガン政権以降は活発になって来ている。

 

其れを哲學的に捉えるとまさに抽象領域の拡大に繋がる訳だ。

 

またPCの出現以降の情報化社會のなりゆきも其れと同様に抽象領域の拡大に繋がることだらう。

 

 

其処をイメージとして捉えるとすると、まるで巨大なシャボン玉の中に入り自らが消え去るまでの其の刹那の時間を享受して居るかのやうだ。

 

もはやわたくしは社會に対し否定的な見解に傾いて居るので其のやうな表現をして居ざるを得ない。

 

但し世界に絶望して居る訳では無く逆に世界に有せられる可能性や希望に就ひて見聞きを重ねむしろ其れに対し眩暈を感じて居る程である。

 

 

要するに社會のあり方、社會の未来に対しては絶望感を抱いて居るが人間存在を含めた自然のあり方に対し絶望し且つ否定的見解を重ねて来て居る訳では無い。

 

むしろ其の辺りの事情がより鮮明に頭の中に規定されつつあり以前よりは少しスッキリして来た感さえするのである。

 

但し其の人間存在に対する不信感は、特に社会的に醸成される自我に関してはヤッパリそれは絶望感に満ちたものでほとんど不信其のもの、また絶望其のものの域から一歩も抜け出せぬ訳だ。

 

即ち「人間は所詮馬鹿のうんこたれだ」との確信は逆に日増しに鮮明になって来て居る訳だ。

 

 

でも結局釈迦がかって述べた如くに「たとえ何を言っても他を変えることは出来ない」訳であり、他と云うのはまさに其の社會其のものなので社會の馬鹿を糾弾して行くことよりはまずはじぶんの馬鹿を治してみやう。

との観点よりわたくしの頭の中はすでに活発に動き始めて居り其れはどうも気温が上がり花花が咲き乱れて来たことと密接な関連があるものらしい。

 

かうしてわたくしは自然と連動して生きて行かざるを得ぬ訳だ。

 

寒いと病気にもなるが春になると決まって動きが生じて来る。

何故かさうした原始的な内容が體の中に盛り込まれて居るので兎に角さうして春の息吹に連動し少しずつ元気を取り戻しつつはある。

 

 

だが社會は相変わらず見通しが暗い。

 

現代の社会が齎す閉塞感はむしろ次第次第に高まって行くばかりだ。

其れも真っ暗暗の闇の向こう側に其れは大きく拡がって居るのであらう。

 

罪と云うか煩悩と云うか兎に角そんな悪の堆積が地球其れ自体を押し潰して仕舞うかのやうなそんな欲望の集積が全てを真っ暗暗に染め上げて行く。

 

なのにみんなは相変わらずまるで民放で垂れ流されて居るTVCMの如くに阿呆でしかも下品に文明を信じて御座る。

 

ハッキリ申してわたくしには其の様が余りにもお目出度くさう感じられて仕舞う。

 

 

第一アノイチローのCMや松岡 修造のCMなどが特にバカに見えて仕方が無い。

 

何でそんなにバカに見えるのだらうか?

 

其れは多分屈折と云うか暗さと云うか負けと云うか其れを排斥して仕舞って知るからわたくしにはさう見えて仕舞うのだらう。

 

 

逆に申せばわたくしは其の屈折と云うか暗さと云うか負けと云うか其れがごく自然なる生の一部だとさう信じて居るのである。

 

でも其の信心は宗教的な立場とは異なるものなのではなからうか。

 

宗教的な立場である特定の宗教や宗派に対する信仰なのでは無く大自然の摂理のやうなものに対する原生的で直観的な解釈なのではなからうか。

 

尚わたくしは宗教的な価値を人間が掲げる価値の中で最上のものであると思って居る。

 

信じて居ると云うよりも其れがより良い価値の選択だとさう規定する者なのである。

 

 

河井克行元法相が議員辞職届 大規模買収「万死に値する」と所感

 

此の悪事を重ねし元法相もかうしてようやく罪を認めるに至って居る。

何でも神父様から「神の前に誠實であれ」と諭されたさうである。

 

此処からもまず分かることが、所謂社會的な地位や権力が人間にとっての本質的な価値を規定するものではまるで無いと云うことなのだ。

 

此処からも其の人間にとっての本質的な価値を規定するものとしての宗教の意義は非常に大きいと言わざるを得ぬ。

 

でも逆にみんなー大衆ーの価値観は其の社會的な地位や権力にこそ擦り寄って行かうとする。

だから其れがわたくしの奉ずる価値観とは違うものだとさう述べて来ても居る。

 

其れはさうして社會的な地位や権力にこそ擦り寄り最終的には子孫の繁栄やデカい家や墓の所有を目指す君等とは違う価値を生きて居ると壱詩人がさう述べて来て居る訳だ。

 

 

わたくしが述べて来て居ることの本質、其の批判の要諦とは人間の価値観のあり方には善悪の区別があると云うまさに其のことをこそ言って居る。

でも人間の価値観は今風に申せば多様であるべきでせう?

 

其処はどうぞ御自由に。

實際此の世ではどんな価値観でも居られる訳ですので。

 

其れも自由なので、まるで自由だ。

自由意志なので、兎に角自由な意志だ。

 

 

だが實際には社會的要素に関われば関わる程にむしろ不自由となる、つまるところは其処で価値を刷り込まれ=洗脳され画一的に己では無い価値を生きる度合いが大きくなることだらう。

まさに其のことを社會科では全体主義とさう名付けられる訳だ。

 

社會的に成就される価値とは左様に伏魔殿なのでもある。

 

どちらかと云うといつの間にか悪の履行に加担して仕舞うと云う点でまさに魔界の出来事なのである。

 

 

魔界⇔宗教

 

とのことなので、最終的には宗教的見解が社會としての悪を正すと云うこととなる。

 

だとすれば宗教だけが至上の価値なのでせうか?

 

宗教は最重要の価値だが絶対の価値では無いと個人的にはさう見て居る。

 

 

何故ならいまひとつの価値即ち「世捨て」の価値が此の世界には用意されて居るからだ。

 

たとへば太宰だの芥川だの三島だのそんな文學としての価値とは最終的に其処へと収斂して行くことであらう。

 

またゴッホだのゴーギャンだのそんな絵画としての価値もまた最終的に其処へと収斂して行くことであらう。

 

音樂の場合はまた其れとは違うかとも思われるのだが中には其処へと収斂して行くものもまたあるのであらう。

 

 

さて文明社會に於ける諸価値は明らかに自己矛盾化し自滅へのスパイラルに陥ったとさう見るべきなのだらう。

 

何故さう言えるのかと言えば、其処ではまさに「悪」が合法化されて行くからなのである。

 

たとえばNYでは大麻が合法化されたのださうな。

また日本ではこんな状況なのにたとえ無観客でもオリムピックをやらねばならぬやうだ。

 

其の大麻オリムピックも現状に鑑みれば明らかに悪の価値であらう。

ならば何故其の悪を今やらねばならぬのか?

 

 

其処は調べてみればすぐに分かることながら、其のどちらにも経済的な問題が大きく絡んで居る訳だ。

 

一言で言えば社會組織としての赤字を解消する為には是が非でも其の悪を履行せねばならなひ。

 

かくして精神的、倫理的にまず世の中は壊れて行くのである。

 

なので精神を重視するであらう宗教団体の考え方とは其れは基本的に正しい訳だ。

 

されど宗教団体には教祖様を祀り上げる癖があるのでまさに其れがダメだとわたくしは述べた訳だった。

 

 

だがかうして悪を祀り上げて行く社會のあり方に比べれば其れはまだしもまともであらう。

何故ならさうして社會的に悪を祀り上げざるを得なくなり古来様々な文明が崩壊するに及んで来て居る。

 

悪は何処にあるかと言えばまさに其の社會の中、文明のさ中にこそある。

 

だからこそ社會に期待はするな。

いやそも期待など出来ぬものが其の文明社會なのだからこそ。

 

 

なので最も合理的な価値の構築とは社會を見捨て何処ぞへと逃げて行くことです。

 

勿論一番良い逃げ方は大麻を吸ったり👩にまみれたり酒中毒に陥ることでは無く正統とされて居る宗教へと走ることだらう。

 

但し其処でもって一歩間違い邪教へ走ると死刑になったりもするので其処では余程に注意が必要である。

 

即ち宗教活動は決して悪いことでは無く人間にとっての大事な精神的価値の具現化である。

 

でも其れもあくまで理性的に個の意志により選択されるべきものなのだ。

 

 

其れよりももっと悪いのは文明の価値だけを盲信し大麻を吸ったり酒色に溺れたり合理化社会に殉じたりすることだ。

で、何度も述べて来て居るやうに其れが合法的に行われることこそがタチが悪いのである。

 

また文明は正しいので遺伝子も弄ったれ、AIに社會を管理させやう、また性も合理化して居かう。

 

でも誰でも分かりますが其れをやりますとまさに悪が合法化されて行く訳です。

 

 

もっと簡単に申しますと、戦時中には侵略や殺人と云う価値が合法化されて仕舞う訳で逆に其れに従わぬと非国民ともされて仕舞う訳だ。

なので現代社會が履行する進歩主義もまた其れと何ら変わらぬ全体主義だったと云うお話です。

 

 

さういうのを全部理性的に俯瞰視し眺めた場合に合理的に選択されるべき価値が社會の否定であり其処からの逃避だと云うことなのだ。

1.宗教としての建設的逃避

2.理性としての建設的否定

 

もはや此処に至って選択肢は此の二つしか無い。

さうして結果的にわたくしは2.を選んだ。

 

其れも藝術としての創造的自我こそが其の建設的否定を可能とするのである。

但し事實上はもうひとつ選択肢がある。

 

3.文明としての悪の履行

 

3.をみんなで選び滅ぶと云うのが實は多数派なのではなからうか。

其れをみんなで選ぶと何故か怖くは無いものなので安全策を取りさうしてみんなで滅びへの坂を転がり落ちて行かうと云うことだらう。

 

 

でも残念でした、其の悪の履行こそがまさに文明としての末期症状のことなのだよ。

 

尚今後次々と悪が噴出し文明を悪が染め上げる可能性が出て来て居る。

 

1.教師などもう誰もやりたく無い

2.官僚ももう誰もやりたく無い

3.宗教は何だか怖いから勧誘して欲しくは無い

 

此の三点とも全くオカシいことだ。

社會の構造的矛盾がかうしたオカシいことを放置して来たが為に世の中がこんなんなって仕舞った訳だ。

 

4.法科でもってしこたま御勉強をした筈の弁護士が食っていけない。

此れがまずはオカシい。

 

 

かくして此の世の中は明らかにオカシい。

つまりは社會のあり方其のものが変だ。

 

其の社會が変なのは、個人的に頭が変なのや何処ぞの教祖様の頭の中が変なのよりもずっとずっとタチが悪い。

 

無論のことわたくしは其の社會としての変、文明としての変のことばかりをかうして長々と論じて来た訳だった。

 

 

ではどうしたら良いのか?

一体どうしたら此の悪の履行のスパイラルから脱け出しまともな人間として、まともな文明として持続可能な未来を築けるのだらうか。

 

1.宗教としての建設的避難

2.理性としての建設的退避

 

だから其処には選択肢として此の二種しか用意されて居ないことだらう。

尤も、

5.科学技術による反省的建設

 

と云う建設の選択肢が實はある。

 

即ち科学技術が科学技術自らを否定しつつ此れ迄に仕出かして来たことの尻拭いをすると云うものだ。

 

現實的には其れも立派な建設的否定の作業なのではなからうか。

 

 

即ちすでに否定的見解、其の-の立場からでしか文明の現在を成り立たせることは出来ぬ訳だ。

 

でもかうして成り立って居ますが。

相変らず日々技術革新は進み毎日工場でもって何かが造られ事故った原発の処理などもみんなでもって何とかしやうとして居るのです。

 

さうか其れは偉い!

其れもなんて偉い馬鹿共なのだ!

 

 

其の悪の合法化を行うのはまさに資本主義による経済的な価値観の履行の故にである。

即ち功利性に基づく自己利益の追求による価値観こそが現代社會の諸矛盾を生み出して来て居ることだらう。

 

さて昔かの中原 中也は工場へ労働へ出向く労働者を皮肉たっぷりに批判し芥川 龍之介は勲章を胸に下げた軍人を小馬鹿にしてさえ居たものだったが嗚呼まさに其れが文學の価値でなくして何であらう?

 

以上で文明は何故悪をやらねばならぬのかと云うことに就き述べ、さらに藝術は其の悪のありかを直観的に認識して居ると云うことに就いても述べたつもりである。

 

 

藝術はでも決まって働かずでまるで役立ちませんが…。

 

だから役立つことを価値の中心に据えることこそが価値観の上での全ての誤りの元である。

 

むしろ役立たぬ方の価値の中にこそ眞理の光が宿って居るものだ。

 

 

ではそんな役立たずでもって一体どうやって飯を食うのですか?

 

尤も其れは宗教もまるで同じで、釈迦であれキリストであれ明日の飯のことは気にせず大抵はお布施でもって空腹をしのいで居たのであらう。

 

つまり飯は神乃至は佛の御恵みのやうなものなので只感謝して其れを受け取り決して飯を余分につくり過ぎたり喰らい過ぎてはならぬものだ。

其処の価値観をこそ違えた現代社會は崩壊へと進むのがむしろ当たり前のことなのだらう。

 

 

そんな百円や良くても千円のお布施ではとてもデカい家や墓など建てられませんが…。

 

バカ、其れでもってかうしてからうじて命が助かったではないか。

 

ではデカい会社、たとへばTOYOTAのやうな会社にみんなが入りたい訳ですが要するに金さえあればイチローだって何だってみんなやる気満々でもって幸せなのでせう?

 

 

まあ其れもとても幸せには見えぬのですね。

事實としてTOYOTAは下請けをイジメ此れまでに自殺者を沢山出して居ますしイチローは金を持ち過ぎてCMに出て来る時の顔がまるでオカシヒやうにも感じられるぞよ。

 

でも金が無く不幸になるから藝術などは要らぬ筈だ。

 

だが其の不幸ゆえの幸せに貴方は何故気付けぬのだらう?

 

何故なら太宰だの芥川だの三島だのそんな文學としての-の価値は限りなく不幸でもって且つ最高に幸せな己の生其のものだった筈だ!

 

 

かくて現代文明の異常とは、抽象的に思い描く幸せを幸せとして装わねばならぬと云う不幸のことだらう。

 

第一CMを視て居ると兎に角皆やる気満々なのだが實質的には社會はもはやどん底で感染の方も今後どうなるものやらまるで知れたものでは無ひ。

其の不穏で且つ暗い見通しの中で馬鹿CMばかりがやる気満々なのだが端的に言えばまさに其の点が資本主義の馬鹿さ加減を如実に示す点なのだらう。

 

では其の馬鹿で低俗な社會は一体どうすれば立て直せるのですか?

 

其れも一刻も早う社會を立て直せ。

でないとみんなが困る。

 

 

でもみんなは社會に従うしか無いので結局は其処で畜群化する他は無い。

 

其処をあえて藝術家は其の精神の全体主義から逃げて居るのだと?

いや藝術家でもたとへば戦時中には軍國主義の絵や曲や文學を描くしか無いことだらう。

 

また進歩中には進歩を讃美するものでも創ると社會は喜ぶことだらう。

 

つまりは社會に評価される藝術は社会性を帯びて居ざるを得ぬものなのだからして。

 

 

逆にわたくしのやうに社會を貶し尚且つ否定するとなるともはや誰も其処を評価などはして呉れぬ。

 

でもそんな壱詩人はな、其れも過激な壱文人はな、其れでもかうして社會と闘い自説を曲げたりは金輪際せぬものだ。

 

いやさうして社會と闘うのでは無く、もはや社會とは無関係だからスッカリ無視して行くと云うことだ。

 

ではもう社會とは縁が切れたの?

 

 

いや切れて無い。

切れて無いのだけれど、此の際見詰めるであらう社會の方向性を変えることとしてみた。

 

謂わばより具象的に社會と関わることとしてみた。

 

たとへば地元での人との縁をより重視する。

 

さらに藝術のことが分かる知己を得る。

 

 

其れは此の腐り切った文明のど真ん中に精神のオアシスを創ると云うことだと思う。

 

其の腐った文明其のものに関わると其れだけでむしろこちらが酷くダメージを受ける。

 

よって文明批判もまた自己にとってのダメージを生ずることとなるので本質的には其れも放棄して行くべきことだらう。

 

 

なる程、此処のところまた相当に悩んで考え抜いて来ましたね。

 

其の具象的創造乃至は理性としての建設的退避こそが現在わたくしが住するであらうまさに理想としての観念世界のことなのだ。

 

 

まさに其れでもって近代全体主義を脱すると云うのか?

 

其れにまあ時間も無いのだしね。

 

たとへば六十代で死ぬタレントなども結構多いのだよ。

 

わたくしの場合はタレント程體を酷使して来ては居ないのだが何せ考え抜いて来てるので脳の疲労の方が多分酷いのだ。

 

たとへばあと五年しか生きられぬのだとしたらそんな馬鹿社会と関わって居る暇等わたくしには何処にも無い筈だ。

 

 

確かにそんな馬鹿社會にバカ人間ばかりです、でもってまたコレクターにでも戻るのですか?

 

結局社會は変わりやうが無いので時間が無い人はじぶんの経験を書き記した方がより建設的な作業となると云うことを述べたまでのことだ。

さらに創造的で且つ癒される空間を其処に築くことが出来やう。

 

そんな訳で社會に対する批判の限界と云うことを感じ始めたこともまた事實である。

 

元より批判にはストレートな批判と遠回しでの批判があり、ストレートな批判には美の世界が組み込まれては居ないが故其れはまるで楽しくは無く其処に闘争としての疲労が溜まって行くばかりなのだ。

 

すると矢張り石とかペンとかそんなものばかりにまた戻るのですね?

 

いやメインでのところはむしろ藝術論となることだらう。

其れも藝術家の生き様を通したところでの其の表現の美しさにつき是非論じてみたい。

 

石とかペンとかそんなものは資本主義としての欲望の対象であり元々さう褒められたものでは無いが故に。

 

 

だが其れでも其れ等は具象的に限定されて居り美しい。

まさに自然と文化の力を象徴するものなのでもまたある。

 

要するに此の腐った社會としての有様を捨てそんな美の具現としての桃源郷へと逃げて行く御積もりなので?

 

まさに其の通りだ。

こんな腐った社會にはもう愛想が尽きたから美を愛してやまぬ壱詩人として是非其の樂園へと非難して行くだけのことなのさ。