目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

新技術にて拓かれる未来への可能性ー技術革新が担う未来への扉の鍵とはー

其の善悪規定での価値とはむしろ人間の認識としての初期段階に於ける感性、又は感覚の違いによるものなのやもしれません。

つまり潔癖か潔癖で無いかと云うやうなところにこそ其の善悪へのケジメの持ち方としての差があるやうに思われてならない。

 

長嶋一茂、玉川徹氏を心配…「玉川さん、大丈夫かなっていう感じになってきた」

 

何せ京大出の玉川氏はおそらくは可成に利口ー理性があるーであるが故にかうして潔癖なやうですが一方長嶋の息子の方はおバカなのかそんなことはむしろどうでも宜しいやうです。

いや別に長嶋の息子がおバカでどうにもならぬ輩だとさう決め付けて居る訳では無くあくまで人として今持って居る心の性質の違いのことを述べて居ります。

 

 

尚私は其の玉川氏並に潔癖です。

何故ならポテトチップスは当然ながら箸でもって食います。

 

其ればかりかパンなども箸でもってつまんで食って居たりもする程なのです。

何故かと申しますと私は食事する前に殺菌石鹸でもって手を洗いますのでそも手を汚したくないのです。

 

また食事が終わった後にも其の殺菌石鹸でもって手を洗いますのでさうは言いながら指をベトベトにして何かを食う場合もまた御座ります。

其の辺りがまさに私が二元分裂して居る心理的性質を持つことの証拠なのでせう。

 

ですが、私は桜餅が特に好物で其のしょっぱい葉を食う事が一番の愉しみなのです。

対して玉川氏は葉を食わぬさうです。

 

私は兎に角自然派なので笹やら朴葉やらそんなものに包まれた餅だの寿司だのが大好きで要するに都会人の感性とはまるで離れた自然のものが大好きな人間だ。

 

其の葉を食わぬことは特に神経質なのだと思われますが其れを理解出来ぬから批判する必要などは無いと思う。

人間は馬鹿から利口迄様々ですのでまた無頓着から潔癖症まで様々ですので相手の立場を理解してあげることもまた必要かと思いますが、往々にして潔癖な側の人間からすると鈍感な奴等のことがまるで許せぬと云ったことがある訳です。

 

批判すべき点は其の種の心理的幅の差を批判すべきでは無いのでありズバリ現代文明の潔癖度の無さをこそ批判すべきなのです。

ですから其処が分かって居ない人はバカだとさう言われても仕方が無いのです。

 

 

馬鹿の特徴のひとつがまさに此の「大きい」思考が出来ぬと云う面です。

ですが其の逆に「小さい」思考の中に安住して居る人々に取りまさに其の「大きい」思考こそが所謂大言壮語思考であり現實と乖離した妄想の如きものなのです。

 

尚以上で私は人の性質を心配する位ならばまずは自らの無頓着を反省せよとさう述べました。

ですが利口な人には利口な人なりの観念苦があり其れが行き過ぎて居る場合には確かに病気になったりもするのでそんな無感覚側からの意見にも耳を傾け自らの潔癖性其れ自体をしかと反省して置く必要が御座ります。

 

 

其のポテトチップスを箸でもって食うこと以上に現代文明のやうに何でも消臭してしかもお父さんのパンツは靴下は臭いから一緒に洗いません、と云った考え方こそが病気です。

つまり玉川氏の潔癖はあくまで理性の潔癖ですが現代の文明が目指す概念上ー抽象的観念としてのーの潔癖は容認されるべきものではありません。

 

 

確かに私は其のやうに超潔癖なので自分の臭いパンツや靴下などと掃除に使い汚れたタオルなどと服や下着は別にして洗うことなどもまた屡です。

ですが、問題はむしろ其処にはありません。

 

問題はチャイルドロックなる意味不明の機能が家の洗濯機に付いて居り今其処がおかしくなって居るので洗濯機全体が今まさに壊れさうな感じとなって仕舞って居ることだ。

其の洗濯機は廿年程使った以前の洗濯機が壊れたので弐年程前に安かった東芝製のものを求めたものです。

 

確かに其の使用頻度は半端なものでは無い。

 

特に私の物は鉱物採集にて常に汚れて居るので服でもリュックでも良く丸洗いすることがある訳だ。

また私は現在布団を使って寝て居らず板の間に直接寝袋を二枚重ね合わせてしき寝て居る。

だから其れも始終洗ったりもする訳だ。

 

 

で、問題はチャイルドロックは我が家にとっては余分な機能であると云うのにむしろ其の故に家の洗濯機が壊れでもしたら大迷惑であると云うまさに其の一点です。

さうしてまさに其処を気にするかしないかで人間の心理的性質は二手に分かれるのではないかと云うことに就き述べて居ります。

 

何故なら私が神経質なのは常に其の種のおせっかいに対してのことなのです。

だから私はむしろ其処をこそ大きく気にする訳だ。

 

 

其のチャイルドロックの問題より以前には何とトースターと戦って居たりも致しました。

何故なら現代のトースターにはサーモスタットなるものが付いて居て一定の温度以上になると加熱其のものが遮断されて仕舞う。

 

でも昔のトースターには其れが無く従って思い通りに素早くパンだのコロッケだのを焼き直すことが出来た。

尚私はこんがり派であり要するにカリカリ派なので兎に角もう何でもこげる寸前まで焼き込んで行くのです。

 

だから其のサーモスタット機能其れ自体が私にとっては不要なものなのです。

まさに不要且つ余分なものなのだ。

 

で、最終的にはトースターの扉を少しだけ開け熱を逃がすやうにして長時間調理することで其のサーモスタット機能を効かなくしてあります。

 

しかしながら、

1.其の扉を少しだけ開けるのが面倒臭い

2.扉を開けるのがどだい危ない

3.兎に角調理に時間がかかり電気代も余分にかかる

 

 

との理由で私にとり現代のトースターは皆✖なのです。

また現代の全自動洗濯機も皆✖です。

 

なのでさても困りましたな。

むしろ七輪だの洗濯板だのが私には向いて居るのやもしれません。

 

 

私はむしろ其の文明のお節介に対し本気でもって怒って居るのです。

私が今欲しい家電はシンプルな機能に徹して居て余分なことが考えられて居らずゆえにかえって長持ちすることだらう道具であり機械です。

 

強欲資本主義がかうして役立たずな家電を生み出して居る事自体に最近は腹が立っても参りました。

 

尚全自動洗濯機で乾燥機能が付いた高いものなどがあるやうですが其れなども全くバカバカしい限りでのことです。

其れも洗濯物は御日様に直に干してこそ滅菌され且つパリッとして気持ち良く袖を通すことが出来やうと云うのに。

 

 

ちなみに昔TOYOTAの関連会社に勤めて居た従妹が御掃除ロボットを呉れましたが弐、参米動いただけで段差にぶつかり其れ以降は動かなくなり其の後長く放って置きましたが粗大ゴミと化し兎に角鬱陶しいので消えて貰った。

ほんたうに其の一度だけしか使用出来ませんでしたのです。

 

私が文明に対し腹が立って居るのはまさにかうしたおせっかいでしかも役立たずな部分なのです。

 

尚、其れはまた私が長らくやって参りました筆記具の世界でも屡起きて居たことでした。

新しくしかも高価な高級万年筆が屡壊れ百年も前のL.E.WATERMANの壱本にまるで敵わなかったりも致しました。

 

 

兎に角さうした意味で私は潔癖なのでありつまりは文明に対してだけ妙に潔癖なのです、其れも妙に。

だから其のシンプルライフとしてのむしろ無駄を削ぎ落としたところでの機能こそがほんたうのものの機能である筈です。

 

現代文明の奉ずる価値認識はさうした本質的な部分へは向いて居らず謂わば余分なことばかりをお節介にも増やそうとさえして居ります。

 

 

第一自動運転、そんなものがほんたうに必要である筈が無い。

自動運転車はお掃除ロボットと同じで私にはまるで役立たずなものに過ぎぬのだから。

 

 

また全自動のお風呂。

コレ等にもまさに此れ迄苦労させられて来て居る。

 

確かに其の便利さの恩恵は受けて来ても居る。

なのだが屡湯量が狂ったりまた停電後に電源が入らなかったりもする。

 

要するにアナログ的に調節が効かぬので其の場合にはむしろ其の全自動機能を切り手動にて蛇口をひねり水と湯を同量出せば普通に風呂には入れる訳だ。

 

だが其の全自動に拘る限りは非常時に風呂にも入れぬこととなる。

此のやうにデジタルのものは調節が効かぬと云う点に於いてむしろ私にとり不便であることが多い。

 

 

ひとつだけを家電を褒めるのであれば、其れは古いナショナル製の電子レンジである。

其れは1984年製でもはやボロボロの電子レンジである。ーつまりは37年前の製品ー

 

だが其れはいまだ現役でもってして日々大活躍して居るのである。

 

 

あなたはいくつ知ってる? 懐かしの「ナショナル家電」29製品を振り返る保存版画像ギャラリー

 

かうして古い家電は妙に魅力的である。

一部にはかうした古い家電の愛好家なども居るやうである。

 

だが一般に古い家電は電力消費量が多く其処は時代にそぐわぬものとなって仕舞って居ることだらう。

問題は80年代位までの物には耐久消費財としての耐久性が何より求められて居たと云うことなのではないか。

 

或は今の家電は逆に壊れ易くなって居るのだらうか?

いやさうとばかりも言えない。

 

何故なら最近のデジタルのTVは皆優秀で綺麗に見え且つ壊れない。

 

 

我我が小学生の頃ー昭和45年位迄ーはTVが良く壊れ其の度に買った電気屋さんに修理してして貰ったものであった。

さうした意味では確かに情報の分野では合理化が進み余計なことに時間を割かれることなども無くなった訳だ。

 

だが其のデジタルのTVを点けると大抵は低俗番組かコロナのことばかりをやって居て其の点では確かにPCでもってオンデマンドを視たり検索したりして居た方が遥かにマシと云うものである。

まさに正の価値秩序を追い求めて行く進歩による価値観が今後如何なる世界を形作って行くかと云うことはまさに未知数の部分であらう。

 

 

だがひとつの価値の追求の仕方として其処にシンプルで且つ機能的なものを求めることは大事なことなのではなからうか。

シンプルだと云うことは余分な機能をむしろ付加しないと云うことなのであり、また余分な機能を求める人にだけ其れを選択の結果として与えると云うことなのでもある。

 

其処をむしろお節介にして仕舞うからまさにやり過ぎとなって仕舞って居る訳だ。

尤も潔癖な人には其の様が分かるのだが無頓着な人にはむしろ他人の理解出来ぬ性質の方が気になって仕舞う訳だ。

 

他人の理解出来ぬ性質とは個としての問題なので其れを批判して居ても始まらず問題となって居るのは逆に社會としてのお節介であり如何にもやり過ぎの部分であらう。

左様に余分にモノがあったり機能があったりすると使いこなせずむしろ機械を複雑化させるが故に壊れ易くもなる。

 

 

百年前の萬年筆が何故壊れず長持ちし且つ使い心地が良いかと言えば、

1.量産品ではあれ手作りー職人技ーの要素が入って居ること

2.素材が合理化されて居らず其れが人間の肌に優しく且つ趣に富むこと

3.つまりはアナログでの工芸品としての価値が高くあること

 

とのことで要するに其れが物としての本質的性質に優れて居るからのことなのだ。

 

 

対して其の本物の価値を知る現代人の数は極めて少ない。

現代に於ける本物の価値とはむしろ其のやうに「知る人ぞ知る価値」となりつつ且つ「むしろー感度の鈍いー知らぬ人には知って欲しくは無い価値」ともなるのであらう。

 

一例を示せばアナログレコードで聞く音樂は今のDVDよりもしっとりとした良い音が出るものとされむしろそちらの方を追及される方々などが居る訳だがあくまで其れも少数派となる訳だ。

現代の価値認識として満遍なく便利さを普及させたにせよ皮肉なことに其処では本物が持つ価値がすでに失われて久しく我我は合理化され抽象化された便利さと云う価値に只踊らされて居るばかりなのであらう。

 

 

此処からも進んだものが我我にとり必ずしも本物の価値を与えて呉れる訳では無いことだらう。

進んだものはむしろ我我から確實な価値としての具象性を或は奪うのやもしれぬ。

 

 

だが進んだものが全部悪い訳でもおそらくは無いのであらう。

 

進んだものが是非必要な分野が何処かにあるのであらう。

然し全自動洗濯機は最近洗濯物を干さぬ方向へと進歩して居るやうなので其れはむしろやらぬ方が良いのではないかと個人的には思うのだが…。

 

 

 

水素社会とこれからのエネルギーの話

 

さて其のMIRAIこそが所謂燃料電池🚙である。

此処にも述べられて居るやうに燃料電池🚙とは究極のエコカーである。

 

其処でつまりはCO2の排出がゼロでもってして垂れ流すものはと云えば水のみなのだ。

 

CO2を世界中に振り撒くガソリン🚙がまた結果的に発電でもってCO2を世界中に振り撒く電気🚗が完璧なエコカーで無いことはまた確かなことである。

 

 

 

ちなみに三拾代から四拾代まで私は技術開発本部と云うところで働いて居た。

しかも其処には屡其のTOYOTAの技術者の面々が訪れて居たのであった。

 

おそらくはMIRAIこそが其の技術開発本部での燃料電池の部署とTOYOTAの開発チームとの合作として世に出たものなのだらう。ー其れも詳しくは知らぬのだがー

 

発電だの内燃機関だのが地球環境にとり良くない方向性のものであるとは廿世紀の人類にとりまるで理解されぬものであった筈だ。

いや其れでも特に戦後は一部の科学者達には其のことがすでに分かって居たのであらう。

 

現代社會の方向性は其の頃からすでに変えやうが無かった。

何故なら其の経済の高度成長を止めよと云うのは戦時中に「戦争反対!」と叫ぶこととまるで同じことなのだから故に。

 

社會とは所詮はさうしたものであるのだと私は思う。

社會に対し振り翳す正論は常に通らず誤って居ると分かって居るのに、其れではダメだと気付いて居るのにむしろ其の社會としての抽象的な価値を實現すべくさうして矛盾を押し通して行かねばならぬものだ。

 

 

だが其の矛盾を押し通して来たが故に今後文明社會が目指すべき其の水素社會にせよ何社會にせよ要するに新たな技術でもって道を切り拓かねばもはや文明は継続出来ぬと云う部分にまで切羽詰まって来て居る訳だ。

 

でも其れこそ潔癖にアンテナを張り巡らせて置かぬと其の種の危機にはまず気付けやしない。

其れこそ玉川氏の性格としての神経質さを心配して居るやうでは其の種の危機などにはまず気付けやしない。

 

要するに今文明はまさにやるしかないところへとすでに追い込まれて居る訳だ。

だから其処の部分をこそ心配し其れこそ其処で理性を使うのが利口な人のやることだとさう述べて居るのだ。

 

 

燃料電池車と水素エンジン車はどこがどう違うのか?

 

とのことで、其の水素エンジン車はFCVよりも安価に設定出来るとのことでしかも既存の車での技術が使え此処にあるやうに庶民の為の車となる可能性もまたある。

其処で金持ちの大TOYOTA水素ステーションの設置を行うなどして兎に角やるだけやって行くしか無いのではなからうか。

 

いや、此の際金持ちのイチローなども其のプロジェクトには是非加わるべきだらう。

さうして金持ちの愛知県人が率先して社會の変革に尽力してみよ。

 

まさに其れこそがかの信長公が無し得なかったところでの眞の意味での天下統一の様のことではないか。

 

発電効率が80%を超える燃料電池、水素イオンで実現へ

此の際全部をTOYOTAにやらせて其処でもって百兆でも千兆でも出して貰えば良いのではないか。

 

 

雑説・技術者の脱炭素社会

 

かくして科学技術による正解と云うものは元々あったものだと私の場合はさう思うのである。

でも其の科学技術と云うものは社會のあり方と無関係では無く即ち社會がイケイケドンドンの時にアホらしいから其れ止めてコチラへと変えやう。

 

とか何とか言おうものなら其れこそ石油業界だの妖怪みたいな政治家だのまた訳の分からぬ団体などが決まってしゃしゃり出て来て其の新技術へとシフトする社會の實現を阻むのだ。

 

だからむしろ今私は思うのである。

何がオカシイと言って、其の認識して居ることの対象、要するに個として拘ることの対象がそも違って居るのであるしだから結果的に其の個としての認識が曇って居るのだ。

 

だから其れを所謂みんなの認識としての素朴実在論でのやうに非理性的な範囲即ち感情論としての範囲で他人のことをどーたらかうたら言って居ても何も始まらないのだ。

さうでは無く問題はむしろ文明其れ自体のあり方其のものにこそあると喝破しそんな「脱炭素社會」を是非目指したい、いやもう其れが出来ればたとえ僕は死んでも構わない。

 

いや死ぬぞ、たった今死んだるぞ。

もう水素社會が来なければ我は華厳の滝からたった今飛び降りるぞ!

 

との強い信念から現代社會と向き合い是非其れを変えて行かずしてどうする?

でもボクには金が無くて…。

 

馬鹿者!

金はTOYOTAとかのイチローがしかと握っておるではないか!

其の金でもって今こそ、今こそ旧態依然とした社會を変革するのだ!

 

TOYOTAが千兆円を出して其れをやればみんなの命などはすぐに助かる筈だ。

 

 

元より資源の浪費や食い潰しと云うことは理性的な認識たり得ぬことです。

理性的な認識とは自らの欲望に於いて潔癖であると云うことです。

 

勿論個としての次元では潔癖な人々は居ます、たとえ少なくとも其のやうな人々は居るのです。

ですが其のやうな人々が問題として認識して居るのは個としての認識の違いなどでは無くあくまで人間の社會としての認識の偏りのことだ。

 

さうして集まるものー人間の集団ーは其の潔癖であることを忘れ易い。

何故ならさうした社會的な意味での競い合いがむしろ欲望を増長させ歯止めが効かぬこととなるのだから。

 

其の潔癖であることを社會的に潔癖である事を是非大TOYOTAにこそ望みたいものです。

 

さうして欲望を野放しにする資本主義はより大きな問題を我我に対し示して行かざるを得ない。

豊かであることは他方での危機と紙一重にて共存して居る状態にこそあるのだ。

 

其の危機から逃れるのであれば具象的本質に優れる物や制度への移行を考えて行くより他に方法が無い。

多くの場合其の鍵は過去の物や制度に其のヒントが眠って居ることが多い。

 

だが其れが出来ぬ限りは新技術にて未来を組み伏せて行く他は無い。ー逆に抽象的欲望をより洗練させて行くと云う意味でー

其処からも新技術こそが我我人類の未来への鍵を握る最終兵器である。

 

 

自然と技術の関係がそも悪いのは自然は有機物ー全体論ーだが技術は無機物ー要素還元ーに過ぎぬからなのではないか。

其のウェットな場とドライな場との違いがおそらくは矛盾を生み上手く行かぬのではなからうか。

 

或は具象的な場と抽象的に規定される価値の場との違いである。

物的充實を目指す資本主義もまた🚙も具象的な場としてのものでは無く抽象的に規定される価値の場其のものだ。

 

エッ?🚙は今此処にありますのですが…。

だから其の君の認識はタダの素朴實在論である。

 

君はそも頭が悪いからそんな風にしか捉えられぬのだ。

 

🚙はより速く移動したいと云う其の近代以降の社會の抽象的欲望を具体化したもののことだ。

あくまで其の🚙の本質的意味は社會としての抽象的欲望にこそある。

 

其の抽象的欲望の暴走こそがでも空恐ろしいものなのだ。

 

元より壱文人としての我はもっと文化的で楽しいことをいつも語って居たい。

だが其の抽象的欲望の暴走こそがまさに破滅と隣り合わせにあるからこそもう怖くて怖くてとても楽しくなどして居られぬのだ。

 

他方で大衆には文明が危ないと云う認識すらもが無い。

さうして文明を信じて御座るので事實として其れは凄い信仰なのだ。

 

或は学校でもってさう洗脳されちゃったのかなあ。

 

 

でも僕には其の抽象的に規定される価値の場に対する反発のやうなものがいつも強くあります。

其れもかうして抽象的に規定される価値の場を離れて具象的に規定される文明を築いた方が良いことなどは分かり切って居ることだ。

 

其れでも其れが成らないのは、人間とはさうしたものであると云うまさに其の一点でのことでせう。

人間とはそんな観念的価値ー抽象的価値ーにしか生きられぬ動物なのです。

 

厳密には只の動物では無くミュータントでありニュータイプだと云うことです。

そんな変なところをこそ今我我は生きて居ざるを得ない。

 

そんな妄想などは捨て具象的な今に戻れ!

なる程、今に生きるとはとりあえずはさうした意味のことだったのだな。

 

 

観念は未来や過去へとすぐに飛ぶので元々至極危ないものなのだ。

観念ー抽象的欲望ーを滅し具象的な今に戻れ!

 

でも進歩してる最中の我我はもう過去へは戻れない。

だから逆に新技術にて我我は未来を変えて行くより他は無い。